第3話 異世界の騎士、暴漢を退ける。

「オラ、どけっつってんだろが、ガイジンさんよぉ」


 語気を荒げる大柄な男の声を適当に聞き流し、私はこの店の娘の目をしかと見る。娘は店の床にへたり込んで黒猫を抱き、その華奢な肩を震わせたまま、怯えた瞳で私に訴えていた。

 即ち――行かないで、と。助けて、と。


「ふむ。どうしたものか――」


 私は大柄な男と細身の男の二人組を再びちらりと見て、無意識に口元に手を当てていた。この男共を力ずくで退けることなど容易いが、勝手も分からぬこの世界で、部外者の私が軽々に他人の問題に首を突っ込んでよいものか。助けを求める娘に手を差し伸べることは正しい行いであろうが、己の領分りょうぶんわきまえることもまた、貴族紳士にとって大事な教えの一つであるからして……。


「スカしてんじゃねぇぞ、野郎! 痛い目に遭いてえか?」


 と、大柄な男がこれまでにも勝る大声を出したかと思うと、筋骨隆々のその手で私の胸倉をがしりと掴み、至近距離に顔を近付けて睨みを利かせてきた。


「!」


 地上げ屋か借金取りか知らぬが、下賤げせんの者如きが我が装束に手を掛けるとは無礼な!

 何かを考えるより先に身体が動いてしまった。一瞬の後には、私はその男の片腕を取ってひねり返し、同時に足を掛けて、男の身体を顔面から床に叩き付けてしまっていた。

 次の一瞬、細身の男が目を見開いて何かを叫ばんとするのをひとにらみで凍り付かせ、さらに次の一瞬、激昂げきこうして立ち上がらんとする大柄な男の眼前で、腰に吊るしたつるぎつかに手を掛ける。男の目が恐怖の色に染まるのが分かった。チェックメイトだ。


「私を敵に回さば、痛い目に遭うのは貴様らであると思うが」

「ひ、ひっ……!」


 男共の怯える顔を視界に捉えながら、私は内心で己の失態を恥じていた。首を突っ込む立場でもあるまいに、ただ己の怒りに任せて男を組み伏せてしまった。まったく、我ながら心の修養が足りぬにも程がある――。

 まあ、仕方がない。こうなった以上、私が責任を持ってこの場の仲裁を果たさねばなるまい。


「どうする、娘。この者共は其方そなたに用があるそうだが、穏便な話し合いを望むなら、私が立ち会いを――」

「……お話なんて、ありません」


 私と男共の力量差を目の当たりにして安心したのか、娘は落ち着きを取り戻した声で言った。


「お祖父ちゃんの借金はとっくに返し終わってます。お金の代わりに仕立ての仕事で返したってことで、前の組長さんは納得してくれてたはずです。……この人達は、組長さんが代わってから、やっぱりお金を出さないと納得できないって急に言ってきてるだけです」

「ふむ……」


 娘の言葉にある「組長」とは、裏社会の組織のおさのことであろう。先程まで震え上がっていた割に、この娘、なかなかに理路整然とした説明をする。おかげで私にも事のあらましが飲み込めてきた。

 私は、倒れたままの大男と、その奥の細身の男を続けざまに見据え、「確かか」と手短に問うた。


「……へ、へえ。その……間違いないです」


 大柄な男が床に膝を付いたまま答えた。翻訳魔法で彼らの言語を覚え込まされた私には、男の言葉遣いが所謂いわゆる敬語になっていることも分かった。

 腕っぷしの強さを頼みにする者達など、所詮はこんなものだ。己より強い力に組み伏せられた瞬間、彼奴きゃつらはたちまちその威勢を失う。


「ならば、貴様らは金輪際、この娘に近寄る必要はない筈だな」

「……はあ。旦那の仰る通りで……」


 男共はそれぞれ悔しそうに首肯しゅこうした。私は大柄な男の胸元を掴んでぐいと引き立たせ、その怯えた双眸そうぼうを正面から見据えて言ってやった。


「今の言葉、ゆめゆめ忘れぬことだ。行け」


 獅子に睨まれたうさぎのように、慌てて店から逃げ去っていく二人の背中を見送り、私はふうっと軽く息を吐いた。

 空手からてで根城に戻った彼らを待ち受けているであろう血の制裁を思うと、少しばかり気の毒にもなるが、どうあれ私は部外者である。あの者共が組長とやらから命を取られようが指を落とされようが、私の知ったことではない。


「あ、あの」


 娘の声が背後から私を呼んだ。私が振り返ると、娘は猫を抱いたまま立ち上がり、馬の尾のような黒髪を揺らして、ぺこりと私に向かって頭を下げてきた。


「ありがとうございました。……わたし、あの人達にずっと因縁付けられて、困ってたんです」

「礼には及ばん。彼奴きゃつらが汚い手で私の装束を掴んだため、成り行きでこうなったまでのこと」


 言いながら、私は娘の潤々うるうると揺れる黒い瞳を見ていた。この娘の胸中に渦巻いているのは、己を苦しめていた悪漢共が退けられたことへの安堵と、初対面の私に図々しくも揉め事の仲立ちをさせたことへの引け目が半々といったところだろうか。


「この店に邪魔をした詫びのようなものだ。ではこれにて、失敬」

「あっ……!」


 娘がまだ私を引き止めてきそうな雰囲気だったので、私は敢えてぴしゃりとした口調で別れを告げ、男達が出て行ったばかりの扉に手を掛けた。

 私をこの世界に飛ばした異世界召喚魔法は、国家の精鋭たる魔術師達の力をもってしても、魔力の充填じゅうてんに約三十日を要する。逆を言えば、この世界で三十日ばかり待ちさえすれば、彼らは必ずや再び召喚魔法を発動して私をこの世界から連れ戻してくれるであろう。

 勝手の知れぬ世界ではあるが、私とて騎士の端くれ、山なり森なりで適当に獣を狩って野宿していれば一月ひとつきなど苦ではない――


 などと考えながら、扉を引き、店から一歩外に出て――


「ッ!?」


 目を見張るより何より先に、私はたまらず片手で鼻と口元を覆った。

 何だ、街全体がすすと煙に覆い尽くされているかのような、この凄まじい臭いは――!?


 街路に踏み出した私の五感を侵掠しんりゃくするのは、見渡す限りの巨大な建造物の森と、戦場の最前線を髣髴ほうふつとさせる、鼓膜を破らんばかりの喧騒の海。

 巨城の尖塔せんとうと見紛うような、天をいてそびえる白亜の建物の数々。広大な街路を目にも止まらぬ速度で行き交う、車輪付きの大小様々な乗物。そして、大陸全土の人間が巡礼に集まったかのような、常軌を逸した規模の人々の群れ。

 建物の壁面には巨大な人間の姿が映し出され、大音声だいおんじょうで何かの宣伝をしている。あの壁面は、我が世界に転移してきた者共が持っていたスマートフォンなる道具の、さしずめ巨大版といったところか?


「何だ……この世界は……!」


 私とて、転移者共の身の上話を通じて、この世界が科学技術なるものによって高度に文明化された社会であることは知っていた。だが、話に聞くのと、この目で見るのとでは、まるで違う。

 あまりの音と臭いに耐えられなくなり、私は扉の取手を引き掴んで店の中へと舞い戻った。娘がきょとんとした目で私の姿を見返してくる。


「娘。ここは何という街なのだ」

「え!? 東京の銀座ですけど……」

「トウキョウ……」


 その地名は確か聞いたことがある。今までに我が世界にやって来た転移者達の出身は、なぜかニホンという国ばかりに集中しており、トウキョウというのはその首都であった筈だ。


「あの街路を走っている乗物が、自動車というものなのか」

「そうですけど……何ですか、外人さん、古代ローマからでも来たんですか?」

「いや……。コダイローマなる国ではないが、私はレジメンタル王国の王都ジュストコールよりに来た。其方そなた達から見れば、異世界転移者ということになる」


 私が正直に告げると、娘は一瞬固まってから、頓狂とんきょうな声で驚きを示した。


「えっ……ええぇ……!?」


 娘の反応は私には予想外だった。確かに、我が世界からこちら側に転移してきたのは私が初めての筈であるから、その意味では前代未聞の出来事と言えるだろうが……。

 しかし、この世界の人々は、異世界転移という概念を当然に知っているのではなかったのか。我が世界に召喚された者共は皆、当たり前のように己が異世界転移したことを認識し、戸惑うなり喜ぶなりしていたではないか。

 まあよい。外のあの光景を見た限り、とても私が野宿できそうな山や森があるようにも見えぬし、かくなる上はこの世界で三十日間を耐え忍ぶ手段を別に探らねばならない。この娘が私の存在を悪しからず思ってくれているのであれば、この際、彼女からこの世界のことをより詳しく聞き出すのも得策の一つであろう。


「私は、ベルファスト公爵家の三男にして王立騎士団員のアルスターという。今しばらく、この世界のことを聞かせてはくれぬか」


 私が名乗ると、娘はハッとした顔で姿勢を正した。


「あの、申し遅れました。わたし、市松いちまつともえといいまして……。このお店の、をさせて頂いています」

「なに?」


 娘の自己紹介に私は思わず目を見張った。

 てっきり、店主の身内か、下働きの娘だとばかり思っていたが――

 この華奢な小娘が、だと?


「にゃあ?」


 小生意気こなまいきにふふっと微笑んでみせた娘の腕の中で、黒猫が私を見て悪戯っぽく鳴いた。

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