第3話 童貞じゃない!
オフィスビルを出ると冬の冷たい風が頬を刺した。
「あの、
九郎が一歩後ろに並んで呼びかけると、
「親に恨みはないけどさ、アケボノってお相撲さんみたいじゃない」
「は、はぁ」
「あたしのファーストネーム覚えてる? 覚えてるでしょうね?」
「……リンさん、ですよね」
「そう。
「いふ……何ですか?」
「
ぴっ、と目の前で人差し指を立ててくる彼女の仕草に、九郎はどきりとして、思わず「は、はい」と裏返った声を出してしまった。
凛……凛さんか。ようやく漢字が頭に浮かび、九郎は納得した気持ちで頷く。彼女の凛々しい立ち振舞いによく似合った名前だと思った。……それにしても、最初から「凛々しいの凛」と言えばいいのに。
「いやほんと、ご先祖様には悪いけど、名字って厄介なお荷物よね。
「……はぁ、まあ」
「あたしもさっさと平凡な名字のオトコと結婚して、『
「……そうですね」
発言の前段と後段で言ってることが矛盾しているような気もするが……。九郎が女性上司のマシンガントークに適当な相槌を打っていると、彼女は出し抜けに振り向き、謎の笑みを浮かべて問うてきた。
「で、代々木クンはカノジョとかいるの?」
「な、何ですか。……いませんよ、そんなの」
悪かったな、どう見てもモテモテのアナタとは違うんだよ、と、九郎はせめてもの非難の言葉を胸の内で唱えながら口をとがらせた。
何しろ、昨日までの九郎の人生は、朝七時半に出社し、終電間際に家路に就く毎日(タイムカード上は朝九時に出社して夕方六時に帰ったことになっている)。土日もロクに休めないブラック企業勤めでは、彼女など作っている暇があるはずもなかった。
「ふーん。居ないんだー」
わざわざ九郎の横について歩きながら、器用にニヤニヤと顔を覗き込んでくる凛に、九郎はつい目を背けてしまう。
「何なんですか、もう」
「どうりで童貞クサイ顔……おっと、これ以上はセクシャルハラスメントになるから言わないでおこっと。ウチの会社、コンプライアンスにはウルサイからねー」
「……いや、言いましたよね!? 既に言いましたよね!?」
すたすたと歩みを早める凛に向かって、九郎は取りすがるように声を上げる。一応、名誉のために言っておくと、断じて自分は童貞では――。
「ウルサイウルサイ。ハイ、着いたわよ」
ちょうど店に着くタイミングを見計らっていたかのように、凛は九郎の抗議を遮りながら足を止めた。彼女に示されるままに九郎は目をやり、愕然とした。凛が何食わぬ顔で指差しているのは、彼が足を踏み入れるのも
「既製服なんてホントは良くないんだけどさ。ま、来週には現場に出てもらうわけだから、流石にオーダーしてる時間はないし。ホラ、入るわよ」
ぱちぱちと目を
「こういう店の敷居をさー、あなたみたいな格好でも平気で跨がせてもらえるのは、日本の悪くないところよねー」
凛はそう言いながら、慣れた足取りで店の奥へ向かっていく。ぱりっとしたスーツの林の中を、彼女に付いて歩いていると、否が応でも彼女の言葉の意味が九郎の身に沁みた。
店内に並んでいるスーツは、どれも九郎の前職の給料一ヶ月分かそれ以上の値札のものばかりだった。服のことなど全く分からない彼にも、流石に
……しかし、この女性上司は、どうして会社のお金で自分にこんな高級店のスーツを買ってくれようと言うのだろう。九郎のこれまでの常識からすると信じられないことだった。ひょっとして、自分は本当は現世に生き返ってなどおらず、天国か地獄で幻を見せられているのだろうか。
「あの……り、凛さん」
「何よ」
「……なんていうか、僕には全然わからなくて。なんで会社がスーツなんて買ってくれるんですか」
九郎が問うと、凛はスーツの林の中でぴたりと立ち止まり、軽く腕組みをして、「ふむ」とわざとらしい声を出した。
そして、彼女は九郎の目をじっと覗き込むと、人差し指を顔の横で立てて言う。
「代々木クンも前職の経験があるならわかると思うけど、
「……」
九郎には、ハイと相槌を打つことすら出来なかった。凛の綺麗な瞳が、ありえないくらい真っ直ぐに彼の目を直視してくるから。
「つまりね、成約率に影響するの。社員が身に付けてるモノの良さは、会社の信用を測る指標でしょ。考えてみてよ。あなたが証券会社の営業を受ける小金持ちだったとして……ヨレヨレのスーツに安物の靴を履いた営業マンの会社と、ぱりっとしたスーツにピカピカの靴の営業マンの会社だったら、果たしてどっちに資産を預けたいかって話」
バクバクと高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、九郎はかろうじて上司の言葉の意味を理解した。つまり、従業員への待遇の良い会社は、それだけ経営が上手く行っていると見られ、顧客の信用を得やすくなると……。
いやいやいや、そうとも限らないのでは? 実力があって儲かっている会社だからって、必ずしも従業員に気前よく利益を還元しているとは限らない気もする。経営者が私服を肥やす一方で、従業員は奴隷の如くこき使われている、という会社は決して少なくないのでは――。
九郎がそのような疑問を差し挟むと、凛は「ちっちっ」と指を顔の横で振った。
「バカねー。薄給で人を使い倒してやろうなんて魂胆のブラック経営者が、顧客にマトモに利益還元することなんか考えてるわけないじゃないの。従業員を大切にしない会社は顧客のことだって大切にしないのよ。投資をしようなんて人間は、そこんとこシビアに見抜いてくるわ」
そして彼女は腰に手を当て、九郎と目を合わせたまま、にまりと笑って「だからね」と続けた。
「あなたが良いスーツを着るのは、ウチの社員として必要な行為なの。素直に受け取りなさい、童貞クン」
「だから、童貞じゃないですって!」
九郎の裏返った大声に、店内の人々が一斉にぎょっとした顔で振り向く。九郎は、自分の顔から火が噴き出るのを感じながら、溜息を
(つづく)
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