巨獣あらわる

 ここは官渡城の地下牢獄。


 城の守りを任されている曹洪の副官(こいつもチンピラの風体をしている)は、今夜奴隷市に出す商品選びに精を出していた。


「お、お願いします。どうか解放してください。故郷には妻子がいるんです。商いに出かけたまま戻って来ない俺のことを案じて、妻も娘も泣き暮らしているはずです。なにとぞお慈悲を……」


「嫌よ、嫌よ。奴隷になんかなりたくない。秋には幼馴染と結婚するはずだったのに……。私をあの人のところに帰して!」


 牢内の無辜むこの民たちが慟哭どうこくの声を上げているが、副官はそんな雑音など気にも留めていない。「おい。そこの牢にいる女たちをまとめて出せ」と部下たちに命じた。


「よしよし、別嬪べっぴんぞろいだな。そっちの牢からは、健康そうな男を二十人選んで出すのだ。あ~それから……女たちには美々しい衣服で着飾らせよ。大事な商品なのだから、暴れても肌に傷をつけるでないぞ」


「ふ、副官殿! 一大事です!」


 一人の城兵が駆けて来て、そうわめいた。何やら慌てた様子である。副官は「何だ、この忙しい時に……」と言って眉をひそめる。


「商品の選別に手間取ったせいで、市場に出荷する時間が大幅に遅れておるのだ。用件があるのなら手短に言え」


「商品の選別どころではありませぬ! たったいま、曹丕様がお見えになりました!」


「なぬっ⁉ 公子様がこの城に来ているだと⁉ そ、それはまずい! こんなところを見られたら、お父上の曹操様にチクられて大変なことに……!」


「それが……。『地下にある監獄を見せろ』と曹丕様は仰せでして……」


「な、なんじゃとて~⁉」


 驚呼きょうこした副官は、どうしよう、どうしよう、と右往左往した。


 曹丕は金銭問題で曹洪に恨みを抱いている、と噂で聞いたことがある。

 その曹丕が官渡城に突然現れ、「監獄を見せろ」と言ってきたのは、目的があるはずだ。恐らくは曹洪の悪事――良民を誘拐して売り飛ばそうとしていること――を暴き、彼を陥れることに相違ない。


 だが、曹洪は曹操の従弟いとこだ。たとえ罪に問われても、せいぜい減俸か謹慎の処分だ。命までは奪われまい。しかし、曹洪の部下に過ぎない副官の自分は、恐らく全責任を負わされる。斬首になる可能性も……。


「ぜ……絶対にこの監獄だけは見られてはならん。何とか誤魔化して帰ってもらわねば――」


「悪いが、もう見てしまった」


「げぇーーーッ‼ 公子様ぁーーーッ⁉」


 振り向くと、妖麗ようれいな微笑を浮かべた曹丕がそこに立っていた。真とその部下たちも付き従っている。城兵たちが慌てて押しとどめようとするのを強引に振り切り、真っ直ぐこの地下牢獄にやって来たのだ。


「あ、あの……あのあの……。この牢にいるのは犯罪者たちで……。けっして奴隷市で売り飛ばすために捕まえた良民などではなく……」


「曹洪の部下は馬鹿ばっかりだなぁ~。お前、さっき大声で、市場に出荷する時間が云々うんぬんと叫んでいただろ。上の階からバッチリ聞こえていたぞ」


「いやいや、それはただの冗談というか何というか……」


「五つ数えるうちに本当のことを言え。さもないと、首をねる。……一、二、三」


「うわわわ! すみません! この監獄にいるのは、全て近隣の城邑まちや村から誘拐してきた一般市民です! はい!」


 副官は真実を白状すると膝をつき、「どうかお許しください! 曹洪将軍に命令されたのです! 斬首だけは……!」と命乞いした。


 曹丕はニンマリと笑い、「そうだな。悪いのは曹洪のクソジジイだ。お前はただ命じられたことを実行しただけだものな」と不気味なほど優しい声で副官の耳元に語りかける。淡い吐息が耳朶じだを撫でると、副官はゾゾゾと身震いした。


「曹洪のこの地における違法行為は、すでに戦地の父に報告してある。父もお怒りで、俺に厳しく取り締まるように命令を下された。……しかし、俺の言うことを聞くのならば、お前と部下たちの処罰を軽くしてやってもいいぞ。さあ、どうする?」


 立て板に水を流すかのごとく滔々とうとうと、曹丕は嘘をつく。


 曹操が曹洪の悪事に目をつぶることは先刻承知なので、実際は何の報告もしていない。するだけ無駄だからだ。


 しかし、「処罰を軽くしてやる」と言われたら、命欲しさにすがりつきたくなるのが人情というもの。副官は首が折れる勢いでコクコクうなずき、「は、はい! 喜んで協力させていただきます!」と返事した。


「よろしい。……では、罪無き者たちをただちに牢から解放しろ。お前が責任を持って、彼らの故郷に帰してやるのだ。身寄りの無い者には、この城の蓄えを幾分か渡してやり、仕事や嫁ぎ先を探してやれ」


「し、承知しました!」


「それから……。牢から出したら、皆に酒を振る舞え」


「酒……でございますか?」


 なぜ酒を飲ませる必要があるのだろうと怪訝に思い、副官は首を傾げる。曹丕は「何でもいいから早くやれ」と急かすだけで、理由は話さなかった。


 憂いの精魅もののけかん」は酒で浄化することができる。ならば、憂いの気を発している人々に酒を飲ませてやれば、患の発生を未然に防げるはずだ――曹丕はそう考えていたのだが、こんなアホそうな副官に事情を教えてやる必要など無い。だから、いちいち説明しなかったのだ。


「そ、それでは、とりあえず牢から民たちを出します。お、おい! 何をしている! 急いで彼らを解放せぬか!」


 副官は震える声で部下の兵たちにそう命じ、大勢の囚われ人たちを牢の外に出そうとした。


「ここでは手狭なので、城内の演兵場に連れて行き、そこで酒を振る舞います」


「何でもいいから急げ」


 曹丕がそう促した直後。

 監獄内に、雷鳴のごとき怒声が響き渡った。


「おい、貴様ッ‼ 何をしておるッ‼ わしの商品を勝手に逃がそうとするなッ‼ ぶち殺すぞッ‼」


「ひ、ひえっ⁉ 曹洪将軍!」


 副官は、突然現れた上官の悪鬼の形相に震え上がり、その場に尻餅をついた。彼の部下である城兵たちもおびえ、「や、やべぇ……」「逃げたほうが……」と口々に呟いている。


「曹洪だと……?」


 曹丕は、階段をがに股歩きで下りて来た凶相の将軍に、忌々しげな眼光まなざしを向けた。


 鬼畜将軍は、剣や槍を持った食客たち二十数人を引き連れている。曹丕の手の者が自分の商売を邪魔するために官渡城に現れるであろうと踏んで、武装してきたのだ。しかし、曹丕本人がここにいることは予想外――曹丕のほうも、曹洪が現れるのは想定外だったのだが――だったらしく、


「おい! 子桓しかん! お前がなぜここにいる! 儂とお前がそろってぎょう城を留守にしたら駄目じゃねぇかッ!」


 と、大量の唾を飛ばしながらそう怒鳴った。


 曹丕はチッと舌打ちして、「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」と言った。


「なんて馬鹿なことをしてくれたのです。二人が同時に鄴城から消えたら、母上にメチャクチャ怒られるではないですか」


「儂だって怒られるわッ! 激おこ状態のべん夫人ほどこの世で恐ろしいものはない! マジ勘弁してくれ!」


「その一点に関しては激しく同意しますが、罪無き者たちを捕えて売り飛ばそうと企んでいた子廉しれんおじさんが全ての元凶なのです。悪あがきをせず、いまから牢内の民たちが解放されるところを指くわえて見ていてください」


「そんなことできるものか、このクソガキッ‼ 力尽くでお前の悪事を阻止してやるッ‼」


 そう吠えると、曹洪は剣を抜き、「野郎ども! やっちまえ!」と食客たちに号令をかけた。チンピラ集団は、白刃をぺろぺろ舐めながら「ヒヘヘヘぇ~!」と気味の悪い笑声を出し、曹丕たちに襲いかかって来る。


「ハハッ! 馬鹿も休み休みに言ったらどうです! 悪事を働いているのはそっちでしょうが!」


 曹丕は鼻で笑い、双戟そうげきを構えた。真とその部下たちも剣を抜き放ち、曹丕を守ろうとする。



 竜虎相搏あいうつ! そう思われた時――突如として謎のうめき声が官渡全域に響き、ゴゴゴと大地を揺らした。




            *   *   *




 ウウウ……ウウウ……ウウウ……。


 アアア……アアア……アアア……。


 怨毒えんどくに満ちた悲愴な声が、官渡の地全体を震わせる。


 大地が激しく振動し、「何だ⁉ 地震か⁉」と曹洪は驚きの声を上げた。


 曹丕が、耳障りな謎の声に顔をしかめながら「違う! 患が発生したのだ! 奴の憂いの声だ!」と怒鳴る。


「声ひとつで天地を震わせるとは……。姿を見なくても、この個体が恐ろしく巨大だということが分かる。司空府しくうふに現れた患とはわけが違う」


「お、おい、子桓! いったい何が起きているのだ! 説明しろ!」


「あんたが俺の邪魔をするから、精魅が発生してしまったのですよ。さっさと民たちを牢から出して、酒を振る舞っていればこんなことにはならなかった」


 苦々しげにそう吐き捨て、曹丕は牢内の民たちに視線をやる。彼らは、


「ようやく解放されると思ったのに……。俺たち、やっぱりここから出られないのか?」


「このまま許嫁いいなずけの元に戻れず、奴隷として売られるのなら、いっそのこと自害しようかしら……」


 などと、青ざめた顔で絶望の言葉を口にしている。恐らく、曹丕という助けが来て「解放してもらえる!」と喜んでいたところで、鬼畜将軍曹洪が現れてそれを妨害しようとしたものだから、囚人たちの憂いの気がいっきに放出されたのであろう。


「巨大な精魅とは、どれほどでかいのだ。退治できるのか。早く何とかしろ。……うぐぐ。この恨みがましいうめき声を聞いていると、なぜだか気分が塞いできて、死にたくなってくる」


 曹洪が顔を激しく歪めている横では、彼の食客であるチンピラたちが、


「俺様も死にたくなってきちゃった……」


「いい年してヒャッハーとか叫んではしゃいでるの虚しくなってきた……」


「こんなクズ人間の俺たちが生きていても仕方がないや……」


 と、血の気の失せた表情でブツブツ呟いている。どうやら、患が周囲に放っている毒気に早速やられたらしい。案外、メンタルが弱い奴らである。


「チッ。精魅などくだらない迷信だと言っていたくせに……。こんな地下にいても、何も分かりませんよ。望楼ぼうろうにのぼって、患がどこに現れたのか確認せねば。子廉おじさんのせいでこんなことになったのだから、おじさんにも精魅退治を手伝ってもらいますからね」


 曹丕はそう言い、おろおろしている副官に「牢内の民たちが集団自殺を始める恐れがある。けっして目を離すな。一人でも死者が出たらお前を殺すぞ」と命じた。


 そして、真たち配下、曹洪、まだ毒気にやられていないチンピラ数人とともに、官渡城の望楼に向かった。



「ぎ、ぎえぇ~⁉ 何じゃこりゃーーーッ‼」


 望楼にのぼると、曹洪は素っ頓狂な声を上げ、官渡城の東側にある市場を指差した。


 彼が仰天したのも無理はない。市場のど真ん中に、想像の百倍はでかい化け物が四本脚で立っているのだ。顔が牛に似ている青い目の巨獣は、こちら――官渡城を恨みがましげに睨んでいる。


 前漢の武帝が遭遇した患は、体長が数丈(前漢の時代、一丈=二・二五メートル。後漢の時代は二・三〇四メートル)あったという。しかし、官渡に出現した患は、確実に二十丈は超えている。二本脚で立ったら、ほぼ初代ゴジラ(全長五十メートル)並みの大きさだ。


「よりによって、儂が作った市場にあんな化け物が……。何ということだ、商いがメチャクチャではないか」


「子廉おじさん。もしかしたら、七年前にこの城の監獄にいた袁紹軍の兵は、あのあたりで生き埋めにされたのでは?」


「……その通りだ。孟徳兄貴の命令で、ちょうどあの化け物が立っている場所に、袁軍の兵たちを生き埋めにするための巨大な穴を掘った。他の城に預けられていた捕虜兵もここに連れられてきて、およそ八万人の敵兵を生きたまま埋めた。その後、俺の手で街道を新しく作り、市場を設けた」


「道理で……。つまり、捕虜兵たちは、土をかけられて窒息死するまでの間、あそこの地中で膨大な憂いの気を発し続けていたとうわけだ。そして、その後の数年間、この城の監獄には奴隷市に売られる人々が囚われていて、憂いの気を延々と放出し続けていた。七年間ため込まれた数万の人々の憂いが唐突に化け物として姿を現したのだから、あれほどの巨獣になっても不思議ではない」


「……難しくてよく分からん。つまり、どういうことだ」


「なんもかんも子廉おじさんが悪いということですよ。さあ、行きましょう。放っておくと、市場に集まった人間たちが患の呪いで続々と自害しかねない」

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