三国志の暗部

 蘇生した司馬懿がまぶたを開けると、真っ先にその双眼に映ったのは、薄ら笑いを浮かべている曹丕の顔だった。


「やあ、仲達。危うくあの世の住人になるところだったな」


「お、俺はいったい……」


「たいしたことはない。ちょっとの間、心臓が止まっていただけだ」


「メチャクチャたいしたことあるでしょーがッ‼」


「蘇生させてくれたのは華爺さんだ。ちゃんと礼を言っておけよ」


 どうやら、司馬懿はいま、曹丕の寝室で寝かされているらしい。この部屋にも、怪異メモが記されているとおぼしき木簡や竹簡が各所に散乱している。


 その書類の山に隠れてすぐに気づかなかったが、華佗かだ胡床こしょうに腰掛け、茶をすすっていた。「まったく……。曹家の人間はどうしてこう次から次へと騒動を起こすのじゃ」とブツブツ文句を言っている。


「華佗先生、助けていただきありがとうございます。……それにしても、我ながら情けない。子供と戦ごっこをしていて、死にかけてしまうとは。玩具の剣で頭でもやられたのだろうか。どうも意識を失う直前の記憶が……」


「忘れたのなら教えてやろう。俺が母上に説教をされていた時間帯、お前は俺の妹たちにボコボコにされて屋敷内を逃げ回っていた」


「そこまでは覚えていますよ」


「そして、女が湯浴みをしている部屋に、うっかり入り込んでしまった」


「へ? あっ、何だか思い出してきたような……」


「その湯浴みをしていた女の名は甄水仙しんすいせん、この曹丕の妻だ。俺は彼女や侍女たちの悲鳴を耳にして駆けつけ、愛妻の裸をのぞいた曲者くせものがお前とは知らずに渾身こんしんの蹴りを放った。ぶっ倒れた曲者の顔をよく見たらお前で、さすがの俺も驚いたぞ。ハハッ!」


「『ハハッ!』じゃない! ようやく思い出したぞ! そうだった、俺を一度殺したのはあんたじゃないか! 何してくれる!」


 司馬懿が上半身を起こして食ってかかると、曹丕は司馬懿のひたいに強めのデコピンをした。「あっつうぅ~!」と司馬懿は両手で額をおさえる。


「人の妻の裸をのぞいておいて、体を切り刻まれなかっただけでも有り難く思え」


「いや、でも、湯気で何も見えなくて、奥方様のお姿はほとんど……」


「は? 何? この期に及んでまだ言い訳するつもり?」


「……すみません。マジすみません」


 曹丕の瞳に殺気の炎が宿りかけたのを感じたため、縮み上がった司馬懿は素直に謝った。


 そんな二人のやり取りを横目に見ていた華佗が、「司馬懿殿。貴殿はそそっかしいところがある。気を付けたほうがよい」と呆れた声で忠告した。


「水仙殿は、元は袁煕えんき(袁紹の次男)の妻だった。阿瞞あまん(曹操の幼名)は美女として評判だった彼女を側室にしたいと常々思っており、ぎょうを攻めた際に『真っ先に袁煕夫人を確保せよ』と部下たちに命じていた。……ところが、子桓殿は父親を出し抜いて鄴に一番乗りし、水仙殿を妻にしてしまった。父親から横取りしてまで手に入れた美女じゃ。いくらそそっかしいからといって、次に同じようなことをしたら、今度こそ子桓殿に八つ裂きにされるぞ」


(そういう噂は小耳に挟んだことはあるが、本当の出来事だったのか。それにしても、曹操と曹丕は親子なのに、どれだけ仲が悪いんだ……)


 人妻を強奪しようとした曹操もメチャクチャだが、父親が狙っていた女をかすめ取る曹丕も恐いもの知らずすぎる。ただの父親ならばともかく、相手は徐州の民を大虐殺した曹操なのだ。そんなことをすればいくら息子でも殺さるかも知れない、とは思わなかったのだろうか。父子そろって異常で、常人には理解しがたい……。


「安心しろ、仲達。俺はお前のことを特に気に入っている。今回みたいな失態をまたやっても、片腕一本へし折るだけで許してやる。三度目は殺すがな」


 曹丕は甘くささやくようにそう告げ、司馬懿の首に腕を回した。首を絞められているような体勢になり、曹丕の吐息が司馬懿の耳にかかる。眼前の慈悲深そうな笑顔が物凄く恐い。


 早急に話題を曹丕の夫人から遠ざけねば。そう焦った司馬懿は「そ、そういえば……」と言った。


「倒れている間、夢でも見ていたのでしょうか。冥府の入り口らしき門の前で小燕と会いました。小燕は『こっちに来るのはまだ早いです』と言って、門から俺を遠ざけようとして――ぐえっ! ぐ、ぐるじい!」


「ちゅ……仲達よ! お前、魂が冥府に行っていたのか⁉ 臨死体験したのか!」


「こ、公子様! 興奮して首を絞めるのはやめ……ぐええぇぇぇ!」


「やっぱり、お前を助手にして正解だったぞ! 不幸体質というか、巻き込まれ体質というか……お前をそばに置いていたら、面白い怪異が身近で起きるに違いないと思っていたのだ! ハハハハハ! でかしたぞ、仲達! その臨死体験をもっと詳しく聞かせろ!」


「その前に首絞めるのやめてぇぇぇーーーッ‼」




            *   *   *




 曹丕のチョークスリーパーからようやく解放されると、司馬懿は咳き込みながら自分の臨死体験を語りだした。華佗は、もうすぐ逝く身なのにあの世の話など聞きたくない、と捨て台詞を残してそそくさと帰っていった。


「ふむ……。お前があの世ですれ違った亡者たちは、たしかに曹軍の兵だったのか」


 曹丕は、司馬懿の臨死体験談を木簡にメモしつつたずねる。さっきまではふざけていたのに、いまはひどく真剣な顔つきになっていた。常時顔に貼り付けている薄笑いも消えている。


 オカルト小説の取材に夢中になっているのか。それとも、こんな軽薄な男でも、自軍の兵士の死を多少はいたんでいるのか……。司馬懿には判断しかねた。


「……ええ。曹軍の旗を持っている兵がいたから、間違いないと思います。曹公は烏桓うがん族相手に苦戦しているのでしょうか」


「俺の留守中に戦地から届いた報告書を今朝読んだが……。父上の軍はいま悪天候の中、険しい山道を進軍しているという。かなり厳しい行軍で落伍者が続出しているそうだ。恐らくは、その強行軍について行けず命尽きた者たちであろう」


「戦う前に命を……。それは何とも無念な……」


 やりきれぬ気持になり、司馬懿は深々と嘆息する。


 筆と木簡を文机に置いた曹丕は「戦で大量の死者が出ると、また曹洪そうこうのクソジジイが一儲ひともうけしようとするな。やはり、昨日の夢は警告夢であったか……」と呟き、親指の爪を噛んだ。いつも余裕たっぷりのこの男にしては珍しく、苛立ちを宿した声音である。


 曹洪といえば、曹操の従弟いとこで、鄴の留守を預かっている武将だ。なぜ、たくさんの死人が出たら彼が儲かるのか? ちょっと意味が分からない。


「曹洪将軍は何か商売でもやっているのですか? 死人が出たら儲かる商売……棺桶かんおけ屋?」


「……仲達よ。お前、頭はいいが、長年引き籠っていたせいで相当な世間知らずのようだな。人がたくさん死んだら儲かる商売と言ったら、だいたい察しがつくではないか。曹洪が売っているのは、人だよ人」


「ひ、人⁉」


 驚いた司馬懿は、素っとん狂な声を上げてしまっていた。


(人が死んだら儲かる商売……。なるほど、そういうことか。たしか小燕も、「悪い人に捕まって、奴隷市場で売られそうになったことがある」と言っていたな)



 後漢末期から三国志の時代にかけて、中国は相次ぐ戦争、天変地異、政治家の汚職による人災など、大災難のフルコースが人々を襲った。おびただしい数の人が死に、人口は大激減した。


 たとえば――黄巾の乱が起きる三十八年前(一四六年)、国家が把握していた人口は四千七百五十六万人だった。それが、三国志の争乱時代には、八百万人ぐらいになっていたのだ。逝きすぎである。


 もちろん、流民となって国家が把握できていない人々もいただろうが、英雄豪傑が華々しく活躍する三国志の物語の陰では、恐ろしいほどの数の庶民が歴史に名を刻むこともなく死んでいたのだ。


 こんなに死ぬと、戦に駆り出す兵士も、労働力となる人手も、大いに不足した。呉の孫権などは、夷州いしゅう(台湾?)や亶洲たんしゅう(種子島?)に軍隊を派遣して人狩りを行い、人手不足を補おうとしたほどである。(ただ、その計画は失敗したようで、ヒステリーを起こした孫権は責任者の将軍たちを処断しているが……)


 とにかく、人間が欲しい。銭を払ってでも人手を確保したい。

 だからこそ、人々は奴隷市場で奴婢ぬひを買ったのである。戦で人が死ねば死ぬほど働き手が不足し、奴隷の需要は高まってビジネスとなった。人口問題は三国志の知られざる暗部と言っていい。



「曹洪のクソジジイは、袁紹えんしょうとの戦で官渡かんと城の防衛を任された頃から、あの地で闇市を開くようになった。奴はたくさんの『商品』を確保するために人をさらい、定期的に大規模な奴隷市を催している。あまりに派手にやりすぎて、その悪事が世間に知れ渡りそうになったため、二年ほど前から自重していたようだが……。烏桓征伐で大量の戦死者が出ることを見越し、また奴隷市の準備をしている疑いがある。もしかしたら、いまごろ多くの人間が官渡城の牢に閉じ込められているやも知れぬ。昨日見た警告夢で、ちょうどそんな危惧を抱いていたところだったのだ」


「人さらい……良民(自由民)を誘拐して、奴隷として売っているということですか! まさか、小燕を奴隷市で売ろうとした悪人も曹洪将軍なのでは……。ゆ、許せん! 公子様は身内の悪行を放っておくつもりですか⁉」


「何度もやめろと言っているさ。官渡の周辺地域には、ある理由からよからぬ『気』が漂っている。捕えた奴婢たちをあの場所に長い間とどめて置いたら、よからぬ『気』がさらに濃くなり、憂いの精魅もののけが発生してしまう危険性があるのだ」


「憂いの精魅……? ここでも鬼物奇怪の事が関わってくるのですか?」


「まあ、そんな話をしても、曹洪の奴は鼻で笑うばかりだがな。……昔から気に入らないんだよなぁ、あのクソジジイ。俺が借金を申し込んでも、ケチだから貸してくれないし」


 そんな愚痴を言いつつ、曹丕は美しい形をしたあごを撫でながら考える。


 ……七年前に起きた袁紹軍の捕虜兵たちの悲劇以来、官渡周辺では憂いの精魅が四度ほど出現した。曹丕はそれらを全て浄化してきたが、あの地には捕虜となった八万人の捕虜の憂いの気がいまもなお漂っているはずだ。曹洪が管理している官渡城の監獄に奴隷市の「商品」たちが集められたら、さらに憂いの気が高まり、大いなる災いが起きかねない。


「公子様。何を長考なさっているのです。どうするおつもりなのですか」


「無論、官渡で取り返しのつかない事件が起きる前に、何とかせねばならぬ。……しかし、曹洪邸の動向を探らせにやった真がまだ戻って来ていない。さすがに、不法な人狩りをしている証拠が無ければ、一族の年長者の屋敷には踏み込めぬ」


「何を悠長なことを! 悪事を働いている疑いがあるのなら、ずばっと踏み込めばいいじゃないですか。『義を見てせざるは勇無きなり』と言うでしょう。いつも非常識な行動を取っているくせに、同族相手には遠慮するのですか? 情けない! だったら俺一人で踏み込みます!」


 義憤に駆られて頭に血が上っている司馬懿は、鼻息荒くそう言い、寝台から奮然と立ち上がった。


 曹丕は面倒臭そうに顔をしかめ、「馬鹿ッ。弱っちいくせに暴走するな」と叱る。


「暴走ではありません! 俺は正義を貫きに行くだけです! 止めないでください!」


「真が証拠をつかんで帰還したら俺が行く。お前が単独で曹洪に会えば、最悪殺されるからやめておけ」


「はぁ~? ヤクザの親分じゃないんだから、会っていきなり斬りかかってくるわけないでしょうが。いちおうは将軍なんでしょ。俺のこと馬鹿にしているんですか」


 曹丕らしからぬ慎重な態度にイラッとなった司馬懿は、喧嘩を売るような口調で食ってかかった。部屋に曹節が入って来たのは、ちょうどそのタイミングのことである。


「兄上。お取り込み中にごめんなさい。母上がお呼びです」


「ぬっ……。まさか、『説教はまだ終わっていないから戻れ』とでも言っているのか? しつこい婆さんだなぁ……」


 曹丕はげんなりした顔になり、「節よ。お小遣いをあげるから、俺の代わりに説教されてきてくれないか」と言った。しかし、真面目な曹節は「兄上はまたそんな冗談を……」と眉をひそめる。


「違います、説教ではありません。参司空軍事さんしくうぐんじ殿が兄上に面会を求めているので呼んで来なさい、と母上は仰っているのです」


「参司空軍事……華歆かきんか。烏桓征伐に従軍しているはずのあいつが、なぜ鄴に戻って来たのだろう。分かった、いま行く」


 そう言うと、曹丕は寝室から出て行こうとした。しかし、つと立ち止まって振り返り、


「仲達よ。もう一度忠告しておくが、一人で曹洪の屋敷に行くなよ。本当に殺されても知らんぞ」


 と、ぶっきらぼうに捨て台詞を吐き、今度こそ妹の曹節とともに部屋を去って行った。


 寝室に独りになった司馬懿は、ニヤリ……と不敵な笑みを浮かべていた。


(フッフッフッ……。この司馬仲達をめるなよ? 我が超絶軽快な弁舌で曹洪をけちょんけちょんにこき下ろし、あこぎな商売などやめさせてやる)


 曹丕に対する反発心から、軽率ですぐ調子に乗っちゃう悪癖がまた発動してしまった。司馬懿は、「公子様の使者として曹洪邸に向かう」と門番の兵に嘘をつき、司空府を出た。


 この男はまだ知らない。この三国志ワールドには、曹丕以上に話が通じないモンスターたちがごろごろといることを……。








※曹丕の妻の甄氏は、諱や字が不明です。そのため、この小説では「水仙」というオリジナルの字で呼びたいと思います。彼女は民間伝承で水仙を司る神になっているので、ちょうどいいかなと思いまして( ̄▽ ̄)

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