鬼畜将軍曹洪

 司空府を出て約三十分後。

 ぎょう城の高級住宅街で、司馬懿は迷子になっていた。


 とても大事なことを忘れていたのである。

 司馬懿はこの城邑まちに来て二日目だった。当然、曹洪の屋敷がどこにあるのかなど分からない。


 道を尋ねようと思って、通りかかった屋敷の門番に声をかけてみたが、


「そのみすぼらしい風体……さては盗賊だなッ! であえ、であえッ!」


 と不審者扱いされ、危うく捕縛されそうになった。


 うっかり忘れていたが、曹丕の妹たちにフルボッコにされ、衣服がボロボロになっていたのだ。たぶん、それが誤解の原因だろう。


「ふぅ~、さっきは酷い目にあった。こんな立派な屋敷が建ち並ぶ往来を堂々と歩いている賊などいるわけがなかろうに。ったく……」


 這う這うの体で何とか逃げた司馬懿は、思わず愚痴を呟いた。


 このまま司空府に帰ったら曹丕に笑われそうだし、さてどうしたものか。黄昏迫る空の下、司馬懿は高級住宅街をウロウロしながら大いに悩んだ。


 そんな時である。人の声らしきが後ろから聞こえてきたのは。



「ヒィィィーーーヤッハーーー‼」


「アヒャヒャヒャーーー‼」


「パラリラパラリラ~‼」



 ……いや、人ではないようだ。あのような蛮声、知能ある人間が発するはずがない。野生の獣が城邑に迷い込んだのだろう。


 などと思っていると、



「見ぃぃぃつぅぅぅけぇぇぇたぁぁぁぞぉぉぉ‼」


「とっ捕まえるぜうぇぇぇーーーい‼」



 前方からも蛮声が響いてきた。しかも、人語(?)を喋っている。


 いったい何事――と動揺しているうちに、蛮声の主たちは馬を駆って司馬懿に接近してきた。逃げる暇も無く、十数人の男どもに包囲される。


「と……盗賊⁉ 何故なにゆえ、曹操の屋敷の近所で盗賊たちが群れをなして行動しているのだ⁉」


 蛮声の男たちの身なりを見て、司馬懿はおののいた。


 諸肌もろはだ脱いだ肉体の上に、肩当てや胸当てなどの軽装備の鎧をつけ、眼帯や鼻ピアスをしているやからもいる。いったいどこの世紀末暴走族だとツッコミたくなるようなファッションだった。


「な、何者だ、貴様ら! 盗賊の分際で、この司馬仲達に狼藉ろうぜきを働くつもりか!」


 司馬懿はそう叫びながら、チンピラたちの包囲網から脱出する隙を注意深くうかがった。


 しかし、チンピラたちは思った以上に巧みに馬を乗りこなし、寸分の隙も無く司馬懿の周囲をグルグルと走り回っている。さらに、彼らが騎乗している馬はどれもたくましく、凶暴だった。ブルルーン‼ ブルルーン‼ とまるで改造バイクの排気音のごときいななき声を上げて爆走している。不用意に動いたら、馬たちに蹴り殺されかねない。


「俺様たちが誰か知りたいかってぇ~? ヒーヘッヘッヘッ‼ 知りたけりゃ教えてやらぁ! 俺様たちはなぁ……曹洪将軍の食客しょっかくだぁぁぁ‼ ヒャッハーーー‼」


「そ、曹洪の食客⁉ そんな馬鹿な!」


 食客――すなわち、私的に召し抱えられている家来のことだ。彼ら食客は、普段は主人に客として遇され、家で養われている。しかし、いざという時には主人のために命を投げ出し、その才能を活かすのである。


 ただ、ひとくちに食客といっても、彼らにも色んな人種がいる。史書に時々顔を出す曹洪の食客は、世紀末のヒャッハー集団とでも呼ぶべきチンピラたちだった。主人が曹操の親族であることをかさに着て、違法行為を平気でやらかしたのである。(これは余談だが、曹洪絶対殺すマンの曹丕が皇帝に即位すると、曹洪は食客たちの悪事を理由に危うく処刑されかけた)。


 だが、司馬懿は、田舎から都会にやって来たばかりのおのぼりさんだ。曹洪の食客たちのヤバさをまだ知らない。「貴様たちのような食客がいてたまるかッ!」とつばを飛ばして叫んでいた。


「どう考えても、盗賊の集団だろうが! どうやって城邑の中に侵入した!」


「フヒヒヒ‼ 仮病を使って引き籠っていた無職のくせに偉そうな口を利きやがる‼」


 眼帯のチンピラAがそうわめきながら嘲笑い、馬上から司馬懿の首根っこをつかむ。驚いた司馬懿は「うわっ! 何をする! やめろ!」と暴れた。


「大人しくしやがれやぁぁぁ‼」


 鼻ピアスをしたチンピラBに顔面を蹴られ、司馬懿は「うっ……」とひるむ。その隙に縄で体をグルグル巻きにされ、あっ気なく捕縛されてしまった。


「さぁ~て‼ 曹洪様の所に連れて帰るかぁ~‼ パラリラパラリラ~‼」


「ぎ……ぎやぁー! お助けぇーッ!」




            *   *   *




 司馬懿が連行されたのは、鄴の高級住宅街の中でもひときわ豪奢な邸宅だった。


 正門の構えは、司空府に匹敵するほどの荘厳さだ。屋敷の中央には、楼閣が天高くそそり立っている。四合院しごういん(中国の伝統的な住宅。細長い建物が中庭を四方に取り囲む)の造りは武人らしく重厚で、屋根瓦や白壁は夕陽に照らされてきらびやかに輝いていた。


 庭はひたすらだだっ広く、大きな池には珍しい魚たちが悠々と泳いでいる。中庭を歩かされていると宗廟そうびょうを見かけたが、廟の前には玉で作った美女の裸像が二体安置されていた。先祖の御魂をまつる場所にあんな破廉恥はれんちな像を飾るなんて、俗悪な趣味と言うより他は無い。


(この屋敷、司空府よりも金がかかっているんじゃないか? 曹洪はあこぎな商売でもうけていると曹丕は言っていたが……。こいつは想像以上の資産家だな)


 曹洪の財力について、こういう逸話がある。

 ある時、曹操は税の徴収を公正にするため、自分を含めた諸人の資産を調べさせた。調査した役人は「曹洪将軍の資産は、曹操様と同等です」と報告した。

 しかし、曹操は眉をひそめてこう答えたという。「そんなわけがあるか。俺の資産が、曹洪と同じなど有り得ぬ」――つまり、あいつは俺よりもずっと金持ちだ、と曹操は言いたかったのである。


 そんな大資産家の曹洪なので、毎日宴会をすることなんて当たり前だ。

 司馬懿が引っ立てられてきたこの時も、彼は中庭で宴会を開いている最中だった。数十人の食客(全員、チンピラの風体)たちとともに豪勢な美酒佳肴びしゅかこうを楽しんでいた。


「曹洪様ぁ~‼ 言われた通り、司馬仲達殿を丁重にお連れしましたぜぇ~‼ ヒヘヘ‼」


 眼帯のチンピラAが、大杯の酒をあおっている曹洪の足元に、司馬懿を乱暴に転がす。


 曹洪は杯を置くと、「おう。こいつが司馬防しばぼうせがれか」とドスの利いたしゃがれ声で呟き、血走った目を足下の司馬懿に注いだ。


(うわっ。何だよ、このおっさん。こんな奴が、曹操の従弟なのか?)


 司馬懿は思わず眉をしかめた。


 齢は四十代後半ぐらいか。野獣のように凶暴な顔は、蘇芳すおう色に染まっている。これは夕焼けのせいではないだろう。浴びるほど酒を呑んでいるからだ。まだ日が没してもいないのにこんなにも呑むなんて、主君の留守を預かる将軍としてあるまじき行為だ。


 さらに、衣服が悪趣味すぎる。無駄にゴージャスで、金や銀の糸をふんだんに使った錦の着物を身にまとっているのだ。現代日本人が見たら「今からマツケンサンバでも踊るのか⁉」と勘違いしそうなほどピカピカ輝いていた。


 宴会の席には、半裸に近い衣装の妓女ぎじょたちが大勢いて、艶めかしい舞を披露している。曹洪は、その妓女たちの中でも特に美しい娘をそばにはべらせ、彼女の白皙はくせきの柔肌をいやらしい手つきで触っていた。


 ひと目見ただけで、この男が人品卑しい人間だということが分かる。能力至上主義の曹操が、いくら従弟とはいえ、なぜこんな将軍を重用しているのか分からない。


 司馬懿がそう思って当惑していると、曹洪は「司馬懿、てめえ……」と呟きながら殺意の眼光まなざしを向けてきた。


「このわしが礼儀を尽くし、出仕を求める使者を何度も送ったというのに、なぜ拒絶しやがった」


「は……? ちょっと意味不明なのですが。誘拐された俺がなぜいきなり怒られているのです? 第一、貴方の使者が我が家に来たことなんて――」


「問答無用じゃぁぁぁい‼」


 曹洪は、倒れ込んでいた司馬懿の髪を乱暴につかみ、無理やり座らせた。そして、酒臭い口を司馬懿の顔に近づけ、猛烈な勢いでまくしたてた。


「拒絶するだけならばまだしも、儂の使者に大怪我を負わせるとはどういうことだッ。しかも、儂の誘いは拒んでおいて、子桓のクソガキの勧誘には応じるとはよぉ……。『孟徳もうとく(曹操のあざな)兄貴が帰るまでに、司馬懿を必ずや仕官させる』と約束した儂の面目は丸潰れではないかぁぁぁーーーッ‼」


 耳元で思い切り叫ばれ、司馬懿の耳はキーンとなった。頭がくらくらするのを耐えながら「だから、いったい何の話をしているのか分からな……」と言おうとしたが、曹洪は「問答無用じゃぁぁぁい‼」とまたわめく。聞く耳を持つ気ゼロで、コミュニケーションが全くできない。将軍というよりは、チンピラの大親分だ。


 最初は曹洪の猛獣のごとき勢いに気圧されて大人しくしていた司馬懿も、傍若無人な酔っ払いにとうとう堪忍袋の緒が切れた。すぅぅぅと息を大きく吸い、


「問答するつもりが無いのに誘拐すんなやぁぁぁーーーッ‼」


 と、力いっぱい怒鳴り返した。


 その直後、曹洪は司馬懿の頭に拳を叩きつけた。


「人の耳元で叫ぶなやぁーーーッ‼ 非常識か貴様ッ‼」


「いや、先に叫んだのそっちじゃん!」

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