1-4 グルメと心の紐

「まぁまぁ、まずは座りなせ、嬢ちゃん」

「……もう座ってます」

「じゃあ、飲みなせ」


 団三郎だんざぶろうむじなと名乗った大きなムジナは、店の奥からのしのしと歩み寄ってきて、美咲の前のテーブルに一升瓶をどんと置いた。

 美咲の横で、氷の美女がたちまち口を尖らせる。


「ちょっと。酒類提供の営業許可は取ってないでしょ」

「金取らなきゃ営業じゃねえらろ。ワシが個人的に振る舞うだけ」


 ぽんと音を立ててムジナは瓶のフタを開け、いつの間にか卓上にあった小さなグラスに透明な酒を波なみと注いだ。


「知ってるらろ。新潟の酒は美味いろ」

「……はぁ」


 まだよく状況が飲み込めないまま、美咲は酒と団三郎ムジナと氷の美女を交互に見た。

 あやかしカフェなる場所に突如連れてこられて、二足歩行のタヌキのような妖怪に酒を勧められている……。こんな光景が現実だとは、やっぱりまだ素直には信じられない。


(それに、わたし、日本酒はそんなに得意じゃないんだけど……)


 助けを求めるように、天宮の座る席をちらりと見る。彼は何食わぬ顔で懐からタバコの箱を取り出していた。

 あ、この人タバコなんて吸うんだ、と少し複雑な気持ちになりかけた直後、美咲は気付く。彼がくわえたのは、シガレットはシガレットでも、ココアの色が混ざった駄菓子のシガレットだった。


「……気になるか」


 彼が視線を向けてくる。じっと見ていたのが気付かれたと思うと恥ずかしくて、美咲は顔の前で小さく手を振った。


「い、いえ。……でも、なんでそんなの」

「店内は禁煙だとムジナが言うからな、菓子で我慢している。おかしな時代だ」

「お菓子だけに?」


 反射的に言ってしまった瞬間、店内の空気が一瞬しぃんと固まった。団三郎ムジナと氷の美女、そして向こうのテーブルでちろちろと平たいさかずきから何か舐めていた例のアズキという小さなムジナも、揃って美咲を見て目をぱちくりさせてくる。


「あっ、違うんです、そんな、面白いこと言おうとかじゃなくて!」


 顔面がかぁっと熱くなるのを感じ、美咲は先程よりもずっと大きくぶんぶんと手を振った。そこへ、ココアシガレットをかりっとかじりながら、天宮が言ってくる。


「君の発言はなかなかユーモアがあって良い。海軍好みだ」

「え、えぇ……?」


 軍隊さんとユーモアなんて一番遠い概念じゃないの、と思うが……。

 恥ずかしさに彼の顔を直視できず、美咲はテーブルに目を落とす。日本酒の注がれたグラスには、鳥獣ちょうじゅう戯画ぎがを思わせるタッチでムジナの絵が吹き付けられていた。


「まあ、飲みなせよ。ヘンなものは入ってないっけ」


 ぽんと大きなお腹を叩いて、団三郎ムジナが言った。ヘンなものが入っている可能性なんて別に考えてもなかったが、いざそう言われてみると、なんだかコワい気もする。


「これを飲んだら妖怪にされちゃう、とかは?」

「はっはっ、そんなことあるワケないら。普通に人間の酒屋から仕入れたやつらっけ」

「……それじゃ、お言葉に、甘えて」


 恥ずかしさを紛らしたい思いもあって、結局、美咲はグラスを手にしていた。

 ムジナ達の見守る中、緊張しながら酒に口をつける。その口当たりと、鼻へ抜ける香りは、思っていたよりずっとまろやかだった。


「……あれ。美味しい」

「そうらろ。ほらほら、遠慮せず飲むといいさ」


 遠慮してるわけじゃ……と思いながらも、美咲はムジナに促されるがまま喉をうるおす。途端に、くう、とお腹が鳴って、そういえば昼から何も食べる機会がないままだったことを思い出した。

 あれ、そういえばここはカフェ? お金を払えば何か食べるものも? などと考えるより先に、団三郎ムジナが氷の美女に何やら言っているのが聞こえる。


「ユキちゃん。クリームチーズの味噌漬けかなんか出してやって」

「はいはい。村上むらかみ鮭の生ハムもあったかしらね」


 クリームチーズの味噌漬けに、鮭の生ハム……?

 聞き慣れない組み合わせの言葉ばかりが耳に入って、美咲は思わず首をかしげた。


「なんですか? それ」

「まあ、定番のつまみってとこら。酒が進むろ」


 ムジナが二杯目を注ぎたくて待っているように見えたので、美咲は勢いのままにこくんとグラスの日本酒を飲み干した。

 空腹にアルコールがよく回る。ふわりと意識が緩みかける中、美咲はムジナの注いでくれる酒を受ける。


「いいんですか、わたしばっかり」

「いいさ、いいさ。客人らっけね。嬢ちゃん、名前は?」


 例によって、名前を問われて言いよどんだ。

 天宮とアズキには既に名乗ってしまったが、入鹿いるかというドルフィンすぎる名字を人に知られるのはやっぱり幾つになっても恥ずかしい。このムジナにも変な名前だと言われてしまうんじゃないか……と思ったところで、そういえば相手が団三郎ムジナとしか名乗っていないことを思い出した。

 それなら、こちらも下の名前だけでいいか……?


「……美咲です。美咲ちゃん二十五歳」

「ほー。妖怪みたいな名前らな」

「えぇ!?」


 そのコメントは流石に初めてだったので、美咲は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


「美咲のどこが妖怪ですか!?」

「らって、七人しちにんミサキって有名な話があるらろ。あれは高知あたりだったか……。屋島やしま太三郎たさぶろうだぬきから聞いたことがあるろ」

「いや、知らないですけど……!」


 そうこうしている内に、ユキちゃんと呼ばれた美女が奥から戻ってきて、美咲の前にことりと平皿を置いた。ひんやりとした冷たさが視覚的にも伝わってくるようなガラスの皿には、なるほど確かに、サイコロ状の一口大に切り分けられた味噌漬けのチーズと、生ハムを思わせる薄さに切られた鮮やかなピンクの鮭が盛り付けられている。


「召し上がれ。雪女だからって冷凍じゃないから安心してね」

「えっ!? 雪女なんですか!?」


 美咲はまたしても声を裏返らせた。あら、と当の美女は涼しい微笑を浮かべる。


「気付かなかったの? この流れであやかしじゃない方がおかしいでしょ」

「……まあ、そうかもしれませんけど」


 いよいよ妖怪屋敷だなあ、と思いながら、美咲はユキちゃんから箸を受け取った。雪女と聞いたから余計にそう感じるのか、漆塗りの箸までもひやっと冷たいような気がした。


「いただきます」


 クリームチーズをそっと口に運ぶ。塩気とコクのある味噌の味が、じわりと舌の上に広がる。雪が溶けるような滑らかなクリーミーさは、ムジナの言う通り、酒のつまみにぴったりだった。


「美味いらろ」

「はぁい」


 ムジナにこくりと頷いて、美咲はグラスにまた口をつける。あまり得意でないはずの日本酒を自然に飲み進められてしまうのは、美味しさのためか、雰囲気のためか、それともあやかしの妖力か何かに飲まれているのか……。

 ふわっとした気分でふと視線を振ると、手持ち無沙汰そうにココアシガレットをもてあそぶ天宮に、ユキちゃんが話しかけていた。


大尉だいいもこっち来て食べる?」

「いや。俺は茶漬けか何かあればいい」

「はいはい、インスタントね」

「うむ。あれは未来の味だ」


 真面目な顔で雪女とそんなやりとりをしている天宮の様子に、美咲は自分の口元がふっとほころぶのを感じる。

 再び奥に引っ込む着物姿の背中を見送ってから、美咲はずいっと天宮に体を向けた。


「ねえ、さっきから気になってたんですけどー」


 アルコールで緊張が緩んだのか、素朴な疑問が自然と口をついて出る。


「そのダイイっていうの何ですか? 軍隊さんの階級だったら、タイイじゃないんですかー」


 すると、天宮は「うむ」とシガレットを口から離して答えた。


「それはな。陸軍で大佐たいさ大尉たいいと言うところを、海軍ではダイサ、ダイイと言ったんだ」

「え? そうなんです?」

「ある程度時代が下ってからのことだがな。もっと昔は、海軍でも普通にタイサ、タイイと言ってたらしい」

「……へぇ」


 昔の人が言う「もっと昔」が、具体的にいつのことなのかは分からないけど……。

 そもそも彼はいつ頃の人なのだろう。口振りからして、若くして死んだのだとは思うが、もし生きていたら自分のおじいさん……いや、ひいおじいさんくらいになるのだろうか。

 もっと彼のことを聞いてみたいな、と美咲が思ったとき、ユキちゃんが戻ってきて、彼の前にお盆を置いた。


「はい、ご注文の品。これも村上鮭よ」

「ほう。有難い」


 天宮の取り上げたお茶漬けの椀には、美咲の前に出されたのと同じ鮭の生ハムが乗っているらしかった。

 椀から湯気が上がっているのを見て、美咲はまたも頭に浮かんだ疑問を口にする。


「ユキさん、雪女なのに熱いもの作れるんですかー」

「そこまで弱い雪女じゃないわよ。……あなた、酔いやすいのね、もう顔が真っ赤」

「えぇ? そうです?」


 言われてほおに手を当ててみるが、自分ではよく分からなかった。


「この鮭は美味いぞ。君も食すといい」


 さらさらと箸を動かしながら天宮が言ってくる。はぁいと素直に頷き、美咲は鮭に箸を伸ばした。

 鮮烈な塩気と、スモークサーモンとも全く違う濃厚な味わい。加工品なのに不思議な瑞々しさを感じる。


「行けるらろ。それが有名な村上の鮭ら」


 団三郎ムジナが嬉しそうに言ってくる。


「村上って誰ですー」

「人じゃない、地名ら」

「へぇ。どこですかー」

「新潟県の北端ら。雅子まさこ様のご先祖さんの小和田おわだ家で有名らな」

「へぇー……!」


 その名前が出た瞬間、天宮が唐突に箸を置き、さっと背筋を伸ばしていた。


「? どうしたんです?」

「気にしない気にしない。大尉は昔の人だから」

「ふぅん……?」


 彼のことは気になるが、酔いが回ってあまり深くは考えられない。それよりも、目の前の美味しさをもう少し味わいたい気持ちが上回った。

 クリームチーズと鮭と日本酒と。どれも温度的には冷たいのに、なぜだか温かみのようなものを感じる。ほんの少し前、信濃川のほとりで一人悲嘆に暮れていた自分が、いつの間にかこんな暖かい空間に引き込まれているというのが、何とも信じられなかった。


(……あれ)


 ふいに視界が緩んだような気がして、美咲は目尻に手を当てた。頬に伝う熱いものに、その時初めて気付いた。


(……わたし、なんで泣いてるんだろう)


 強いて言うなら、それは生きている実感のようなものだったか――

 暖かさに揺れる美咲の心に、店のあるじの声が差し込んでくる。


「美咲ちゃん、ワケ有りなんらろ? 話してみなって」


 涙の滲んだ視線を上げて、美咲は一同を見回した。団三郎ムジナも小さなアズキも、ユキちゃんも、そして天宮も、それぞれに穏やかな眼差しで彼女を見ていた。


「……はい」


 はらりと心の紐をほどかれたような気がして、片手で涙を拭い、美咲は話し始めた――。

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