第12話 騎士と娘、食卓を囲む。

 許嫁いいなずけが異世界に行ってしまった――と。作り笑いを交えて告げたトモエに、私はしばし言葉を返すことができなかった。

 翻訳魔法が「異国」「異境」あたりの語彙を取り違えたわけではあるまい。劇か読み物か何か知らぬが、異世界転移を題材にした「ライトノベル」とやらいうものの話をしていた直後の発言なのだから、「異世界に行った」とは文字通り異世界転移のことを指しているのであろう。

 何より、彼女の黒い瞳が、隠しきれぬ寂しさの色を含んでいたことを見抜けぬ私ではない。


「ハイ、茹で時間7分。いい感じのアルデンテですよー」


 平静さを取り繕うように声を弾ませ、トモエは手早く麺を湯切りしている。

 彼女は二人分の深皿にそれぞれ麺を盛ると、何やらトマトの絵が描かれた缶を開け、瞬く間にパスタを完成させてしまった。あの缶の中にあらかじめ作られたソースが密封されていたとみえる。缶切りを使った様子もなかったが、どのような仕組みで缶が開いたのか、細部を気にしているとキリがなさそうだった。

 それより何より、今気にするべきは、トモエの婚約者の件ではないか。


其方そなた――」

「まあまあまあ、ホラ、まずはご飯食べましょうよっ」


 トモエは有無を言わせぬ笑顔で私の言葉を遮ってきた。粉末に熱湯を注いで数秒で仕立てたスープとともに、彼女はパスタの皿を卓上に置く。続いて、彼女は縦長の貯蔵庫のような場所から透明のボトルに入った赤色の飲み物を取り出し、二人分の硝子ガラスのグラスにその中身を注いだ。


「酒か?」

「野菜ジュースです。健康にいいですよー」


 グラスを卓上に置き、にこりと私に笑いかけてくる娘。私は一つ息を吐き、どうやら今は食事を楽しむしかなさそうだと悟った。

 促されるがまま、私は剣帯ホルスターを外してつるぎを傍らの壁に立てかけ、トモエと向き合う形で食卓に就いた。数人掛けとみえるテーブルは、屋敷の暮らしに慣れた私には極端に狭く、どうにも落ち着かない。


其方そなたらは不思議な民族だな。庶民の家にレースのカーテンを掛けるほどの豊かさを持ちながら、何故、家を広くする方向には進まなかったのだ」

「んー、東京は土地が高いですからねー。都会のお家はどこもこんなものですよ」


 トモエはそのように答えたあと、胸の前で両手を合わせ、「いただきます」と食前の祈りらしき言葉を口にした。私も右手でしるしを切り、神への感謝を胸の内で述べる。目の前のかては、我が世界の神が与えたもうたものではないのかもしれないが。


「……ふむ」


 我が世界の人間が初めて経験する異世界の食事である。いざ食してみると、トモエの茹でたパスタの味は、我が屋敷の料理人が作るものと遜色なかった。付け合わせのポタージュスープも、粉を湯でいて作ったとは思えぬほどの美味である。何より驚いたのは、グラスに注がれた飲み物の、雪のような冷たさであった。

 私がその冷たさに仰天して目を見開いた瞬間、トモエは楽しげに口元をにやりとさせた。私にはもう分かる。あれは文明の利器を私に自慢したがっている顔だ。


「待て、当ててみせよう。あの貯蔵庫が人工の冷気に満たされているのであろう。何も無いところから水を出し、瞬時に火を起こせる其方そなたらのことだ、水や火のみならず冷気の属性エレメントを操るすべも持ち合わせているのに違いない」

「あー……うん、まあ、そうなんですけどね……。スゴイなぁ、発想の方向性が完全に魔法側の人だもん」

「なんだ、魔法側の人とは」


 彼女の言い回しの意図はよく分からぬが、こちらの世界ではものことわりの捉え方も我々とは違うのであろう。

 ふと見ると、例によって黒猫が物欲しそうにこちらを見上げていたが、次に餌をやるのは夕刻だとトモエは言っていた筈だ。元来、猫が獲物をるのは朝夕と決まっている。この世界でも流石にそれは変わるまい。


「アルスターさんは、ご結婚は?」


 猫に気を取られていた私の隙を突くように、トモエはふいに尋ねてきた。私はパスタを咀嚼そしゃくし飲み込んでから答える。


「まだだ。かねて許嫁いいなずけはあったのだが、疫病で夭逝ようせいしてしまってな。以来、良縁のなきまま今に至っている」


 私はただ事実を述べただけだったのだが、彼女はたちまち申し訳無さそうな顔になって、「ごめんなさい、辛いことを」などと謝ってきた。


「構わんよ。幼少のみぎりに一度顔を合わせただけの相手だ。無論、その死をいたみはしたが、それももう三年も前のことだ」

「三年前って……十八歳ですよね。今のわたしと同じ歳で、もう、そんな……」

「よくあることだ。当家は幸いにも王立魔術院の加護を受けられる立場にあったが、並の貴族の家では、子の半数近くが成人する前に死ぬのは珍しいことではない。そうしたことを珍しく感じるのであれば、其方そなたらの世界は恵まれているのであろうよ」

「……そうですよね……」


 彼女は私の予想を遥かに超えて暗い顔をしていた。彼女に要らぬ衝撃を与えてしまったかと私が思ったのも束の間、彼女は目を伏せてこんなことを言った。


「あの人……無事に生きてるかなあ」


 それが異世界に行ってしまったという彼女の婚約者のことを指しているのは、今や容易に察せられた。


其方そなたの婚約者は、いつ頃、異世界転移したのだ?」


 私が問うと、彼女は目を上げた。


「……異世界に行ったって決まったわけじゃないんですよ。まさかそんな、ラノベみたいなことが現実にあるなんて、あなたと会うまでわたしも信じられなかったですし。……でも、あの人は、半年くらい前にいきなり行方不明になって……。居なくなる最後の日、わたしの夢に出てきて言ったんです。異世界を救ってくる、とかなんとか」

「ふむ……」


 冗談を言っている目には見えなかった。半年前といえば、ちょうど、王立魔術院の魔術師達が異世界召喚術をいにしえの伝説から復活させ、「勇者」の召喚を試み始めた頃と一致する。

 それにしても、これまでに我が世界に転移してきた幾人もの「ガチャの外れ」達の中に、まさかトモエの婚約者が居たとは、出来すぎた偶然の巡り合わせに驚かされる。いや、その彼を案じるトモエの心があったればこそ、魔法陣は私を彼女のもとに飛ばしたのかもしれぬが。

 ひとまず、トモエの婚約者というのが、僅か六時間ばかり前に私を次元の渦に叩き込んだあの若者ではなかったことが判り、私は少しばかり安心した。異世界の庶民が誰と夫婦めおとになろうと私の知ったことではないが、そうは言っても、あのような軽薄な者とこの娘とではあまりに釣り合うまい。


「案ずるな。私の知る限り、これまで我が世界に転移してきた者達が死んだり傷付いたという話は聞いたことがない。どういう理屈かは知らぬが、彼らは転移に伴って『チート』とやらいう強力無比な魔法の力を開花させるようであるしな」

「……ほんとにあるんですね、チートって」


 私の言葉に安心したのか、トモエの顔に僅かながら笑みが戻った。


「……わたしもね、まだそんなにその人と親しかったわけじゃないんですよ。二人きりで会ったこともないですし。アルスターさんの世界と同じで、許嫁いいなずけっていうのも、お祖父ちゃんとお友達が勝手に言ってたことで……」


 勝手にも何も、婚約とは本来そうしたものではないのか……などと私は思ったが、一旦は黙って彼女の話を聞くことにする。


「……でも、わたし、その人のスーツを作ってたんです。春から就職するっていうので、彼の親御さんにお願いされて。それは彼の初めての仕立て服になるはずで……わたしにとっても、お祖父ちゃんが亡くなってから、初めて一人で請けるお仕事になるはずでした」

「……その完成を待たずして、その男はこの世界から姿を消してしまったわけか」


 トモエは静かに頷いた。また彼女の顔が寂しさに染まるのではないかと私は案じたが、予想に反して、彼女の目には前向きな光が宿っていた。


「アルスターさんが来てくれたことで、わたし、確信が持てました。彼はほんとに異世界にいるんですよ。アルスターさんがこっちに来れたってことは、彼が戻ってくる手段もあるってことですよね?」

「……まあ、理屈の上ではそういうことになるな」


 魔術師達の説明を思い出しながら私は答えた。現に「クーリングオフ」とやらの原理で私がこちらの世界に来たのであるから、今後、トモエの婚約者をこちらに送り返すことも出来るということになろう。

 などと考えていると、トモエは調子を取り戻したのか、目をぎらりと輝かせて言った。


「実はね、さっきのお客さんと同じで、その人も、仕立て服なんか要らないってずっと言ってたんです。わたし、それが悔しくて」

「ふむ?」

「彼が戻ってきたら、完成したスーツを叩き付けてやります。仕立て服の良さを分からせてあげなきゃ」

「……なるほど」


 彼女と出会って半日も経たぬ私であるが、この鋭い戦意に満ちたような視線こそが彼女には似合っていると、何故だか思えたのだった。

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