第8話 異世界の騎士、時代を知る。

 ふてぶてしくソファで足を組み、父親の服の仕立て直しは恥であると吐き捨てた生意気な若者。

 彼の言葉が店内を微妙な空気に変える中、黒猫が私の足元でみゃう、と鳴く。物欲しそうな猫の目が気になって、私はトモエに向かって尋ねる。


「猫に餌をやらなくていいのか」

「あ、いいんです、ネロちゃんのご飯は朝と夕方だから」


 トモエはさらりと言った。なるほど、この猫め、初対面の私ならば普段の取り決め以上に餌を恵んでくれるのではないかと思って甘えているのだな。

 ひとまず猫から意識を離し、私はソファに座った若者の前に歩み出た。若者は精一杯の突っ張りを込めたような視線で、何だよ、と呟きながら私を見上げてくる。


其方そなたは何が気に入らんのだ。確かに一から仕立てるよりは物足りぬかもしれんが、あまり我儘わがままを言って御母上を困らせるものではなかろう」


 私が若者に向かって言うと、太った母親は何やら遠慮めいた相槌あいづちを打ってきたが、肝心の本人は相変わらず生意気な目をして舌打ちするだけであった。


「だから、何なんだよ。あんたには関係ねーだろ」

如何いかにも私には関係ないが、其方そなたの態度が気に入らぬ」

「まあまあまあ!」


 トモエが慌てた顔で私と若者の間に滑り込んでくる。


「えっと、とりあえず、ほら、お父さんのスーツ見てみましょうよ。ウチのお祖父ちゃんの仕立てだから、ちゃんとした仕事ですよ」

「そう、そうなのよぉ」


 トモエの言葉に迎合するように、ぱん、と母親が手を合わせた。

 トモエは先程若者から受け取っていた薄いを開け、二つ折りにされていた服をあらわにする。それは私が今着ている上着ジャケットと似た、黒無地のスーツだった。上着ジャケットズボントラウザースが一つのハンガーに吊られ、ハンガーの上部には荷物としての持ち手が一体化しているという構造である。


「わぁ。ちゃんと手入れしてくれてたんですね」


 スーツを一目見るや、トモエはそう言って口元をほころばせた。


「そうよぉ。虫食いなんかで潰しちゃったら勿体ないでしょ。あの人が一番大事にしてたスーツだし、今となっては貴重な市松いちまつたくみさんの仕立てですもんねえ」

「お祖父ちゃんも喜んでますよ」


 手元でスーツを広げて婦人と笑い合うトモエの様子を見やり、私は二人の会話を咀嚼そしゃくする。イチマツ・タクミというのがトモエの祖父の名であろう。トモエの祖父が故人であることは既に聞いていた通りだが、話の流れからして、婦人の夫、即ち目の前の生意気な若者の父親もまた、既に鬼籍きせきに入っているようであるな。


「これ、あの人が部長になった時に張り切って仕立てたスーツでねえ。クローゼットで眠らせとくのもアレだから、この子に着せようと思って持ってきたのよ。市松さんのスーツを仕立て直せるのは巴ちゃんだけだしね」

「嬉しいです。長く使ってもらえるのは職人の一番の喜びですから」


 と、婦人とトモエがせっかく良い雰囲気で盛り上がっているところへ、またしても水を差したのは息子である。


「だからさぁ。いつの時代だよ、それ。そんな古臭いスーツ着るくらいなら、普通に『クロキ』とかでいいんだって」

「こら、アンタ、いい加減にしなさいって。巴ちゃんに失礼でしょ」

「やー、わたしは別に……。一世代前の仕立てなのは事実ですし」


 そのまま私が様子を見ていると、トモエは親子や私にもよく見えるように、正面の壁にそのスーツを吊るした。そして、彼女は下唇に軽く指を当て、言う。


「うーん。確かに、今見るとダサいですよねー、このシルエット」

「え?」


 太った婦人が目を丸くした。生意気な若者さえも、目をしばたかせてトモエの顔を見た。


「お祖父ちゃんがこれを仕立てたの、80年代の終わり頃ですよね……。シルエットが全体的に丸くゆったりしてるでしょ? イタリアの『ソフトスーツ』の流れを汲んで、バブルの頃はこういうスーツが日本でも流行ってたんですよ」


 ふむ。トモエの言う「シルエット」とは「全体の形状」といった意味であろうか。イタリアというのは国名か地名、バブルというのは特定の時代の名称であろうな。


「へえ……。さすが、詳しいのねえ。巴ちゃんが生まれる前のことなのに」


 婦人の驚嘆の声に「ふふ」と律儀にはにかんでから、トモエは吊るしたスーツの肩を軽くつまみ上げ、説明を続ける。


「ホラ、肩周りは厚くて広いんですけど、肩パッドは柔らかいんですよ。これ、婦人服と同じ素材をわざと使って、軽さを演出してるんですよね。それから、ズボンも……」


 我々が黙って聞き入る中、彼女は上着ジャケットの内側に吊るされたズボントラウザースをハンガーから外し、両手で広げてみせた。


「それまでの時代のスーツと比べて、股上が深めになってるでしょう。ペッグトップ型っていうんですけど、プリーツが多めに入って、こう、裾に向かって絞り込まれていくような形が特徴的なんです」


 ズボンを作業机の上にふわりと寝かせるように置き、「でも」と彼女は若者の顔を見て言う。


「ズボンはともかく、このジャケットの形は、若い世代には『おじさんのダボっとしたスーツ』に見えちゃうんですよね」

「あ……ああ。そういうこと。よく分かってんじゃん。そんなダサいスーツ、俺らの世代が着るモンじゃねーんだよ」


 若者は組んでいた足を解き、身を乗り出すような姿勢でトモエを見返していた。心なしか、その双眸そうぼうに期待の色が混ざり始めているのを私は察していた。


「分かりますよ。スーツは時代を映す鏡ですから」


 トモエはにこりと笑って、母親と息子、そして私に次々と視線を向け、「じゃあ」と切り出す。


「今から、このスーツを今風に生まれ変わらせましょう。仕立ての技の真髄をお見せしますよ」


 娘の瞳が、窓から差し込む陽光を受けてきらりと閃いた。

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