第2話 弁護士はどこだ

「わたくしが、クビ……ですか?」


 琴音子ことこが思わず首をかしげて聞き返すと、丸々と太った身体を椅子に押し込めた教務部長は、机の向かいから露骨に琴音子を見下す視線を向けて言った。


「そう、まあ、正確に言うとね、本採用しないということだね。さっき、社長とも話していたんだけど」


 ボンレスハムのような手で教務部長が指し示したのは、彼の隣で椅子に深々と掛けてふんぞり返る、これまたブタの国からブタを広めに来たようなでっぷりした社長の巨体だった。


「えっ……でも、どうして……」


 琴音子には呆気に取られたまま疑問を呟くことしかできなかった。この塾で働くようになってから三ヶ月、色々と大変なこともあったが、それでも自分は自分なりに頑張ってきたのに。

 小中学生の生徒達……まあ明らかにあの子達とも馴染んできて、ようやくここからだと思っていたのに。

 どうして今になって、急にクビだなんて言われてしまうのだろう。


 黒髪がはらりと顔面にかかるのも構わず、琴音子がそうして何秒か首をかしげていると、教務部長はじとりと嫌味な目で琴音子を見て言葉を続けてきた。


「まあ、賀東がとう先生はホラ、ほわーんとしてて、抜けてるように見えることが多いからねえ。ウチでキリキリと授業をこなしていくには、やっぱりねえ、向いてないんじゃないかとね」


 があん、と頭を大きなハンマーで叩かれるような思いだった。この教務部長は、ネチネチと嫌な叱り方をすることが多い人だという印象はあったが、それにしても、急にここまではっきりと人格を否定されるとは思ってもみなかったのだ。

 琴音子がショックに押し黙っていると、今度はブタの社長のほうが口を開いた。


「それにやっぱり、君はまだハタチで、大学にも行ってないじゃない。教える仕事をするには、やっぱりそういうところがね、ネックになるよね」

「そんな……。最初に仰って下さったじゃないですか、わたくしの年齢はお気になさらないと」


 やっとの思いで反論の言葉を喉から絞り出せたのは、相手の言い分があまりに理不尽だと感じたから。

 確かに自分はまだハタチの小娘で、両親の他界後に大学も中退してしまった。だけど、それでも構わないと言って迎え入れてくれたのは、そちらじゃないか。それなのに今さら、やっぱり若すぎるから駄目、大学を出ていないから駄目と言ってくるなんて……。

 そこで社長から発言のバトンを引き継ぎ、三たび教務部長が言う。


「あとはまあ、人生経験が足りないからなのかな、仕事に真剣味ってものがないよね。そういうのは生徒にも伝わってるんだよ。実際、賀東先生の受け持ちの生徒から、あの先生は頼りなくて嫌だって声も出てるからねえ」

「……そんな。どの子がそんなこと言ったんですか?」


 琴音子には部長の言葉が信じられなかった。あの子達はみんな、、この三ヶ月で人間の自分をよく慕ってくれるようになっていたのに。

 そう思っていたのは自分だけで、裏では生徒達は自分のことを頼りないと思っていたのだろうか?


「そんな……そんなこと、信じられないです。だって、あの子達は……」

「口答えはいいからさぁ。まあ、会社としてはもうね、決定したことなんでね」


 オフィスチェアをぎしぎしときしませ、ブタ社長はでっぷりとした身体をずいと乗り出して言った。


「賀東先生は今日はもう帰ってくれていいよ。明日以降のことは、追って部長からね、メールで指示するんでね」


 豚鼻をぶひひと震わせ、社長は再びふんぞり返った。

 人間である教務部長とは違い、であるこの社長。逆らったら八つ裂きにされて食べられてしまうかもしれない、なんて荒唐無稽な恐怖に震えながら、それでも琴音子は、一つのことを確認せずには居られなかった。この理不尽なクビの本当の理由は、琴音子には一つしか思いつかなかったのだ。


「……あの、やっぱり、わたくしが、あの方との件をお断りしたから……?」


 だが、琴音子が恐る恐る口にしたその言葉は、被せるような社長の発言でぴしゃりと遮られてしまった。


「違うねえ。純粋に君の能力と勤務態度への評価。ということで、もう話すことはないんでね、生徒が来る前に帰りなさい」


 しっしっと犬でも追いやるかのような手振りとともに言われては、琴音子にはもう、何も言い返す気力は湧かなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 どうして自分が、こんなことに――。

 塾の入っているビルを出て、琴音子はとぼとぼと駅へ向かって歩いた。雑居ビルが立ち並ぶ都会の風景。琴音子の目は無意識に、涙を隠せる逃げ場所を探す。

 ファッションビルの二階の明るく綺麗な化粧室に駆け込み、琴音子はやっと涙をこぼすことができた。知らずに入ったの会社――決して社内の人間(?)関係に愛着が持てたわけではなかったが、それでも、可愛い生徒達に勉強を教える時間は、家族を失った自分の心に差し込んだ暖かな光のように思えていたのに。


(……これから、どうしたら)


 オレンジの照明に照らされた鏡には、涙でメイクの崩れた自分の顔が映っていた。丁寧に整えていたはずのセミロングが乱れている。髪の乱れは心の乱れだと、亡き母の言っていた言葉がふと脳裏によみがえる。

 手櫛てぐしで黒髪を整え、琴音子はバッグからメイク用品を取り出した。平日のこんな時間、ファッションビルにはほとんどお客さんも来ない。ここでお化粧直しをしていてもそれほど迷惑にはならないはず。そんなことを考えながらメイクを直していると、ふと、このまま負けるわけにはいかないという思いが胸の奥からふつふつと湧き上がってきた。

 純粋に能力と勤務態度への評価だと、あの妖怪社長は言っていたが、その言葉をそっくりそのまま信じる気にはどうしてもなれない。自分が試用期間限りでクビにされた理由は、きっと、を断ったことの逆恨みにほかならない。


(……やっぱり、黙ってられない)


 化粧直しも早々に、気付けば琴音子は早足でファッションビルを出ていた。いつもの自分では考えられないくらいの早足だった。ぐるりと雑踏を見回して、電柱や建物からせり出た無数の看板の文字を目で追う。こんなときはどうしたらいいのだったか。警察じゃない。病院じゃない。今の自分が頼るべき相手は――。


『労働、離婚、借金トラブル。日常のあらゆる問題事は、当事務所へお任せください――』


 いつかテレビで見たそんなコマーシャルが頭の奥をよぎる。そうだ、こんなときに頼れる先は一つと決まっている。

 このまま泣いて逃げているだけじゃいけない。おかしなことはおかしいと声に出して言えなければならない。そのための助けは。――弁護士は、どこだ!

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