第2話 異世界の騎士、仕立て屋の娘と出会う。
「……大丈夫ですか。もしもーし」
誰かが私の身体を揺さぶっている。ひんやりした床の感触を背中に感じる。
鼓膜を叩くのはどこか間延びした女の声だ。声の聴こえる位置と力の具合から察するに、私の両肩に手を添えて揺さぶっているのもこの声の主の女だろう。
全身に痛みと
そうだ――私は、異世界から召喚されたあの男と揉み合った末、時空の渦に飲まれて意識を失ったのだ。
ということは、私が今倒れている、この場所は……。
「もしもーし」
しつこく私に呼び掛け続ける女の声。ひとまず私の両耳は正しく聴こえている。閉じた瞼の裏にかなりの光量を感じるので、恐らく視覚も死んではいまい。
全身の痛覚も正常。骨が折れていることも、血が流れ出ていることもなさそうだ。確か私はあの男の雷撃と火炎魔法を食らっていた筈だが、マントに織り込まれた防御魔法が私を守ってくれたのだろう。
「……困ったなぁ。起きてよぉ」
女が私の身体を揺さぶることをやめ、小さく
先程から気配を
何しろ、私にとって――いや、我が世界の人間にとって、前代未聞の異世界転移である。ここは得体の知れない敵地。警戒は、し過ぎるに越したことはない。
遅かれ早かれ、私が意識を取り戻したことは敵の知るところとなるだろうが、せめて、今少しの内は気を失っていると思わせておいて、更なる情報を収集しつつ敵の出方を見るべきだろう。瞼を上げるのは、そう、例えば、この女が私を置き去りにしてこの場を去ってからでも悪くない――。
と、私がそんなことを考えていた、そのとき――
「にゃあ」
突如、女とは違う生き物の気配がしたかと思うと、何かの舌がざらりと私の頬を舐めた。
「うおっ!?」
突然のことに私は声を上げて跳び起きてしまった。刹那にも至らぬ一瞬の内に、しまった、と己の醜態を恥じる気持ちと、敵の動きへの警戒が稲妻の如く私の五感を駆け巡る。
上体を起こした姿勢のまま、腰に吊るした
「にゃぁ?」
黒い猫のような小さな獣と、尻餅をついて驚きに目を見開いた若い娘の姿だった。黒い長髪を馬の尾のように
「……び、び、びっくりさせないでくださいよぉ!」
震える手で私を指差し、娘が言った。猫のような獣も彼女の傍らに寄り、同じく「びっくりさせるなよ」とでも言いたげな瞳で私を見据えている。
「驚かせるな――とは
頬に残る小動物の唾液の感触が気持ち悪い。やむなく大事な装束の
「……」
防御魔法で私を守ってくれた真紅のマントもまた、同様の
あれほどの火炎を受けたのだから仕方のないことではあるが……。私が名残惜しく己の服を見下ろしていると、娘が、床にへたり込んだまま獣を抱き上げて言った。
「猫のようなものっていうか、猫ちゃんですよぉ。ネロって言うんです」
娘に頭を撫でられ、猫らしきものは嬉しそうに「にゃあ」と鳴いた。そうか、この世界にも猫が居るのか――。
「……あの。外国の方、ですか……? 日本語お上手ですよね」
「む?」
おずおずと上目遣いに尋ねてくる娘の態度から、私は改めて己の置かれた状況を
そして、我が世界と同じく、こちらの世界にも
「どうやって入ったんですか? 戸締まり、ちゃんとしてたのに」
娘が不思議そうに首を傾げるのを横目に、私は周囲の様子を観察した。ここはそれほど大きくない建物の中の一室であるようだ。恐らくは仕立て屋であろうか、壁に据え付けられた棚には無数の
そして、それほど高くない天井には、真っ白な光を放つ何かの人工物が備え付けられていた。
それにしても――。
「あの……どこか痛みます? すっごい険しい顔してますけど」
仮にも剣で武装した「外国人」の男が目の前にいるというのに、まるで警戒する様子も見せないこの娘の振る舞いは一体何なのだ。次の瞬間にもその首をかき斬られるやもしれぬとは思わないのか。
「……身体は大丈夫だ。邪魔をした」
私はその場に立ち上がり、娘に軽く目礼してから、出口らしき扉へと向かった。この娘に敵意も戦意も無いことは今や明らかであるし、時空の渦に飲まれた私がこの店の床に吐き出されたのもただの偶然であろう。かくなる上は、この場所に長居をする必要はない。
「あ、あの、どちらへ……?」
「さあ」
娘が何故だか名残惜しそうな目を向けてくるが、引き止められる
焼け焦げてしまった服を再度見下ろして小さく溜息を
「お嬢ちゃん、居るよなァ!?」
「へっへっ、今日こそ店を手放す決心は――ん、何だテメェは」
遠慮の欠片もない態度で店に入ってきた二人の男達が、私と鉢合わせて足を止める。
筋骨隆々の大柄な男と、
この二人の装いもまた、色や模様こそ違うが、「スーツ」と呼ばれる形の装束であるように見えた。大柄な方は黒地に白い
「おいコラ、どけや、コスプレ野郎。俺達はこの店の嬢ちゃんに用があんだからよ」
大柄な男が私の前にずいと歩み出て、私を見下ろす形で睨み付けてきた。「コスプレ野郎」という語彙の意味は分からないが、恐らくは私を脅しているつもりなのであろう。
とはいえ、いかに身体付きが立派であろうとも、軍事教練を受けた経験があるようにも見えず、
この男どもはこの店の娘に用があるという。
「……ふむ」
まあ、地上げだろうと取り立てだろうと、私には関係のないことだ。貴族には貴族の、平民には平民の暮らしがあるのであって、階層の異なる者が勝手に
――と、普段の私なら、平然とそう判断して店を出ていくところだったろうが。
「にゃあ」
この時の私が、どうにも男達に道を譲る気になれなかったのは、猫の鳴き声に呼ばれたからではない。
ふと私の振り向いた先で、今しがた出会ったばかりの娘の黒い瞳が、行かないで欲しいと無言で助けを求めていたからだ。
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