第10話 異世界の騎士、若者の本音を聞く。

「最後の遺伝子……か」


 若者が読み上げたその言葉を私が呟き返した、まさにその時、神速で針を運んでいたトモエの手がぴたりと止まった。


「――こんなところですね」


 彼女はこちらへ振り向くと同時に、姿形の作り変えられたスーツを両手で広げて見せてくる。黒無地の生地きじの至るところで仮縫かりぬいの糸が静かな主張を放っているが、全体の「シルエット」は、手を加える前とは大きく異なり、鋭角的な肩と、すらりとした胴のくびれを持つ、軽快な形状へと生まれ変わっていた。


「なんと……」

「スゲエ。マジ、ヤベエって」


 翻訳魔法をもってしても意味の分からぬことを言い立てながら、若者がスマートフォンを放り出してソファから立ち上がる。早くそれを着せてみろと言わんばかりの勢いで。


「ハイ。羽織ってみてください」


 トモエはスーツを広げて若者の背後に回り、自然な手付きで袖を通させた。決して軽くはない筈のその生地が、風をはらんだようにふわりと若者の背に被さるのを私は見た。


「……マジかよ」

「どうですか、着心地きごこちは」


 髪を揺らしてふふっと微笑んでみせるトモエに、若者は興奮気味に答える。


「すげえよ、ぴったり合ってんじゃん。なんか、形もマジでシュッとしてて格好いいし」

「まだまだ調整は入りますけどね。お喜び頂けて何よりです」


 言いながら、トモエは若者の纏ったスーツの肩周りや腰周りを軽く指でつまみ、何かの数値を傍の用紙に書き付けていった。


「これはあくまで仮縫いですから。仕上がりは、着心地も見た目ももっと良くなりますよ」

「いや、今の時点で十分スゲーんだけど……」


 つい先程まで父親の服の仕立て直しなど嫌だと吐き捨てていた若者の目は、今や完全にトモエの神業に魅了されている。

 婦人がにこにこと笑って私に話しかけてきた。あの子、凄いでしょ、と。


「アナタのお国の職人さんにも負けてないかもしれないわねえ」

「……そうかもしれんな」


 私は婦人の意見を否定する言葉を持たなかった。私の知る職人達とは作る服の種類が違うとはいえ、彼女の恐るべき手腕は私が二度にわたり目にした通りだ。目を見張るほどの運針の速さ、その作業の精密さ、何より熟練の経験なくしてし得るとは思えぬの良さ。一度しくじれば終わりである筈の裁断や縫製を、彼女は微塵の躊躇も見せずにやってのけるのだ。これほどの若さでそこまでの境地に至れるとは、一体どのような鍛錬を積んできたのか想像もつかぬ。


「じゃあ、次はズボン行きますねー」


 仮縫いの上着ジャケットを若者から受け取り、ハンガーに吊るすと、トモエは再び作業机に向かった。布を見下ろすその横顔は鋭いやいばを思わせる静謐せいひつな迫力に満ちており、とても十七、八かそこらの娘には見えなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「じゃあ、七日後までには仕上げますね。仕上がったらご連絡差し上げます」

「よろしくね、巴ちゃん」


 太った婦人は、クレジットカードとやらいう物で料金を先払いすると、預かり票を受け取り、頬の肉を揺らしてにこにこと笑っていた。婦人と向き合って立つトモエの顔にも満面の笑みが浮かんでいるであろうことは、彼女の小柄な背中を見れば分かった。


「楽しみにしててくださいねっ」


 トモエはぴょこりと髪を揺らして身を乗り出し、婦人の後ろに立つ息子に声を掛けていた。若者は気恥ずかしさを取り繕うかのように、パーカーの頭巾フードで己の頭を覆う。


「……大学の入学式の時、マジでオヤジ臭いスーツを着てきてたヤツがいてさ」

「え?」


 もう店を後にしようという時になって、若者は頭巾フードから伸びる紐をもてあそびながら、何やら述懐を始めた。


「ソイツが、同じサークルの新歓しんかんにその格好のまま来ててさ。それこそ親のお下がりだったらしいんだけど、裏ですっげー笑われてたんだよ。ダボダボのダッセぇスーツってさ。……それが頭にあったからさ、オヤジのスーツなんか絶対嫌だって思ってたんだけど」


 若者が操る語彙の全ては私には分からぬが、ものが落ちたかのような彼の顔は、私にも印象的だった。


「あんなに格好良く出来るんだな。すげーよ、あんた」

「わたしが凄いんじゃないですよ。先人達が蓄積してくれた仕立ての技術のせるわざです」


 トモエの控えめに微笑む声が私の耳にも届く。そこで婦人が息子に顔を向けた。


「アンタ、感心するのはいいけど、巴ちゃんに惚れたりしたらダメよ。巴ちゃんには決まったお相手がいるんだからね」

「あ!? 何だよそれ。誰もそんな話してねーじゃん」


 慌てたように目を逸らす若者を横目に、婦人はにまりと笑ってトモエに問う。


「どうなの、その後、許嫁いいなずけさんとは順調なの」

「あ……えっと、まあ、ボチボチです」

「早く天国のお祖父ちゃんに晴れ姿を見せてあげなきゃねえ」


 婦人は呑気に笑っているが、トモエの声に僅かにかげりが指したのを私の耳は聞き逃さなかった。彼女の年齢なら婚約者が居ても何らおかしくはないが、今の彼女の反応からは、客人の手前、何かを取り繕うような裏を感じたのだ。


「ありがとうございましたー」


 頭を下げて親子を見送り、鈴の音とともに入口の扉を閉めてから、トモエは軽く伸びをしながら店の奥へと戻ってきた。


「ふぅ。疲れましたねー。あ、もう一時だ」


 時計を見上げて彼女は言う。張り詰めていた意識の糸が緩んだのか、くう、と彼女の腹が飯時を訴えていた。


「お昼にしなきゃ。アルスターさんも食べて行きます? ……ていうか、そういえば、泊まるところのアテとかあるんですか?」

「……いや」


 不意打ちのような彼女の一言で、私は己の置かれた状況のことに思考を引き戻された。

 そうだ、私は、この勝手の知れない世界で三十日間を耐え忍ぶ手段を探さねばならないのだ。この娘の仕立ての技術に驚かされてばかりいる場合ではない。


「とりあえず、パスタか何か作りますよ。お店の上が住居になってるんです」


 足元に寄ってくる黒猫を抱き上げながら、彼女は言った。

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