第2話 女性上司、参上

 なんだか長い夢を見ていたようなフワフワした感覚の後、九郎くろうは自室のベッドでハッと目を覚ました。枕元のスマホを無意識に手に取ると、カレンダーは一月五日の朝八時をさしていた。


 ……八時!? 遅刻だ!


 がばっとベッドから跳ね起き、しゃっとカーテンを開けて朝の日差しを浴びたところで――

 稲妻のように九郎の脳裏に蘇ったのは、あの真っ白な空間で出会った女神の言葉。


『これがあなたの転移先、白河しらかわ証券株式会社ですよ』


 あの女神は言った。自分には天国労災とやらが適用され、ホワイト企業の社員に生まれ変わらせてもらえるのだと。


「白河証券……」


 なぜか九郎には分かっていた。自分が今日からその会社に勤めることになっていること。そして……にわかに信じがたいことではあるが、遅刻必至だと思った朝八時という時刻は、今から朝シャンして準備しても十分に出社に間に合う頃合いなのだということも。

 九郎はローテーブルの上に置かれた雇用条件通知書に目をやった。天国労基署とやらの天国パワーで帳尻合わせが行われているらしく、自分が転職活動でその会社に採用された「設定」になっていることは、なぜか本能で察せられた。

 通知書に書かれた勤務時間は「10:00~18:00」とある。十時出社などという会社がこの世に存在すること自体、昨日までブラック企業勤めだった九郎にはとても信じられない。


「……マジなのか……?」


 まだどこか信じきれないという気持ちを抱えたまま、九郎は顔を洗い、朝シャンをし、髭を剃り、安い食パンをインスタントコーヒーで胃袋に流し込んで、スーツに着替えて自室を出た。朝食をまともに食べてから家を出られるなんていつ以来だろうかと、彼はふと思った。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「アナタが代々木よよぎクンね! 人事部から話は聞いてるわ。シニアマネージャーのあけぼのりんよ」


 新たな勤め先――白河証券のオフィスで九郎を待ち受けていたのは、上品な光沢を放つレディススーツに身を包み、きらきらした茶髪をふわりと肩の上になびかせた女性上司だった。

 身長172cmの九郎じぶんと同じくらいの目線。ぱっちりとした目に、派手すぎない付け睫毛まつげ、適度な化粧。端的に言って芸能人顔負けの美人だった。シニアマネージャーという肩書らしいが、年の頃はどう見ても……。


「気になるだろうから最初に言っとくけど、あたし今年で二十九歳だからね」

「えっ」


 九郎が裏返った声を出すと、上司――あけぼのりんはくすりと笑った。それから、九郎の目をじっと見て、彼女は言う。


「なに、どっちの方向に意外だったの。正直に言いなさい」

「え……あ……いや、あっさり年齢を教えてくれるのと……そもそも僕の考えを読まれたことに」


 九郎がしどろもどろになっていると、彼女は「そんなこと」と言って、やっと視線を外してくれた。


「慣れてんのよ。あたしの顔と肩書を見たら、誰だって真っ先に思うでしょ。『こんな小娘がシニアマネージャー? コイツ一体何歳なんだ』って。すぐに見た目とか性別で人を判断しようとするんだから、日本人ってホントにめんどくさい民族よね」

「は、はぁ……。そうなんですかね」


 言いながら、九郎はオフィスの様子を見回した。営業部のフロアはいくつかの島に区切られているが、仕事をしている者はチラホラとしか見受けられない。あけぼのりんと九郎が居るこの第三営業課の島など、二人のほかには誰一人居ないという有様だった。


「あの……他の皆さんは? 営業に出払ってるんでしょうか?」

「何言ってんの。みんな有給取ってるに決まってるじゃない。一月五日きょう休んだら、明日からも三連休だから、年末年始合わせて十三連休になるんだよ?」

「……え……?」

「あたしだけは代々木クンをお迎えする役目があるから、ホントは休みたかったのにしょうがなく出てきたってわけ。ありがたく思いなさいよ? ……まったく、あなたの初出社も来週明けにしてくれたらよかったのにね、人事部も融通きかないんだから」


 腰に手を当てて大仰な溜息をく女性上司を横目に、九郎はただひたすらに目をぱちぱちとしばたかせていた。九郎の困惑そっちのけでペラペラと述べられる彼女の言葉は、九郎にはまるで魔法の呪文のようにしか思えなかった。

 皆有給を取ってるに決まっている? 今日休んだら十三連休? ……一体それは、どこの国の話をしているんだ……?


「さ、代々木クン、行くわよ」


 まだ自分の席に着いてすらいなかった九郎の前で、上司は高そうなコートをばさっと羽織り、クイクイと外を指差した。


「え? 行くって、どこへ――」

「代々木クン、前職でどんな会社に勤めてたのか知らないけど、そんなヨレヨレのスーツとボロボロの靴とクタクタのカバンで証券会社の営業なんて務まると思ってるの? 見栄えのするヤツをあたしが見立ててあげるように言われてんのよ。もちろんお金は会社持ちだから心配しないよーに」


 このくらいになると、九郎も流石に気付いていた。

 自分はどうやら、中世ファンタジー顔負けのに来てしまったらしいということに――。



(つづく)

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