第9話 ホワイトウルフ、始動

一平太いっぺいたって河童ヤツは、昔から人間に憧れてたんっす」


 とっぷりと日が暮れた川辺に立ち、人間の姿に化けた三太郎が言った。同じく人間に化け、頭の皿を古びた学生帽で隠した五郎丸も、その隣で寂しそうな顔をしている。

 クーペのボンネットに腰掛けた白山が「ふむ」と相槌を打つ。志津はカッパ二人と弁護士の間に立ち、シリアスな空気を感じ取って唇を結んでいた。


「人間界の労働法が俺っちにも適用されるって決まったとき、アイツ、そりゃあ喜んだんすよ。やっと今の社長の横暴から解放される。俺っちも自由になれるんだ、って」

「この国では、人間の労働者すらも未だ自由を得ているとは言い難いがな」


 白山の皮肉な突っ込みに、カッパ達は苦笑した。


「それで、一平太氏は、独力でクソ経営者に戦いを挑んで犠牲になったわけかね」

「……そうっす。アイツ、人間様の本やドラマに出てくる、有給ってやつに憧れてたんっすよ。俺っちにも工事が忙しくない時期は週一で休みがあるんっすけど、『有給取って遊びに行ってくるわ』って、一度でいいから言ってみてえって」


 その気持ちは志津にもわからないでもなかった。今でこそホワイト・オブ・ホワイトの法律事務所で働かせてもらってはいるものの、それまで志津がいた教育業界では、有給など取れても病気の時くらいが関の山だったのである。

 法律上は全ての労働者に認められているはずの有給取得の権利だが、現実には、有給をいつでも好きに取得できる土壌があるというだけで超絶ホワイト扱いされてしまうのがこの国の実情なのだ。


「アイツ、社長に直談判したんっす。最高裁が決めたんだから、これからは自分達にも有給を取らせてくれって。……そしたら、生意気だって言われて、俺っちへの見せしめなのか、露骨に仕事をキツくされて……。最後は寝不足がたたって、工事中に足を踏み外して、カッパの川流れに……」


 よよよ、と三太郎も五郎丸も泣きだした。


「それは労災ではないか。妖怪労基署が未だ無いのが悔やまれるな」

「一応、一平太の家族には、会社から形ばかりの見舞が出たんっすよ。でも、それだけっす。社長は謝りもしないし、それどころか、『お前らもアイツみたいにならないように気をつけろよ』って、皆に脅しを……」


 涙に詰まる三太郎の言葉に、志津もいたたまれない気持ちになっていると、ふいに横でだんっと乱暴な音がした。見れば、白山がボンネットに腰掛けたまま、車体に拳を押し付けていた。


「断じて許せん」


 彼の声は怒りに震えていた。夜闇の中、町の灯りと月光に照らされて、彼の横顔がきらりと鋭く輝く。その背後に立ち上る熱い炎のような怒りのオーラを、志津は確かに見たような気がした。


「三太郎君、君が俺を頼ってくれたことは俺にとっても僥倖だった。そのような卑劣な輩は、この俺が心胆しんたん寒からしめてやろう。――それと」


 ひらりとボンネットの上から降り立ち、弁護士ホワイトウルフは言った。


「君はそのクソ社長を『人間かぶれ』と言ったな。その認識は改めたまえ。確かに、人間の経営者にも、法を破って汚く利益を追求しようとする者は居る。だが、そういう輩は人間ではあっても人間とは呼ばん。彼奴きゃつらは犬畜生にも劣るクズどもだ。諸君の方が遥かに立派だ」


 彼の言葉に、若き妖怪達は号泣した。


「……でも、センセ、許せないっつっても、会社を潰しちまったら困るっすよ。俺っちは、あそこで働けないと……」

「わかっているとも。安心したまえ。何も、クソ企業を文字通り叩き潰すだけが俺の仕事ではない。やろうではないか、そのクソ経営者の性根をな。それこそが勝利なのだ」


 着手金はゼロ、成功報酬は獲得金額の僅か一割。普通の法律事務所なら絶対に有り得ない条件の契約書を手短に取り交わし、白山はカッパ達に勝利を約して彼らの町を後にする。金属屋根を開けたクーペの助手席で夜風に吹かれ、志津は、この弁護士の全身に満ちる本気の戦意をひしひしと感じていた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 それからの白山の動きは素早かった。夜の内に内容証明郵便の起案きあんを終えたらしい彼は、それを電子サービスで千曲ちくま工務店の社長宛に発信し、志津が翌日出勤したときには既に相手方からの返事を待つばかりとなっていた。


「妖怪の会社って、郵便はちゃんと届くんですかね」

「人間界と関わるときには人間の会社のように見える、と言われていたからな。まあ、どうにかなるのだろうよ。内容証明が届かないなら妖怪の裁判所とやらに直接提訴するだけだ」


 白山はこともなげに言い、この件については当面意識する必要はないとばかりに、他の案件の書面対応を凄まじい速度でこなし始めた。

 弁護士も法律事務員パラリーガルも、一つの事件ばかりに掛かりきりになっているわけにはいかない。志津が白山の仕事ぶりを小説にあらわす際にいつも難儀するところである。ドラマの弁護士モノなどでは、ある事件を受任したら解決までずっとその事件の対応ばかりしているように描写されることも少なくないが、実際の弁護士はいくつもの事件を並行して処理しているのだ。


「志津ちゃん。昨日の依頼者さんってやっぱり妖怪だったの?」


 向かいのミドリさんが仕事の手を動かしながら小声で聞いてきた。そうなんです、と答えながらも、志津は彼女がいやに落ち着いているのが気になった。

 普通、妖怪だの何だのという荒唐無稽な話を聞かされたら、もっと疑うなり驚くなりするものではないだろうか?


「まあ、そんなとこじゃないかなとは思ってたのよ」

「びっくりしないんですか?」

「あたしの地元は田舎だったからねえ。カッパとか座敷ざしき童子わらしとか、普通に居たものよ。まあ、大人になったら見えなくなっちゃったんだけど」

「ええぇ……」


 あっけらかんと言ってのけた先輩のおばさんの言葉に、志津のほうが目を丸くすることになった。


 どうやら妖怪というのは、都会育ちの志津が思っていた以上に、人間の世界と近いところに存在しているものらしい。

 27年生きてきた世界の常識を僅か一日二日でひっくり返されてしまい、夢と現実の狭間を漂うような不思議な感覚を抱えたまま、それでも志津は変わりなく日々の仕事や執筆に励んだ。人間の依頼者から持ち込まれる案件だって、カッパ以上に奇々怪々なシチュエーションのものが決して少なくはない。

 そして、そうこうしている内に、はや一週間が過ぎ――

 ようやく、カッパ達の雇い主である水神から、返事が来たのである。

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