第10話 口頭弁論、開廷
水神からの返事は単純明快だった。とどのつまり、ゼロ回答である。
「ふん。シーズー君、見てみたまえ」
事務所に届いたその書面を白山から無造作に手渡され、志津は中身に目を通してみた。内容証明郵便を出す習慣がないのか、知らないのか、とにかく普通の速達郵便で送られてきている。封筒の宛名も本文も、黒い墨で書かれた直筆だった。末尾には「水神 水上竜一」の署名とともに、ご丁寧に複雑な印影の実印めいたものがでかでかと押されていた。
「ええと……。従業員のカッパ達には既に十分な休みを与えているので、人間界の規則に従って追加の休みなど与えることはできない、とか書いてありますね」
「面白かろう。法定の有給休暇を付与していないことを書面で自白しているわけだ。これだから本人作成の書面は読み応えがある」
白山が眼鏡をきらりと光らせ、皮肉たっぷりに言う。志津が何度も見てきたシチュエーションだった。
ブラック企業の経営者というものは、白山曰く野蛮な自信家が多いので、往々にして弁護士を入れずに本人が回答書面を出してくることがある。そうしたトンチンカンな書面を送ってくる相手は、自ら弱みを晒しているにも等しく、それゆえに
無駄に達筆で読みづらい墨の字をなんとか解読しながら、志津は続きを追った。
「……カッパ達に与えているキュウリは、あくまでその日の作業に必要な食事であって、人間にとっての給与と同じ性質のものではないから、休んだ日の分までキュウリを与える必要はない。したがって、当社としては、従業員を余分に休ませることも、余分にキュウリを与えることもできない。人間と我々は同じではないと理解されたし……ですって。なんかムカつきますね、この書き方」
志津が正直な感想を述べつつ書面を返すと、白山は受け取ったそれを片手で叩いてフンと笑った。
「愚かな。妖怪最高裁とやらが判決を出したという意味も、人間界の労働法を準用することになったという意味も、まるで理解しておらんのだろうな。こうまで司法に真っ向から反抗する書面というのは、人間界でもそうそうお目に掛かれるものではない」
「……それで、どうするんですか?」
「どうもこうもない。相手方から回答が届き、交渉は決裂したのだ。直ちに妖怪の裁判所に提訴するしかあるまい。このクソ経営者が法廷でどんな顔をするか、見ものだな」
仮に小説に書くなら次は開廷のシーンまでジャンプだろうな、と彼が冗談めかして付け加えた言葉に、そうですね、と志津も答えた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「それでは開廷します」
青白いヒトダマを顔の横に浮かべ、幽霊の裁判官が宣言する。
相手方の回答書面が届いてから二週間余り。妖怪最高裁と同じ建物内にある妖怪東京地裁の小さな法廷にて、我らがホワイトウルフにとって初となる妖怪案件の第一回口頭弁論がいよいよ開始された。ここに至るまでには、訴状の提出や期日の決定、原告の三太郎との打ち合わせといった諸々のやりとりがあったのだが、白山の言った通り、仮にこの件を小説にするならざっくり描写をカットされるような部分である。
(ドラマとかだったら、まるでその日の内に裁判が始まったみたいな描写になるもんなぁ)
妖怪の裁判なんて絶対に小説には書けないし、まあいいか……と思いながら、志津は傍聴席の最前列に腰掛け、膝の上に広げたノートにさらさらと状況を書きつけていった。
前方には幽霊の裁判官と、同じく幽霊の書記官。被告側の席には、カイゼル
そして、傍聴席には、学ランとゴーグルの五郎丸をはじめ、居酒屋に集まっていたカッパの若者達がずらりと揃って腰を下ろし、ケロケロと小さく鳴きながら興味深そうに裁判を見守っていた。
「原告は訴状のとおり
「はい」
裁判官が発した僅か四秒ほどの問いに、白山がコンマ数秒の答えを返す。お決まりの光景である。第一回口頭弁論で原告側弁護士がする仕事はこれで終わりだ。……普通なら。
「では、被告は――」
「ま、待て、何だって?」
裁判官が被告席に目を向けるやいなや、ふんぞり返っていた水神は、意表を突かれたとばかりに身を乗り出して声を上げた。
「何だ、今のは? そっちの弁護士は何も言ってないじゃないか」
「あー……」
ヒトダマをふわふわと漂わせ、裁判官が困ったように首を傾げた。
「被告、訴状の内容は見ていますか?」
「ふん、この書類のことか? 何やら人間の勝手な理屈が書いてあるのは見たが、こっちにはこっちの言い分があるんだ」
裁判所から事前に送られた訴状の写しらしきものをバシバシと机に叩き付け、水神は太い指をびしりと白山達に指を向けて言う。
「法律だの有給だのと、若造が勝手なことばかり言いおって。今日はしっかり言い返させてもらうからな!」
「えー……とですね……」
しばらくこめかみを押さえるような仕草を見せてから、裁判官は言った。
「被告は、その『言い返す』内容を、事前に答弁書にまとめて提出して頂かなければならなかったんですが……。提出はされていませんね」
「何だと? 何だ、その答弁書というのは」
「……わかりました、結構です」
何か吹っ切れたような顔で、裁判官は法廷全体を手早く見渡し、なぜか手元にあったハンマーでダンダンと机を叩いて宣言した。
「原告側には不本意でしょうが、ここはひとつ、漫画みたいに口頭で陳述してもらいましょう。どうせ漫画みたいな裁判ですからね」
なるほど、この幽霊さんも大変だな、と志津は思った。
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