本編(未完)

第1話 天国労基署

 トラックに轢かれると異世界だった。なんて書き出しから始まるファンタジー転移小説の主人公を夢見たわけではないけれど、この世に生を受けてからの二十余年、九郎くろうはずっと自分の人生を変えてくれる何かを探し続けていた。


 中肉中背、勉強も人並み、顔面偏差値も中の中。親に学費を出してもらって入った二流大学を二浪して出て、足を棒にしてやっと得た就職先は若者の心と身体を食い潰すブラック企業だった。九郎が心身をボロボロにしながらその会社で一年を過ごす頃には、同期で入った五人のうち二人が先に辞め、一人は入院し、一人は行方知れずになっていた。唯一残った同期は、二年目の暮れに暴力上司を抱えて線路に飛び込み、一躍ニュースの星となった。


 もう駄目だ。こんなところにいたら自分も死んでしまう。

 九郎は三日間しかなかった年始休みの間に一念発起して退職願を書き上げ、一月四日、それを鞄の奥に忍ばせて胸の動悸を抑えながら家を出た。

 今日こそ辞めてやる、今日こそ――。はやる思いで最寄り駅へと歩を進める九郎の目には、歩行者用信号の赤々とした赤がこの日に限って映らなかった。けたたましいクラクションとブレーキ音を彼の耳が捉えた瞬間には、もう彼の体は宙に浮いていた。真赤に染まる視界がかすかにトラックを映した。


 なんだ、せっかく会社を辞めようと決意したのに、結局死ぬんじゃないか――。


 ……。


 ……。


 ……。

 

 九郎が次に目を覚ましたときには、彼の周囲にはただただ真っ白な空間が広がっていた。なるほど、トンネルを抜けて雪国に、ではなく、トラックに轢かれて異世界に来たのなら、次の一文は何かの底が白くなるものと相場が決まっている。


「九郎さん。代々木よよぎ九郎さん」


 真っ白な空間にスーツ姿で立ち尽くす彼の耳に、ふと心地よい女の声が響いた。

 ははぁん、と九郎は自嘲気味に笑った。自分は死ぬ間際に妄想を見ているのに違いない。ろくでもなかった現実の走馬灯のかわりに、WEBで読み漁った異世界小説、そのお決まりパターンを自分はなぞっているのだ。さしずめこの声の主は、自分にチート能力を与えて転生させてくれる女神。そうに決まっている。


「あなたには労災が下りました、代々木九郎さん」

「……は?」


 どうにも予想と違う言葉が聴こえたので、九郎は思わず目を見張った。いつのまにか、彼の目の前には、ふわふわしたブロンドの長髪に青い瞳、真っ白な肌にギリシャとかローマとか何だかその辺っぽい白い衣装を纏った、なんというか、異世界ファンタジー小説にありがちな女神そのものの女神が立っていた。

 いや、女神の存在は何ら不思議ではない。トラックに轢かれて真っ白な空間に来たのだから、女神が居ない方がむしろおかしいくらいだ。問題は、彼女が口にした、この場にそぐわぬ言葉の方だった。


「……労災?」

「はい。あなたが勤めていた会社……田沼たぬまインベスト株式会社は、労災隠しが恒常化していて、現世の労基署も手を焼いていましたからね。通勤・退勤時の交通事故死なんてまあ間違っても労災扱いにしようとしないでしょ。そういった現世のブラック企業で命を落としてしまった人達に救いの手を差し伸べるのが、われわれ天国労基署ってわけです」

「……はぁ」


 女神の言うことはよくわからないが、まあ、異世界転生・異世界転移の理屈も最近は色々あるようだし、そういうバリエーションの一つなのだろう。そんなことより自分はいつまでこの妄想を見ているのだろうか、息を引き取るまで随分長いじゃないか、と九郎が思っていると、女神は彼の目の前でパチンと指を鳴らしてみせた。

 次の瞬間、彼の眼前に浮かび上がったのは、おそらく都心の一等地かどこかに建っていそうな、見た目からしてピカピカした高層ビル。ああ、たぶん、一流のホワイト企業はこういうビルに入居しているのだろうな、と九郎が思った矢先、


「これがあなたの転移先、白河しらかわ証券株式会社ですよ」

「……はい?」

「大丈夫です、この会社はわれわれ天国労基署がりにりすぐったホワイト・オブ・ホワイト企業です。一説にはあの白山しろやま白狼はくろう弁護士も太鼓判を押したとか」

「誰ですかそれ」

「とにかく、代々木九郎さん。若くしてブラック企業に使い捨てられて死んでしまうなんてあまりに可哀想ですから、われわれ天国労基署が天国労災を適用してあなたを生き返らせてあげるのです。ホワイト企業の社員として生きる人生にね」

「……? ……???」


 何が何だかわからない、と何度目かの同じ感想を抱いた瞬間、九郎の身体はなんだか暖かな光に包まれていた。……ああ、もう、どうとでもなれ。


「あの、女神様、ちなみに、チートか何かは」

「チート? いや、ウチは天国労基署ですから、特にそういうのはありませんが――」


 女神は最後に一度、ふわりと女神らしく微笑んでみせた。


「――有給は、初年度から年間15日付与されてます」



(つづく)

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