1-2 謎の海軍大尉

(なんで、なんでなんで!?)


 当惑と恐怖に心を揉みくちゃにされながら、美咲は謎の男前に手を引かれるがまま路地を走る。背中に感じるぞわりとした寒気と、手首を握る男の手のひらの熱さが、寒暖差をなして美咲の意識を揺さぶっていた。

 恋人も仕事も失って、知らない街で宿無しのほぼ無一文。行き当たりばったりガールの受難もここに極まれりと数分前まで思っていたが、この状況はその比較にもならない。

 そう、何の因果で――


「何か! 何か来るっ!」

「振り向くな。君を死の淵に引き込もうとする悪霊だ」

「あ、あくりょぉ!?」


 ――何の因果で、見ず知らずの男に手を引かれ、そんなものから逃げなきゃいけないのだろう!


「あ……っ!」


 曲がり角で足をもつれさせ、美咲はその場に倒れかけた。瞬間、白いジャケットに包まれた腕が伸びて、美咲の身体を支えていた。


「っ……!」


 抱き起こされて見上げた男の顔は、夜のとばりの中でも分かるほど端正で。

 イケメンだからまだいいか――なんて、一瞬思ってしまう自分を美咲は反省する。

 それこそが。そのイケメン好きこそが全ての元凶なのに!


「危ない!」


 人とも獣ともつかない影をとった闇の瘴気しょうきが、くろぐろと渦を巻いて美咲の眼前まで迫ってくる。白いジャケットの裾をひるがえし、男が美咲を庇って前に出た、その時。


『まったく、世話が焼けるろ!』


 男のものとは違う少年のような声が、美咲の鼓膜を叩き、


「――!?」


 二人の前に小さな生き物の影が風を纏って滑り込んだかと思うと、ぶわっと大量の砂のようなものがカーテン状に広がり、闇の追っ手の動きを封じ込めていた。


「アズキ!」


 男の叫ぶ声に被さって、その小さな生き物が叫ぶ――『早く!』


「行くぞ、お嬢さん!」


 彼が再び美咲の手を引いてきた。何が何だか分からないままに、美咲は必死に彼のあとを追って走る。気付けば、背後の寒気はもう感じなくなっていた。


「……ここまで来れば、大丈夫だろう」


 明るいアーケード街のようなところまで来て、男はようやく歩を止めた。

 街灯に照らされた車道には車の往来も普通にあり、夜道を歩く人の姿もある。誰も美咲達に関心を示しもせず通り過ぎていくのは東京と変わらないが、ひとまず人通りが目に映るのは心強かった。


『ヤツら、行っちまったさ』


 再びあの少年のような声がした。美咲が振り向いた先には、四つ足でトコトコとこちらへ歩み寄ってくる小動物の姿があった。

 黒いあざのような模様に囲まれた丸い瞳。長く突き出た愛嬌のある鼻、まるっとした胴体、そして漫画やアニメに出てくるタヌキのイメージそのものの太い尻尾。


「タヌキ? えっ、喋ってる!?」


 びくっと驚いて後ずさると、男の身体に背中がぶつかった。


「安心しろ。君も見た通り、あれは味方だ」

「えっ、でも、タヌキが喋ってる! タヌキが!」


 美咲が声を裏返らせて指差すと、その生き物はフンっと鼻を鳴らして、じっとこちらを見上げてきた。


『タヌキじゃない、ムジナら。佐渡のすなきムジナ。由緒正しきら』

「ムジナ……あやかし……!?」


 オウム返ししか出来ない美咲を横目に、小動物はくいっと男の方に顔を上げていた。


『ダイイは相変わらず先走りしすぎなんさ。ヘタしたらアンタもまた取り込まれてたらろ』

「……ああ、すまない。助かった」


 タヌキだかムジナだかに睨まれ、男は素直に謝意を口にした。

 ダイイって何だろう、この人達は一体何なんだろう――混乱の収まらない美咲の意識に、続けざまに男の声が飛び込んでくる。


「お嬢さんにも、破廉恥はれんちな振る舞いをしてすまなかった」

「え!? な、何がハレンチですか!?」


 昔の漫画でしか聞いたことのないような言葉を急に言われ、美咲は思わずぱちぱちと目をしばたかせる。男は真面目な顔で言った。


「緊急時とはいえ、嫁入り前の娘さんの手を握ってしまった」

「え? い、いや、そんな、わたしは別にっ」


 何だか急に恥ずかしくなって、美咲は彼から目をらす。

 こんなイケメンに手を握られて悪い気はしない――なんて、そういうことをすぐ考えてしまうから自分は失敗続きなんだと、ほとほと思い知ってはいるけれど……。


(それにしても、この人……)


 何だか、極端に堅い喋り方をする人だ。まるで、ドラマに出てくる軍人さんみたいな……。

 美咲がちらりと再び顔を見ると、彼は居住まいを正して名を告げてきた。


「俺は天宮あまみや洋志ひろし海軍大尉だいい

「海軍ダイイ……?」


 聞き慣れない肩書きに小さく首をかしげていると、彼は「君の名前は?」と問うてきた。

 フルネームを告げるのは恥ずかしいが、相手が名乗ったのに名乗らないわけにも……。


入鹿いるか美咲みさき……です」


 美咲がおずおずと口にすると、案の定、足元の小動物が笑いを漏らした。


『イルカらって。変な名前』


 どうせ変な名前ですよ、と頬を膨らませたところで、


「おい、貴様。人の名を笑うなんて失礼だろう」


 天宮と名乗ったイケメンが、真面目な口調で足元の仲間をたしなめていた。


(き、きさま……?)


 この誠実そうな人の口からキサマなんて言葉遣いが平然と出たことに、美咲はぎょっとして目を見開く。


(……この人、一体どういう人なんだろう)


 今まで出会ったことのないタイプの人だ……と、美咲がちらちらと彼を観察していると。


「入鹿さん。見たところ、君は旅行者か」


 ふいに彼が問いかけてきた。まっすぐ目を見られてどきりとしながらも、美咲は答える。


「えぇと……旅行者っていうか、この街で働くつもりで来たんですけど、仕事がなくなっちゃったっていうか」

「ふむ。下宿は?」

「え? いや……住むところも何も決まってなくて、どうしようかなって」

「……そうか。随分と行き当たりばったりの生き方をしているようだ」

「はっ!? す、すみません!」


 さらりと手厳しい突っ込みを食らい、美咲はあわわと縮み上がった。会ったばかりの人に、早くも先走り癖を見透かされるなんて……。


『ダイイ、この子、放っとくとまた危ないらろ』


 例のムジナが足元からぽつりと言った。うむ、と頷く彼の姿に、美咲は「えっ」と思わず反応していた。


「あ、危ないって?」

「今の君は、悪いものに付け込まれやすくなっている。このまま放り出せば、また先程と同じことになりかねん」

「えぇ、そんな……!」


 恐怖と焦燥が再び美咲の心に立ち上がってくる。思い出して何より怖いのは、追ってくる得体の知れない闇の影よりも、あの川辺で紛れもない自分自身が死の淵に引き込まれかけたという事実だった。

 今までどんな散々な目に遭っても、死んでもいいかと思ったことなんて一度もなかったのに。

 あの時、自分は確かに、に飲まれかけて……。


「安心してくれ。俺達が安全な所まで連れていこう」

「は、はいっ」


 天宮という男の心強い一言に、美咲は反射的に肯定の返事を返していた。

 いやいやいや、これこそサギか何かの手口じゃないか、と、頭の片隅から理性の部分が呼びかけてくるが――

 知らない街の暗闇に一人放り出されるより、この人に付いていったほうがいいと、なぜか本能で直感したのだ。


「……あの」


 彼とムジナに前後を挟まれて夜道を行く最中さなか、美咲は彼の背中に問いかけてみた。


「さっきの、何とかダイイって。自衛隊の人ってことですか?」


 彼は歩きながら振り返り、さらりと答えた。


「いや、俺はこの時代の人間ではない。大東亜戦争期の軍人の亡霊のようなものだ」

「……ええぇっ!?」


 美咲の驚愕の悲鳴を、しゃあっと車道を通り過ぎる車の音がかき消す。


「でも、だって、手も触れたし、足も付いてるし!」


 びしびしと彼の手や足を指差しながら美咲が言うと、彼は真面目な表情を崩さないまま続けた。


「この身体は、現世のことわりを外れて生き永らえた偽りの肉体に過ぎない。本当の俺は、七十年以上前に死んだ筈だった」


 ムジナが『大人しく死んでてよかったのに』と何気に酷い一言を差し込んでくる。そんなことより彼の言葉が衝撃的すぎて、美咲は息を呑むことしかできなかった。

 歩を止めて美咲に正対し、彼はまたしてもまっすぐ視線を合わせてくる。


「今の俺は、本来居るべきでない時代に間借りしているようなものだ。だから、この時代の人間に極力干渉する気はなかったんだが……さっきは思わず手を出してしまった。君を死の淵に落としたくはなかったから」

「……!」


 その眼差しはどこまでも真剣で、嘘や軽口を言っているようには思えなかった。

 この人なら――

 この人なら信じられる、と、今は理屈抜きでそう思えた。

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