第2話 カッパ(比喩)からの電話

 聞き慣れたが事務所に鳴り響いたとき、志津しづはちょうど書類のファイリングを終えて一息いたところだった。

 依頼者の苦しむ時間を一秒たりとも伸ばしてはならないとの白山しろやま白狼はくろうの教えに従い、志津は光の速さで受話器を取る。法律事務員パラリーガルとして働き始めて丸二年、向かいの席に座るベテランのミドリさんにはまだまだ業務の質も効率も及ばないが、電話への反射神経だけは若さの特権で彼女を追い抜いている自負があった。


「はい。ホワイトウルフ法律事務所です」


 素の自分とは似ても似つかないウグイス嬢のような声を作るのも、もはや慣れたもの。

 これがホワイトウルフ法律事務所の電話応対だ、どうだ参ったか、と志津が心の中でふふんと胸を張ったとき、受話器を通じて耳に飛び込んできたのは、今にも消え入りそうな男性の声だった。


『どうも、河辺かわべ山中やまなか法律事務所の河辺と申します……。あの、白山先生はご在所でしょうか』


 依頼者ではなく同業者からの電話だ。水れを起こした河童カッパのような、なんとも頼りない声。


「申し訳ありません、あいにく白山は外出中でして……」


 手元にメモを引き寄せながら、ふと志津は考える。この、どこかうだつの上がらなそうな声。この声の主を自分は知っているような気がする。弁護士で河辺というと、確か……。


「あっ!」


 脳内にの姿が蘇り、志津は思わず声を上げていた。


「あの、河辺先生って、西進せいしんサテライト予備校の顧問弁護士の河辺先生ですか?」

『え、ええ、確かにその河辺でして……。そちらの先生とは、以前、その件でお目に掛かりましたが、今日は別件でして……』

「あー、やっぱり! わたし、その時の当事者の不動ふどうです。覚えていらっしゃいますか」


 あの独特の風貌は忘れようにも忘れられない。痩せぎすな風采ふうさいに尖った唇、皿のような形のハゲが目立つ中年の男性。志津のかつての勤め先、西進サテライト予備校の顧問弁護士を務めるあの河辺氏だ。


『……あぁ、あなた、あの時の? そりゃあもう、覚えてますよ、あなたは強烈でしたからね……。……おや、しかし、今はそちらにお勤めだったんですか』

「ええ、あの時の縁で、この事務所に拾ってもらいまして。……その節はご面倒をお掛けしました」


 志津が電話口で小さく頭を下げると、向かいでミドリさんがくすりと笑った。


『いやいや、面倒なんて。仕事ですから……。……あの、白山先生は、今日はお戻りになりますかね』


 河辺氏の言葉でようやく本題に立ち返り、志津はパソコンのサブディスプレイに表示された白山のGoogleカレンダーを見る。地裁ちさいでの弁論べんろん期日きじつは午前で終わるはずだった。午後は相談者の予約もまだ入っていない。


「本日の午後でしたら在所しております」

『そうですか。……実はですね、労働法の関係で、ちょっと変わった依頼者さんが見えられてまして……。正直、私の方では手に負えない感じでして、それで白山先生の方で相談に乗ってあげて頂けないかと思いまして……』

「はぁ。ブラック企業絡みですか?」


 最近よくあるパターンだな、と志津は思いながら、メモにひとまず河辺氏の名前を書きつけた。

 河辺氏は別段、白山と提携関係にあるわけではないはずだが、他所の弁護士がこの事務所に話を回してくるのは最早珍しいことではない。雷通らいつうの巨悪に正義のメスを入れた昨年の大活躍と、志津の小説での紹介が相まって、「対ブラック企業の最終兵器」としての白山の人気と知名度は今やうなぎ登りだからだ。


『そうですね……。有給の話なんですが……なにぶん特殊な労働者さんでして、私の方では、どうにも……』


 そして、ブラック企業の殲滅せんめつを心に誓う我らがホワイトウルフが、他所の弁護士がさじを投げた事案の救済に、寸暇すんかを惜しまず力を尽くしていることは言うまでもない。


「本日のご来所をご希望でしたら、14時以降でお約束させて頂ければと思いますが」


 志津がそう伝えると、河辺氏はほんの10秒ばかり電話を保留にしたかと思うと、すぐに「では14時にそちらへ行ってもらうようにします」と回答してきた。どうやら、今まさに河辺の事務所にその依頼者が居たらしい。

 電話を終え、白山のGoogleカレンダーに予定を突っ込み、事務所用のスマホで彼にラインを打ってから、志津は考える。河辺氏が言っていた「特殊な労働者」とは、一体どういうことだろう?


「ミドリさん。今、河辺先生が『特殊な労働者』って言ってたんですけど……」

「特殊? 外国人とかかしらねえ?」


 熟練の先輩事務員は僅かに首を傾げるだけだった。

 まあいいか、来ればわかる――。一旦今の電話のことを頭の片隅に追いやり、志津は次の仕事のファイルを開いた。

 くだんの依頼者が来たら、せいぜい相談の模様を見て勉強させてもらおう。守秘義務があるので、その人の事案をそっくりそのまま小説に出すことはできないが、何かのネタにはなるかもしれない。


 ……だが、この時の彼女には、全く思いもよらなかったのだ。

 カッパ(比喩)に紹介されてこの事務所の門を叩くのが、まさか、であろうとは……。

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