第9話 異世界の騎士、再び神業を見る。

 一世代前のスーツを現代風に生まれ変わらせてみせると宣言したトモエの、自信に満ちたその瞳は、若者の腰を浮かせるのには十分だった。


「ちょ、ちょっと、待ってくれよ」


 若者はソファから立ち上がり、壁に架かった父親のスーツを指差して言う。


「そんなこと出来んの? そのダサいスーツを今風に作り変えるなんてさ」

「既製服だったら無理でしょうね。でも、仕立て服なら出来ますよ」


 トモエは余裕を湛えた表情で言い、吊るされたスーツの裾を片手でめくり上げてみせる。


「フルオーダーの仕立て服は、お客様の体型の変化に合わせて仕立て直しが出来るように、布の大きさを工夫して裁断してあるんです。まあ、デザインラインをがらっと変えちゃうほどの直しは、普通はしないですけど……。でも、大きくゆったりした80年代のシルエットから、今風のシャープなシルエットへの作り変えなら、十分対応できますよ。……奥様も、それを分かって持ってきて下さったんですよね?」


 話を振られ、婦人は顔の前で手を振りながら笑った。


「あはは、やーねえ、あたしにそんな難しいこと分かんないわよ。あたしはただ、巴ちゃんなら何でも出来ると思っただけ」

「何でもは出来ませんよぉ。お祖父ちゃんが教えてくれたことだけです」


 トモエは照れ隠しのように笑っている。若者はまだ半信半疑の顔をしているが、私には、先程の彼女の説明は納得できるものだった。

 体型の変化に伴って服を仕立て直すのは、我が世界でも珍しいことではない。上流階級となれば一人で幾十幾百もの服を所有しているものだが、それは一着一着を大事にしないことを意味するわけではないのだ。気に入った服は何度も職人に預けて仕立て直し、長年にわたり愛用するのが、真の貴人のたしなみというものである。


「いいですか? わたしに任せてもらっても」

「あ……ああ。本当にシュッとした感じに出来るんなら」


 トモエの纏う空気に飲まれたのか、若者は遂に彼女に仕事をさせることを承諾したようだった。

 奥様はそちらでお待ちください、と婦人に笑顔で告げてから、トモエは若者を作業机のそばに招き、上着を脱ぐよう促した。先程、私に対しては、目分量めぶんりょう上着ジャケットを身体に合わせるという離れ業を披露してみせた彼女だが、流石に正式な仕事とあらば採寸はきちんと行うらしい。

 若者の紺色の「パーカー」を預かり、ハンガーに吊るして、トモエは巻尺メジャーを手にする。

 あまりに堂に入ったその流れに、客である若者の方が何故かごくりと緊張に息を呑んでいた。


「では、寸法頂戴いたします」


 予想は付いていたことではあるが、瞬きを忘れるほどの見事な採寸の手際だった。トモエは寸分の迷いもない手付きで巻尺メジャーを若者の身体に当てては、傍らの用紙に筆記具ですらすらと寸法を書いていく。胸囲、胴囲、腰囲、首周り、肩幅、袖丈、左右の微妙な違いに至るまで、人ひとりの体格を精密に微分びぶんするかのように、立体が数字に置き換えられていくのだ。

 我が世界でも、採寸の手際を見れば職人の技量が判ると言うが、トモエのそれは、我が公爵家に出入りする熟練の職人達に優るとも劣らぬ一流の動き。余裕を含んだ動作と無駄のない速さを両立させたその手際は、とても仕事を覚えて一年や二年というような領域ではない。


「ハイ、ありがとうございました。……じゃあ、早く完成図をイメージしたいでしょうから、この場で仮縫かりぬいまでパパっとやっちゃいましょう。少しお掛けになってお待ちくださいね」


 あっという間に採寸を終えたトモエは、若者にソファに座るよう示し、彼の父親の古いスーツを作業机に広げた。

 馬の尾のような黒髪を揺らし、彼女は作業机の椅子にすとんと腰を下ろす。その真剣な横顔が、机上に広げたスーツをじっと見下ろしている。


「こら、アンタ、こんな時にスマホなんか」

「ちょっとツイッターで呟くだけだよ」


 見れば、若者はこの世界特有のスマートフォンという道具を手元に取り出しながらも、トモエの様子にもちらちらと目をやっていた。


「マジでバッチリ格好いいスーツが出来るんならさ、ツイートしときたいじゃん。今の採寸とかさ、割と手際凄くてヤバかったし――」


 軽い雰囲気で何やら喋っていた若者の言葉が、ふいに止まった。


「――!?」


 その目がスマートフォンを離れ、釘付けになっている。縫目切りスティッチリッパーと針糸を手に、凄まじい速さでスーツを作り変え始めたトモエの姿に。


「……何だよ、あれ……!」


 左手のリッパーが迷いのない太刀筋たちすじで縫製を解き、右手の針がいかずちの如く布を新たな位置に縫い止める。残影すら残さぬその手際は、私が身をもって体験したあの神業と同じ――。

 速さもさることながら、真に恐るべきはその作業の精密さに他ならない。上襟うわえり後身頃うしろみごろの縫製が切り離され、首周りが瞬時に若者の身体に合わせた形に繋ぎ直される。脇の縫い目や背部の中心線が瞬く間に解かれ、服の胴囲がたちまち詰められる。仕立て直しの難所である筈の肩周りまでもが、いとも容易く分解され、肩幅も袖刳りアームホールも全く別の形に作り変えられる。

 錬金術師がなまりきんに変えるかの如く、トモエが腕を一振りするたび、古いスーツが姿を変えていくのだ。


「マジかよ……」


 若者が口をあんぐりと開けて呟いた。私もまた、眼前で繰り広げられる人智を超えた技に驚愕を隠せなかった。


「巴ちゃんも凄いけど、あの子のお祖父ちゃんは、あんなもんじゃなかったのよ。お母さんも一度見たことあるけど……」

「いや、マジ、ヤベエって。何だよあの子」


 若者の使う語彙が分からずとも、彼の驚嘆の度合いは私にもありありと伝わってきた。


「だからアンタ、せっかくこんな神業で作られたスーツを着れるんだから、感謝しなさいよ。工場の大量生産品なんかとはワケが違うのよ」


 婦人が得意気とくいげに息子に言い聞かせるのを耳にして、私は思わず彼女に尋ねていた。


「御婦人。この店の先代は、それほどまでに優れた職人であったのか」

「ええ、そうよぉ。なんでも、スーツの本場のイタリアで修行を積まれたらしくてね。日本の着道楽きどうらくの間では名の知れた職人さんだったわよ。……あら、そういえばアナタ、あの方のお知り合いのお孫さんとかじゃなかったのね」


 私は黙って頷いた。

 未だ目を見開いたままの若者に向かって、婦人は言う。


「アンタ、スマホいじるんなら検索してみなさいよ。巴ちゃんの名前」

「へ……?」


 自分がそれを持っていたことを初めて思い出したかのように、若者はスマートフォンの画面に指を触れさせた。神速の仮縫いを続けるトモエから目を離すのが惜しいのか、彼はスマートフォンを顔の高さまで持ち上げ、彼女の姿を視界に収めながらそれを操作していた。


「……うわ。ヤッベ」


 画面に映った何かを見て、若者は興奮した声を上げた。その内容が気になり、私もソファの後ろに回って彼の画面を覗き込んだ。

 以前、転移者の一人がスマートフォンを見せびらかしてきたことがあるので、この世界に写真なるものが存在するのは私も知っている。

 若者が持つ画面に映し出されているのは、微笑を湛えたトモエの写真と、その下に並ぶ無数の文章であった。私に読めるのは、見出し文らしき一行の中の「巴」という字だけである。


「何と書いてあるのだ?」

「仕立て職人『最後の遺伝子』、市松巴……」


 若者の震える声が、その文章の筆者が彼女に寄せた賛辞の度合いを物語っていた。

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