第3話 ホワイトウルフ法律事務所

 弁護士はどこだ。わたしを助けてくれる力を持った、頼りになる弁護士はどこだ……。


 琴音子ことこは息を切らして駅前の噴水広場に立ち尽くし、立ち並ぶ雑居ビルの窓に踊る無数の文字の海を見回していた。

 こういうときに頼りになるのは弁護士しかいない。世間知らずの自分でもそのくらいは知っている。だけど、一体どこに頼ったら……?


 田村法律事務所。田村さんという弁護士さんが出てくるのかな。ふらわあ総合法律事務所。なんだか美人の女性弁護士さんが出てきそう。山川総合法務事務所。……「法務」事務所と「法律」事務所って何が違うのだろう?


(弁護士さんって……思ったより沢山いるのかしら……)


 でも、一体どこに駆け込んだらいいのだろう。あの塾のようなが世の中にどのくらいあるのかも琴音子は知らないが、普通、弁護士って、妖怪も相手にできるようなものなんだろうか。


(妖怪専門……とか、書いてないかなあ)


 人間の病院と動物病院が違うように、人間を相手にする弁護士と、妖怪を相手にする弁護士も違うのかもしれない。だとしたら……。


(……あちら側も見てみないと……)


 駅の反対側にはもしかしたら妖怪専門を掲げた弁護士の事務所があるかもしれない。そう思って、黒のパンプスできびすを返し、琴音子が駅の反対側の繁華街に向かって舵を取りかけた――そのとき。


「お嬢さん。お困りのようだね」


 何者かが、背後からキザっぽい声で琴音子の鼓膜を震わせてきた。

 明らかに男性らしきその声に、びくりと琴音子の身体が硬直する。もしかして、これは世に言うナンパというやつでは……?

 さりとて他人様をシカトすることなど教えられていない琴音子が、思わず振り向いてしまったその先には。


「……白っ」


 白ジャケットに白ネクタイ。ベルトも白なら靴も白。きっと結婚式の新郎でもそこまで白くないんじゃないかしらと突っ込みを入れたくなるような、上から下まで真っ白の男が立っていた。

 さすがに髪は白くなかったが、黒い前髪の下できらりと存在感を放つのは、どこで売っているのか想像もつかない横長の白ブチ眼鏡。細身の身体で高身長、顔立ちだけなら男前だが、変な眼鏡のレンズ越しにはどんな女の子でも付いていくことを躊躇ためらうような鋭い瞳がぎらりと琴音子を見据えている。

 印刷ミスかと見紛うような白一色の装いの中で、唯一、白以外の色彩を放つのは、ジャケットの左下襟ラペルに輝く向日葵ヒマワリはかりの小さな金バッジ。


「……弁護士さん?」

「ほっほう、バッジを見てわかるとは話が早い。社会に巣食うブラック企業を完膚なきまでに叩きのめす正義の使者、ホワイトウルフ法律事務所の白河しらかわ白狼はくろうとは俺のことだ」


 長すぎる自己紹介を一息で言い切り、名前まで真っ白な男がフフンと胸を張る。琴音子の頭に浮かんだ感想はただ一言――この人、大丈夫だろうか?

 胸を張った姿勢のまま、ちらりと琴音子を見下ろしてくるその男。いかにも何かを聞き返して欲しがっているように見える。仕方がないので、琴音子は彼が述べた変な事務所の名前をオウム返ししてみることにした。


「ホワイトウルフ……?」

「そう、俺のファーストネームの白狼はくろうは『白いおおかみ』と書くのさ。研ぎ澄まされた嗅覚でブラック企業を追い詰め、怒りの牙を突き立てる正義の獣! 法曹界のホワイトウルフと恐れられたこの俺の力、頼りにしたくはないか」

「えぇぇ……」


 目の前にさっと片手を出され、琴音子は困ってしまった。自分が弁護士を探していたのは確かだが、それでも……。


「……ごめんなさい。わたくし、確かに弁護士さんはお探ししていましたけど……」


 もっと人を所望しているのだ、とはとても言えない。言わずにきびすを返そうとしたが、しかし。


「まともな弁護士はキミのために動かないぞ!」


 歩み去ろうとした琴音子の背中を、男の張り上げた声がぴたりと釘付けにした。


「そう、そこで足を止めたのは正しい選択だ、お嬢さん。己の存在をないがしろにしてくれた極悪非道のブラック企業に一矢報いたいのだろう。ならばキミがすべきことはただ一つ、有象無象の弁護士の事務所をあてもなく尋ね回る無謀な真似はハナから諦め、この白河白狼に事の次第を話すことだ」


 男に背を向けたまま独白を聞きながら、琴音子はふと彼の態度に、見た目と自己紹介の奇抜さ以上の違和感を覚えていた。

 どうして、この人は、自分があの会社に酷い目に遭わされたことを知っているのだろう?

 琴音子がその場を立ち去らず、結局その男のほうへ再度振り返ってしまったのは、その疑問を解消したかったからに他ならなかった。


「どうして自分がブラック企業の犠牲者だとわかるのか、という顔をしているな」

「……ええ」

「簡単なことだ。こんな平日の昼下がりにレディススーツとビジネスバッグで駅前に立ち尽くし、きょろきょろと法律事務所を探す若いお嬢さんが一人。よもや婚約破棄や多重債務が原因ではあるまい。刑事事件の被害者でもなければ加害者の身内でもない――キミからはそういうを感じないからな。キミのオロオロした瞳に宿っているもの、それはクソ企業に人生を踏みにじられた無念と悔しさ、そして奴らに一矢いっし報いんとする小さな復讐の炎だ」


 そう言われて男に正面から顔を覗き込まれ、琴音子は思わず息を呑んだ。彼の推理があまりに正鵠せいこくを射ていたから。この白河白狼という弁護士……まさか、本当に凄い人なのか……?


「だから、キミは、俺以外の弁護士の事務所になど行ってはならない。せっかく燃え上がった復讐の炎をボンクラどもに吹き消されてしまっては勿体ないではないか」

「……あなた以外の弁護士さんは、ボンクラだと仰るんですか?」


 男の繰り出すレトリックを正確に理解し、琴音子は問い返した。なんて厚顔無恥なことを言ってのける人だろう。年の頃なら30代だろうか、弁護士の中では若手の部類だろうに、自分以外をまとめてボンクラ扱いするなんて。

 そんな琴音子の感想を見透かしたのだろうか、男は意外にもフォローのような一言を続けてきた。


「むろん、分野を限ればそれなりに優れた弁護士はいくらでもいる。キミの目当てが債務整理ならそれを得意とする事務所のドアを叩けばいい。チンケな傷害事件で勾留された恋人を不起訴で放免させたいのなら、刑事に強い弁護士を頼ればよかろう。――だが、キミを不当解雇したクソ企業に逆襲を果たすという目的においては、我がホワイトウルフ法律事務所以外にキミが頼るべき場所などない」


 男の言葉にまた琴音子はどきりとさせられた。不当解雇、とは……?

 自分の問題は、試用期間限りで勤務を終わりにしてもらうと言われたことなのだが――?


「どうして、他の弁護士さんは頼りにならないんですか」

「愚問だな。そもそも弁護士の本分は正義の味方などではない。カネを積んだ依頼者のために道理を曲げて無理を通すのが弁護士の仕事だ。カネさえ積まれればどんなクソ企業の味方でもする――それが弁護士の精神であり使命なのだよ」


 よくわからないことを堂々と宣言する男だ。いや、彼は待っているのだろう。琴音子がこう尋ねるのを。


「……どうして、あなただけは頼りになると?」

「この白河白狼こそが日本で唯一、ブラック企業を蛇蝎だかつのごとく憎み、その根絶に魂を賭ける正義の味方だからだよ」


 ふふんと再び胸を張って宣言し、それから男は初めて胸ポケットから名刺を取り出してきた。琴音子の目の前に差し出されたそれは、紙片いっぱいに白い狼の絵が描かれ、「ホワイトウルフ法律事務所 所長 白河白狼はくろう」の文字が黒の縁取りに白抜きの印字で踊っている、費用と手間がかかっていそうなデザイン名刺だった。

 ……やっぱり、胡散臭い。関わらないほうが身のためという気がする。


「ありがとうございます。あなたにご依頼したくなったらまた連絡いたしますわ」


 彼の手前、名刺をバッグにしまい込み、琴音子が再びきびすを返そうとすると――


「解雇事件は時間との勝負だぞ!」


 やたらと真剣マジな目付きになって、男は声のトーンを上げた。びくっ、と琴音子の身体は強張ってしまう。この男、何がなんでも琴音子から依頼を取り付けなければ気が済まないらしい。


「安心したまえ、我がホワイトウルフ法律事務所は、ブラック企業絡みの事件に限り、相談費用は何度でも何時間でも完全無料だ。……だから、お嬢さん、話を聞かせてはくれまいか。人助けと思って」

「……人助け? あなたがわたくしを助けてくれるのではなくて、わたくしがあなたを助けるのですか?」

「いかにも。なぜなら弁護士は、事件があり、依頼者がいなければ動けない。どんなに目の前に唾棄だきすべきブラック企業があったところで、誰からの依頼も受けていないのに俺一人が乗り込んで奴らをぶっ潰すことなどできないのだ。嘆かわしいことではないか! 俺はこんなにも、ブラック企業の根絶を夢見ているのに!」

「……つまり、わたくしが仕事をお願いすることで、初めてあなたは動くことができる、と」

「察しが早い! なんと聡明なお嬢さんだ」


 からかわれているような気がして、琴音子は一歩後ずさった。

 困惑しきった頭でそれでも冷静に考えてみる。これ以上、人様がたくさん見ている前で押し問答をするくらいなら、もうこの人に話を聞いてもらうのでいいかもしれない。この男が本当に腕の良い弁護士なら、実際、琴音子にとっても渡りに船かもしれないのだ。

 ……だが、仮にこの人が良い弁護士だったとしても、今回の件には根本的な問題がある……。


「……でも、あの、わたくしの居た会社は」


 琴音子がそのことを口にしようとすると、全身白ずくめの男は、すいっと身を寄せて琴音子の片腕を取り、その手の甲に顔を近づけてきた。


「ひゃっ!」


 父親以外の男性に触れられたことのない手をいきなり取られ、びくりと身体が硬直するが、なぜか身を引く気にもならない。

 男が琴音子に目を向け、小声で言ってくる。


「わかっているとも。キミからはの匂いがする」

「……!」

「それゆえに、この事件に介入できる弁護士は、この俺しか居ないのだ」


 琴音子の手を握ったまま、男は眼鏡の奥の両眼をぼうっと白く光らせる。……瞬間、琴音子の目には確かに見えた。全身白スーツの彼の背後に立ち上る、白い狼のシルエットが。


「…‥あ、あなたは、一体……!?」

「妖怪弁護士ホワイトウルフだ。……万事ばんじ俺に任せておくがいい、お嬢さん」


 その勢いに呑まれ、琴音子が小さく首肯すると、上から下まで真っ白の男は、ぴかりと白い牙を見せて笑った。

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