八智和乃の細腕奮闘記

長崎ちゃらんぽらん

八智和乃の細腕奮闘記



〈アルバイト急募!! 時給一五〇〇円 勤務時間一五時~二十三時  よろづや茶寮〉


 駅前でアルバイトのチラシを見つけた翌日。多賀魅市の北に広がる白岐山の麓へと、私は愛車のグレートジャーニーⅡで乗り付けた。

 肩から提げたメッセンジャーバッグには履歴書が入っている。電話をかけると、まだ募集中だと言う事だったので、慌てて大学の購買まで駆け戻り購入した。

 コンビニでもよかったのだけれど、大学の方が安かったのだ。

 とにかく空白を減らすように努力はした。後は面接に全てをかけるだけだ。

 電話の様子では向こうの食いつきも良かった。理由はわからないが、急と書かれた割には応募がほとんどなかったのだろう。あんな好条件。逃す手は無い。勤務時間が八時間ぴったりなのは気になるけどね。

 私は気持ちを逸らせつつ、一直線に進む。

 山が近くなると、建物が見えなくなってくる。代わりに、夏真っ盛りと言う事もあり、緑に茂った草が世界を彩り、みずみずしい香りが鼻をくすぐった。

 大学も抱える地方都市だが、こういう所は自然が残っていて気持ちがよく、ペダルを漕ぐ足もも自然とゆっくりになって行く。

 山から流れてくる清流にかかる小さな橋が見えた先に、商家造りの家が見えてくる。

 建物の前に自転車を横付けして看板を見上げる。よろづや茶寮の文字。間違いない、ここだ。

 自転車を止めて時計を確認。

「ちょっと早かったかな」

 面接の約束は一時だったが、十五分ほど早く着いてしまった。

 もう少し待ってから門を叩こうと決め、改めて外観を眺める。

 昔ながらの、古い町並みが残る場所ではよく見かける商家造り。道路に面した棟が店舗で奥が居住用の棟と言う縦長の造り。壁や木戸には風雨の跡が残り、歴史を感じさせる。

 周囲の風景と合わせ、橋の向こうから見た時は森の中の一軒家のようで、少し幻想的だった。

 その分、ここに来て不安が募る 本当にこのお店があの好条件なチラシを出していたのか。

 山の麓だが、近隣にほとんど建物が見当たらない。広い通りに面しているわけでもないので、なんともその、繁盛するような立地のお店ではない。

 チラシの内容が今更ながら、白々しく思えてくる。

「――まあ、その時はその時ね」

 私は少し、本当に少しだけ逡巡したが、先方との約束もあるので、とりあえず面接だけは受けておこうと決める。

 色々と見たり考えていたら時間の五分前だ。

 汗を拭い、念の為にお店の窓で動くときに邪魔なので大して伸ばしていないので乱れもほとんどないが、髪や服装をチェック。

「よし」

 指示された通り、閉店の看板がかかった戸を開けて中へ。

「え?」

 入ろうとした矢先、中から戸が開けられる。

 顔を上げると、和服姿の女性が怪訝な瞳でこちらを見つめていた。

 すらりとした細身の体が、背筋良く立っている様は服装と調和しており、その美麗さに私ははっと息を呑んだ。

 こんなに和服が似合う人を見たのは初めてだ。

 目鼻立ちなんかも、精巧な人形のようで、この人の持つ魅力は、写真にしたら霞んでしまうように思えた。

「何か用かな?」

 凛とした声。電話と同じ声に、私は直立する。

「す、すみません。わ、私は、バイトの面接で応募した、八智和乃と言います」

 見惚れていた事もあって、口がうまく回らない。

 しかし、私の発言に、彼女のいぶかしむ視線が一変、笑顔が咲いた。

「ああ、君がそうか! よく来てくれたね。ささ、入った入った。すぐに始めよう」

 あまりにもフレンドリーと言うか、久しぶりに親戚を迎えるように肩をがっしり抱かれて、返事をする間もなくお店の中へ私は引き込まれていた。

 外のみずみずしい匂いが、コーヒーとお茶の香りに上書きされる。

 年季の入った木製のテーブルやイスを、暖色の電球が橙のカバーをかけた空間は、モダンな昔ながらの喫茶店だ。なんともいえない、ほっとする趣がそこにはあった。

 私は女性に促されるまま、二人用のテーブル席へ腰掛ける。

 女性は一旦カウンターの向こうへ一旦入ると、てきぱきと作業を始める。

 私は、電気の色のせいで赤みがました、腰まである彼女の栗毛が風となって動くさまを見つめていた。

 数分とせず、アイスコーヒーがテーブルに置かれた。

「どうぞ。外は暑かっただろう」

 勧められるが、これは飲んだらいけないんじゃないだろうか。

 対応に困って水滴が浮かぶグラスをじっと見つめてしまう。

 でも、すごく飲みたい。自転車で夏空の下を走ってきたのだ。飲みたい。仮に中身が青汁だったとしても、飲める気がする。

「気にしないでいいから。そうしないと、口も回らないでしょ」

 改めて彼女は手を差し出して飲むように告げてくる。優しい笑顔で、彼女は既に半分ほど飲んでいた。

 私はおずおずとグラスを手に取り、ストローに口をつける。

「あっ」

 思わず声が出る。コーヒーはとてもおいしかった。受験勉強中に舌がバカになるほど飲んだ、インスタントとは全然違う。

 ブラックで苦いけど後に引かない、とてもすっきりとした味わい。

 体に残っていた熱が一気に冷めていく様だ。

 その様子に、彼女の笑顔が一層優しくなる。

「気に入っていただけたなら何よりだよ。それじゃあ、早速始めようかな。履歴書を、見せてもらえる?」

「あ、はい」

 私は履歴書を手渡すと、背筋をピンと改める。

 こうして、面接は始まった。

 女性はこのお店の店主で秋葉さんと言った。話し方はもちろん、面接自体かなりフランクだった。

 履歴書から実家が東京だとわかると、彼女も一時期東京に居たと言う事で話に花が咲いた。

 新宿駅は迷宮だとかそんな感じである。私も未だに新宿と渋谷の駅だけは迷う自身がある。

 しかし、東京からこっち、東海地方の都市まで来た理由は聞かれなかった。

 こちらの大学へ入学したのだから、そう言うこととして受け入れられたのだろう。

 むしろ彼女の興味を惹いたのは趣味の欄だった。

「趣味は、フィールドワーク? これは?」

「あ、えっと、その、信仰とか伝説とかを、現地に言って調べる事です。でもでも、そんなあの、研究とかって本格的なんじゃなくて本当に趣味の範囲で」

 私は説明しながら思わず小さくなる。何も考えずに書いてしまったが、こうして面と向かって言われると恥ずかしい。

 そもそも生業としてやっている人たちだろうと、趣味だろうとフィールドワークで十把人からげにできてしまう大仰な名前がいけないんじゃないだろうか。

 これならいっそ読書とかにしておけばよかった。

「楽しい?」

「それはもう!」

「そう。それはいい」

 かぶりつくように返事をしてしまうが、秋葉さんはにっこりと全てを包むような笑みを浮かべる。

「それなら胸を張って。話を聞く限り自然観察、野鳥を見るのだってフィールドワークなんだろう。そういうのって、趣味の人の方が多いんだから。本業の人達とは違うだろうけど、好きなら良いじゃないの」

「は、はい。ありがとうございます」

 私は真っ赤になって俯きながらお礼を言う。

 初めてだ。こうも真っ直ぐ肯定されたのは。この人には、何でも話して良いような、そんな気がしてきてしまう。

「ちなみに、どんな分野が好きなの?」

「山岳信仰とか、自然崇拝とか、その辺りが好きです」

「なるほどね。うん、ありがとう」

 何か思案げにうんうんと頷いた彼女は、履歴書を置いた。

「ウチのお店みたいな所での作業の経験はある?」

「少しだけ」

 私は頷く。

 高校の学園祭でウェイトレスもキッチンもやった事があるから、嘘、にはならないはずだ。

「記憶力に自信は?」

「あります。ばっちりです」

 これは紛れもなく本当。おかげで受験の苦労は、恐らく一般的な人より少なかったと思う。

「もし、働いてもらうとして、当面は毎日出られるのかな?」

「はい。今日からでも!」

 推し所と判断して、力強く答える。

「このお店は好きになれそう?」

 私は一も二もなく、頷いた。

 フィールドワークは基本的に遠征が多く、正直、夏休みの間にお金を貯めたくて、応募した時は時給が目当てだった。

 でも、今は違う。お金の事がまったくないとは言わないが、それよりも秋葉さんの淹れてくれたコーヒーを飲んで、お話をして、この人の所で、このお店で働きたいと言う気持ちが上回っている。

 秋葉さんは、ありがとうと小さく告げて腰を上げる。釣られて私も椅子から立ち上がる。

「それじゃ、今日から君はこのお店の従業員だ。よろしく、八智和乃さん」

 告げられた言葉の意味を理解するよりも早く、差し出された右手を、私は掴んでいた。

「あ、れ? えっと、良いんですか!?」

「ああ、もちろん」

「ありがとうございます!」

 私は手を握ったまま、深く頭を下げ、嬉しさに肩を震わせていた。

 この時、喜びがあまりにも勝ち過ぎていた。その為、本来なら覚えるべき違和感が欠落していた。

 こんな素敵な店主に、好条件の募集。それなのにストレートで採用されてしまったという事実に。

「こちらこそ、よろしく頼むよ。ところで、そうだ。聞いておきたいんだけど」

「はい、何でしょう」

「君、種族は?」

「え?」

 突然の質問に、私は固まり、思考がグルグルと巡り出す。

 種族って、何。これ、秋葉さん流のジョークなんだろうか。

 でも、ニコニコと笑ってるし。

 秋葉さんは小首を傾げる姿もさまになっている。そして、何となく悟る。これは、素で聞かれているのだ、と。

「人間、ですよ?」

 とりあえず面接には受かったはずだし、ひょっとしたら人種のいい間違えかも、とも考えて私はそう答えた。

 まあ、それでもなぜ聞かれているのかは不思議でならないのだけれど。

「ん、んん?」

 秋葉さんが、柔和な笑みはそのままに、急に眉根を寄せる。

 何かまずい事でも言ったのかも、と不安にかられる私を横目に、左手で履歴書を持ち上げて見直す。

「あ~、そうか、そうだよな。そう言う事もあるか」

 何かぶつぶつと呟いて小さく唸った彼女は、軽く咳払いをして尋ねて来る。

「和乃さん、チラシ見たんだよね?」

「はい。もちろんです」

「読んだんだよね、きっちり」

「ええ、読みました」

「そうか。じゃあ大丈夫か。ごめんね、変な事聞いて」

 チラシを見たなら大丈夫と言う判断をされたらしい。その時、ふと、本当に僅かながら嫌な予感が頭をよぎるが、私は敢えて考えないようにして、そのままお店で働くための打ち合わせへと移るのだった。


「ええっと」

 更衣室で私は和服に着替えていた。

 お店の制服と言う事で、サイズ合わせの真っ最中である。秋葉さんはいろいろと用意があるとの事で、同席していないが、着付けは祖母が徹底的に叩き込んでくれたので何の問題もなかった。

 いかんせん、父の兄弟は全員男だったので、祖母は祖母である種ストレスが溜まっていたのだろう。これでもかと着せ替えさせられた。

「まさこんな所で役に立つなんて」

 当分和服なんて着る事はないと思っていたので、嬉しい誤算だ。

 服を合わせながら、私は秋葉さんから言われた注意点を思い出していた。

「メニューは覚えなくて良い。どうせこの店の客の大半は常連さんばかりだ。それに、表に書いてないメニューも多いからね。大切なのは――」

 復唱して、聞き漏らさない事。どうしてもあるかわからない料理の名前を言われたら聞く。

 会計は他の人がやるって言ってたけど、どんな人なのだろう。

 確か、その人も含めて元は四人のシフト制だったと聞いている。

 一人がやめて、もう一人はご実家の都合で長期のお休み中なのだとか。

 他の人たちとうまくやれるといいけど、秋葉さんが採用した人だ。心配はしすぎても仕方ない。

 座席はお店の奥からいろは順。こちらはきっちり覚えないと行けない。

 これができれば後は配膳。体力勝負で、焦らない事と言われた。店員が焦ったらお店の雰囲気にもそぐわないとか。要注意だ。肝に銘じておこう。

 注意点の再確認をしながら、帯を仮止めする。

「ん~、うう」

 姿見で状態を確認。胸をポンポンと叩いて私は肩を落とす。

 丈は問題ないけれど、遊びが緩い。

「これ、お古、なんだよね」

 以前は秋葉さんが着ていたもので、身長が近いから渡してもらった。つまり、秋葉さんが大きいんだ。そうだ、そうに違いない。

 私はうんうんと頷きながら遊びをつめて帯を本止めする。

「それにしても、よっと」

 姿見を前に軽く一回り。まったく暑くないし、重さもあまり感じない。とても上等な服だ。

 着ていいとは言われたしお古だとはいうものの、これで接客をするのかと考えると、ちょっと勿体無い気もする。

 これに、ロッカーにかかっている白いエプロンとフリルのついたカチューシャを付けるのだ。モダンなイメージのカフェとしては合っている。

 だが、どちらかと言えば可愛らしい部類に入るこの衣装は、こそばゆい。

「落ち着かないなぁ」

 私はついついぼやいてしまう。

 ふだんは動きやすさ重視なのでパンツばかり。何年も着ていないスカートよりはマシだが、やはり足周りが包まれているだけと言うのはしっくりこない。

 それでも、これが制服である以上はじたばたしても仕方が無い。

 私はパンと頬を叩いて気合を入れ、笑顔を作る。

「いらっしゃいませ」

「お、いいね」

「わわ!?」

 急に声をかけられて、へんてこりんなポーズで固まってしまう。

 ロッカー室の入り口で秋葉さんが壁によりかかって、楽しげにこちらを見つめていた。

「そんなに驚かなくてもいいだろう。お互い、着替えを覗かれて困るわけでもないし」

「す、すみません。急に声をかけられたので」

「ま、練習を他者に見られるのは確かに恥ずかしいか」

 にっこり笑いながら入ってきた彼女は、すっと私の後ろに回ると、脇に手を入れてくる。

「ええっ!?」

「ちゃんと着れてるけど、もう少し、よっと」

 驚く私をよそに、服の裾や襟等が自分でやったときよりもピシっとしたものに修正されていき、最後にちょっと強めに帯が締めなおされる。

「動いてもらうから、このくらいで丁度いいかな」

「ありがとうございます」

「いいいって事さ。丈も大丈夫だったようだね」

 私の肩越しに姿見を覗き込んで秋葉さんはそう告げる。

 ふわりとした香りが私を包みこんだ。ふにゃっと力が抜けそうになって、慌てて首を縦に振る。

「あ、あのそれで秋葉さん、次はどうすれば?」

「ん、ああそうそう。渡し忘れたものがあってね」

 急に部屋の入り口に戻ったかと思うと、なにやら抱えてやってくる。

 はい、とばかりに差し出されたのは足袋と草履だった。

「これは?」

「その靴は、あまりうまくないだろう?」

「あ」

 指摘されて思い出す。自転車をこいできた私は、スニーカーだった。



 カラン、と乾いた音がよろづ茶寮の中に響き渡る。

「あう」

 お盆を脇に抱えなおし、私は肩を落としながら、床に落ちたコップを拾い上げる。

 一体この動作を何度繰り返した事か。

 着替えが終わってから、私は配膳の練習をしていた。

 と言っても、コップを乗せたお盆を片手に、カウンターから一番離れたテーブルに言って戻ってくる、ただそれだけの事だ。

 それだけの事なのだが、これがまた難しい。

 高校の文化祭でやったときは、水が入っていようがコップが何個だろうが問題はなかったのだけど、あの時は体育シューズだった。

 今履いている草履とでは勝手があまりにも違い過ぎた。

 底が厚いのみならず、かかとが固定されていないので、あまりにも心もとない。

「気を落とさない。あと半分じゃないか」

「うう、はい」

 カウンター越しに秋葉さんは応援してくれるが、お手本として見せてもらった無駄のない所作が思い出されてますます気落ちしてしまう。

「ほらほら。練習あるのみさ。筋はいいから頑張って」

 秋葉さんは、くわえていた煙管を、カウンターに置かれた煙草盆の手提げにカンと当てて煙草を灰皿へ落とす。

 それを合図に、私はもう一度、奥のテーブルへ向けて歩き出す。

 初日なので、営業時間までにできなければ両手で持って言いと言われてはいるのだが、それはそれで悔しい。

 何より、この練習にだって時給は発生しているのだ。少しでも成果が出ないと秋葉さんに申し訳が無い。

 結局、その後も延々と落としては拾いを繰り返し、開店十五分前にしてようやく、五回連続で配膳をする事が出来た。

「コツさえ覚えれば、そこで抱えるのが何かは問題じゃないから、大丈夫そうだね」

 太鼓判を押された瞬間、内心で私はガッツポーズを決めずには要られなかった。

 その時、カランとベルが鳴る。

「「あれ?」」

 私と店内へ入ってきた人の声が、動きが被る。

 お互いに相手を見て首を傾げた。

 まだ開店前のはずなのだけれど。

 入ってきたのは、そう、膝が薄くなっているズボンや色落ちしたシャツを着た、ヴィンテージな女性だった。

 どう声をかけていいのか迷っている間に、入ってきた女性は、愛想に乏しい、気だるげな顔を私から秋葉さんへ向けた。

「誰?」

「ああ、うね子。紹介しよう。こちらは八智和乃さん。今日からここで働いてもらう」

 うね子と呼ばれた女性は、改めて私に向き直り抑揚のない声で、そう、とだけ呟き、歩み寄ってくる。

「白井うね子、よろしく」

 無造作に差し出された手につられ、握手を交わす。

「あ、八智和乃です。よろしくお願いします」

「ん」

 小さく頷いた白井さんはさっさとロッカールームへ入っていく。

 私は秋葉さんに駆け寄った。

「あ、秋葉さん。今の人って」

「ご想像の通り。ここの従業員さ。悪い奴じゃないから」

「それは、わかります」

 ぶっきらぼうだったがしっかり挨拶してくれたし。

 と、何分もかからず着替えた白井さんが現れる。

「えっ!?」

 その様子に私はびっくりして、あんぐりと口を開けてしまう。

 手入れ皆無のヴィンテージ風な髪がそのままなのはだらしないが、それすら些細な問題だ。

 いくらなんでも着替えるのが早すぎる。

 私のは藍色の和服だが、白井さんは橙色の、明るい感じで、見た所大きな差は無い。

 となれば、いくなんでももともとの服を脱いで、新しく切るのに二、三分はおかしい。

「何?」

 驚いたまま見つめていたので、白井さんは怪訝な顔で尋ねて来る。

「あ、いえ、その、着替えるのが速いなあ、と」

「慣れ」

「はい」

 暫しの間があり、端的な返事。まったく説明になっていないが、私は頷いて返すしかできなかった。

 その様子がツボに入ったらしく、声を殺して笑う秋葉さんを横目に、白井さんはカウンターからふきんを取ってテーブルを拭き始める。

 私も呆けていられない。開店まであと十分も無い。一緒に準備しないと。

「あ、和乃さん」

 カウンター越しにふきんを手に取った瞬間、秋葉さんの声とほぼ同時に、背後から腕を掴まれる。

 振り向くと、ムスッとした様子の白井さん。これは怒っている、ような気がする。

「えっと、あの白井さん?」

 恐る恐る声をかける。

「拭き掃除は、私の仕事」

 思わず「ええ~!?」と叫び出しそうになったが、ひしひしと伝わってくる無言の圧力に私は縮こまるようにして、「す、すみませんでした」と謝り、ふきんを置いた。

 それを見て、彼女はそっと掴んでいた腕を放してくれると、視線をそらしながら「腕、大丈夫?」と聞いてきた。

「え、あ、はい。大丈夫です」

 打って変わって神妙な様子に、私は頷く。

「その、ごめん。でも、コレはダメだから」

「わかりました。私も聞けばよかったですね。気をつけます」

 他に言いようもないので、そう返すしかない。

 白井さんは小さく頷くと、ささっとテーブル拭きに戻って行く。

 すると、またまた魔法みたいな事態になっているコトに気付いてしまった。

 ササッと彼女が拭くだけで、通販の宣伝並みの勢いでテーブルがピカピカに光り出す。

「うわあ」

 感嘆なのか呆然なのか自分でもわからない声が飛び出した。

「悪いな。あいつのこだわりでな。君の前に居た人にもやらせたことがないんだ」

「いえ、これを見たら納得です」

 私が出る幕なんて微塵も無い。

 大人しく彼女の様子を見守っていると、ちらりと秋葉さんが時計を見る。

 後五分ほどで開店だ。

 カンカンと煙管を煙草盆の取っ手で叩いて音を鳴らした秋葉さんはふうと息を吐いてカウンターから出て行く。

「ちょっと抜ける。すぐ戻ってくるから。あ、そうそうトイレとかは合間見て行っていいからね」


 言うが早いか、そそくさと家の方へ消えて言ってしまう。

 白井さんはテーブルを拭き終えてカウンターへ戻ってくると、水用のグラスを拭き始める。

 彼女は私の方を見て、小さく頷いた。これは、大丈夫と言う事なのだろう。

「あ、ありがとうございます。少し、失礼します」

 私は軽くお礼を言って、トイレへ駆け込んだ。面接の時のアイスコーヒーが今になって主張し始めるなんて。

 トイレから戻ると、丁度秋葉さんが入り口のカードを開店に変えた所だった。

 何とか時間には間に合ったようだ。

 見ると、レジの所で女の子が釣り銭を数えている所だった。

 そう、女の子。私よりそこそこ年下に見える。恐らく、中学生くらいだろう。見た目は秋葉さんによく似ていて、親子はいくらなんでも失礼だが、歳の離れた姉妹と言われたら納得できる。

 白井さんがもくもくと食器を拭いているのを見ると、彼女が秋葉さんが行っていた会計専門の従業員なのだろう。

 でも、本当に中学生くらいだったらさすがにまずいんじゃないだろうか。それとも、幼く見えるだけで実は同い年くらいなのだろうか。

「ああ、和乃さん。ちょっと来てくれ」

「あ、はーい」

 私の視線に気付いたのか、秋葉さんに呼ばれると、レジの女の子を紹介される。

「和乃さん、こっちはいずなだ。よろしくな」

「いずなです、よろしくお願いします。姐さんのところで住み込みさせてもらっています」

 いずなと呼ばれた女の子はぺこりと頭を下げる。

 丁寧だが、元気に満ちた姿に、私も挨拶をする。

「八智和乃です。よろしくお願いします。いずなさん」

「そんな、お気軽にいずなと呼んでください。私も姐さんに習って、和乃さんとよばせてもらいますから」

 秋葉さんをねえさんと呼ぶイントネーションが姉妹のソレとは違うようだけど、彼女の笑顔の前にはそんな事はどうでもよくなる。

「えっと、それじゃ、いずなちゃん」

 あ、しまった。

 彼女の明るい笑顔が可愛らしくて、つい言ってしまった。

 どうしようかと慌てる私に、しかし彼女は気にした様子は微塵も見せず、むしろ嬉しそうにさらに顔をほころばせた。

「はい。これから一緒にがんばりましょう」

 なんだか、ムズムズしてくる。

 こんな素直な反応をされると、むしろこっちが気恥ずかしい。

「ん」

 なんとなく収まりが悪くもじもじしていると、肩を叩かれた。

「あ、白井さん?」

 振り向くと、白井さんが自分を指差して「うね子、でいい」といい、さらに私を指す。

「私も、和乃と呼ばせてもらう」

 良いのだろうか。と思ったが、本人の申し出を無理に断ると、かえって失礼な気も。

 表情が読めないので散々脳内で対応策を戦わせ、私は頷く。

「えっと、うね子、さん、でいいですか?」

「うん」

 呼び方を改めると、彼女は再び食器拭きに戻って行く。

 今のを言うためだけにカウンターから出てきたのだろうか。

 本当に、読めない人だ。

 そして、今度は本当に、来客のベルが鳴った。

「いらっしゃーい」

「いらっしゃいませーっ」

 秋葉さんの挨拶に続いて、私も挨拶をする。高校の文化祭でやったときと同じ、お腹からの声を意識した。

 入ってきたのは、男性のお客さんが三名。

 その姿をみて私は一瞬、ぽかんと口を空けてしまう。

 山伏だ。袈裟に篠懸、頭には六角形の頭巾。シャランと音を立てるのは、握られた錫杖。

 これが山伏でなかったら、うん、山が好き過ぎて道を間違えちゃった人だろう。

 三人とも六尺は軽くあろう大男だ。

 私は見上げながらも何とか笑顔を取り繕う。相手が誰であれ、お店に来た以上はお客様だ。

「三名様ですね。こちらへどうぞ」

「んお、見ない顔じゃ」

 三人の中で一番年上と思われる男性が顎に手をやりながら、見た目に違わぬ野太い声を上げる。

「新人さんだの」

「ほれほれ。とっとと行かんか。入り口では邪魔じゃ」

 様子から察するには常連さんのようだ。

 三人は興味津々と言った様子で私を見ながら、案内されるままテーブル席へ着く。

「ただいまお水をお持ちしますね」

「ん」

「あ、どうも」

 いつの間にかうね子さんが三人分の水を持ってきていてくれた。

 正直、びっくりした。音もほとんどしなかったし。

 ドキドキしながら、コップを並べた私はさらに言葉を続ける。

「それでは、ご注文がお決まりになりましたら、お声をおかけください」

「おお、ワシらは全員、コーヒーじゃ。冷たいのでな」

「あ、はい。アイスコーヒー三つですね」

 さすが常連さん。最初から注文が決まっていた。

 私はすぐに伝票に注文を書き込み、オーダーを秋葉さんに通す。

 秋葉さんはすぐに準備をし始める。私に淹れてくれた時のように、手早く、ささっと三つ分のアイスコーヒーが完成する。

 最初の配膳だ。ここでミスをしたら、多分暫く立ち直れない。

 私は特に気を使ってテーブルまでコーヒーを運び、三人分並べていく。

「ありがとさんな」

 常連の山伏達は口々に礼を言ってくれる。うまく出来たこと合わせ、ガッツポーズをしそうになるほど嬉しかったが、まだ全ては終わっていない。

「ごゆっくりどうぞ」

 そう言って頭を下げて、ここを離れるまでが仕事だ。

 無事にカウンターまで戻ってこれた私の肩を秋葉さんがポンと叩いて労ってくれる。

 ほっと肩の力を抜いたところで、山伏さんたちのテーブルから「やれやれ、ようやく羽が伸ばせるな」と言う声が聞こえた。

 振り向くと、ググッと三人とも背筋を伸ばしたりしている所だった。よっぽどお疲れだったのだろう。しかし、それも秋葉さんのアイスコーヒーなら吹き飛ばせるはずだ。

 そんな事を考えていると、彼らは文字通り羽を伸ばし始めた。

 羽だ。烏のように真っ黒い、羽が三対。突然店内の一角に出現する。

 異常事態である。他に言葉が見当たらない。

 あんぐりと大口をあけるも、声を上げる間もなく、来客のベルが立て続けに鳴り響く。

「いらっしゃいませー」

 笑顔を作りなおして慌てて挨拶を行う。驚きは頭の片隅に追いやる。お店が終わってから聞けばいい、と。

 秋葉さん達が全く気にした様子がないのも幸いした。

 多くの人は、火事でも周囲が逃げ出さないとなかなか自発的に逃げ出さないと言うが、私も同じ心理状況になっていた。

 お店は、続く来店で一気に活気づき、私はひたすら仕事に没頭した。

 少なくとも、忙しく動き回っている内は、余計な事を考えずに済むのだから。




 うう、もう限界。頭がパンクしそう。

 時計の針が八時を示そうとしたところで、私の脳は悲鳴を上げ始める。

 仕事に集中して些細な事には目を瞑ろうとしてきたが、何事にも限度がある。

 お店は大盛況。注文も、最初のドリンクとデザートからグリルやプレートにウェイトが映り、一息ついてはすぐ配膳、片付けと言った調子である。

 作業自体は、片付けはうね子さんがテーブルを拭いていた要領でサクサクこなしてしまい、秋葉さんは調理、いずなちゃんがお会計をしてくれているので、決して目が回るほどにまではなっていない。

 この程度であれば私だってへこたれはしない。

 私の頭を悩ませるのは別の要因だった。

「和乃さん、オムライス二つ」

「はい、ありがとうございます」

 私は秋葉さんからケチャップたっぷりな昔ながらのオムライスを受け取ると、テーブルまで運ぶ。

 歩くのはすっかり慣れて、重いものでも平気で最奥のテーブルまで運べるようにはなっていた。

「お待たせしました、オムライスです」

「おお、ありがとうな」

 真っ赤に焼けた筋骨隆々なおじさん二人が豪快な笑いで料理を受け取ってくれる。

「ごゆっくりどうぞ」

 私も笑顔を返すが、どうしても頬が引きつってくる。

「和乃ちゃん、紅茶のおかわりいいかしら?」

 耳元でお客さんからオーダーが入る。

 秋葉さんたちに呼ばれているうちに、いつの間にかお客さんからも名前で呼ばれるようになってしまった。常連さんばかりなのは間違いないのだろう。

「あ、はい。でも、首は飛ばさないでくださいね」

 振り向き様に、私はお客さんに注意する。

 目の前ではふよふよと、申し訳無さそうにする女性の顔が浮かんでいた。

 この人は、ろ席のお客さんだったはず。確認の為、テーブルに目をやると、首から上の無い和服の体がきちんと席についている。

 この人に比べたら、オムライスのお客さんの髪の隙間から角が覗いているのなんて些細な事である。

 これが、私の頭を悩ませている原因だった。

 最初の山伏さん達か始まり、見た目やら体の作りやらが普通の人とは違う方々ばかりなのである。

 仮装や芸人さん達が多いのか、と思えるラインはとうに越えてしまった。もう現実と幻覚の区別がつく自信がない。

 それでも何とか仕事を続けていられるのはやはりお客さん達のおかげだった。

 誰もが、このお店での一時を心から楽しんでいる顔をしている。

 その表情を崩してはいけない、という気持ちが、何とか私の精神を踏みとどまらせていた。

 私はカウンターまで取って返すと、うね子さんがティーポットに新しい紅茶を淹れてくれていた。

 声が聞こえていたわけではないと思う。常連さんばかりなので、注文したい内容が想定できているのだろう。

 紅茶を受け取りながら、カウンター越しにキッチンを一瞥。

 秋葉さんはナポリタンを作っている真っ最中だったが、気付けば彼女も、お店が忙しくなり始めてからお客さん達と遜色がない姿になってきていた。

 頭からは一対の三角耳が飛び出し、腰の辺りからふさふさした尻尾が覗いている。

 枕にしたら気持ちよさそう。

「和乃、紅茶できてる」

「あ、はい。すみません!」

 いけない、トんでた。

 うね子さんがそっと私の顔を覗き込んでくる。何となく、目が心配してくれているようにみえる。私が疲れてるからかもしれないけど。

「少し、休む?」

「大丈夫です。紅茶、持って行きますね」

 こんな繁忙時に休んだら、今日から入った甲斐が無い。ついでに言えば、休んだらもう立ち上がれない気がする。

 私はティーポットを持ってろ席のお客さんに紅茶を注いだ。

 カウンターへ戻ると、うね子さんはテーブルの片付けに出ていた。

 私はナポリタンを受け取って早速配膳。窓際のお客さんの所へ持って行く。

 無心だ、気にしたらダメだ。

 お客さんは首から上に二つの顔が覗いており、どうもこうもと会話を行っている。

 この姿は見覚えがある。子供の頃読んだ絵本の中での話しだけれど。

「ああ、すまんが新人さん。注文いいかね」

 二つの顔が交互にパスタを食べる姿を見ながら、取って返そうとした私は声をかけられ、今一度笑顔の仮面を被る。

「はーい」

 あれ、誰も居ない。

 声がした方を振り向いた私は首を傾げる。

 誰も居ないどころか、そもそも座席がない。

 まずい、幻聴が聞こえ始めたのかも。何とか閉店まで居たかったけどこれは休憩させてもらった方がいいかも知れない。

「新人さん、こっちだよこっち」

 もう一度声がする。聞き間違いではなかったようだが、もう私は頭痛がし始めていた。

 なんで窓の方から声がしているのかな。

「もしも~し」

 聞かなかった事にしたかったが、三度声をかけられてしまう。

「はい、申し訳ありません。ご注文をどう――」

 声の主を確認した私は、そのまま言葉を失う。

 格子状になっている窓ガラスの一つ一つに、無数の目と口が浮かんでおり、そこから声が放たれていたのだ。

 瞬間、プツンと何かが破綻する音が聞こえた。

「コーヒーと、んん、新人さん。だいじょ――」

 窓から放たれる声が遠のく。段々と周囲が無音になっていき、視界が霞む。

 やってしまった、と思ったときにはすべてが手遅れだった。

 せめて、せめて人の姿で居てくれれば、自分を誤魔化しきれたのに。

 私は、悔やみながら意識を完全に手放した。



 がちゃがちゃと音を立てる巨大な髑髏。どこからともなく聞こえてくる、けらけらと笑う女性の声や、気を滅入らせる謎の音。

 私はそんな、奇怪な存在が跋扈する、整備もろくにされていない、ただ何かが通って出来た道をひたすら歩く。

 キョロキョロと辺りを見回すが、目に入ってくるのはなんだかわからないものばかり。

 炎をまとって転がり続ける顔の付いた車輪、首の無い馬などが私を追い抜いていく。

「人間だ」

 不意に声が響き、顔を上げる。何かと目が合った。

 いや、違う。無数に浮かぶ目がこちらを見つめている。人間に似た目もあれば、動物に似た目もある。周囲に漂う霧に紛れて、大小問わず無数の目があちこちから私を見つめて居る。

 信号のように、様々な光を宿した瞳、瞳、瞳。

「人間だ」

 また声が響き、山彦のように、その言葉が広がって行く。

 気持ち悪い。耳に障る。

 瞳も、声も、好奇や侮蔑入り混じるが、その根底にあるのは警戒。

 四方八方からそんなものをぶつけられては、心が、ごちゃごちゃさせられる。

 針の筵の方がまだマシだ。

 私は、走り出す。一刻も早く、ここから離れたかった。ここから、脱出したかった。

 小さな体を必死に動かして、デコボコな、踏み固められただけの道を進んでいく。

 それでも、彼らは離れない。まるで、肉食動物のようにつかず離れず追いかけてくる。

 ごちゃごちゃで、気持ち悪い感覚がまったく離れない。

「あうっ」

 躓いた私は、顔面から地面へ倒れこむ。

 痛くて、苦しくて、気持ち悪くて、視界がじわじわと滲んで行く。

 がさがさと傍の草むらが揺れて、真っ赤なソレが姿を現す。

 小さな赤ん坊のようだが、肌は真っ赤で、やせ細り、お腹だけが異様に出っ張っている。

 窪んだ瞳がぎょろぎょろとカメレオンのように動いたかと思うと、私を捉える。

 瞬間、ソレは吠えた。

 とても表しきれない音。ただ、私を震え上がらせるにはそれで十分だった。

「ひっ!」

 ソレの声に応じたのか、同じ見た目の存在がワラワラと現れる。

 危険だと、脳が告げている。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てた。

 周囲で私を見ていた無数の瞳に憐れみが浮かび出すが、それで何があるわけでもない。

 集団となったソレが、一斉に、私に向かってくる。

「っ!?」

 声は出なかった。

 私は体を丸めて目を閉じた。それしか、身を守る術など知らなかった。

 しかし、ソレが私に触れる事はなかった。

 いつまで経っても何も起きないので私はわずかに目を開けると、ソレが、さっきまでの私のように、小鹿のように震えている。

 周囲で私を観察していた存在達も、おののいているのが伝わってくる。

「え、あ?」

 霧だ。霧が、立ち込めている。

 なんだか、優しい。そう感じる、温かな霧。

 その向こうに、ゆらりと影が浮かぶ。不思議とそちらには恐怖は覚えなかった。

 影が霧と共に徐々に近づいてくる。

 私を襲おうとしていた赤肌の子供達が散り散りになって逃げて行く。

 気付けば、影はすぐ傍までやってきていた。

「おやおや。人の子ではないか」

 霧という御簾の向こうで、影が呟く。そこにあるのは純粋な疑問。

 暫しの沈黙の後、影がそっと手を差し伸べてくる。

「来なさい。ここは、アナタの居るべき場所ではない」

 一人さ迷うか、それとも影と共に行くか。選択の余地など、私にはなかった。

 おずおずと、その手を取ると、コタツのような暖かさを覚えた。

「いずれ、また会う事もあるだろう――」

 その先の言葉は、聞こえなかった。私は眠りの中へと落ちて行く。


 それは、ずっと昔の記憶。



 目を開けると、見知らぬ天井。

 寝てる。私は、仕事をしていたはず。

 咄嗟に跳ね起きると、後頭部に激しい痛みに襲われる。

「あっく!?」

「ああ、もう。頭から倒れたんだ、無理をするんじゃない」

 傍に居た秋葉さんが肩に手を添えてくれる。

「ありがとうございます。って、秋葉さん!?」

「どうした、素っ頓狂な声を上げて?」

「いえ、あの、だって、わあああっ!?」

 ふと目に入った時計を見た私はさらに素っ頓狂な声を上げる。

 日付が変わってる。お店もとっくに閉めた時間だ。秋葉さんがここに居るわけである。

「わ、私こんな時間まで!」

 完全にやらかしてしまった。

 一瞬で全て思い出したら、サッと血の気が引く。営業時間中に倒れるなんて大失態にも程がある。

「あ~、うん。それなら、まあ気にしないでくれ」

 頭を下げる私に、秋葉さんはそっと目を逸らして頬を掻く。

 むしろ彼女の方が申し訳無さそうだった。

「そんなわけには」

「いや、良いんだ。半分は私の勘違いが原因みたいなものだし。うね子達と同じ感覚で居たから。君が人間だって失念してた」

 その瞬間、なんだか乾いた気持ちで、ああ、と内心頷いてしまった。

 目の前に座る秋葉さんは、仕事の時と同じ、耳や尻尾を生やした姿のまま。

 私とは、根本が違うんだ。

「あの、秋葉さんも、お店の皆さんも、その、妖怪、なんですね」

「え?」

「あれ?」

 私の呟きに、秋葉さんは首を傾げる。私もつられれて首を傾げた。

 変な事を言ってしまったのだろうか。むしろ言ってしまったのだろう、これは。

 神妙な面持ちで秋葉さんは煙草盆を引き寄せ、煙管をくわえる。火種もないのに、煙が上がった。

 ふう、と息をついた秋葉さんは、その金色の瞳で、私の目をじっと見つめてくる。縦長の瞳孔が特徴的な、典型的な、狐目だ。

「君は、私達のような存在を知らなかったのかい?」

「あっ」

 はっとなり、今度は私が目を逸らす。

 そう、そうだ。何て迂闊なんだ、私は。目が覚めたら秋葉さんの姿が仕事の時と変わっていない、あれが夢ではなく現実であると言う事にまず驚くのが普通の反応だろう。

 起きてから普通に会話をしていたのだから、秋葉さんの反応はむしろ正常だ。

 この状況で取り繕う、と言う選択はなかった。

「その、見かけた事はありますが、本当にそうだって、確証はなかったと言いますか」

 小さかった時の事だし、夢で見るまで忘れていた事だから、尚の事。どこか現実として捉えていなかったのだ。

「なるほど。まあ私達だって、人間達とは深く関わらないようにしているからね。そういう事もあろうだろうさ」

 秋葉さんはあっさりと、同意してくれた。

 私は胸を撫で下ろす。

「ふふ。しかし君は面白いね。妖怪の実在より、初日の仕事の方が重大事だったわけだ」

 苦笑する秋葉さんの耳や尻尾がくすぐったげに動く。言葉とは裏腹に、嬉しそうにも見えた。

 しかし、すぐにその目は鋭い光をたたえ、カンと煙管が打ち鳴らされる。

 すぐにいずなちゃんが現れる。持って来た湯飲みを受け取り、秋葉さんは私に差し出す。

「これ、は?」

 くさやを糠漬けしたような凄まじい臭いに、すぐにでも鼻を押さえたかったが、我慢して尋ねる。

「薬だよ。記憶を消す類の、ね」

「な、なるほど」

 名状し難い、あえて言うならカオスな色の液体が、これでもかとばかりに気泡を浮べている時点で、普通の飲物ではないと思っていたけれど、納得。

 ただ、記憶以外にも色々と失いそうな気がする。

「って、効能聞いちゃっていいんですか!?」

「ああ、構わない」

「和乃さん、それは姐さんの計らいです。ご自身で、選んでください」

「え?」

「よっこいせ」

「あれ、姐さん?」

 キョトンとしていると、秋葉さんはいずなちゃんの首根っこを摘んで部屋の外へと出て行く。

 暫くして、乱れた着衣を直しながら秋葉さんは戻って来た。

 取り残されている間に、色々な音が聞こえていたけど、一体、何があったんだろう。

「ごめんね。お仕置きが長引いた。もう遅い時間だし、手短に済まそう」

 今さらっとお仕置きとか言ったけど、うん。聞かない方が身の為かな。

 秋葉さんは改めて、ぐつぐつした中身の入った湯飲みを指し示す。

「さっきも言ったとおり、それは私達に関わる記憶を消すためのモノだ。だけど、飲むかどうかは、君の意思にゆだねる」

「それで、いいんですか?」

 正直、有無を言わさず飲まされない事が驚きだった。

 すると、秋葉さんは今日だけで何度も見せてくれた優しい笑顔を浮べる。

「何も知らない君が、私のお店へやって来て、働いてくれた。その様子から、私は、君を信頼できると思った」

 信頼。秋葉さん達が妖怪である、と言う事を踏まえると決して軽くない言葉だ。

「何より、今後も働いてもらえるならありがたいと思っている。それだけだよ」

 その言葉が俯きかけた私の心に、陽射しとなって降り注ぐ。

 ダメ、顔が真っ赤になりそう。

「ありがとう、ございます」

 声が震える。

 真っ先に出たのは、感謝だった。

 秋葉さんの優しさだとわかっている。それでも、嬉しさが全てを上回る。

「私も、改めて思い返せば、秋葉さんのお店、とても素敵だと思います」

 当然、お店の事も、お客さんも含めて妖怪だった事には驚かされたし、夢か現実かあやふやで目眩がしたのは事実。それでも、不思議と、逃げ出したい、と言う衝動は一度もなかった。

 とても安らいだお客さん達の姿と、それを提供しているお店の姿があってこそ、私はギリギリまで仕事が続けられた。

 たった一日だけど、そんな関係に私は惚れ込んでいたのだろう。

「だから、もっと見ていたい。もっと一緒に働いてみたい、って」

 色々な事が多くてまだまとまらないままに、とにかく思いだけが口をつく。

「それに、私、記憶がなくなってもまたお店に来ちゃうと思うんです」

「へえ」

 秋葉さんはとても興味深そうに大きく首を振ると、 不意に、私の肩に手を置いた。

「なら、決まりじゃないか」

「え、あ、あれ? そうですね」

 湯飲みが、遠ざけられる。

「それなら、和乃さん。改めて、これからもよろしくね」

「は、はい。ふああ」

 秋葉さんの柔和な笑みに頷きながら、体中の力が抜けていく。

「おやおや。ふふ。ゆっくりお休み。今日はありがとう。本当に助かったよ」

 霞む視界の中で、包み込むような声を聞いた。

「人を泊めるなんて、初めてだね」




「はあ~」

 秋葉さんの所から戻った私はベッドに突っ伏して盛大に声を上げた。

 妖怪のお店でバイトなんて、凄い事になってしまったものだ。

 一夜明けても、秋葉さんは至れり尽くせりだった。

 お風呂も借りれたし、朝ごはんまで容易してもらった。

 いずなちゃんと一緒に食べた、フレンチトーストは絶品だった。

 思い出したら涎が出てきた。

「親しい人にも、ナイショにして欲しい」と秋葉さんは言っていたけど、誰に話せるものでもない。

 そんな話をした所で、良くてジョーク、悪いと変人になってしまう。

「あ~、でも父さんなら信じるかも」

 時々妖怪のお店ですら可愛く思えるような、突飛な事言い出すし。

 携帯に手をやるが、私はすぐに投げ出した。約束は約束だ。

 やっぱりまだ疲れが抜けてないのか、うとうとしてきた。

「和乃さーんっ」

「わわっ!」

 しまった、忘れてた。

 枕に埋めた顔を持ち上げ、跳ね起きる。

「和乃さ~ん」

 再びの呼び声と共に、ドアがコンコンと鳴らされる。

 私は急いで玄関のドアを開けた。

「ご、ごめんなさい!」

 玄関の前では行儀良く、いずなちゃんが立っていた。

 秋葉さんに言われて一緒に来たのだけれど戻ってきて気が抜けたせいで失念していた。

 少し片付けると言って待ってもらってたんだった。

「いえいえ。あの、もう入って大丈夫ですか?」

「うん。どうぞどうぞ」

 頭を掻きながら、部屋に上がってもらう。

 適当に座ってもらい、私はお茶の用意をする。

「わぁあ」

 いずなちゃんは物珍しそうに目を輝かせて室内を見回している。

 うわ、本、床に積んだままだ。やっぱりちゃんと片付けるべきだった。

 とは言え、今日のこの来客も急だったし。

 うん、また今度、いつでも、誰が来てもいいように掃除しよう。

「はい。お茶、どうぞ」

「ありがとうございます」

 お茶を一緒に飲んで一息ついた所で、再びいずなちゃんはキョロキョロと部屋を見始める。

 その姿は、本当に子供のようだ。他の人が見ても親戚の子で通るかな、うん。

「珍しい?」

「ああ、私ったら、すみません」

 いずなちゃんは小さくなってしまう。う~ん、可愛いな。

「いいのいいの、気にしないで。ただ、そんなに大層な部屋じゃないし、と思って」

「私、お店から出た事なんてほとんどないから、新鮮で。でも、秋葉さんといつも一緒ですからね」

 ニッコリと彼女は当たり前のように笑顔を咲かせる。

 本当に、秋葉さんと一緒に居れるだけでいいんだ、と私は思う。

 秋葉さんがいずなちゃんと一緒に、と言った時、その理由を「気を悪くしないでくれ。私は信用しているが、こっちの社会的にそれで頷かないモノが居るんだ」と説明していた。

 要は監視だが、きっとそれは半分にも満たない、表面上の理由だ。

 秋葉さんは、いずなちゃんに色々と見せたかったのではないだろうか。

 まあ、それが私の部屋である必要性とその効果を考えると悲しくなってくるが、同時に、信頼を受けているのだと思うと嬉しくもある。

 つくづく、さっき父さんにメールをしなくてよかった。

「散らかさない程度になら、色々触っても大丈夫だよ」

 その瞬間、いずなちゃんはポンっと耳と尻尾を飛び出させる。

 でも、と言葉を濁らせるが、尻尾がフリフリと素直に動いている。

 よほど衝撃、というか嬉しかったのだろう。これでダメと言えるのは恐らく機械だけだ。

「ああ、大丈夫大丈夫。見ての通り、私もそこまでこぎれいにしてるわけじゃないし、そんな大層なものもないから」

「じゃあ、その、失礼します」

 言うが早いか、いづなちゃんは立ち上がり、あれこれ観察を始める。

 手にとってみては満足したらすぐ次に、とまさに興味津々。

 あ、三色ボールペンに食いついた。お店じゃ使う用事もないし、あのカチカチってペンを変えられるのは小さい頃はカッコいいアイテムに見えたものだ。

 微笑ましいいずなちゃんの姿を見つめつつ、私は改めて情報の整理にとりかかる。

 まずは平積みしてある本の塔のうちのひとつ。趣味の塔から『身近な妖怪図鑑』を手に取った。

 秋葉さんといずなちゃんは、狐の妖怪だ。特にいずなちゃんは管狐と呼ばれる、使役される存在だ。普段は管と呼ばれる中に入って、主人に憑いて回り、主人の命令によって色々な役をこなす。

「ん~」

 なんだか、違う。少なくとも、ここに書かれている管狐といずなちゃんには明確な違いがある。

 まず、使役者が人間ではなく、秋葉さん。つまり妖怪だ、と言う事。

 さらに、管狐は最終的には七十五匹にまで増えて、管理を怠ると使役者を食い殺す事もあるようだが、いずなちゃんは一人だけだ。増える様子はない。

 そして何より、関係性があきらかに違う。

 管狐と使役者の関係は、かなり機械的だ。時々エラーを起こす事を覗けばプログラムした通りに動いてくれるイメージだけど、二人は違う。

 もっとこう、明確な信頼に基づいた主従関係だ。呼び方も姐さんだし、家族に近い。

 ゴッドファーザーならぬ、ゴッドシスター、なんてね。

 秋葉さんが、わかりやすく言っただけの可能性もあるし、今は二人が狐の妖怪だって事がはっきりしていればいいかな。

 それに、実際に存在している相手に、空想を前提に書いたこの本がどこまで役に立つのやら、ってそれはそれでちょっと悲しいかな。

「あ、そうだ」

 うね子さんは、一体何の妖怪なのだろうか。

 類似性のありそうな記載はないか、私は狐のページから目次に戻ると、端からじっくりと読み始める。

 どのページも内容はほぼ覚えていると言っていいが、細かい所は自信がない。

 その間も、いずなちゃんの動き回る音はしっかり聞こえていた。

「これは、いや、まさかね」

 ページも終わりに近づいた所で、私はある妖怪の記述に目を付けた。

 ある意味、完全にうね子さんを表している内容だったが、逆に言えばあからさま過ぎて、違う気がしてくる。

 候補と言う事にして私はさらにページをめくるが、結局目についたのはそれ一つだけだった。

「ふぅ」

 一息ついて本を閉じる。本を読む、頭を回す、と言うのは見た目よりエネルギーを使う。

 お茶に手を伸ばそうとして、いつの間にかいずなちゃんがそばに座ってじっとこちらを見ている事に気がついた。

「どうかしたの?」

「あの、その本は? 表紙がずいぶんと使い込まれているようですけど」

 妖怪図鑑に興味を惹かれたようだ。

 言われてみれば、焼けではなく手垢で色が変わったのはこれが最初だったかもしれない。

「そうね。私が初めて自分で選んで買ってもらった本だから」

 思い入れは、きっとこの部屋の中にあるどの本よりも深い。

 頷きながら、いずなちゃんは私の脇にある趣味のブックタワーと図鑑を何度も見返し、子犬のように首を傾げた。

「どれも妖怪に関連する本ばかりですね」

「え、そうかな?」

 改めてみてみると、大学と関係のない本は、そのほとんどが民俗学や山岳信仰関連の本ばかりかも知れない。

 指摘されなければ、集めた本を見返す事なんてほとんどないから、少し新鮮な気持ちだ。

「そうですよ。私達の存在を知らなかった事がびっくりなくらいです。何か、こういうのってきっかけとかあるんですよね?」

 いずなちゃんは目を輝かせて尋ねて来る。この目は、よく知っている。

 自分の知識があってるか確かめたい時にはこうなるものだ。

 お店と秋葉さんの家からほとんど出た事がなかった彼女にとって、これはいい機会、なんだ。

 それなら、私もちゃんと答えないと。

「確かめたい事が、あったからね」

「確かめたい事、ですか?」

 キョトンとした様子で彼女は聞き返してくる。予想していなかった返答だったようだ。

「うん。まあ、でも半分くらいは確認できちゃったかな」

「よくわかりません」

「ごめんね。私も、そうとしか今は言えないから」

 苦笑するしかない私に、いずなちゃんは少々頬をふくらせつつ、わかりました、と頷いた。

 本当にいい子だ。申し訳なくなるくらいに。

 秋葉さんではないけれど、そばに置いておきたくなる。

 その時、室内に唸り声が響き渡る。

「あう」

 何事かと思った矢先、顔を真っ赤にしていずなちゃんが俯いた。

 時計を見ればもうお昼も近い。本を読んでいる間にこんなにも時間が過ぎていたんだ。

「お昼、食べに行こうか」

 小さく頷くいずなちゃんを連れて、玄関へ。

 私は、ふっとドアに手をかけて振り返り、テーブルの上に置いた妖怪図鑑を見やる。

 脳裏をよぎるのは、夢でもみたあの霧の道の光景。

 アレは現実。はからずも、秋葉さん達のおかげで、それが確認できてしまった。

 だとしたら――やはり確かめたい。今すぐに、とは行かないだろうけれど、いずれ、残った半分を。

 部屋を出る私の胸には、萎れかけていた思いが、望みが、再び頭を上げつつあった。


「し、信じられません。こんな食べ物があったなんて」

 牛丼屋から出ると、いずなちゃんはよほど満足したのか、つやつやになった顔でオレンジ色の看板を見上げた。

 信じられません、か。

 私は思わず苦笑する。

 同じ言葉でも、ニュアンスがここまで違うなんて。

 そもそも、いずなちゃんは最初ファストフードに興味を持ったので、そこでお昼にするはずだった。

 ところが、ハンバーガーとかには目を輝かせていたのに、飲料のマシンを見た瞬間、目が据わって、服の裾を引っ張ったと思ったら開口一番。

「出ましょう。このお店には誠意を感じません」

 わけがわからないままお店を出ると、彼女はカンカンだった。

「し、信じられません。和乃さん、さっきの見ましたか?」

「ドリンクサーバーの事?」

 いずなちゃんは何度も頷く。彼女は、そのまま原液を薄める提供方法への不満を力説した。

「名前は知りませんけど、あの飲物の機械です。水を混ぜるなんて!」

 とりあえずまとめると、「あのマシンはこれでも飲んでいろ、と言う店の傲慢さの現れであり、そんなお店にお金を払うことはない」と言う事のようだ。

 何を選んでどういう抽出をしたのかがわからないコーヒーや紅茶なんて、お客に出すものではない等々、語られていたがあまりの長さに半分も覚えてない。

 ちゃんとミル搭載のコーヒーマシンには、利便性とかで評価してたのは意外だけど。

 とにもかくにも、濃縮還元方式がお気に召さなかったいずなちゃん。

 その後も色々と興味を持ったお店の中から、牛丼に落ち着いた。

 なんでも、彼女の鼻に訴えるものがあったようだ。

 結果は、ご満悦。

 一方、私は久しぶりの牛丼だったが、味をよく覚えてない。

 一人で入る分にはそこまで抵抗はないのだけど、今回はいずなちゃんが店に入ってから商品が出てくるまでの間に、あれこれ興味を持っては質問してくるものだから、目立ってしまい、ちょっと肩身が狭かったのだ。

 でもまあ、いずなちゃんがこんなに喜んでくれているので良かった。

 私が秋葉さんからいただいたコーヒーや朝ごはんに比べたら、足りないくらいだろうし。

「こ、これは姐さんに言って、お店でも提供を――」

 いや、そういう食べ物じゃないんだけど、水を差すのも悪いか。

 それに、秋葉さんがメニューに並べるとも思えないし。

 ふと、私は時計を確認する。お店選びに時間がかかったのもあって、バイトへ向かうのに丁度いい時間だった。

 その時、携帯電話に着信が。画面を見ると、今朝登録したばかりの、よろづや茶寮の文字が。

「はい、八智です」

「ああ、和乃さん。もうこっちには向かってる?」

「いえ、これから向かおうとしてました」

 私の返事に、秋葉さんが少しだけほっとしたような息遣いが電話口から聞こえた。

「それなら、お願いしたい事があるんだけど、いいかな?」

「大丈夫ですよ――はい、わかりました」

 秋葉さんからの頼まれたのは、しごく簡単なものだった。

 電話を切った私はいずなちゃんに事情を説明。ささっと自転車を取りに戻ってから、秋葉さんに言われた通り、駅前通りの掲示板に張られたよろづや茶寮の張り紙を回収する。

 私が正式に採用されたので不要になったのだ。張り紙があったスペースだけ真新しい板面が現れた。

「あの、和乃さん。ちょっといいですか?」

 言われるままに張り紙を渡す。いずなちゃんはじっと書かれた内容を見つめると、首をかしげてこちらを見上げてくる。

「えっと――」

「いこっか」

 私は、問いかけを遮るようにして笑いかける。

 いずなちゃんはわずかに目を伏せ、小さく頷いた。

 ちょっと悪いことしたかな。

 私は周囲を窺って自転車の荷台をポンポンと叩く。いずなちゃんの表情が一転。夏の陽射しにも負けない晴れやかな笑顔になる。

「し、失礼します」

 元々自転車のサイズが高いので、悪戦苦闘しつつ彼女は荷台に腰を下ろした。

 膝を横にそろえて乗るのを見ると、私はクラクラっと来てしまう。

 うん、そうだよね。普通はそうやって横乗りだよね。私だったら、迷わず荷台またいで乗っただろうな。

「しっかり掴まってね」

「はい」

 ワクワクを押さえられないとばかりに、いずなちゃんは私の腰に腕を回して体を預けてくる。

 瞬間、激痛が背骨を駆け抜ける。

「あがっ!?」

「あっ!」

 カエルみたいなとんでもない声を上げてしまう。

 驚いたいずなちゃんがさっと手を放した。

「ごご、ごめんなさい!」

「ああ、いいのいいの。今のは私が悪かったから」

 私はいずなちゃんの頭をなでて落ち着かせる。

 完全なミスだ。いずなちゃんが妖怪だって事を完全に失念してた。

 この半日で近所の女の子みたいなイメージをもってしまった。骨がずれるとすら思えたパワーは、やっぱり妖怪なんだと再確認させられる。

「落ちない程度でお願いね」

「はい、すみません」

 シュンとなったいずなちゃんは今度はソフトに抱きついてきた。

「ほら、そんなに気にしないで。おかげで少し背筋が伸びた気もするし。顔上げてないと、景色、見逃しちゃうよ」

「はい、ありがとうございます」

 はにかみながらも顔を上げたのを確認して、私も頷く。

「よし、行こっか」

 いざこぎだそうとした私は、道路の反対側に止まっていた自動車に目を取られた。

 黒塗りの高級SUV。変わった所は何もないはずなのだけど、気になってしまう。

 夏の蒸し暑さとは違う、まとわりつくような視線みたいなものを感じる。プライバシーガラスで見えなくなってる後ろの座席がだんだんと怪しく見えてきた。

「和乃さん、やっぱり痛みますか?」

 心配そうにいずなちゃんが聞いてくる。

 どうやら、走り出さないので勘違いさせてしまったらしい。

「ううん。ちょっと目にゴミがね」

 私は首を降って、適当に誤魔化してゆっくりと走り出す。

 結局、あの気に障る気配は通りを出るまでついて回るのだった。



「はい、到着~」

「ありがとうございました。素敵な体験でした」

 よろづや茶寮の前に自転車を止めると、ぴょんと飛び降りていずなちゃんはぺこりと頭を下げる。

 普段はお店の外には出ないと言っていた通り、ここに着くまで、通り過ぎていく風景の一つ一つに目を奪われていた。

 ついつい私のスピードもゆっくりになっていき、気付けば開店三十分前。服を着替えたり準備する事を考えるとギリギリの時間になってしまった。

「こちらこそ。私も楽しかったよ」

「自転車の風、とっても気持ちよかったです。その、また、お願いしてもいいですか?」

「もちろん」

 笑顔の花を咲かせたいずなちゃんは、今一度お辞儀をすると、小走りでお店へ戻って行く。

 お店の脇に自転車を止めると、真っ赤なカゴを背負った郵便局の原付がお店の前に止まる。運転していた人に私は見覚えがあった。

「おう、お嬢ちゃん。元気そうで何よりじゃ」

 相手も同じだったらしく、挨拶がてらにこちらへ歩いてくる。

 だんだんと私の首が上へ傾く。原付が三輪車みたいに見える巨体に、ようやく私はピンと来る。

「天狗のおじさん」

「覚えとってくれたか。派手に倒れたでな。全部忘れたかとおもっとったわ」

 いずなちゃんとは対象的な、豪快な笑い声を上げる。私は曖昧な笑顔を返した。

 何しろ、それしか覚えてないのだ。

 名前を教えてもらったはずだが、三人組だったし、義兄弟がなんたらと言うので名前が似ていた事もあり、顔が一致しない。

 源一さん、いやニの方だったかも。源三さんは、確かもう少し小さかったような。

 おじさんはおもむろに私の肩を掴む。強いけど優しい力具合だ。

「うむうむ。すっかり良くなっとるようだな」

「あ、ありがとうございます。昨日はお騒がせしました」

 私は慌てて頭を下げる。

 昨日はお客さんにも迷惑をかけてしまっていたんだ。

「なあに、秋葉殿から事情は聞いとる。しかしその様子では今後も続けるようだの」

「はい」

「んなら、今後ともよろしくな。名前、ちゃんと覚えてくれよ」

「あはは、すみません」

 私はがっくりと肩を落として項垂れる。

 バレてたとは、恥ずかしい。

 なお、源二さんでした。

「それじゃ、こいつを頼んでよいかのう」

 そう言って源二さんは郵便物を差し出す。

 一枚、変なのが混じってるけど、どれも秋葉さん宛だ。

 私はしっかりそれを握りしめた。

 別れ際に源二さんはブンブンと丸太みたいな腕を降りながら去っていく。乗っている原付が本当に、おもちゃみたいだった。

 思ったより話し込んでしまったので、私は慌ててお店に駆け込んだ。



「やあ。今日はありがとう」

 お店へ入ると、秋葉さんから、いずなちゃんの件でお礼を告げられてしまう。

「そんな、こちらこそ楽しかったです。ありがとうございます。それと、これ郵便物です」

 私もお礼をして、郵便物を渡す。

「ところで、その」

「うん?」

 ほとんどが請求書やDMの印字がある中で、私は気になっていた郵便物を指して尋ねる。

「九十九神管理委員会ってなんですか?」

 瞬間、秋葉さんはの口から煙管が滑り落ちる。

 カウンターに落ちる前にキャッチしたが、その顔には驚きがありありと浮かんでいた。

 う、これはやってしまったかも。

 秋葉さんは、私が差した封筒の差出人の名前を何度か見返す。

「和乃さん、君は」

「あ、そろそろ時間ですね。すぐに着替えてきます」

 私は話しを強引に切り上げて逃げるように更衣室へ。

 扉を閉める寸前、「やれやれ」と苦笑する秋葉さんの声が届いた。

「うう~」

 私はロッカーにもたれかかる。気付かれたかな、気付かれただろうな。

 でも、秋葉さんは案外おおらかだし、気にしてないかも知れないし。

 自分に言い聞かせて気持ちを落ち着けながら、 できるだけ迅速に着替えを行う

 和装は多少面倒だが、結局は楽器と一緒だ。ちゃんと覚えたら焦っていても手順は踏める。

 帯を締めた所で、ドアが開いてうね子さんが入ってくる。彼女は特に驚いた様子もなく、ロッカーを上けると、隠れるようにその影に滑り込んだ。

「あの、昨日はお騒がせしてすみませんでした」

 私は先んじて、頭を下げる。ん、と小さく頷く声が聞こえた。

 直後、ロッカーのドアが閉められ、着替えを終えたうね子さんの姿が現れる。昨日と変わらず速い、速すぎる。刹那、と言う単位が適切なくらい。

「話は、聞いてる。体、気をつけてね」

 ちょっと呆気に取られていると優しい声をかけてくれる。私は一礼を返した。

「はい。改めてよろしくお願いします」

 次の瞬間、私の視界に帯が映る。

「あっ」

「え?」

 体を起こすと、服が全開。諸々丸見えだ。

「うわわ、あ、えっと」

 慌てて帯を拾い上げて着直そうとするが、手が震えてうまくいかない。

 恥ずかしいし時間はないしで焦れば焦る程に頭の中がごちゃごちゃになって体が動かない。

 その時、こつっと軽いショックと共に視界が埋まる。うね子さんが額を当ててきたのだ。

「落ち着いて。そのまま動かない」

 驚きのあまり固まる私の手から帯が取られる。他にしようもなく、目を閉じると、ほのかな息づかいが聞こえて、ようやく気持が平常に戻り出す。

「終わった」

「え、あれ?」

 うね子さんが離れると、服装は完全に元通りどころか、昨日よりもきっちりフィットしている。まったく手の動きを感じない、真に目にも止まらぬ早業だった。

「どう?」

「か、完璧です」

 他に答えようがない。

 満足そうに頷くうね子さんに、何度も頭を下げる。もう昨日から皆さんには感謝しても仕切れない。

 そのまま一緒にホールに出向く。何とか開店時間には間に合ったようで、いずなちゃんが看板を閉店からかけ変える所だった。

 それにしても、と私は考える。

 あの着替えの手際といい、一拭きでピカピカにしてしまう掃除力といい、やはり彼女はあの図鑑で見かけた妖怪なのだろうか。

 しかし、あえて聞くのも気が引ける。来客のベルに私は考えをゴミ箱に放り込む。

 いずれ機会があったらでいいよね。




 よろづや茶寮は常連さんが実に多い。

 開店からずっと、昨日もいらっしゃったお客さんばかりだった。

 夕方を過ぎると、ほとんどが昨日私が倒れた時に居合わせた人たちだったので、気遣う声をかけられてばかり。特に、顔が二つある、どうもこうもと言う妖怪さん。皆からはどうこうさんと呼ばれているこの妖怪さんは、倒れた私の診察をしてくれたようで他のお客さん以上に経過を気にしてくれた。

 人間社会では小さな診療所もやっているそうだ。そんな調子なので私も謝りっぱなしだったが、無事だとわかると自分の事のように喜んでくれた。

 途中、秋葉さんがお客さん達に私を人間として紹介する場面があった。

 最初は驚きや警戒の色を浮かべる方が多かったものの、仕事の中で会話を交える内にすんなり受け入れられてしまった。

 秋葉さんの太鼓判が大きかったのは間違いないないけれど、同時に人間社会で仕事をしている妖怪達が多かったのも要因だった。医者をしているどうこうさんや、郵便局に勤める源二さん達天狗の三人衆の方々に留まらず、お客さんの八割方が何かしら人間社会で定職に就いていると言うのは驚きだった。

 そして気付けば、天狗の皆さんは完全に出来上がっていた。

「ほれほれ、和乃ちゃんも一杯」

「いえ、私未成年ですから」

「大学生なんじゃろ? それなら問題ないでねえか。新聞でもよう呑んどると聞いたぞ」

「和乃ちゃんが主賓なんじゃ。一杯とは言わんで、ほれ一口」

 ううん、参ったな。

 私の快気と歓迎だ、と言い出して呑み始めたのは良かったのだけど、呑め呑めと絡まれてしまった。

 未成年だし仕事中だし無理なものは無理、と言うのだけど、なかなかに押しが強い。他のお客さんも大なり小なり相伴に預かっているので温かい眼差しをくれるだけだ。

「ほらほら、そのくらいにしといてくれ。代わりと言っちゃなんだけど、秘蔵の一本だよ」

 見かねた秋葉さんがカウンターから出てきて助け船を出してくれる。差し出された一升瓶には大山積と書かれている。なんだか寿命が縮まりそうな名前だけど、源二さん達はもちろん、お客さんのほとんどの目の色が一変する。

「こ、こいつは幻の銘酒じゃねえかっ」

「よく今まで残ってたもんだ」

声を震わせて誰もがまじまじと一升瓶を見つめる。

「そんなに凄いお酒なんですか?」

「んー、まあね。大山津見って神様が造ったお酒でね。この国初のお酒を造っただけあって、腕前は最高なんだけど気が向いた時にしか造らないからね。希少は希少かな、って大丈夫かい?」

「はっ、はい大丈夫です」

 行けない行けない。想定外過ぎて呆けてしまった。

 神様って、そうだよね。妖怪が居るのに神様が居ないわけないものね。

 それに、名前の通り、本当にオオヤマツミ様が造ったんだとしたら、逆立ちしたって今後たしなむ機会なんてないだろう。心が少しだけ揺れる。

 私もついつい酒瓶を見つめてしまう。

「あれ?」

 気のせいかな。瓶の蓋開いてるような、量も心なしか少ないような。

「あの、それ開いて」

「そうだね」

 私の質問が終わる前に秋葉さんは頷く。その顔にはうっすらと朱が入っていた。

 よく見ると、白い肌が桜のように色づいていてとても艶やかだ。

「もう飲んでるじゃないですか!?」

「はっはっはっ。こんな時でもなければ私も開けられなかっただろうしね。お~い、うね子」

「何?」

 秋葉さんは水のおかわりを配っていたうね子さんを呼ぶと、水差しと一升瓶を交換する。

「みんなに振る舞ってやってくれ」

 おお、と店内がどよめきに包まれた。

「ただし、うちの従業員をこれ以上困らせないように」

「こりゃ参ったな。そんなこと言われたんじゃ、注文も出来なくなっちまう」

 おどけた調子で源二さんが返すとお店がドッと沸く。笑いに包まれた席を、グラスを抱えていずなちゃんと回りながら、うね子さんはお酒を注いでいく。

 その様子を横目に、天狗の皆さんから「すまんかったの」とか「堪忍な」と声がかかる。

 少し困ったけど、別に不快だったりしたわけでもないので「いえ、お気になさらずに」と私は返したが、秋葉さんに腕を掴まれカウンターまで連れてこられてしまったため、ちゃんと聞こえたかはわからない。

 カウンター席の前に立たされると、見計らったようにうね子さん達もお酒を配り終えてやってくる。

 そしておもむろにグラスを渡された。

「え?」

「ん」

 気付けばいずなちゃんが瓶を持ち、早く注がせてくれとばかりに尻尾を揺らしている。

 これは、ダメなんだろうな。

 私はあきらめて、なめる程度の量だけ注いでもらう。うね子さんと秋葉さんにもお酒が回り、最後にいずなちゃんもグラスを持つ。

 ここまでされれば、もう次の流れは予想できる。誰もお酒に手をつけないでこっちを見てるし。

「えっと、まあ皆もういいよね」

 秋葉さんの言葉に皆頷いてグラスを掲げる。

「八智和乃さん。うちの新人さんを皆よろしくね。乾杯」

 乾杯の合唱。私もそこに声を重ねて、お酒を呑む。

 初めてのお酒ではあったけれど、雰囲気もあってか、とても美味しく感じられた。体に透き通るような錯覚すら覚えた。

 グラスを空にした皆が、よろしく~、と口々に言ってくれる。

 気恥ずかしくなって俯いてしまうが、同時に喜びにも満ちていた。

 これでようやく、本当にこのお店の従業員になれたんだ。

 お酒が入ったからか、夜はあっという間に更けていった。



「はい、コーヒー三貫に紅茶が二貫ね。それと砂糖と塩が三貫ずつ、と」

 市内の外れ、よろづや茶寮とは正反対の方向にある食品問屋・あずきあらいで、私はがっくりと肩を落とす。

 目の前ではドックフードみたいな袋がポンポン積み上げられていく。

 バイトを始めてから一週間。仕事にも慣れてきた所で頼まれたのがこれ。荷物の受け取りと聞いて、二つ返事でOKしてしまったのだが、先に詳細を確認するべきだった。

「本当に大丈夫かい?」

 左足にギプスを付けた初老の男性が松葉杖片手にやって来る。

 このお店の店主で、お店の名前通り、あずきあらいの浩さんだ。普段は浩さんが車で配達してくいるそうだが今は見ての通り。倉庫整理でバランスを崩して倒れてしまったそうで、私の出番となった。

「大丈夫ですよ。こっちに来るときと同じくらいの荷物ですから」

 私はちょっと固くなった頬で笑い返し、自転車のキャリアを叩いて見せる。

 まあ、東京からここまで自転車を転がして来た事を考えれば大丈夫だろう、自転車は。

「ふふ、頼もしいねえ」

 商品を運びながら、浩さんの奥さんは微笑む。

 私からすれば、砂糖と塩の計六貫を片手で抱えちゃう奥さんの方が頼もしい。

「ったく、俺ももう少し若ければな。骨折ごとき、一日だってのに」

「どうこうさんに半月って言われたでしょ。大体あんた、若い時でも三日は歩けなかったじゃないか」

 うーん、妖怪の人ってやっぱり私なんかより丈夫なんだな。

 私は二人の仲睦まじい会話を聞きながらキャリアに荷物を積んでいく。私じゃ三貫を両手て抱えるのが精一杯だ。もっと持とうと思えば出来るけど腰が不安なので無理はしない。

 全て積んだらゴムバンドで固定。タイヤが結構平らになってしまった。

「じゃあ、秋葉さんによろしく伝えてくれ。足が治ったらコーヒーのみに行くから、とね。あとこいつは、いつもひいきにしてもらっている御礼だ」

「わあ、ありがとうございます」

 オマケをカバンにしまうと、覚悟を決めて地面を蹴った。

 いざ走り出すとペダルが重く、こぎだしと一緒にフヒっ、と人には聞かせられない声まで上げてしまう始末。おかげで、信号が多い街中を抜けるときは結構な注目を集めた。

 興味ならいいけど、微妙に憐れみっぽいのが含まれてたのはキツかった。

 ギアを最低に設定。商品を落とさないよう、スピードは無視。バランス重視で突き進む。

 徐々に人家の影がなくなっていき、自然が溢れる。お店の前に繋がる川原道だ。

 草木に清流。自然の涼しさに身を任せて自転車を転がしていく。昨日の夜は派手に雨が降った事もあり、町中は蒸していたが、こちらはむしろ空気をひんやりとさせてくれている。

 私が運んでいるものの性質上、のんびりしていてはいけない状況だけど、急いでばら撒くハメになるよりはマシだ。

「あれ?」

 信号もなく、スピードが乗って来たのでギアを一つ上げてみようかな、と思った矢先、川原に転がる影が目に入る。

 これだけ自然が残ってれば野生動物が川で水を飲んでてもおかしくない。影は小さいし、動物でも通報は必要ないだろう。だが、野生動物だと思うには違和感があった。

「あっ」

 影がしっかり視認できる距離になった私は慌ててブレーキをかける。自転車の後輪がグラグラするがどうにか持ちこたえた。

 ありがとう舗装路。

 自転車を道端に寄せ、私は土手を駆け降りる。

 人だ、多分。

 近づいてみると、川岸の影はやはり花柄の浴衣姿の女の子だった。川に顔を向けてうつ伏せているけど、ピクリともしないので死体に見える。

「ねえ、大丈夫?」

「っぷはあ!」

「うわわっ」

 声をかけると、女の子はガバッと顔を上げた。その勢いに私はたたらを踏んだ。

「なんじゃ主は?」

 川水を直飲みしてたのだろうか。ゴシゴシと口元を拭い、草の上にどんと胡座をかいた彼女は、値踏みするようにこちらを見つめて問う。

 絹糸のように白くつやのある髪に金色の瞳は瞳孔が縦に長い。

 私は思わず額に手をやりながら返答する。

「ちょっと倒れてたように見えたので」

 何てことだ、彼女は人じゃない。しかもお店で見たことはない。

「あはは。私の勘違いだったみたいですね。お騒がせしました。それじゃっ!」

 やるべき事はただ一つ。素早く踵を返して離脱をはかる。

「待たぬか」

 少女が発したとは思えぬ低い声に、足が止まる。さっさと立ち去りたいのに、その場に縫い付けられてしまったようだ。

 カラカラと喉が渇き始め、秋葉さんからの注意が脳裏をよぎる。

「お客さん達とは違う妖怪を見かけたらむやみに接触しない事。まれに人間嫌いだったりめったやたらに襲って来るのもいるからね」

 お店に居ると忘れがちな人と妖怪の距離。仕事に慣れてきたからこそ、昨日進言されたばっかりなのだ。

 ごめんなさい、早速守れませんでした。

「いきなり逃走をはかるとは、やましい事があると見える」

「いえ、決してそんなわけでは」

 一歩ずつ、背後からとてつもない重圧が近づいてくる。

口がうまく回らない。

「さては、主、追い剥ぎの類じゃな」

 このご時世に追い剥ぎはいくらなんでもあんまりな勘違いだけど、そんなツッコミもできやしない。

 突然、背中がズンと重くなり、首筋に吐息を感じる。

「大方、女子の身でもワシのようなか弱き童女であれば何とかなると思ったのであろう」

 誤解です本当に、と言いたいのだが声が出せない。全くもって事態の打開案が浮かばなかった。

 私は蛇に睨まれた蛙のように固まっている事しかできなかった。

「んん?」

「ひゃあうっ」

 背中に乗った女の子が急に私の首や髪に鼻を擦り付けるようにして、匂いを嗅ぐ。重さとくすぐったさで膝が笑いだした。

 もういっそ倒れたい。いやむしろ我慢してる必要がないよね。

「んむ、昨日の酒でようわからぬ。どれ」

「ひああ!?」

 女の子が私の首筋をなめ上げる。それがとどめとなって、その場にへたりこんだ。

「おおっと」

「なななな、何するんですか!?」

 飛び退いた彼女に、抗議する。

 ようやくまともに声が出せたけど、びっくりしたから涙が。もうやだ。

 目を拭って彼女を睨み付けるが、彼女は口元を押さえて思案にふけっていた。細められた目は私を見てはいない。

「この匂いは、はて?」

 不条理な扱いに苛立ちとかもないわけではなかったが、これはチャンスだ。

 私は秋葉さんからの言葉を再度思い出して復唱。震える足に喝を入れて立ち上がる。

 この程度、東京から走って来たのに比べたら何てことはない。

 女の子の方はよほどひっかかる何かがあったのだろう。私が立った事にすら気づいていない。

 ならば、と一目散に駆け出す。

 もう手遅れかも知れないけど、とにかくこれ以上無闇には関わらない。後ろを振り返るなどもっての他。土手を駆け上がり、自転車に飛び乗る。

 荷物に注意しつつ、走り出しは慎重に。後はもうフレームやタイヤの傷みは気にしてられない。加速しながらギアをトップに持って行き、ゴール目指して疾走する。

 スピードが上がると視覚と触覚以外の感覚が消失した。色彩もない、無音の世界をひたすら走る。走り続ける。

 無我夢中でペダルを漕ぎ続けて数分。遠目お店が見えてくる。

 ほっと胸を撫で下ろしてスピードを緩める。幸い背後から追いかけてきている気配も無いし、途中で川原を迂回するように一旦道が膨らんだから、向こうは私を見失っているはずだ。

 安堵はしかし、頭上を覆う雲によって打ち砕かれる。

「うわぁ」

 快晴の空が突如曇った為、天を仰いだ私は大口を開けるしかなかった。

 雲ではない。私の真上にあったのは、鱗に覆われた巨大な胴体。

 お店まであと数百メートルだが、私は大人しく自転車を止める。無闇に動いて商品をダメにしてもコトだし。

「ふん、余計な手間をとらせおる」

 天から声が降って来たかと思うと、道を塞ぐように巨大な顔が現れる。

 見覚えのある金色の瞳と声は、さっき会った女の子のものだ。突き出た口に長い髭、そして太さは段違いだが鹿のような角まである。

 私はチラッと長く伸びた胴体を見回すと、体は川の中から伸びていた。

 ははは、私ってほんとバカ。

 ひきつった笑いしか出てこない。あの場を逃走したのが最大の間違いだった。

「人間の分際でワシを出し抜こうとは不届きものめ」

「本当に申し訳ございません」

 私は膝をついて土下座する。

 まさかそこの天竜川に棲まわれる天竜様とは気づきませんでした。端的に言えばそうなるのだけど、言い分が通るとは思えない。ひたすら地面に頭をくっつけるだけだ。

「ふん、ようやく己がしでかした事の大きさを理解したか」

「本当にバカな真似をしたものだと反省しています」

 もうどんな事言われても受け入れよう。ポカをやらかしたのは事実だし。

 とにかく今はこの場を収めて、食材を無事お店に届ける事を考えないと。

「ふむ。言い訳はせぬか。それは良し。雷でも落としてくれようと思ったが、潔さに免じて命は助けてやるとしよう」

 少しは怒りを収めてもらう事はできたようだけど、命ってかなり危なかった。

「とは言え、罰は受けてもらうとしよう」

 再び低い声。私はゴクリと唾を飲み込んだ。その矢先ザアッと急激な雨が襲い掛かってきた。

「わぷっ!?」

 天竜様と言えば水と風の神様だ。時には氾濫まで起こす暴れ竜。雨を降らせるなど造作もない事だろう。

 だから、雨が降ってきたことはどうでもいい。問題は、食材が濡れてしまう事だ。

 今更頭を下げていても仕方ない。素早く体を起こして食材をかばおうとする。

「え、あれ?」

 私は、その場から動く事が出来ず、目を見開いた。

 食材は無事。それどころか、雨に降られているようすもない。

 ならば、この体を濡らすシャワーは一体何か。上を向くと、小さな雨雲が、傘のように私の頭上に居座って、雨を降らせていた。

 超小範囲のゲリラ豪雨だ。

「くく、かかかかっ」

 突然、天竜様が愉快とばかりに笑い出して雨が止む。

 もう何が起きたんだかこっちはさっぱりですよ。

 振り向けば、天竜様は後ろ足で器用に顎を掻いていた。

 これは、遊ばれたと言うことで良いんだろうか。

「思ったよりはちゃんとした性格をしておるな。まあ、あの狐が雇った以上根が腐っとる事もないか」

「秋葉さんを、知ってるんですか?」

「当然じゃ。大体、川のほとりに居を構えとる相手を知らぬわけがあるまい」

 それもそうだ。天竜川の川辺は天竜様の領域と言っていい。顔を知らない方が無理がある。

 どうやら、よろづや茶寮で人間が働いていると言う話は聞き及んでいたそうだ。

 さっきは、最初は怪しい奴と思ったが、秋葉さんの匂いが付いていたのでピンと来たと言う。

つまり、追い付かれた時点で私の事は把握済み。以降のやり取りは、天竜様のお遊びだったのだ。

「さすがに脱兎のごとき逃げ足には驚かされたが、お主がワシらがどういう存在か知っておったとすれば正しき事じゃ。狐もきっちり指導しておるようじゃな」

 うんうんと天竜様は頷く。体があまりにも大きいのでそれだけでも十分な風が巻き起こる。

 倒れないように私は自転車のハンドルを押さえた。

 と言うか、天竜様。そこまでわかっていたら私が水をかぶった意味ってないんじゃ。

「わざわざこっちの姿で出たんじゃ。何もしないのも締まらぬじゃろ」

 考えが顔に出ていたのか、天竜様は今一度高らかに笑い、見る見る内に先ほど出あった少女の姿へに変身する。

 本当にからかわれたただけなのね。

 適当に挨拶をして、自転車を押して歩き出す。

「これこれ。ワシを放置してゆく出ない」

 そんな事言われても、これ以上お話をしていたら時間がなくなってしまう。

 私は気の抜けた返事をして、そのままお店に向かう。

 天竜様は盛大に溜め息をつくと、頭を掻きながら一緒についてくる。

「やれやれ、ちとやり過ぎたようじゃな。待て、ワシも行く。足止めした説明くらい、狐にしてやらねばな」

「それは、助かります」

 時間はともかく、びしょ濡れなのは、天竜様がいないと説明しても納得してもらうのは難しいだろう。



 お店に入ると、秋葉さんはちょっと驚いたが、隣にいた天竜様を見るとああ、と小さく呟いた。説明不要、と言った感じである。

「どれ、ここで良いのか?」

「はい、どうもすみませんね」

 濡れてしまった私の代わりに天竜様が食材を運んでくれる。かなり畏れ多い事のはずだが、秋葉さんはフランクに対応している。

「どうぞ」

「おお、すまぬな」

 アイスティーを差し出しながら、秋葉さんは手招きをする。

「状況はわかったよ。天竜様のいたずらじゃ、しょうがないね」

「あ、ありがとうございます」

 何事も、なかったわけではないのだがまあ、水をかけられただけで済んだのだからそれでいいか。

 秋葉さんはふっと微笑んで、手を差し出す。マジックのように青白い火の玉が浮かび上がった。

「え?」

 私が反応するよりも早く、それは花火のように霧散して、火の粉が体を包んだ。

 ポカポカとした温かさに包まれ、気付くと服も髪もさっぱり渇いていた。

「どうかな?」

「快適です」

 シャツの襟を引っ張って見る。うん、下着もクリーニングしたみたいになってる。

「ほほう、相変わらず見事なものじゃ」

 天竜様が感心の声を上げながらカウンターの椅子に座る。視線はなぜか私の服の中、と言うか覗きこんでるし。

「何してるんですか?」

「ん~、狐の術の程を確認しとるだけじゃ」

 と言いながらなぜかガッツポーズをして鼻を押さえる天竜様。うん、何だろう背筋に寒気が。

「瑞貴さん、お願いだからお店の従業員に手をださないでくれ」

「何の事じゃ。ワシは主の術の程を確かめただけじゃ」

「そう言って、何回もうちの狛にすると声をかけてるでしょうが。この間だっていずなにも声をかけて」

 聞かなかった事にしたいな。天竜様、そういう趣味があったんだ。

 と言うか、名前、瑞貴さんって呼び名があるんだ。

 私が呼んだらきっとこっぴどく怒られるんだろう。それだけに、サラっと言ってのけた秋葉さんがすごいと言う事なんだけど。

「主の術に感心しておるのは事実じゃ。どうすれば服だけ乾かすなんぞと言う繊細な真似ができるのか。ワシには一向にわからん」

「それは、性格の問題かな。昨夜の大雨だってあなたの影響でしょ?」

「ははは、気付かれておったか。昨日はちと飲み過ぎてな。どうも気分が悪いと思っておったらあのザマじゃ」

 昨日の強い雨の原因って、天竜様だったんだ。神様だけあって話のスケールが違うな。

「そう言うでない。甲斐あって今年の台風の相手は綿津見めが引き受ける事になったわ」

「では川の増水は心配ないわけだ」

 綿津見様が台風の相手をするって事は、うん。今年は海には近づかないようにしよう。

 それにしても、知らない世界の事を聞くのは実に楽しい。ついつい耳を傾けてしまう。

 結局、うね子さんがやってくるまで、私は秋葉さんと天竜様の弾む会話から耳を放せなかった。

 天竜様を見たうね子さんが僅かに身構えてたのは印象的だった。

 天竜様、本当に勧誘してたんだ。

 でも「育ってしまったのう、残念」とうね子さんに言っていたが非常に気がかりだ。何故私は声をかけられそうになったんだろう。



 今日もお店は盛況で、天竜様もずっとカウンター席に座っていたが、キッチンの動きを見ながら邪魔にならない程度で秋葉さんと会話に興じていた。

 ちょっと意外だけど、でも考えてみたら当たり前なのかも。

 お客さんは普段通りだし、中には天竜様と和気藹々話している人もちらほら。

 ここでは、皆一人ひとりが同じお客さんで、天竜様もその状況を享受しているんだ。

 やっぱり、この雰囲気はいいな。私も頑張ろう。

「お~い、和乃ちゃん、注文いいかな」

 窓の方から声がして、私は一段と景気よく返事をする。

「あ、は~い、今行きま~す」

「お、今日はまた一段といい笑顔だね。初日とはえらい違いだ」

「もう、その話題はよして下さいよ」

 目目連さんには参っちゃったな。初めてバイトした時、倒れる直前にあったからそれっきりからかいのネタにされてしまっている。

 でも、それも今なら笑って話せる。

 私はいつも以上に仕事に集中する事が出来て、あっと言う間に時間は過ぎて行った。

「和乃さ~ん、そろそろ上がっていいよ」

「え、でも」

 閉店時間を回った所で、秋葉さんが声をかけてくれるが、まだお客さんが何人か残っている。

 迷っていると、うね子さんが肩を叩いた。

「これなら、私達だけで大丈夫。それに夜は、危ない」

 秋葉さんも彼女の言葉にうんうんと頷く。

 確かに、この辺は夜は街灯もほとんどないから、危ないといえば危ないけど、その分月明かりでもよく見えたりするんだよね。

 とは言え、ここはお言葉に甘えて、私は先に上がらせてもらう事にする。

「どれ、それならワシもあ奴を送りながらお暇させてもらうとしようかのう」

 更衣室に入る直前、天竜様のそんな呟きが聞こえた。

 うう、むしろ不安だ。

 あまり待たせても悪いので、私はちゃっちゃっと着替えを済ませる。

「あれ?」

 バッグを持ち上げると妙な重さを感じた。

 何か入れてたっけ。

 中をあらためると、見慣れない包みが入ってる。

「しまった、忘れてた」

 あずきあらいでもらったオマケだ。天竜様との騒ぎがあったから、バッグにいれたままだった。

 と言うか、中身ごとあの時濡れたのにこの乾きようは、今更ながらに目から鱗だ。びしょびしょに濡れたカバンと中身だと言っても他の人なら信じないだろう。

 手帳も紙がグシャグシャになってないし、秋葉さんの狐火のおかげだ。

 よっぽど繊細にやってもらったに違いない。ひょっとしたらそれが料理にも活かされてたりするのだろうか。

「やっぱり凄いなあ」

 一つ一つ丁寧な所がお店の魅力にもなってるんだろうな。

 なんだか包みにあの火のの暖かさが残っている気がして、私はそっと抱きながら更衣室を後にした。

「うわわっ」

 店内に戻ると、空気がアルミホイルを噛んだんじゃないかと思える程重苦しくて、私は後ずさった。

 え、何これ。私、ひょっとして更衣室じゃなくてどこでもなドアでもくぐっちゃったかな。こんなの、秋葉さんのお店じゃないよ。

 とりあえず様子をそっと窺う。

 私が着替えてた数分の間に一体何があったのか。何だか間違い探しみたいだ。

「……誰?」

 私が仕事をしてた時には居なかった人物が一人、カウンター脇に立っている。

 いずなちゃんがレジからあからさまに睨み付けてるのが、結構怖いけど、無理もない。

 その人物は明らかに、場にそぐわないオーラみたいなものを放っていた。

 スーツはもちろん、ネクタイや靴、果てはメガネのフレームに至るまで黒ずくめ。鋭い目付きは、どこか横柄な感じを受ける。口元には不敵な笑みを浮かべている。

「おやおや、いらっしゃるじゃないですか」

 彼は私を見るなり、ゆっくりと近づいて来た。

「八智和乃さんですね。初めまして。皆さん、もう帰られたと言って聞かなくて参りましたよ」

 声は力強く、自信に満ちている。

 手を差し出されるが、それが山蛭に見えて私は体を退いてしまった。

「どちら様ですか?」

 あからさまに不審の色を混ぜて尋ねるが、男性は目の奥を怪しく光らせるだけで、まるで気にも止めていない。肩をすくめて、ふっと鼻で笑った。

「これは失礼。僕は刑部。九十九神管理員会の者です。あなたと、ここの店主にお話があって来たんですよ」

 刑部さんは眼鏡を正しながら、そう告げる。なんだろう、身長が頭一つ分以上違うからなんだろうけど、見下されている感じを受ける。

 それに、九十九神管理員会って、どこかで聞いたような。

「あ!」

 私は驚いて口に手を当て、秋葉さんへと目をやった。

 この間来ていた手紙に載ってた名前だ。

 秋葉さんは今までに見た事もない固い表情で髪をかき上げる。

 カウンターの椅子をくるっと回し、天竜様が私にジト目を向ける。

「お主、今日は泊りじゃな」

「え、はい?」



 結局、話があると言っていたのに刑部さんはお客さんが全員居なくなるまで椅子に座ってタバコを吸っていた。

 皆がお店を出て、今はいずなちゃんとうね子さんがせっせと片づけをしている。

 私も手伝いたい所だが、左右を秋葉さんと天竜様に挟まれ、正面には刑部さん。

 とても席を立てる雰囲気ではない。何より、一応、私にも話があると言う事みたいだし。

「さて、と。色々とお話する事はありますが、まずは僕の事から話した方がよさそうだ」

 タバコを一箱吸い終えた所で、刑部さんがそう告げる。私は秋葉さんと天竜様をそれぞれ見るが、二人とも彼と顔を合わせようとしない。ひょっとしなくても、よく知っているんだろう。

 私は黙って頷く。反対意見も出ないし、ここは大人しく話を聞いた方がよさそうだった。

「結構。九十九神管理員会とは、要は妖怪を管理する機関です。妖怪については、今更説明する必要もないでしょう」

 恐らく、刑部さんはこの説明を何度となく繰り返してきたのだろう。淀みなく、且つ感情も一切こもらず、淡々と彼は己と己の所属する組織の事を説明した。

 九十九神管理委員会。それは、非公開の国家機関であり、彼が言う通り、妖怪を管理するのが主な仕事だと言う。

「何故九十九神なんですか?」

「ほとんどの妖怪は九十九神にあたりますからね。それに、妖怪に対して、神として一定の敬意を払っているのもあります」

 九十九神とは、永い時を生きて神格を得た万物だ。猫又などもコレに当たるから、彼の言う事はわからないでもない。

 敬意は、組織の生い立ちはともかく、この人は払って無さそうだな。

「そもそも、今この場所でも、生まれた時からの妖怪は彼女だけですしね」

 そう言って刑部さんは食器を拭いているいずなちゃんを指す。

 秋葉さんは狐の、天竜様はヘビの九十九神と言われたら、私は反論の余地がない。それは古来言われてきた事だし。最初から管で結ばれるべく生まれたいずなちゃんだけが、妖怪として生まれ育ってきたと言う点は同意せざるを得ないだろう。

「まあ、それでもいずなより彼女の方が珍しい。白うねりは滅多に生まれませんから」

 ちらっと刑部さんはうね子さんを一瞥して呟く。

 やっぱりうね子さんは白うねりだったんだ。聞けずじまいだった事が、あっさりと、判明してしまった。

 白うねり、つまり布巾の九十九神だ。布巾自体が九十九神になるのは相当難しい。同じ物をそれだけの期間使う事は、私でもまずない。

 白うねり、とわかってしまえば拭き掃除や服飾といった布に関わる彼女の超常的な手際の良さも納得だ。

 でも、この人から聞かされたのは、うね子さんには申し訳ないな。

 さて、管理とは言うものの、実際にやってる事は妖怪さん達の生活圏や生息数の把握、人間に危害を加える相手は排除し、はぐれや迷子みたいになっていれば保護、と言った所らしい。

 レンジャーみたいだ。

「僕達は人と九十九神との共生の橋渡しと関係の保全を行なっているわけですよ。同時に、九十九神の存在は一般大衆には秘匿しなければなりません」

 そう言った刑部さんの目が暗い輝きを帯びた。

「いかんせん、九十九神と人では存在が違い過ぎますからね。無用な軋轢を避ける為にも情報の統制は必要不可欠。あなたも大学生なら、いや違いますね。八智教授の娘さんなら理解できるでしょう」

 嫌な人だ。私の事を調べてあると、わざわざ釘を持ち出したのだ。

 父の名を出されるまでもない。私は元々居るかも知れない、と言う考えがあったから最初こそ驚いたが、今はお店の一員になれた。しかし、居ない事が前提で成り立ってる社会では決してそうはいかない。

 二つの全く違う世界が出会ったら大騒ぎで済まない事など歴史をかじれば瞭然なのだから。

 だんだんとこの人のやり方はわかって来た。私は大きく深呼吸する。

「お話は理解しました。それで、私にどんなお話があるんですか? 今すぐお店をやめて貝みたいに口を閉じろと?」

「まさか、と言いたい所ですが事情によりますね」

 あっさり流されてしまう。肩透かしってレベルじゃない。

「嫌味や挑発は通じないよ。それに、君には似合わない」

 秋葉さんが諦め混じりに耳打ちしてくれる。お店の雰囲気からしてもそうだったけど、見知った顔ではあるみたいだ。

「僕たちは何も人間と九十九神の関わりについて無闇に制限する気はありませんよ。予期せぬ接触自体はよくある事ですし、親睦も個人の胸の内に留めておいていただけるならね」

「その心配は無用だ」

「ええ、そのようですね。もっとも、あなたの管は役者不足に見えましたけどね」

 なんて嫌な言い方だろう。

 いずなちゃんとは何回か一緒に行動してたけど、それも含めて全部監視されていたようだ。

 似合わないとか通じないと言われたけど、やっぱり無理無理。この人、なんとかギャフンと言わせたくなって来た。

「それなら、私は合格と言う事ですね」

「あなたの口の固さについては認めただけです。本題はこれからですよ」

「相変わらずまどろっこしい奴じゃ。お主、顔を合わせると毎回一人じゃが友人がおらんのだろう」

 天竜様もこれまでに思う所があったのだろう。皮肉を言うが、刑部さんは笑みを崩さずネクタイを緩めた。

「ご心配なく。同席させるだけの人材がいないだけですよ」

 秋葉さんの言う通り、これはダメだ。何を言っても堪えそうにない。

「さて、八智和乃さん。あなたにお聞きしたいことは二つです。正直に答えていただければ結構です」

 体が強ばるが、視線は逸らさず、見つめ返す。

「あなたがこのお店で働いているのは偶然ですか?」

「はい?」

 回転しそうな勢いで私は首を傾げる。

 え、なにそれ。これ、正直に答える方が、むしろ怖いんですけど。

 意表をつかれすぎて、沈黙の時間が流れる。

 刑部さんはテーブルを人差し指でトントンと叩いた。

「まさか、質問が理解できなかったわけではありませんよね。それとも懇切丁寧に一言一句辞書を片手に説明しなければなりませんか?」

「ああ、すみません。偶然です。もちろん」

 苛立ち方からして言葉通りの質問だったのだろう。身を乗り出しそうになりながら答えると、彼は頷いて鞄から封筒を取り出す。

「なるほど。つまり、たまたまこれを見つけて、書かれた内容に惹かれて応募した、と。そう言うわけですね?」

 つき出された中身を確認すると、この間回収した従業員募集のチラシの写真だった。

「――はい」

 少し迷ったが、私は頷く。

 その時、天竜様がさっと手を伸ばして写真を取るや、食い入るようにそれを見つめた。

 やがて、油の切れたロボットのように肩を震わせながら私と秋葉さんに顔を向けた。その目は、呆れや驚きが混ざり合い内在しすぎていて、かなり濁り気味だった。

「こ、コレを見てやってきたと言うのか。書いた狐も狐じゃが、和乃。お主、自分が何を言っておるのかわかっているのかえ?」

「そこまで言われると、むしろ気になります。後、地味に傷つきます」

 天竜様は、私の返事に、かぶりを振ると、ポイっと写真をテーブルに戻した。

 秋葉さんが、それに手を沿え、刑部さんに突き返す。

「刑部、君が何を思慮しているかは私には興味がない。だが、一つだけ言っておく。彼女がここへ来たのは偶然だ」

「そのようですね。これならば、もう一つの質問も不要そうだ」

 写真をしまいながら、彼は呟く。

「ちなみに、もう一つの質問ってなんだったんですか?」

「あなた個人の意思で、ここで働く事を決めたかどうか、ですよ」

「なんですかそれ」

 どう噛み砕いて理解しようにも、まるで私が誰かの命令でここに、この場に居るのではないかと言われているようだ。

 と言うか、この人の事だ。本気でそう考えていたに違いない。

「そのままの意味ですよ。狐は、化かすのが得意ですからね」

 頬が引きつるどころか、顔が歪みそうだ。興味に負けて聞くんじゃなかった。

「まったく、そうかっかしないでください。僕は己の考えが誤りだったと認めているのですから」

 刑部さんは苦笑しながら、別の書類を取り出す。そこには、誓約書と書かれていた。

「これは?」

「見ての通りですよ」

 私が手に取るよりも先に、秋葉さんが中身に目を通す。

「ただの誓約書だ、問題ない」

 渡されたのは、なるほど。確かに誓約書だ。うわ、総理大臣の印が押してある。

 内容は、早い話が妖怪の存在や一緒に働いている事を関係者以外には絶対に話さない事。今後は活動は基本的に監視される事などなど。

 今までの刑部さんの話を踏まえて考えれば普通の内容だし、ひっかけのようなものは見当たらない。

 ただ、口外した場合はいかなる処分も受け入れる事、って何だろう。

「ご了承いただけるなら、下に署名と拇印をお願いします」

「あの、もし不承だったらどうなります?」

「僕達、九十九神管理委員会が何故公表されていない組織なのかを、その身で味わっていただくだけです」

 私は頬を掻きながら視線を逸らす。なるほど、ろくな事にならないのはよくわかりました。

 秋葉さんも問題ないと言っていたし、私自身、署名を断る理由もない。

 見計らったのか聞いていたのか、片付けを終えていずなちゃんが朱肉とペンを持ってきてくれる。

 って、刑部さん、書類以外出す気ないのね。

 きっちり拇印を押した誓約書を受け取った彼は、いずなちゃんを一瞥した後、秋葉さんの方に向き直る。

「さて、後はあなたと、瑞貴さんにも関わるお話ですね」

「お主がその名で呼ぶ出ないわ」

「しかし、あなたを呼称するには天竜だけでは足りないと思いますがね。ところで、お水の一杯も出ないんですかこのお店は?」

 天竜様に対する言い方も気がかりだったが、それ以上に、私の中でカッと火が着き、力いっぱいテーブルに手をついた。

 ドンっという音が四つ鳴り響いた。

「「とっくに閉店です」」

「――っ」

「さっさと用件を言ってくれないか」

 私といずなちゃんの声がハモり、いつの間に来ていたのか、うね子さんが彼を睨み付ける。

 秋葉さんは、とても不機嫌な調子ではあったが、先を促がした。

 刑部さんはまったく意に介さず、椅子に大きく背を預けた。

「わかりました。先に封書をお送りさせていただきましたが、読んでいただけましたか?」

「ああ。それにしても、随分古い方法を取ったものだね。封書なんて何十年ぶりだった事か」

 刑部さんが私を見たような気がしたが、こちらが見返した時には、秋葉さんの方をちゃんと見ていた。

「まあ、色々とこちらにも事情がありましてね。内容は書いてあった通りです。この白岐山の東側を走る県道を広げる予定がありましてね。本格的に日程が決まったので」

「なんじゃと、聞いておらんぞ?」

 天竜様が抗議すると、刑部さんは肩をすくめた。

「ええ。こちらから伝達しようと思ったらあなた、一週間以上も川を留守にしていたじゃないですか」

「う、む。それはその、綿津見の奴と台風対策を」

 天竜様はごにょごにょと口ごもりながら視線を泳がせた。

 それって昨日の雨の原因の事だろう。一週間も飲み比べとは、それは、さすがに悪酔いもするはずだ。

 うわばみなのは間違いないけど。

「三日後に着工します。古い地図などの検討も重ねましたので、地脈に影響はないと思いますが、周辺に住んでいる九十九神の皆さんに周知して回っている所です。多少の揺れや騒音は我慢してください」

「わかった。それくらいなら、こっちも別に困らないからね」

「結構です。瑞貴さん、あなたの方にはまた後日、改めて伺いますよ」

「来んでよい、来んで。いくらワシでも地脈に影響のない道路拡張に文句を言っておったら、崇めてくれておる民に顔が立たんわ」

 そう言って天竜様はひらひらと手を振る。

「そうですか、それは僕も助かりますよ」

 本当に話は終わりだったらしく、了承が取れるや否や、さっと彼は立ち上がる。

 片手を上げて立ち去ろうとした所を秋葉さんが呼び止めた。

「ああ、刑部さん。タオルはないのかな?」

 瞬間、彼はキョトンとした顔になるが、すぐに先ほどまでの不敵な表情を取り戻す。

 ああ、こういう顔するんだ。ちょっとすっきりしたかも。

「今度業者に届けさせますよ」

「ありがたいな」

「ああ、そうそう。和乃さん」

 お店のドアに手をかけた所で、急に刑部さんは立ち止まり、私の方へ振り向いた。

「な、何ですか」

 身構えるしかない。なんだか嫌な予感がする。

「忠言しておきます。あなたはもう少し色々相談するべきです。少なくとも、このお店の方々は、親身になってくれますよ」

「へ?」

「それでは」

 ふっ、と今までで一番温かみのある笑顔を浮べて刑部さんは去って行く。

 どこに止まっていたのか、合わせる様に高級SUVがお店の前に走りこみ、彼を回収していった。

 あれ、私が気絶した次の日に駅前に居た車かな。だとしたら、あの時感じたものに納得が行く。

「やれやれ、ようやく行き居ったか。それにしても、和乃よ。お主、隠し事にはさっぱり向かんな」

「顔に、出やすい」

 刑部さんが居なくなり、空気が軽くなるやいなや、天竜様やうね子さんがそんな事を言い出す。

 って、うね子さんもばっちり聞いてたんだ。

「え、そそ、そんな事ないですよ」

 とは自分でもいうものの、刑部さんの去り際のセリフといい、やっぱりもうバレたも同然なのかな。

 その時、ふうと煙草の匂いが鼻をくすぐる。いずなちゃんに用意してもらったのか、秋葉さんが一服していた。

「和乃さん」

「は、はい」

 物憂げな調子で呼びかけられ、私は背筋を正す。

「無理には聞かないから、安心して。ただ、本当に困った時は相談して欲しい。君はお店の一員。他人ではないのだから」

「は、はい」

 返事の声が上ずる。うう、秋葉さん、ありがとうございます。

 なんだかそのまま飛びついてしまいたい。

 店主の、このお店で一番偉い秋葉さんの言葉に、天竜様とうね子さんはばつが悪そうだ。

「ああ、すみません。本当に、あの、いずれ」

「ん、待ってる」

「まあ、仕方あるまい」

 ここは、話題転換に限る。丁度、本人も居なくなって、話題にしやすい人もいる事だし。

「話は変わりますけど、皆さんはあの刑部さんはよくご存知なんですか」

「それはそうじゃな」

「彼がこの地区の担当になってから十年は経つからね。この地区に住む妖怪で知らないものは居ないだろうね」

「その間、大きな混乱もないし、ワシの知る限りでは、ここら一帯は今が最も落ち着いておるな」

 あれ、意外な反応だ。一応、皆さん、刑部さんの手腕は認めているなんて。

「その割には、皆さん苦手そうですよね」

 今もどっちかと言えば渋い顔しているし。

「あの性格だからね。よく言えば最も公平なんだけど――」

 一瞬、秋葉さんが言いよどむ。それで、他の人たちが代わりに答えようとしたのかはわからないが、たまたま、口が揃った。

 曰く、嫌われている最大の原因は「とにかく飯がまずくなる」だった。

「天才的だよ」

 最後に、秋葉さんが付け加える。

 私は、思わず拭き出してしまった。ある意味、一番重要なポイントだもの。

 私につられて、皆も徐々に笑い出す。

 お店にようやく、今までの空気が戻り始め、温かい夜が更けて行った。



 刑部さんの来訪から数日。穏やかな日が続くある日、お仕事の前に、私は秋葉さんに両手を合わせてお願いする。

「今日と明日、泊めてもらえないでしょうか?」

「急にどうしたの?」

 特に驚く様子もなく、秋葉さんは理由を尋ねた。

「明日は定休日なので、ちょっと白岐山の探索をしたいなと思いまして」

 そう、明日は月に二回あるよろづや茶寮の定休日。仕事を始めてから半月強。お仕事にも慣れて、気持ち的にも体力的にもだいぶ余裕が出てきたので、趣味の方も再開しようと思ったのだ。

 ただ、私のアパートからでは山を登るだけでもそこそこ時間がかかってしまうし、翌日が仕事である事を考えるととてものんびりとは出来ない。

 ただし、お店に泊めてもらえるなら話は別だ。

「なるほどね。もちろん、構わないよ」

「ありがとうございます!」

「それに、その様子じゃもう荷物は持ってきてるんだろう?」

「え、えへへ。すみません」

 一服しながら、秋葉さんは優しく微笑む。

 大きい荷物は自転車にくっつけたままだけど、さすがにメッセンジャーバッグもいつもより膨らんでいたら気付かれちゃうよね。

「でも、山か。まあ瑞貴さんも出かけてないから大丈夫だとは思うけど、遅くなると危ないな」

「いえ、夜の山道は慣れてますから」

 伊達に趣味の欄に山岳信仰に関するフィールドワークと書いているわけじゃない。

 私は自信を持って告げたが、秋葉さんは目を細めて少し考え込んだ。

「探索での目標はあるのかな?」

「そうですね。境外摂社を巡ろうと思ってます」

「天竜神社に行くんじゃなくて?」

「はい」

 秋葉さんは目を丸くするので、私は首を傾げてしまう。

 そんなに変な事は言ってないはずなんだけど。

 天竜神社は、白岐山にある、瑞貴さん、じゃなくて天竜様を祀る神社で、もう何度か行った事がある。

 今拡張工事が進んでいる方の道からだけど。アパートからだと、そっちの道の方が通りやすいのだ。

 その際、神社の案内でいくつか山中に境外の摂社がある事を知って、時間が出来たら行って見たいと前々から考えていたのだ。

 昔は修行者が巡っていた事もあるそうだし、私の趣味も理解している秋葉さんがこんなに驚くなんて意外だった。

「一番早く巡る道順は天竜様に教えてもらいましたし」

 反則気味だけど、せっかくの人脈。活用させてもらいました。

「う~ん、瑞貴さんにも話がしてあるなら大丈夫かな――って、ちょっと待って。道順、教えてもらったの?」

 秋葉さんは怪訝な顔つきでこちらを見てくる。

 これは、今日一番予想外の展開だ。

 じーっと秋葉さんは、色々と言いたげな様子でこちらを見つめ続ける。

 やがて、ふぅ、と紫煙を吐き出して煙管を置くと「地図、今持ってるの?」と聞いてきた。

 私はバッグから、天竜様直筆の地図を取り出す。筆書きだけど、十分読める。

 秋葉さんも端から端まで目を走らせてから頷いた。

「うん、なるほど。地図自体には問題はないようだね」

「はい。なので、明日は目一杯、探索します」

「じゃあ、いずなも連れて行って」

「え?」

 これまたまさかの申し出で、聞き返してしまう。秋葉さんは結構心配してくれているようで嬉しいけど。

 戸惑う私に、秋葉さんは地図をカウンターに広げて何箇所かを指で差す。

「この辺は一人だと結構命に関わるよ?」

「そんな――え?」

 秋葉さんがいつも以上に真剣な眼差しが私に突き刺さる。これは、本当っぽい。

「道も険しいけど、妖怪達の通り道になってる場所があるから」

 鎖道くらいなら今までも経験しているので、岩壁を素手で登る道じゃなければ大丈夫だと思っていたが、秋葉さんの注意はそれ以上のモノだった。

 山は異界で、妖怪がよく住んでいる事は知識としてはよく知っている。そして、ここ暫くで実感もしてきたけど、それだけではかなり危険だと秋葉さんは言う。

 白岐山にも相当数の妖怪が野生として住んでおり、主が天竜様であるため、参拝客でもある人間にはあまり襲わないとは言うものの、

「熊を想像してくれ。山に住む妖怪達は熊に近い縄張り意識を持っている。道を外れて入り込むと、領域を侵したと言う事で襲ってくる気性の荒い者も多いんだ」

 との事。

 いずなちゃんがいれば、妖怪と共に居るので関係者として、見逃してもらえる可能性も高まるし、何かあった時は助けになるだろう、とも秋葉さんは言う。

 確かに、いずなちゃんがいるだけでも心強さは格段に上がる。

「でも、本人に聞かないで良いんでしょうか」

「私から言えば大丈夫さ。それに、いずなも和乃さんと出かけるのを楽しみにしている節があるからね。私自身、君に何かあってもらっても困るから、お願いできるかな」

 そこまで言われたら、私が断る理由はどこにもない。私は二つ返事で承諾する。

 その後、いずなちゃんを呼んで改めて事情を説明すると、尻尾をグルグル回して了承してくれたのだった。



「ん~、とうちゃーく!」

「わわっ。やりましたね」

 日が傾きかけた頃、私といずなちゃんは無事、天竜様に描いてもらった道順では最後の境外社に辿り着いた。喜びの余り私はいずなちゃんに抱きついてしまう。

 いずなちゃんも尻尾をふりふり、朗らかな笑顔で抱きかえしてくれた。

「さてさて、それじゃあまずは、と」

 私は大きく深呼吸。意気揚々と到着の証として地図に赤いペンで五つ目の丸を書き込む。自分で思った以上にテンションが高かったせいか、ちょっとペン先が震えてしまった。

 私はそのまま座り込んでしまう。

 色々社を調べたいのはやまやまだけど、一息いれよう。

 いずなちゃんも同じ気持ちだったのか、寄り添うようにして腰を下ろした。

「はい」

「ありがとうございます」

 リュックにぶら下げてあった竹筒の片方を渡す。中身は秋葉さんの特製麦茶だ。

 砂糖が入っているけど、紅茶みたいな仕上がりでとてもおいしい。何より、とても優しい味わいで、お店に居るように気持ちを落ち着けてくれる為、道中とても重宝した。

 いずなちゃんと一緒にふう、と一息。

「でも、一時はどうなる事かと思いました」

「本当にね。思い出したらまた心臓がバクバクしそうだよ」

 今は顔を見合わせて笑い合えているが、ここに至るまでは、当初私が想定していた険しさを遥かに超えていた。

 天竜様に教えてもらった巡路の入口こそ、石段が敷いてあったので草に覆われていても簡単に見つけることができたが、順調だったのはそれから三十分程だけだった。

 人が通らなくなってかなり経っていた為、痕跡が何とかある程度。ほぼ獣道か道なき道状態だった。

 最初の社の手前では岩壁が立ち塞がり、いずなちゃんはひょいひょいとかけ上がれたが、私は錆びだらけになった鎖道。案の定、岩壁の天辺につく前に切れてしまい、いずなちゃんがファイト一発で掴んでくれなかったら、今ごろどうこう先生のお世話になっていただろう。

 その後も何ヵ所か岩登りをする場所があったけど鎖道はもう諦めて、用意したロープをいずなちゃんに持って上ってもらい、それを伝って進んだ。本当は荷物の引き上げとかを想定してたんだけどね。

 道は慣れてしまえばなんてことはなく、三ヶ所目の社につく頃には足取りも軽かった。

 道の悪さ以上に危なかったのは、秋葉さんの心配通り山に生きる妖怪さん達だった。三ヶ所目から四ヶ所目の社に行く途中ではニアミスが多々あり、何回かは気づかれた。虎の妖怪には襲われて、いずなちゃんの説得で食べられずに済んだけど、負けたら引き返す漢詩勝負をする事態に陥った。

 四ヶ所目の社では休憩中に山童達の置き引きに合い鬼ごっこ。なかなか追いかけるだけでめ大変だったけど、最後はいずなちゃんが狐姿になって、あれはもう狩りだったなあ。

 山童達とまた遊ぶ約束しちゃったけど、次は骨が折れそう。実際今日だって、いずなちゃんが支えてくれなかったら何回転げ落ちてた事か。

「いずなちゃん、ありがとう」

思い返してみたらもう言わずにはいられなかった。

今日無事にここに来れたのはいずなちゃんのおかげだ。

「はい」

 はにかんで微笑むいずなちゃんと、静かに麦茶を飲みながら景観を楽しんだ。

 人心地ついた所で私はリュックからカメラとメモ帳を取り出して立ち上がる。日が暮れる前にお社を調べちゃわないと。

 まずは今まで通り、参拝して、色々見させてもらいます、と断りをしておく。最後のお社はここに来るまでのお社同様こじんまりとしたもので、鳥居もすれ違い不能なサイズだった。

 参拝を終えたら、写真を撮影。気になるところがあったらメモを取っていく。

「あれ?」

 私はあることが気になって撮影した写真を見直して、社の正面に戻ってくる。

「やっぱり」

 まだ元気な花が備えられているのを見て私は確信する。

 ここには、誰かが定期的にお参りに来てるんだ。

 他の四ヶ所より比較的お社が綺麗なのも、その人が手入れをしているからに違いない。それに気付いた時、誰か、は私の興味の範疇外だった。

 何故、が全てだ。何故ここだけに参っているのか。

 場所も他の所と比べると、麓が見えそうなくらいには開けている。とは言え、わかる差とすればそんなものだ。

 お社をあけるのはさすがに気がひける、と言うか無許可はまずいので、扉にある光取りの格子から中を覗く。他の社同様に龍の石像が御神体として置かれているだけだ。摂末社は全部縁のある他の神様ではなく天竜様を祀ってあるようだ。

 境内にも摂末社はあったから、縁のある綿津見様や大山津見様はそっちなのだろう。

 白岐山の管轄は天竜様だし、山中で修業する為の境外社なら本殿と同じ天竜様を祀ってあるのはむしろ普通だ。

 でも全部天竜様って言うのはちょっと多いかな。

「んー」

 私はガシガシと頭を掻いて考えるが、情報が少ない。これ以上はここでは判断出来そうもないな。

 また今度、天竜様か神主様にお話聞いてみよう。

 時間的にもそろそろ降り始めないと自転車に戻る前に日がくれてしまいそうだ。

「いずなちゃん、そろそろ帰ろうかあれ?」

 まだ休んでるかな、と思ってリュックを置いた方へ振り向くと、姿が見えない。首を傾げると、背後から呼び声がする。

「あの、和乃さん。ちょっといいですか?」

 社の裏からいずなちゃんがちょこんと顔を出していた。

 いつの間にやら。いずなちゃんと鬼ごっこは出来ないな、勝ち目がないや。

「どうしたの?」

 不思議そうにしているので隣に行くと、彼女はゆっくりとお社の裏の地面を指した。

「何か音がしてます」

「え?」

 特に何も聞こえないけど、私といずなちゃんじゃ耳の良さが比べ物にならないので、私は試しに地面に耳を近づけてみる。

「どうですか?」

「ちょっと私にはわからないかな。でも」

 私は立ち上がっていずなちゃんが指した地面を中心にぐるぐると周囲を歩き回る。おかげで音は聞こえなかったが、別の収穫はあった。

「何かあるね」

 地面を踏んだ時の感覚が明らかに硬い。改めて地面にかが見込むと、さっさっと手で土を払う。

 すぐに砂や土とは違うざらついたものに辿り着いた。

「石?」

 リュックから手箒を持って来て改めて土を取り除く。現れたのは、石の板の一部だった。

 サイズはかなり大きいだろう。さっき歩いた感覚だと、社を中心に鳥居までの三、四メートルくらいの範囲がある石板だと思われた。

 何だか、蓋みたい。

「これは、今日は無理だね」

 全部の土を取り除こうと思ったら一日作業だ。それに、何となく、下手に触ると厄介な事になりそうな予感があった。境外社として本殿と同じ神様を祀る場合は大抵、荒魂なのだ。

「いいんですか?」

「うん。こんなのがあるってわかっただけでも十分過ぎるよ。それに、ちゃんと調べるなら先に天竜様にもお話しておかないとね」

 もっとちゃんと情報とかを集めてからに越した事はない。もっとも、天竜様に聞いてしまうのは、反則な気もするけど、人脈と言う事にしてもらおう。

 改めて鳥居の前で一礼して立ち去ろうとした矢先、いずなちゃんの耳がレーダーのように四方八方に向けて動き回る。

「和乃さんっ」

「え、わぷぷっ!」

 私の頭を抱え込むようにしていずなちゃんは突然抱きついてくる。

 勢い余って私はヘッドロックされたみたいに倒れ込んだ。

 いずなちゃんの膝のおかげで顎は打たずに済んだ。

 その時、凄まじい響きを伴って地面が、揺れた。

 体が横に飛ばされそうな錯覚に囚われる。実際はと言えば、あまりの激しさに身動き一つできず、地面に縫い付けられてしまったようだ。

「終わった、みたいですね」

振動が収まると、周囲を窺いながら、いずなちゃんは手を放してくれる。

「いずなちゃん、大丈夫!?」

「あ、はい。和乃さんこそ、大丈夫ですか?」

 かばってもらってしまった私は、腕を取って怪我がないかを尋ねると、存外、明るい声が返って来た。

「私、和乃さんよりは丈夫ですから。和乃さんにお怪我がなかったのでしたら、何よりです」

「おかげさまで、大丈夫。本当にありがとう」

 お互い怪我がない事がわかってほっとする。

「それにしても、よく地震が来るってわかったね?」

「この地域、多いですからね。何となく、来る雰囲気と言いますか、感覚的に覚えてしまいました」

 鼠が船から逃げ出したり、犬が急に吠え出したりする、危険察知能力みたいなものだろう。

 本当に、助かった。今日はいずなちゃんに助けられてばっかりだ。

「ところで、あの、あれ」

 戸惑い気味に、彼女は社の方を指す。私もそちらに目をやって、ぽかんと大口を開けてしまう。

「ええ~!?」

 そこには、巨大な石の円盤が全容を現していた。

 さっきの地震の衝撃で露出したようだ。何と言う偶然。

「っとと、とりあえず写真ね」

 千載一遇のチャンスに、私は迷わずカメラを取り出して撮影を開始する。

 全方向からの画を写真に収めて、データを確認。うん、これで全容は大体わかる。

 そのまま私は円盤の縁にかがみ込む。

 何か彫ってある。社と同じく随分月日が経っているせいでかなり浸食されたようで、ほぼ平面になっている。かろうじて、文字が彫ってあった、かな、という所だ。

 ぐるっと回ると、鳥居のすぐ前の部分だけ何とか読み取れそうだった。

 私は意識を集中。じっと見つめながら、指で掘られた文字をなぞる。

「ええっと、へ? みず、は?」

 龍、暴、瑞簸、とあるようだ。

 んん、おかしいな。暴れ龍と言う事なら、それは天竜様の事であって、瑞がつくなら瑞貴になるべき。と言うか、そもそも呼称を彫るような事はないはず。

 貴と簸では、まれにある名前の混合・誤用を疑うにしても違いすぎる。韻が合わない。

 うんうん頭を悩ませていると、いずなちゃんが服の裾を引っ張った。

「和乃さん、ここを離れた方がいいと思います」

「え――あ、うん」

 もう少し、と言おうと思ったが、いずなちゃんの耳や尻尾の毛が逆立っているのをみて私は首を縦に振った。

 表情こそ平静に見えるが、何かをいたく警戒しているのは間違いない。

 急いで荷物をまとめると、再び地面が激しく揺れた。

「わわ」

「急ぎましょう」

 先ほどとは違い、突き上げてくるような震動に、いずなちゃんは社の方をじっと見つめて、そう呟いた。

「よし、行こっかふへっ」

 またも震動が走る。だが、今度は今までと違った。槌を打つ様に、ズン、ズン、と小刻みに、それも足元から揺れている。

「ね、ねえ、これ、真下から何か来てない?」

 ぐっといずなちゃんが私の手を握って来た。そこから、地面の揺れとは違う震えが伝わってくる。

 徐々に大きくなった揺れはついに石版にヒビを生んだ。出来た隙間から黒い靄が噴煙の如く涌き出す。

 揺れが収まっても靄は涌き続けた。

「うわぁ」

 渇いた声が溢れる。

 良くないな、絶対良くないな物だよこれ。

 靄の中に紅い大きな点が覗く。それはぐるぐる泳ぐようにして、止まる。私達の方を向いて。

「オオオオッ!」

 耳をつんざく咆哮が靄から放たれる。気づけば、靄は紅い点を瞳の位置に持ってきた、隻眼の蛇のような形になっていた。

「和乃さん!」

「う、うん」

 いずなちゃんに引きずられるようにして私は一目散に走り出す。三十六計逃げるにしかずだ。

 険しい山道を何度も転がりそうになりながら駆け降りる。

「わわっ!」

 岩壁に差し掛かり私はたたらを踏んだ。

 危ない危ない。下手したら死んでた。

「あれ?」

「どうかしましたか?」

「ここ、通ってないよね」

 周囲の風景はもちろんだが、何より鎖道がない。さっきのお社に来るときに通った岩壁には鎖道があったのだ。

慌てて逃げて来たので道を間違えたようだ。

 いずなちゃんもそれに気付いたようで、周囲を見回しながら鼻を動かし、力強く頷いた。

「大丈夫です。この山からなら、どこを通ってもお店まで戻れます」

「良かった」

 とりあえずは一安心だ。迷っちゃったら大変な事になってただろう。

「とりあえずここを降りましょう。そのあと少し進めば、来た時に使った道と合流できます」

 いずなちゃんは岩壁の下を指しながら告げる。そうとわかれば、私はリュックからロープを取り出す。

 後は適当な木に結びつければいい。

「あの、和乃さん。ちょっとお時間はなさそうです」

「うわわっ」

 言われて顔を上げると、先ほどの靄蛇がこっちに向かって一直線に向かってきていた。

 体が浮いているので、悪路でも全く関係ない。

「失礼します」

 いずなちゃんが何か言ったと思った時には、私の体は抱えあげられて宙を舞い、崖下目掛けて真っ逆さまだった。

「うひゃあああっ!」

 その視界の先で、蛇の大口が空振りした。

 危うく丸呑みになるとこだった。

「あぶっ」

「っ、大丈夫ですか?」

 着地したいずなちゃんは衝撃に顔をしかめながらも、気遣ってくれる。私はブンブンと何度も首を縦に振った。

「ありがとう」

 おかげさまで無傷です。

 抱き抱えられた状態から慌てて立ち上がる。上を見ると私達を見失ったのか、蛇はぐるぐると上空でとぐろを巻いていた。

 蛇は真下は見えないから、少しは余裕がありそうだ。

「今のうちだね。って、いずなちゃん!?」

 彼女は足首を押さえてその場に膝をついたままだった。

「あ、あはは。挫いちゃった、みたいです」

 笑って言うが、額には汗が浮かんでいた。覗き込むと、足首は真っ赤に腫れてしまっている。これで歩くのは難しいだろう。

「少し休めば大丈夫です。和乃さんは、先に行ってください。すぐに追いつきますから」

「ここでそんな選択肢はないよ!?」

 思わず声が荒くなった。

 確かにいずなちゃんが言う通り、治るのは人間の私よりは遥かに速いだろうけど、置いていくなんて以ての外だ。

 今日はいずなちゃんがいなかったら何も出来なかっただろうし、助けられた回数は数えきらない。

 今だってそうだ。それなのにいずなちゃんを置いてけぼりにできるとしたら、性根が腐りきった時だろう。

「ですが」

「ですがじゃなくてね」

 私はリュックを地面に下ろすと、ライトや携帯食料等、必要最低限なものだけ取り出す。ちょっと迷ったけどメモ帳はポケットにねじ込み、カメラはライトと一緒にズボンのベルト穴に引っ掻ける。

 両手は空いた。これでよし。

 私は気合いを入れて彼女を無理矢理おんぶする。

 いずなちゃんは最初は体を強ばらせて抵抗したが、それならと横抱きにしようとしたら諦めてくれた。

「あの、ありがとうございます」

「足りないくらいだよ」

 消え入りそうに呟くいずなちゃんに、私は努めて明るく答える。

 いずなちゃんの震えが伝わって来る。

 本当に、この程度じゃ全然足りない。今を無事に乗り切れたとしても、だ。

 ゆっくりと足場に気を付けながら歩き出す。急いだら逆に大ケガだ。今は確実に進まないと。いずなちゃんのナビにくわえて、比較的なだらかな道が続いてくれた為、置いてきた荷物はあっという間に見えなくなった。

 見つかりにくくなるように、木々の合間に意識的に体を隠すようにしたのも幸いしたのだろう。蛇が追ってくる気配は感じられなかった。

「もう少し進んだら左に行ってください。それで、来たときの道に戻れます」

「うん、わかった」

 行きに通った道も相当険しかったけど、わかる道を通った方がいい。迂回は最小限にして、と。いずなちゃんに言われてポイントを左に向かう。

 あ、ここは確かに見覚えがある。

「ヴオオオッ!」

「ふへっ!?」

 唐突に響き渡るあの蛇の鳴き声に、心臓が跳ね上がった。周囲を伺うと、後ろから舌をチロチロ出すようにしてジグザグに進んでくる蛇の姿があった。

 姿が見えなくなったから、臭いを追われてるんだ。

 私は早足で歩きを再開する。

 今はまだ距離があるし、蛇なら目はそこまでよくないから気づかれていないが、相手は普通の蛇じゃない。こっちから向こうが見えた以上は時間の問題だ。何とかして臭いも気づかれない方法を考えないといけない。

「和乃さん、もうすぐ私歩けますから先に行ってください」

「それはダメ」

 いずなちゃんの申し出は一蹴する。それだとここまで来た意味がないし、何より申し訳が立たない。きっと後悔する。

 進む早さに合わせて、会話も足早になっていく。

「でも、無理ですよ」

「ならいずなちゃんに先に行ってもらおうかな」

「それは、ちょっとズルいです」

 いずなちゃんはちょっとむくれたが、私が意見を曲げないと理解してくれたようで、蛇の動きを伝える方に集中してくれた。

 それでも状況は好転していない。火事場のバカ力かわからないけど、距離が縮まっていないのは自分でも驚きだった。

 考えろ、どうすればいいか、考えるんだ。

 息を切らせて歩き続ける。

 パキッと足元で音がする。枝を踏んづけたようだ。

「あ――」

 ふと足元に目をやった私ははっとなって辺りに目をやると、蛇とは違う影があちらこちらへ逃げ回っている事に気がついた。

 どれも山に住む妖怪達だ。そして思い出す。虎の妖怪や山童達と遭遇したのもこの周辺だった事に。

 歩く速度を少し緩めながら、いずなちゃんに一つ尋ねる。

「ねえ、いずなちゃん。さっき、この山ならどこからでもお店に帰る道はわかるって言ったよね」

「はい、絶対に迷いませんよ」

 力強い返事に、私は一縷の望みを託す。

 これなら、相手を撒けるかも知れない。

「それって、どんな道でも大丈夫?」

「はい、どんな道でもです」

「信じるから、私も信じてもらっていい?」

 掠れ気味の声しか出なかったけど、いずなちゃんは応えてくれた。

「もちろんです」

「ありがとう。じゃあ、行くね」

 私を掴む腕にいずなちゃんは力を込める。足を奮い立たせ、私は来た道を完全に外れて、林の中へと突っ込んだ。

 さっき見間違えてなければこっちであってるはずだ。

 私の考えを裏付けるように、少し離れた場所を、人間の下半身が大きな蜘蛛になった妖怪が並走していた。向こうも避難が最優先のようで、こちらに気付いても特にアクションは起こさなかった。

 歯を食いしばって、目的の場所を求めて走り続ける。背後から蛇の恐ろしい唸り声が山の中を木霊しながら追いかけて来ていた。



 雨が降りしきる中、私といずなちゃんはどうにかお店の前に辿り着いた。

「あはは、やっと着いた」

「か、和乃さんまだ倒れないでください」

 愛車の自転車を押しながら体が斜めに傾いたのを、いずなちゃんが何とか支えてくれる。

 慢心相違と言うか何と言うか、とにかくボロボロだった。

 しかし、現状はどうあれ、私の策はなんとか功を奏して、靄の蛇を振り切ってここで戻ってくる事が出来た。

 いずなちゃんと一緒に山道から舗装路に飛び出した時の達成感と言ったらなかった。その上、置いていった愛車の前に出る事が出来たのだから、超級の幸運に恵まれたものだ。

 おかげでそこからは下り坂を二人乗りですいすい下りて来れたのだが、誤算は山の天候の変化だった。

 押し流されそうな土砂降りに見舞われ、スリップの危険があったので仕方なく、徒歩に切り替えた。

 自転車のライトにくわえ、いずなちゃんが狐火を焚いてくれた為、視界は良好に保てたが、体の方はそうも行かない。

 お店に辿り着くまでにすっかり冷え込んでしまっていた。

 もうくたくただ。

 あと数十メートルと言うところで、体を打つ雨の感覚が無くなる。見上げると海やキャンプでみるようなパラソルが雨を遮っていた。

「え?」

「探した。遅かった」

 振り向けば、息を切らせたうね子さんが傘を差し出してくれていた。

「天気も悪いし、心配した」

 言葉は淡々としていたが、目元が優しげに緩む。

 見ればうね子さんの足は私達に負けず劣らず、泥水にまみれていた。

「ひょっとして秋葉さんも?」

「ん。入れ違いもあるから、待ってる」

 通りで。今日は定休日なのにお店の方に明かりがついているわけだ。

「はあぁあ」

「あっ」

「おっ」

 今度はいずなちゃんがへたり込みそうになる。とっさに私は片手で腕を掴み、うね子さんが背中を支えた。

「あはは、ごめんなさい。私も気が抜けちゃいました」

 三人支え合いながら、お店までの道のりをゆっくり進む。

 店内に入ると、秋葉さんはさすがに驚いていたものの、何も聞かず、コーヒーを出してくれた。冷えきった体にはこれ以上ない代物だった。

 人心地ついた私といずなちゃんは、あまりにも汚れきっていたので、うね子さんが沸かしてくれたお風呂に一緒に入る事に。

 誰かと一緒に家庭用のお風呂に入るなんて久しぶりの体験だった。

 お風呂は、かなり痛かった。

 いずなちゃんと背中を洗いっこしたら体は擦り傷だらけでしみるし、お湯に浸かれば傷に加えて冷えた指先がジンジンだ。それでも、いやだからだろうか。なんだか生き返ったような心地だ。天井をぼーっと見つめていると胸の辺りが重くなる。

「寝ちゃったか」

 いずなちゃんが私に体を預けてすうすうと寝息を立てる。

 うん、今日は私がずっと助けてもらっていた。私なんかよりずっと疲れてるに決まってるんだ。

私は彼女の首にそっと手を回して、頭に頬を寄せた。今のうちに今一度「ありがとう」と囁いた。

 眠ったままのいずなちゃんをお風呂から出して、布団まで連れていく。体を拭いたり浴衣を着せるので手間取ったけど、うね子さんが手伝ってくれたらあっという間だった。一拭きで濡れがなくなったり、尻尾があってもささっと着せてしまえたりと、うね子さんのスキルは地味に凄い。

 いずなちゃんを寝かせてお部屋を後にすると、廊下で秋葉さんが待っていた。私は背筋を正す。眠たいけど色々聞かれるに違いない。今度ばかりはちゃんと答えないといけないだろう。

 表情が堅くなる私に対して、秋葉さんは柔和な笑みを浮かべた。

「無事で何よりだ。ありがとう」

「そんな、私は――その、全部いずなちゃんのおかげです」

「そうか。一緒に行ってもらって正解だったね」

 ポンポンと優しく肩を叩かれる。

「今日はゆっくり休んで欲しい。話しは明日にしよう」

「はい、ありがとうございます」

 秋葉さんはそのまま手を降って奥の部屋に消えていく。私は一礼してから用意してもらった客間に戻ると、泥に沈むように眠りへと落ちていった。



 翌日も雨は降り続いていた。昨夜の激しさに強風が加わり、窓を叩く雨粒は雹のような音を立てていた。

 朝食は特製の雑炊。疲れた体には本当に嬉しい料理だ。特産品のワサビをちょっと乗せるとまたいい味になったのだけど、いずなちゃんは頑なにサビ抜きだった。はまだワサビは早いんだね。

 食事を終えると、お茶を飲みながら昨日の顛末を秋葉さんに説明する。話はほとんどいずなちゃんがしてくれた。

 秋葉さんは黙って聞いていたが、うね子さんは洗い物をしながら気になった所があるとちょこちょこ顔を上げていた。

「いやはや、それはまた大変だったね。そんな事になっていたとは思わなかったよ」

 秋葉さんはもう笑うしかないと言った調子で、苦い笑みを浮かべて顎を撫でていた。

「それにして、怪道を通るなんて無茶するね」

 怪道と言うのは、妖怪達の通り道の事だ。私は勝手に化生道と呼んでいたが、秋葉さん達はそう呼ぶらしい。

 それこそが、私といずなちゃんが無事にここへ戻って来れた鍵だった。

 怪道は、実体のない存在を通さないのである。霊魂が通る霊道とその辺りは区別がきっちりしているそうだ。

 また、中はこの世とは隔絶しているので、一度入れば追跡も不可能と言う事で、まさに私の目論見通りの結果を生んだ。

「いずなが居なかったら帰って来れなかったよ?」

「それはもう、感謝してもしきらないです」

 そう、怪道の中は非常に厄介で、同一地域内の怪道は出入り口が全て繋がっているのだ。

 と言うのも、怪道はその地域を治める主、白岐山で言えば天竜様などが、自然に生きる妖怪達が極力人から姿を見られないように移動できるようにと作ったものなのだ。

 その為、迷路のように入り組んでおり、利用者である妖怪ですらどこがどこの出口か完全には把握していないのだ。

 今回はいずなちゃんのその強力な鼻のおかげで、お店に最も近い出口に辿り着く事が出来た。それもたまたま自転車を置いた場所の側だったのは、超弩級にツいていた。

「悪いの多いから、私も、使わない」

 うね子さんがボソっと呟く。

 怪道はその隔絶した状態と、迷路のようになっている事から、自然社会や人間社会、どちらにも馴染めない妖怪達の溜まり場としての側面もあり、追剥や強盗的な行いが絶えないので、彼女は一度も使った事がないらしい。

「それも、思い知りました」

 逃走途中、がしゃどくろや餓鬼と言った、いかにも悪そうな妖怪がじっとこちらを伺って、出口付近までついてきたのだ。あれは、きっと、私達を狙っていたに違いない。

「まあ、連中は基本小心者だからね。いずなが管だとわかれば、その主にもケンカを売るような真似はしないさ」

 本当に、いずなちゃんが居なかったらどうなっていた事か。私は恐縮しきりだ。

「ありがとうね、いずなちゃ~ん」

「わわ、くすぐったいですよ」

 私は思い切っていずなちゃんを抱きしめた。

 彼女は笑いながら体をゆする。秋葉さんも微笑みながら一服する。

 ああ、改めて戻って来た感じがする。

 うね子さんが淹れてくれたお茶を飲んで、ほっと息をつく。

 そっと、うね子さんが手を上げた。

「ところで、さっきの話。気になった事が、一つ」

「え、なんでしょうか?」

「和乃、入り口、どうやって、見つけたの?」

 ふひ、っと変な声が出てしまった。

 あっ、と思い出したようにいずなちゃんが口に手を当てる。

「そういえば、確かいずなの話では和乃さんが見つけたんだったね」

 秋葉さんは不思議そうにこちらを見つめてくる。

 六つの視線にさらされた私は、ははは、と適当に笑って頭を掻くが、場の雰囲気が変わる気配はない。

 ふうう、と一旦深呼吸。じっと湯飲みを見つめる。水面には、自分の冴えない顔が映っていた。

 いい、機会なのかもしれない。そう思った。

 いずなちゃんには昨日たくさん助けてもらった。お礼はいくら言っても足りないし、これが代わりになる事じゃないのはわかっている。

 でも、これ以上誤魔化すよりもちゃんと話をしておいた方が、いい気がする。 何より、以前刑部さんとあった時点で、うすうす秋葉さんは勘付いているようだったしね。

「その、標を頼りにしました」

「標って、怪道の場所を示した?」

「はい」

 怪道は、いくら作った所で、利用者にどこにあるか示さなければならない。

 そこで、妖怪達にのみ通じる標や案内が用いられる事が多い。

 私は、それを発見したからこそ、怪道の利用を思いたったのだ。

「私でも知らないのに、和乃さん、すごいです」

 いずなちゃんは目を輝かせてくれるが、うね子さんは釈然としない様子である。

 一方、秋葉さんは何やら思案していたが、紫煙をくゆらせてゆっくりと目を開けた。

「そう言う事だったんだね。和乃さん、標の事を知っていると言う事は、君は今回初めて怪道を使ったわけではないね」

 秋葉さんはとても話が早い。怖いくらいに。これなら、もうおおよその事は推察されてしまってるんだろうな。

 私は、肩を小さくして頷く。

「昔、手違いで一度中まで入った事がありましたから」

 こっちに来るよりもずっと前の事だ。最近、夢で見た光景は、まさにその怪道での出来事でもある。

「なるほど。それで、今回は利用を思い立ったわけだね。あまり人が怪道に興味を持つことがいいとは言えないけど、今回はそれが良かったようだ」

 厳しい言葉が来るかも、と内心身構えていたが、秋葉さんは柔和な笑みで、そう言ってくれた。

 これは、もうずっと秋葉さんには頭が上がらない。

「でも、標だけがわかるって、有り得るの?」

「標だけじゃないさ、彼女がわかるのは。そうだろう、和乃さん」

 私は頬を掻いて目を逸らす。ここまでお見通しだと、逆に今まで言うタイミングを逃していた自分がバカみたいに思えてくる。

 いずなちゃんとうね子さんは興味津々で私の次の言葉を待っていた。

「はい。私は、機械的に印刷されたものでなければ、そうしたサインだけでなく、文字も理解する事が出来ます」

 私は余す所なく、全てを伝える。

 気付いた時にはそれが出来た。誰が、どんなに汚く書こうが、暗号文であろうが、秘密のサインであろうが、内容を理解する事が出来た。

 それこそ、おふざけで作った架空の文字であろうとも、である。

「それなら、標の件は、納得。ただ、それだと、このお店の事を、知らなかったのは、変」

 うね子さんは目を丸くしつつも、理解を示してくれたが、新たな疑問が生まれてしまったようだ。

 それは、秋葉さんやいずなちゃんも同様だった。

「秋葉姐さん。アルバイトの募集って、確か、スゴい書き方してましたよね」

「うーん、まあ確かに普通の人だったら読めないようには書いたんだけどね」

 どこか気まずそうに、秋葉さんは視線をそらす。誤魔化しに、口笛でも吹き出しそうだった。

 何となく予想はしていたが、やはり普通に書かれていたわけではないようだ。

 妖怪のお店だし、その程度の篩はあって当然だ。それであれば、うね子さんの疑問はもっともな事である。

 条件として、私が文字を読んでいる事が前提だが。

「私の力は、読めるのとは、ちょっと違うんです。理解できるだけ、と言いますか」

 例えば暗号文があったとして、私はそれを暗号だとは認識出来ないのだ。私には、私の目には暗号の内容が明文化された状態で見えてしまうから。

 自動翻訳のフィルターが常に発動しているようなものだ。

「じゃあ、和乃には、アレが、普通のチラシに、見えていたって、事?」

「そう、なりますね」

 私の返事に、うね子さんは、腕を組んで目を瞑る。

 しばし考え込んだ後、じっと私の瞳を覗き込む。

「えっと、うね子さん?」

「ん、信じる」

 彼女の中で何かが完結したようだ。でも、何でも、信じてもらえて嬉しかった。

「ありがとうございます」

「ん。でも、次からは、早めに言って欲しい、かも」

「そうだね。もちろん、和乃さんの裁量に全て任せるけど」

 そう言って、秋葉さんは立ち上がる。

「話もまとまったし、ちょっと休憩にしよう。和乃さんの事も新しく知る事が出来たし、コーヒーを淹れるとしよう」

「わーい」

 いずなちゃんの可愛らしい声に、場の空気が和やかになる。

 私はどっと椅子に背中を預ける。なんだか、喋っててただけなのに疲れてしまった。

「あ、そうだ」

 私はパンと手を叩き、ぐっと身を乗り出す。

 つられていずなちゃんも前かがみになった。

 出来る限り小声で、うね子さんに声をかける。意を汲んで、うね子さんもテーブルに身を乗り出して、耳を近づけてくれる。

「あの、チラシには実際なんて書いてあったんですか?」

 出来る限り小声で尋ねる。

 秋葉さんは、なんだか聞いて欲しくなさそうではあったけど、天竜様もけったいな反応を示していたし、ついつい気になってしまった。

 うね子さんはコーヒーを準備している秋葉さんの様子を伺いながら、耳を寄せるように言ってくる。

 言われるままにすると、先ほどの私よりもさらに小さな声で教えてくれた。

「私たちの言語。それも、かなり古風。文語体、とか言うの? だった」

「ああ、なるほど」

 想像してみると、天竜様が以前、チラシを見て唖然としていたのもわかる気がする。

 私も、アルバイトの募集チラシを古文風に書かれてたら、まずびっくりする。

「正直、アレで、来るとは、思って、なかった」

「はっはっは、聞こえてるよ~。どうやら苦い方がいいみたいだね」

 秋葉さんからの温かいお言葉が届く。秋葉さんの耳を甘く見てはいけなかった。全て筒抜け。

 何とかおいしいコーヒーを淹れてもらうため、私とうね子さんは平謝りだった。

 ううん、話題にする事自体、お気に召さなかったようだ。

 苦味と酸味が程よく抽出されたコーヒーは、外の雨音すら楽しませてくれるような、落ち着いた気持ちを与えてくれた。

 その時、大きく地面が揺れた。

「おっと」

「ん」

「はわわっ」

「ひゃっ」

 私は大急ぎでテーブルの下に身を隠す。揺れは突き上げてくるようで、私はテーブルの裏に頭をぶつけるんじゃないかと思ってしまう。

「おーい、和乃さん」

「え?」

 揺れが収まった所で、背後から秋葉さんの声がかかる。振り向くと、彼女はイタズラな笑みを浮かべていた。

「もう大丈夫だよ」

「あ、はい」

 私はゆっくり這い出ると、皆席に座ったままで、いずなちゃんが私の分のコーヒーカップもこぼれない様に確保しておいてくれていた。

 避難行動をしたのは私だけ、というかそれもそうか。

 私は照れ笑いを浮べつつ、いずなちゃんからカップを受け取る。

「今の揺れって」

「蛇が出てきた時のによく揺れが似てました」

「うん、二人が遭遇したのと関係があるのかも知れないね」

「昨日から、三回は、あった。異常」

 白岐山を中心に何か異常があるのは間違いなさそうだ。私達が顔を見合わせると、お店のベルが鳴る。

 瞬間、悪寒が背筋を走り抜けた。

「おや、これは丁度いいじゃありませんか」

「生憎と、まだ開店前なんだけどね」

 嫌味で酷薄さを秘めた声。それだけで、誰が入ってきたのかは瞭然だ。

 振り向けば、刑部さんが肩の水を払いながら立っていた。

 不満げに告げる秋葉さんをスルーして、彼の目はまっすぐに、私を捉えた。

「八智和乃さん、あなたのお力を貸していただきましょうか」

「は、い?」

 予想だにしない言葉に、私の思考は完全に固まってしまった。

「聞こえませんでしたか、あなたの力が必要だと言っているんですよ」

 いらだち気味に刑部さんは告げる。うん、私もイラっときた。

「とりあえず、私の力って、どこから聞いていたのかを説明してもらいたいですね?」

「愚問ですね、最初からですよ。大体、あなたは監視対象に入っている事をお忘れですか。普段と違う行動があれば、当然チェックしますよ」

 彼は不敵に笑いながら、右耳からイヤホンを引っこ抜く。

「あの、じゃあ昨日の騒ぎも?」

「トラブルが合った事は昨日の時点で把握していましたよ。詳細は、さっき聞きましたがね」

 私は大急ぎで体中をまさぐるが、違和感やおかしな点はどこにもない。

 刑部さんはやれやれと呟き、大きく首を振った。

「そんなアナログな方法は使いませんよ」

 それでピンと来て、私は携帯を取り出す。ちょっと型落ちしてるが、それでも立派なスマートフォンだ。

 大急ぎでスキャニング。

「うわわっ」

 基本動作以外していないはずなのに、フル回転に近い状態だ。

 バックグラウンドで何かやられているのは間違いない。

「これ、ちょっとあんまりじゃないですか!」

 個人情報もへったくれもあったもんじゃない。

 私はとりあえず電源を落とす。後でガラケーに交換しなおすしかなさそうだ。

「お前さんのせいでせっかくの一杯が台無しだ」

 私と刑部さんのやり取りを横目に、コーヒーを飲んだ秋葉さんが、憮然と告げる。

「それは失礼。コーヒーは好きですし、何でしたら処分しましょうか?」

「いや、さすがにそれはどうかと思うぞ」

 ザザっと私達は壁際に後ずさる。ドン引きとかそう言うレベルじゃない。気持ち悪い。

 秋葉さんの笑顔が引きつっていた。

 だが、刑部さんは委細気にした様子も見せず、適当に隣のテーブルからイスを取ると、お誕生席に陣取った。

 「今回、和乃さん達を襲った靄の蛇、でしたか。それが現れた原因ですが、これを見てください」

 彼は数枚の写真を取り出してテーブルに広げる。私達はゆっくりと椅子に戻り、写真を確認した。

 注連縄が付けられた岩石の写真である。

「これは?」

「要石の一種、ですね」

「はあ、いいっ!?」

 静かな店内に私の大きな声がこだまする。聞き流すにはちょっと、無理のある内容過ぎた。

 要石と言えば、一部の地域に伝わる、地震を鎮める為の石で、そこから転じて、動かしてはいけない重要な代物を指す言葉になっている。

 そう、動かしてはいけないモノなのだ。

「……これ、向き変ですよね」

 私の目が間違ってなければ、岩石は転がった節がある。

「ええ、動かしてしまいましたからね」

 忌々しげに刑部さんは目を閉じて告げる。

「少し前に道路拡張工事の話をしたのは覚えていますね」

「え、あ、はい」

 初めて会った時にそんな事を言っていた気がする。

 さっさと出会い事態忘れようと努めたから、記憶が怪しいけど。

「その作業中に、工事の業者がやらかしたんですよ」

「はあ?」

「ひどい」

「ふ、む?」

「へ、え?」

 その場にいた全員が、キョトンとなる。

 刑部さんは、やや不機嫌な調子で「何ですか、皆さん間抜けた面を並べないでください」と言い出す始末。

 何でこの人こんなに落ち着いてるの。

「おい、確かこの間、工事は地脈に影響がないと言ってただろう」

「ええ、再三検討しましたからね。これは、地脈に絡んだモノではありません。封印を維持するために置かれたものです」

 封印。その言葉で、昨日の件と今の話が一本の線となって繋がっていく。

「封印って、瑞簸って名前と何か関係があるんですか?」

「ほう、そこまでご存知でしたか。その通りです」

 揚々と刑部さんは頷く。

 顔に影を差しながら秋葉さんが写真を改めて見直している。

「瑞貴さんには伝えたのか?」

「もう連絡は言ってるはずですよ」

 瞬間、雷が落ちた。激しい光が視界を塗り潰す。遅れて、爆音。窓がガタガタと悲鳴を上げる。

 いずなちゃんは体を縮こませ、うね子さんですら光に目を眩ませていたが、刑部さんは一切動じる事なく、外に目を向けた。

 この人、メンタルは本当に凄いな。

「こりゃああああっ!」

 甲高い叫び声と共にお店のドアが激しく叩かれる。秋葉さんは溜め息混じりに煙管をくわえながら「入れてあげて」と呟いた。

 ドアを開けると、いずなちゃんより小さな和服の女の子が息を切らせて飛び込んでくる。

 彼女は問答無用で刑部さんの足にローキックをお見舞いした。

「何してくれとるんじゃ、お主は!」

「僕は何もしていませんよ。その指摘はお門違いです」

「お主の所でちゃんと監督せんから、こうなっとるんじゃろうが!」

 一気に捲し立てて、何度も女の子は刑部さんの足を踏みつける。

 突如乱入した嵐に私はポカンだ。

「あ、あのあの」

 おろおろしながら秋葉さん達の方へ舞い戻る。

 三人とも、なんだか面白そうに刑部さん達の様子を眺めていた。

「ああ、大丈夫大丈夫。分身、子犬みたいなものだから」

「いえ、刑部さんの足は心配してないです」

「和乃、結構酷い」

 だって痛そうにしてないし。気になっているのは女の子の方だ。

 聞けば、天竜様の分身だと言う。なるほど、服装とか雰囲気は、よく似ている。

 ひとしきり刑部さんを罵倒しきった天竜様は、肩で息をしながら、そのまま射殺せそうなほどの視線でじっと彼を睨み続けた。

「気が済みましたか?」

「本殿を離れられるならお主を食い殺しておるわっ」

「それだけ話せるなら十分ですね」

 なんだか、この人なら神罰も受け流しそうな気がする。

 何はともあれ、ようやく話が出来る所まで落ち着いた天竜様も交えて、情勢確認が再開される。

 刑部さんが言うには、要石は適切な処置をもって元の場所に戻したそうだが、その時点では既に石版にヒビが入っていたということか。

「封印は解けかかっていると見て間違いありません。恐らく、貴女達が遭遇したのは封印された存在の怨念が噴出、具現化したものでしょうね」

 類似のモノとして、刑部さんは憮然としたままの天竜様を指す。

 今来てるのは分身なのだから、そういう事なんだろう。

「ワシがこうして雨を降らせておる間は具現化する前に気を押し流しているから問題ないが、あまり長く続けるわけにもいかん」

 天竜様は渋い顔をする。本当の効果はともかく、自然に対してみればただの集中豪雨。災害の危険や生態にも影響が出るのは必至だ。

「ええ、ですから彼女の協力を仰ぎに来たのですよ」

「なんじゃと?」

 刑部さんに言われた天竜様は、いぶかしげに私の方を見つめる。

 私は縮こまる。そんな風に見られても、言っているの刑部さんだけで要求も聞かされてないので、こちらも困ってます。

「彼女、瑞簸さんのお名前をご存知ですよ」

「いえ、それが何かを聞いてた所じゃないですか」

 天竜様が、くわっと目を見開いたので、私は大慌てで釈明する。

 たまたま、現場に居合わせ、偶然にも名前と思われる部分を見つけただけだ。その辺りを根気強く説明して、天竜様には納得してもらう。

「それで、その、瑞簸さんと言うのは?」

「ん、むぅ」

 ばつが悪そうに、天竜様は頭を掻く。

「ワシの姉じゃ」

「え?」

「あそこには、姉様が封印されておる」

 天竜様は、ぽつぽつと、封印に纏わる事象を語り始めた。




 暴れ竜と畏れられた天竜川の主は、元々は、今の天竜様ではなかった。彼女の姉、瑞簸さんこそが本来の暴れ竜だったのだ。

「と言っても、血の繋がりがあるわけではないがな」

 一人ぼっちの状態であちこち放浪してきた天竜様を、当時周辺一体の主であった瑞簸さんが受け入れてくれた後も、何かと世話を焼いてくれたので、慕っていたのだと言う。

「姉様は、普段は大人しいのじゃが、一度怒ると手がつけられぬでな」

 瑞簸さんの不興を買って叩き潰された治水工事も多数あると言うのだから、本当に雷が落ちる勢いだったのだろう。だが、それも元をただせば、当時住んでいた動物や妖怪達に取ってみれば生活に影響が出るような部分が続いたからだとか。

 当時を知らない私にはこの言い分だけで正しいとか悪いとかを言う事は出来ないし、してはいけないが、たった一つわかることがある。

 それは、人間社会と自然社会が、当時は当時として何とかバランスが取れていた事だ。そうでなければ、きっと今頃この辺は人が住めない土砂の下だろう。

 天竜様が語る、瑞簸さんの像にはそれだけの力を感じる。

 だが、瑞簸さんは、封印されてしまった。その時、何かが、狂ったのだ。

「あれは、突然じゃった。何がそうさせたかはワシは知らぬ。怒りと憎しみに身を焦がした姉様は、川の上流の集落を水没させてしまったのじゃ」

 理由は、今もって誰にもわからない、と天竜様は悔しげに告げる。

 それは折り合いをつけて生きて行こうとする中で、越えては行けない一線だったのは想像に難くない。その後も瑞簸さんの暴虐は留まる所を知らず、耐えかねた人々は術士達を呼び寄せ、彼女を白岐山に封印したのだ。

「後は、主が不在になるとその地は荒れるでな。代わりとして、ワシが祀られる事になったのじゃ」

 そして現在、その封印が綻び、瑞簸さんが復活しようとしている。彼女が鎮まってないのは確実だ。私は身を持って知っている。いずなちゃんも思い出したのか、耳がすっかり萎れていた。

「姉様が解き放たれたら、止める術はあるまい。ワシにも、そこまでの力はない」

 天竜様は苦々しく爪を噛む。

「でしょうね。彼女の暴れっぷりには、近隣の神々ですら手を焼かされたようですし」

 天竜様には申し訳ないけど、瑞簸さんの人に化けた時の姿がアンドレ・ザ・ジャイアントみたいな姿でしか浮かばない。

 刑部さんの言いっぷりが他人事みたいだけどもう慣れてきた。

「だが、腕利きの術士達が封印には成功した」

 秋葉さんは天井に向けて紫煙を吐き出しながらそう呟くと、椅子に背中を預けながら、煙管を刑部さんに突きつける。

「お前さんは、そこに目をつけたわけだ」

「ええ。だからこそ、八智和乃さん。あなたの力が必要なんですよ」

 刑部さんの鋭い視線が私を貫く。

 彼の依頼は至極単純。当時の資料から、封印を成功させたファクターを見つけ出して欲しいと言うもの。術士達が残した資料は、現在九十九神管理委員会が保管しているそうだ。

「封印などの術は、言ってしまえば術士達にとっては特許技術です。資料が残っていたとして、通常では解読不能の、独自の文字を使っている場合も多々あります」

 だから、私の、どんな文字でも理解できる力が必要だとは言うものの、刑部さんの言い方を差っ引いても私である必要性が薄い気がする。

「それ、私じゃなくてもどうにかなりませんか?」

 資料があるなら専門家である委員会の方でとっくに分析が終わっててもいいと思うのだけれど。

 首を傾げると、彼は大きくかぶりを振った。

「もちろん、時間が余っているならあなたには頼みはしませんよ。さて、瑞貴さん。今と同じ状況を継続したとして、影響が出ないラインはどのくらいですか?」

「う、む。せいぜい一両日中と言った所じゃな」

 その先は、聞くまでもない事なのだろう。天竜様とて、瑞簸さん以後も暴れ竜の名を保って来た以上、何が起きるかは大体想像がつく。

 顔色から察するに、その結果として、封印が解けるのが逆に早まる可能性もない、とは言いきれなさそうだ。

「遺憾な事ではありますが、解読の早さであなたの力を上回るスタッフはいないのでね」

 妖怪に関する資料については随時解読を進めて、術の研究などはしていると説明されるが、白岐山の封印については独自性が強く、汎用性も薄いのであまり注目していなかったようだ。

 結果、あと二日足らずでかき集めた資料を分析しなければならなくなった、と。

「新しく、封印は、出来ないの?」

「出来ますよ。相手が大人しくしていてくれるなら、ですがね」

「つまり、人材が、足りて、ない」

 淡々としたうね子さんの指摘に、刑部さんは言葉に詰まり、ピクピクと眉を動かす。

「封印が出来る術士が少ないだけです。技術の進歩で、そんな事をしなくても、今なら大概の事は解決できますからね」

「じゃあ、和乃の力がなくても、何とかなる、の?」

「なりますよ。地図を書き換える羽目になると思いますがね」

 刑部さんが凄く悪い目付きで笑う。この人、実は追い詰められたら笑うタイプか。地図はさすがに誇張かと思ったものの、天竜様が同意する。

「姉様と全面対決などもっての他じゃ。流域が全て土砂に埋まってしまうわ」

 思考する際のスケールを、私はまだまだ改めないと行けないようだ。

 秋葉さんがカンカン、と煙草盆を叩いて視線を集める。

「結論として、かつてと同様にするのが被害が最も少ない、と言うのわけだね」

「ええ。我々はそう考えています」

「主と一緒と言うのが気に入らんが、ワシも同意見じゃ」

 秋葉さんはゆっくりと目をとじて、一服。躊躇うように煙を口からくゆらせてから、私に向き直る。

「和乃さん。後は君次第みたいだ」

 苦笑混じりだが、秋葉さんの目は相変わらず優しい。私もそれなりにお店で過ごしてきたから、わかる。

 秋葉さんは、私を尊重してくれている。どんな返事でも構わない、と。

 いずなちゃんとうね子さんも私の答えを待って耳をそばだてている。その顔は断っていい、と言っていたけれど、決して直接言葉にする事はない。

 二人もまた、秋葉さんと同じように、私の意見を大切にしようとしてくれているのだ。

 本当に、このお店はいい人達ばかり。だからこそ、私の答えは決まっていた。

「私の力がお役に立つのなら、ご協力します」

「ご協力感謝しますよ。では早速、手配させていただきましょうか」

 返事を聞くなり刑部さんは席を立つと、入口に向かって二、三度手招きする。

 手配って、嫌な予感がする。

 秋葉さんといずなちゃんの耳が外の音に反応した。

「騒がしくしないでもらいたいね」

 瞬間、見覚えのある車が二台、お店の入口前に滑り込む。中から刑部さんと似た雰囲気の人達が雨に濡らさないようにしながら大量の段ボール箱を持って入ってきた。

「何事?」

 うね子さんは相変わらず抑揚が少ないが、驚いている。

 私は、察しはつくけれど。

 刑部さんの同僚さん達は段ボールを置くとそそくさと出ていく。一糸乱れぬその様子は見事なものだった。

「これ、全部資料ですか?」

「ええ。白岐山と天竜川流域に関わると思われる物です」

「いやいやいやいや」

 私はあまりの出来事に大きく手を振って抗議する。

 今の説明だと明らかにこの土地の風土記まで入ってる事になっちゃうよ。って言うか入ってるよねこの量。二段積むだけでテーブルより高いし。

「あの封印に関するものは?」

「探してください。管理簿によると、この中に入ってます」

「そこから!?」

 私は思わず天井を仰ぐ。鳩が豆鉄砲くらった時より酷い顔になってそうだったから。

 何々なにナニ、どういう事なの。丸投げより酷いよこれ。

「先ほども申し上げた通り、優先順位が低かったもので、収集した時のままでしてね。もう少し分別しようかとも考えましたが、あなたの目の方が余程早いだろうと思いましてね」

 そのくらいの自負はあるつもりだけど、まったくこの人は本当に。

 ここまで見事に手の平の上でしてやられたら、言葉もない。堂々の態度を崩さない刑部さんに私はがっくり肩を落とすしかなかった。




「あああ、目が、目があああっ」

 私は目を押さえて転げ回る。にらめっこしていた書物は放り出してしまった。

 刑部さんに資料を押し付けられてからはや数時間。

 頭はまだまだ元気だったが、目がもう、無理無理。眼球が破裂するんじゃないかって程に痛い。涙がまたしみるしみる。

 何だか刑部さんに対して怒りが湧いてきた。

 あのまま資料を置いたら「何かわかったら連絡をお願いしますよ。なくとも明後日の昼が期限だと思ってください」と言い残して行ってしまった。しかも、埃まみれの段ボールを店内に持ち込まれて、うね子さん達はおかんむりだったのに「僕達が適当な部屋に缶詰にするよりはこちらの方が、彼女も作業が捗りますよ」と嫌味だけ言って帰っちゃうし。そう言う事じゃないってあの時に言い返して、ムダか。

 去り際に色々無理はするなとか気にかけてくれた天竜様とはえらい違いだ。手際が良いのは間違いないないけど、それ以外は酷すぎる。

 思い出したらやっぱりムカムカしてきた。

 秋葉さんはむしろ諦めてる感じがしたかな。

「お疲れさま」

 そんな事を思っていたら秋葉さんの声とコーヒーの香りが届く。

「あいたたたたっ」

 顔を上げようと目をこすって、私は悶絶する。傷口に塩とはこの事か。

「まったく、ほらじっとして」

 秋葉さんはコーヒーを置いて、私の目元を優しく袖でぬぐってくれた。

 ちょっと視界がぼんやりしているけど、何とか目を目を開けていられるようになる。

「大丈夫かい?」

「はい、何とか」

「無理はしない事だよ、はい」

 差し出されたコーヒーに口を付けると、ほうっとなる。秋葉さんはぐるりと室内を見回した。

 部屋中に、古文書と読んで差し支えないような資料が散乱している。

 一応、自分なりの法則でわけたつもりだけど、いかんせん量が多いから、足の踏み場には確かに困る。でも移動はできるし、寝転がる事だってできるようにはしてある。

「もうこんなに。疲れたらちゃんと休んでね」

「はい。でも読むのは平気です。いくらでも来いって感じです」

 私は胸を叩いて宣言する。

 こういう資料とかはとても興味深くて面白いので、読むこと自体を苦に思った事はない。むしろ、私のワクワクに体がついて来てない感じ。

 秋葉さんは私の返事に微笑んだ。

「頼もしいね。こう言っては何だけど、ちょっと意外だった」

「え?」

「君は、その力、好きでは無さそうだったから」

 思いがけない言葉だったが、言われてみれば納得できる。結構隠したりしちゃったものね。

 それに、間違ってもいない。

 私は小さく頷いた。

「好きではありません。でも、嫌いでもないです」

 あえて言うならそう、厄介が一番近いだろう。

 自分の意思ではどうにもならないし、汎用性にも乏しい。それなのに、なまじ普通ではできない事が出来てしまう。

「中途半端じゃないですか。だから、出来れば知らせないで済ませたかったんです」

 説明しても普通なら信じてもらえないし、信じてもらえたとしても、性質が偏っているので、大抵は飽きられ、距離を置かれて奇異の視線に晒される。

 そう言うのが、嫌だったのだ。

 私の話を聞いていた秋葉さんは、くしゃっと頭を撫でてくれる。

「卑下する事は何もない。胸を張ってほしい。その力のおかげで、無事に戻ってくる事が出来たのだから」

「ありがとうございます。でも、それはちょっと違います」

「うん?」

 秋葉さんは首を傾げる。

 今のは素直に、嬉しかったけど、事実は私が一番よくわかっている。いずなちゃんがいなければ、ここへは戻って来れなかった。

 私一人では、絶対に何も出来なかったのだ。

「でも、今は、これだけは、私にしか出来ない事です。これでお店を、皆さんを助ける事ができるなら、この力には感謝して使わせてもらいます。この素敵なお店を、皆さんを、今度は私が、守りたいから」

 私は真っ直ぐに気持ちを込めて秋葉さんに告げる。

 この思いは、私がこの件を引き受ける決定打になったもの。

 ちゃんと、伝えておきたかった。

「和乃さん、ありがとう。お礼を言うのはこちらの方だね。そうまで思ってもらえるなんて。私も、君の気持ちには出来る限り答えたい。だから、困った事があれば何でも言ってほしいな」

 秋葉さんは、今一度、優しく頭を撫でてくれた。温もりが伝わってきて、私は心の緒を締め直す。

「はい。きっと見つけて見せます」

「うん。それならまずは、和乃さんが集中できるように、私も仕事に集中しないといけないね」

「へ、わわ!?」

 秋葉さんの仕事と聞いて、思い浮かぶのは一つしかない。

 時計を見れば開店時間まであとわずかだった。慌てて立ち上がろうとした私を、秋葉さんが制する。

「こらこら、今言ったでしょ。君が集中すべき事はお店じゃない」

「でも」

「大丈夫。今日明日は瑞貴さんが雨を降らせてくれているから、お客さんもこっちで回せるとは思う」

 ここまで言わせてしまったのは、私が悪い。出来る事は、頷くだけだ。

「わかりました。よろしく、お願いします。全部終わったら、その分もバリバリ働きますね」

「うん。それじゃ、暇を見て、夕ご飯、持ってくるからね」

「はい」

 出て行く秋葉さんを見送り、私は頬を叩いて気合を入れると、再び資料読みに没頭するのだった。




 翌日、開店時間まで若干の余裕がある中で、お店はには昨日と同じメンバーが集結していた。

 と言うのも、空が朝焼けに染まる頃に、私は資料で重要そうな部分をすべてピックアップする事に成功したからだ。

 徹夜ハイだったので、そのまま庭に飛び出し、鶏のように喜びの声を上げて秋葉さんたちに朝の到来を伝えてぶっ倒れたそうだが、読み終えたところから記憶がない。

 本当にご迷惑をおかけしたものだ。

 そのまま私が眠り込んでしまったので、結局刑部さんや天竜様への報告はこんな時間にまでずれ込んでしまったのだが、刑部さんはこんなに早く終わるとは思っていなかったのか「脳神経外科か心療内科をご紹介した方がよろしいですか?」と暫く信じようとしなかった。

 私自身、こんなに早く終わるとは思っていなかったが、全部の中身を読んだ訳ではない事にくわえ、人間やると決めたら意外とやれてしまうものだ、としか言いようがない。単純に、読むのが楽しかったのもあるのだろうけど。

 そうして現在、秋葉さんに淹れてもらった紅茶で喉を潤しながら、私は情報を皆に伝えていた。

 一通り話を終えると、刑部さんが大きく頷く。

「なるほど、お酒と巫女ですか」

 色々と話をしたが、全ての要点は、彼の言ったこの二点に集約されていた。

 封印に関する方法は、専用の呪文に則り、石版で蓋をして要石で鍵をかける。

 だが、それを為すまでの間、瑞簸さんには大人しくしていてもらわなければならなかった。それを成功させたファクターこそ、多くの物語でもお馴染みのお酒と生贄だった。

 巫女を生贄として瑞簸さんを呼び寄せ、お酒を飲ませて前後不覚にさせたのだ。

「しかし、姉様はうわばみでざるじゃぞ。酒で酔いつぶれるなど考えられん」

「それこそが、一番重要なポイントです。当時用いられたのは、小人酒と呼ばれる特殊なお酒です」

 私は資料を差し出して説明する。

 お酒はあくまでも、瑞簸さんにソレを飲ませるための道具に過ぎない。重要なのは、酒の中に入れられた小人の成分。これにより、瑞簸さんの行動をかなり抑制できると書かれていた。

「しかし、あなたの話ではその小人が何かは書いていないようですが?」

「ええ、でも、わかってます」

 メガネを光らせる刑部さんに、私はすかさず返事をする。

 確かに資料の中には書かれていなかった。恐らく、竜である瑞簸さんを前後不覚にさせるほどの劇物である。記した術士の人は悪用されないように書かなかったのだろう。

 それでも、それに類する効果を発揮し、尚且つ小人と言う表現が当てはまるものは一つしかない。すなわち、

「マンドラゴラ?」

 私より先にうね子さんがポロッと言ってしまう。だが、まさにその通りなのだ。

 根茎が人の形なのが特徴の植物、マンドラゴラ。マンドレイクとも言うが、これは結構な神経毒が含まれているのだ。

「確か、大陸でも自生しているんだったね。それなら、当時の日本にあってもおかしくはないか」

「でも、かなり貴重だと思います。妖怪にも作用するだけのものとなると、尚更です」

「九十九神になれるほど強く、長く生育したものでなければならん、という事じゃな。むしろ、そうでなければ姉様には効かぬじゃろう」

 天竜様の言葉に、私は同意を示す。いくら適量ならば睡眠導入やリラクゼーション効果があるとは言え、普通に育った程度では妖怪達には微塵も効果はないだろう

 刑部さんは、むすっとした様子で腕を組むと、背中を逸らして椅子の背もたれによりかかる。

「それでは意味がありません。今からそこまで成長したマンドラゴラを探している時間はありませんよ」

「代替品、はダメ?」

「出来なくはありませんよ。ただ、それだけの毒劇物を明日までに揃えるとなると、どこかの病院か大学で不祥事を起こしてもらう事になります」

 刑部さんの言う事ももっともだろう。天竜様が雨を降らせて抑えていられるのは明日までなのだから。

 だが、幸いな事に、私にはそれを解決する方法があった。

 私は事前に用意しておいたビンを取り出しテーブルの上に置く。

「え?」

「これはっ」

「おお、なんとも醜悪じゃ」

 ビンの中身を見て、皆は口々に感想を言うが、どれもいい言葉はなかった。

 まあ、お世辞にはかわいいともいえないし、無理もない。

 ビンの中身は、金色の液体に包まれた、小人だった。

 一つ目をギョロっと見開き、苦しそうに口は開いており、それだけでも見る側の気持ちはよくないだろう。くわえて頭には髪の代わりに葉っぱが生え、皮膚は木の皮のようになっている。

「これは」

「マンドラゴラの蜂蜜漬け、だそうです」

 刑部さんはひったくるようにしてビンを手に取ると、嘗め回すように目をやり、最後には胸ポケットから取り出したレーザーまで充てて、心行くまで中身を調べていいた。

「間違いありませんね。九十九神化しています」

「つまり、材料はクリアされた、と言う事ですね」

 テーブルに戻されたビンを見て尻尾を振りながら、いずなちゃんが嬉しそうに告げる。

 だが、刑部さんは不審の目を私に向けた。

「どこでこれを?」

「実は、その、秋葉さんに渡すように頼まれていたんですけど、忘れてました」

 以前、あずきあらいまで買出しに行った際に、オマケでもらったものだ。

 帰りがけに渡そうと思ったのだけど、結局刑部さんが来たので機会を逸して、気付いたらバッグの中に入れっぱなしだったのだ。

 私は事情を説明して、ビンを秋葉さんに手渡す。

「あの、これで元気に、いつまでもごひいきにって言ってました」

「そうか。やれやれ。刑部、君のタイミングが悪かっただけじゃないか」

 ビンを受け取った秋葉さんは、ちょっと意地悪な笑みを刑部さんに向けた。

「そこまで僕のせいにされるとたまりませんね。しかし、それはもう既に使用済みですよ。蜂蜜の方には成分が出てしまっているでしょうから、お酒にはできないのではありませんか?」

「確かに、これを酒に混ぜて飲ませるのはちょっと難しいかな」

「蜂蜜だけ、舐めさせる?」

「いえ、それは難しいと思います。多分、ひと口舐めた所で気付かれてしまうのではないでしょうか」

 竜も元を正せば蛇である。舌で匂いをかぎわけるプロだ。そのまま舐めさせたら以上に気付かれてしまうに違いない。

 いずなちゃんも、一緒に接触したからそれはわかっているのだろう。

 恐らく、かつてお酒に混ぜたのもアルコールの強い香りで中身に混じったものを判別させない意味があったに違いない。

 マンドラゴラで一度は払拭された重苦しい雰囲気が少しずつ戻り始める。

 私は、そっと手を上げる。一応、案がないわけではないのだ。

「一応、確認しておきますが、実用性はあるのでしょうね?」

「そのつもりです」

 蜂蜜を使って、かつ瑞簸さんがおかしいと気付かないくらい香りが強く、彼女が知らないであろうものを作ればいいのだ。

 私はチラリと秋葉さんの方に目をやると、彼女はおまかせするよ、と目配せを返してくれた。

「フレーバーラテなら、どうでしょうか」

 思い切って告げると、誰もがキョトンと目を丸くする中で、秋葉さんだけは、笑い声を上げた。

「はっはっはっ。なるほど、面白い案だね」

「コーヒーなら、瑞簸さんが封印された頃にはまだ日本には入ってきてませんでしたし、そこにミルクも入れてしまえば、多分気付かれる事はないと思います」

 後は、砂糖の変わりに蜂蜜を入れて完了だ。

 コーヒーの苦味や香りなら、アルコールまではいかないまでも、それなりの効果が見込める。牛乳も入れてしまえば尚更だ。

 秋葉さんも乗り気ならば、いずなちゃんとうね子さんが反対する理由もない。

 刑部さんが二本指を立ててこちらに向ける。

「二つ、確認したい事があります。まず一つ。相手はコーヒーを、まあラテとして、飲みますかね?」

 無条件で賛同されるとは思っていなかったが、かなり痛い質問だ。この前提が成立しない事にはどうにもならない。

「巫女が居る事は前提じゃが、飲むとは思うぞ。姉様は渡来の物は結構好んでおったからな」

 天竜様から期待の持てる返答があったが、品物よりお酌の人の有無の方が重要なように聞こえた。

 大体、それでも女性同士だし、ひょっとして竜の方々はそういう人たちが多いのだろうか。

「では、残る一つの方も問題なしと判断できれば僕も賛同しましょう」

「残る、一つ、は?」

「そのラテを、相手に効果があるだけ飲ませる量を、作れるんですか?」

「いくらなんでもそれは愚問ですよ」

 いずなちゃんが質問を一蹴する。秋葉さんも、不敵な笑みを浮かべて煙管をくわえる。

「刑部さん、君はこのお店の名前を忘れてしまったようだね」

「よろづや、ですか」

 このお店を、秋葉さんは人間達が中心の社会の中で生きる妖怪達が妖怪として寛げる場所として位置づけている。

 当然、お店の料理も、メニューに載ってないものでもできる限り対応する。ゆえに、よろづやと名づけた、と告げる。

「ラテ自体のメニューはあるんだ。提供するのはわけないさ」

「結構です。ならば、そのプランで行きましょう」

 刑部さんはさっさと私が作った封印の術に関する資料や、撮影してきた現地の写真をまとめると立ち上がる。

 この後、術者の人たちと封印の方の打ち合わせもあるのだろうか。

「余裕を持って、明日のお昼にうかがいます。黄昏時は、相手の時間ですからね。日が出ているうちに、決着をつけましょう。その方が、あなた方も都合がいいでしょう?」

 ちょっと嫌味ったらしい言い方ではあったものの、お店の事も考えてくれたようだ。ちょっと意外だけど、全てにおいて公平と言っていたし、協力に対する返礼と言った所だろうか。

 もちろん、夕方以降に瑞簸さんの相手をしたくないと言うのもあるんだろうけど。

 資料の回収には後で人をよこす、と言って立ち去ろうとする刑部さんを、天竜様が呼び止める。

「待て待て。お主、巫女はどうするつもりじゃ。ちゃんとした人間でないと務まらぬぞ」

 あ、と誰もが顔を見合わせる。完全にスルーしていたけど、重要な人選だ。

 何しろ、瑞簸さんが己に対する巫女というか、生贄としてふさわしいと考える相手でなければならないのだ。

「ちなみに、天竜様。瑞簸さんはどんな相手が?」

「もちろん、人間である事が前提じゃ。その上で、若い生娘でなければならぬ」

「それなら、何の問題もないじゃありませんか。瑞貴さん、あなたの目の前に候補がいらっしゃいますよ」

 怪訝な顔で天竜様は向かいを向く。そこにいるのは、はい、私ですね。

「って、えええ!?」

 この中じゃ人間の女性は私しかいないけど、いきなりご指名って。だが、秋葉さん達はなるほど、と言い出しそうな反応だ。

 驚いてるのは私だけ。

「他に相応しい人がいるんじゃないですか、天竜神社の方とか」

「生娘がおらん。ついでに言えば今の当主は先代が倒れて慌てて継いだもんじゃから霊力も最低限しかないでな」

 うっ、何だか世知辛い話を聞いてしまった。神社の方は無理そうなので、委員会の方を尋ねると「ツテがあればわざわざ指名しませんよ」とあしらわれてしまった。

おっしゃる通りですけど。

「何より、調査によれば特定の異性との交際も――」

「ちょちょちょーい!?」

 慌てすぎてよくわからない言葉で制止する。

 いいいい、いきなり何いい出してるの、この人。

 そして秋葉さん達も申し訳なさそうにしないで~っ。

 うう、目がグルグルしてきた。

「コホン。まあ、なんじゃ、姉様は好みもうるさかったわ。その点、お主なら問題なかろうて」

 見かねたのであろう天竜様から、お墨付きが出されてしまった。こうなったらもう、やるしかなさそうだ。

「わ、かりま、した」

 消え入りそうな声しか出なかったが、何とかそう返事をする。

 言ってしまえば覚悟も決まるというものだ。

「では決まりですね。まあ、やることは相手にモノを飲ませるだけですから緊張する事はありませんよ」

 そう言い残して、今度こそ本当に刑部さんは去っていく。

 全員がふー、と息を吐いた。やっぱり刑部さんと話すのは疲れる。

「すまぬな」

「あ、え?」

 ふせがちに、天竜様が呟いた。

「最後まで主に頼ってしまう事になってしもうた」

「いえ、気にしないで下さい。ここまで来たら私もやるしかないですから」

 むしろ、そんな事を言われたら私も恐縮してしまう。

「では、頼りにさせてもらうぞえ。解決したら礼は必ずさせてもらうでな」

 天竜様は微笑むと、そんな約束を残して、その場から消えてしまう。

 分身とは聞いてたけど、本当に便利だね。

「さて、と。まあ全ては明日だ。まずは今日の仕事を頑張ろうか」

 パンパンと手を叩いて秋葉さんが告げる。見れば開店時間まであと僅かだ。

 よし、そうだ。明日の事は明日。まずはお仕事を頑張ろう。

 うね子さんに着替えを手伝ってもらい、私は一日ぶりにお店へ出る。相変わらずの雨もあり、お客さんは少なかったけれども、皆さん楽しみにばかりしていたようだ。

 休んでいた私にも気をかけてもらってしまった。

 本当、こうなったら何としても明日は成功させないと行けないな。



「ん、んん」

 小鳥のさえずりと共に私は目を覚ます。飛び込んで来たのは積み重なった件の資料だった。

 そうだ、結局昨日は仕事が終わったらそのまま寝ちゃったんだ。徹夜した疲れも残ってたし。

 時計を見るとまだ六時前。シャワーでも浴びてこよう。

 体を起こして辺りを見回す。この資料も少し片付けといた方がいいかな。刑部さん達が持って帰るとは言っても、ここまで広げたのは私だし。

「でも、ちょっともったいないな」

 必要そうな部分だけを探してたから、どれもほとんど読んでない。こういう古い文書を読むのは楽しいし、そうそうこんな量に触れられる機会もないから、持って帰られてしまうのはちょっと惜しい。

「事情がなければゆっくり読みたかったな」

 私は、適当に一冊を取って内容に目を通す。町娘が書いた日記のようだ。昔の生活が伺い知れるのでこう言うのはワクワクする。

「ん、あれ?」

 私はふと気になる記述を見つけて眉を潜めた。

 これは、まさか。

 その場に腰を下ろして、隈無く内容に目を走らせる。寝ぼけ眼はすっかり醒めてしまっていた。

「うーん、どうしようこれ」

 一通り読み終えたところでごろんと寝転がる。

 ちょっと意外な内容で、今日の瑞簸さん対策プランを見直したくなってしまった。やるべき事は変わってないし変えられないだろうけど、その道筋が今のままでいいのやら。

 顔も洗わないまま読んでいたせいか、目がショボショボする。何だか気持ちもシャッキリしない。これじゃあまとまる考えもまとまらない。

「よし、シャワーでも浴びようっと」

 私は日記を他の資料とは全く別の場所に置いてからお風呂場へ向かう。リフレッシュにはお風呂が一番。と言うか、一晩入らなかったせいでカビ生えてきそうだ。

 脱衣所で脱ぎ捨てるように籠へ服を放り込み、お風呂へ。

 いつもながら三人は余裕で入れそうなほど立派で、転んだら即死しそうな岩風呂である。

 シャワーのつもりだったが、湯気が充満している。お湯が張ってあるみたいだ。

 そう言えば秋葉さんはお店の都合もあって朝風呂派だったっけ。この湯気だと、きっと入った後なんだろう。

 泊まってる間は自由にしてくれと言われてるし、せっかくなので入らせてもらおう。

 体と頭を洗ってから、ゆっくりと湯船へ。

「はふぅ」

 湯船につかれば吐息がこぼれる。体がポカポカしてきて、頭が澄み切って行く。

 さて、さっきの内容をどうするべきか考えないと。

 そう思った矢先、不意に湯船の向こうから声がかかる。

「やあ」

「ふわわっ!?」

 びっくりして立ち上がると、湯気の隙間で栗色の髪が揺れるのが見える。

 ざぶざぶと水音を立てて、秋葉さんが姿を現した。

 私は慌てて頭を下げる。

「す、すみませんっ。気付かずに入ってきてしまって」

「何、異性間でもあるまいし、気にする事はないよ。それに、私としてもたまには誰かと入るのもいいものだと思うしね」

 秋葉さんは笑いながら、隣に腰掛けるので、私もその場に座り直す。

 ちらりと横目で見ると、やはり立派だ。これが胸囲の格差と言う物か。

「ふむ、これはやはり大きいのかな?」

 秋葉さんは不意に持ち上げるようにして、尋ねて来る。

 ついつい、じっと見すぎたようだ。

「え、ええ、まあその、大きい方かと」

 多分、EかFだろうし。

 いずなちゃんといい勝負の、まな板に近い私からしたら羨ましいくらいだ。

「ふうん、そうなんだ。以前、街中で見かけた人たちを基準にしたから、大きいなら小さくしようかな」

「ええええ!?」

 なんだか、とんでもない事を言い出しちゃったよ。

 私の叫びが浴室内に木霊する。

 秋葉さんもさすがに驚いたのか、目をぱちくりさせた。

「ど、どうしたの?」

「で、できるんですか、サイズ変更がそんな、簡単に?」

「まあね。私も元々は人の姿に化けているだけだから。身長は年齢なんかで影響が出やすいけど、この辺は自由だよ」

「そうですか、はあああ」

 打ちのめされた私の口からは、溜め息しか出てこない。

 なんかもう、せめて胸があるとわかるくらいの大きさは欲しいとか思ってたのが、虚しくなってくる。

 こと体に関しては、夢も希望もなくなった。

「そんなに気にする程の事でもないと思うけど? それに、私は悪くないと思うよ。和乃さんらしいじゃないか」

「嬉しいですけど、気にはしちゃいますよ。だって、時々男性と間違われますし」

 実はメッセンジャーバッグを使ってるのだって、多少は女性アピールできればと考えてのものだし。正直、リュックの方が断然便利だ。

 落ち込む私の髪を秋葉さんが優しく撫で上げた。

「ごめんね。どうも私にはその辺が疎いようだ。それなら髪を伸ばしてみたらどうかな?」

「髪、ですか?」

「うん。活動的な君には邪魔かもしれないけど、似合うと思うよ」

 秋葉さんの提案は、一番確実性が高いけど、私としては、今の肩上までですら長いと思う時があるのだ。

 これより長くしている自分が想像つかない。

「実は、邪魔に感じてもっと短くした事もあるんですよ」

「おやおや」

「そしたら父が泣き崩れちゃって。それ以来、これ以上短くしないようにしてるんです」

「はっはっはっ。お父さんの気持ちもわかるな。君の髪はとても綺麗だ」

 髪の質だって秋葉さん程ではないはずだけど、やっぱり言われれば嬉しい。

 何だか顔が熱いな。お風呂のせいかも。

 私は「ちょっと考えてみます」と返事をした。秋葉さんは頷きながら、ふふっと笑みをこぼす。

「裸の付き合いも悪くないね。おかげで和乃さんの新しい一面が知れたよ」

「あはは、そう言われるとちょっと恥ずかしいですね」

「私も胸のはちょっと恥ずかしかったよ」

 お互い様ですね、と笑い合う。

 秋葉さんはひとしきり笑った所で、私の頬を両手で包むと、顔を覗き込んできた。

「うん、今の君なら、今日は大丈夫そうだ」

「え?」

「入って来た時は、なんだか難しい顔をしてたからね」

 その言葉に、私は目を逸らしてしまう。入ってきた時から、秋葉さんには気付かれていたようだ。

「おや、やっぱりダメだったかな」

「いえ、お話は楽しかったですし、リフレッシュにはなりました」

 それでも、何も私の中では解決していなかった。

 こういう時は、うだうだ一人で悩んでいてもしょうがない。

 せっかく、こうして秋葉さんにも会えたんだし。私は逆に見つめ返す。

「ちょっと、ご相談したい事があるんですけど」

 秋葉さんは待ってましたとばかりに頷いた。

「もちろんだとも。でも、出て話そうか。のぼせると大変だからね」




 特製のレモネードを頂きながら、私は秋葉さんに見つけた情報について相談する。

 じっと耳を傾けてくれた秋葉さんの返事はたった一言。

「それなら、答えは決まっているんじゃないのかな」

 思いもよらぬ言葉に顔を上げると、秋葉さんは優しく微笑んでいた。

 ああ、本当になんでもお見通しされている。私は照れ隠しに頭を掻いた。

 秋葉さんに話をしている内に、何となくこうしたいって言う考えが確かにまとまってはいた。

「でも、それでいいのかなって」

「いいかどうかなんてその時になってみなければわからないさ。やるかやらないかは和乃さん、君の判断だ」

 ただし、つけくわえ、体を乗り出すようにカウンターに両手をついた秋葉さんは、優しい眼差しを向けてくれる。

「私は君の判断を尊重するよ。君はここで働く仲間であり、家族だと、私は思っているから。そしてなにより、よろづや茶寮だしね」

 ああ、もう参った、敵わないな。こんな風に言ってもらったら、もう私の答えは一つしかなくなってしまう。

「それじゃあ、秋葉さん、お願いしてもいいでしょうか?」

「喜んで」



 お昼も近くなった頃、天竜様の降らせた雨が小川みたいに流れる中、私は瑞簸さんと一緒に白岐山の山中を、瑞簸さんが封印されてる社目指して進んでいた。

 秋葉さんが足を止めると、目の前には怪道の入口があった。ここを使って社までの道をショートカットするのだ。

「さて、行こうか」

「はいっくしょん!」

 返事でくしゃみが飛び出し、私は鼻をすする。

「大丈夫かい?」

「はい。でもちょっと寒いですね」

「その格好じゃ、無理もないね」

 秋葉さんが苦笑するのも無理はない。何しろ私は白衣一枚しか着ていないのだ。

 いくら八月でも、ザアザア降りの山の中では涼しいではすまなかった。

「せめて袴くらい履けると思ったんですけどね」

 また鼻がむずむずし始める。

 こうなったのは天竜様の一声だった。

 フリとは言え、瑞簸さんに身を捧げるのを示さねばならないのだから、白一枚が伝統的な格好だと言うのである。でもこうなると巫女じゃなくて完全に生け贄とか人柱だ。

 今回のプランに関して言えば意味合いは一緒だけど、緋袴を履いてみたかった。

「すまないね。私も上着を持ってくるべきだったね」

「いえ、そんな、大丈夫ですって」

 私はぶんぶん首を振った。

 どうせ怪道に入ってしまえば天気は関係ないし、現地につけば天竜様が雨を止める予定らしいので、やっぱりそれで荷物を増やすのは申し訳なかった。

「入っちゃいましょう」

「ん、行こうか」

 寒さから逃れるように、私は秋葉さんに続いて怪道へと飛び込んだ。

 通路は相変わらず煤けており、天候はもちろん、時間からも切り離されたような空間だった。私は傘を閉じる。

 うね子さんが用立ててくれたそれは、手拭いのように折り畳まれた。

「う~ん、便利。というか、便利すぎませんか?」

「便利だな。もっとも、私もどういう術を用いて作ったのかはさっぱりだが」

 そう言って、秋葉さんは手にぶら下げている風呂敷包みを示して笑う。

 筆箱サイズになっているそちらもうね子さんが用意してくれたものだが、あれは見た目より遥かに多くのものが入っている。

 地面に敷いた風呂敷の中に納まる大きさまでならどんなものでも包める、とうね子さんは言っていたがまさにその通りで、私の目の前で秋葉さんは必要な道具を全て中に入れてしまった。

 四次元空間にでも繋がっていたのだろうか。

「え、お手製なんですか?」

「ああ。布製品には強いこだわりがあるみたいだからな」

「ますます、不思議な人ですね」

 秋葉さんですら知らない方法で作ってるんだ。

 刑部さんは術士にとって術は特許と言っていたし、うね子さんにとっては、こうしたものを作ったりするスキルがそれに当たるんだろう。

 お店にとっては、あの速過ぎる拭き掃除といい、縁の下の力持ちなのかも知れない。

 今はいずなちゃんと一緒にお店の留守を預かってもらっているわけだけど「帰ってくるまでは、任せておいて」と出掛けに言っていた言葉の信憑性が一気に増した。

 戻ったらちゃんとお礼を言おう。

「おっと」

 秋葉さんが不意に指を口に当てる。

 私は促されるまま静かに耳をすます。ガサガサと周囲を取り囲むように物音が響き、じっとこちらを窺う、無数の視線を感じた。

「長居し過ぎたね。瑞貴さんも待たせてしまうし、絡まれない内に抜けてしまおう」

 秋葉さんは言うが早いか、懐から煙管を取り出すと、指先に狐火を点して火を入れた。

 一服から吐き出された紫煙が辺りに霧のように立ち込めて、流出した洗剤の泡のようにどんどん私達を包み隠す。

 すぐ目の前にいるはずの秋葉さんの姿が霞はじめた。

「これは私を中心に周囲の視界を遮るから、向こうは何も出来ないよ。だから、離れないでね」

 そう言って、秋葉さんは私の手を優しく握って来る。伝わって来る温もりが、私の中の何かに触れた。

「これって」

「大丈夫。心配しないで。ここに住んでる者は基本臆病だから」

 得体の知れない相手だと思ったら近づいてこないよ、と諭すように話してくる。

 戸惑いの理由を勘違いさせてしまったようだけど、今はいいや。全部終わったら、ゆっくり話したい。

 私は秋葉さんの手を握りかえして、出来るだけペースを合わせて怪道を進んでいった。

 霧のカーテンは、怪道を抜けるまでついてきてくれた。




「遅かったのう。と言うか、なんじゃ。ちちくりあっとったのか」

「いえ、これはそう言うのじゃないんです」

 社の前に到着した私達を、天竜様が呆れ顔で出迎えた。

 怪道を抜けてから何ヵ所か白衣姿では通れない場所があった事もあり、私は傘を指したまま秋葉さんに抱えられての到着となってしまったであって、断じて天竜様が言ったような事はない。

 でもまあ、天竜様の好みを考えたら、同性でもこの格好はそう言いたくなるのかも知れない。

「またまた、ドキドキしたでしょ」

「秋葉さん、意地悪言わないでください」

 私は秋葉さんが濡れないように傘の位置に気を使いながら地面に足をつける。

 時々、秋葉さんはイタズラっ子みたいになる。

 ドキドキは確かにしたけど、それは鎖道が切れた絶壁を一足飛びで越えてしまうからだ。遊園地の絶叫マシンで感じるものであり、勘ぐられるようなものではない。

 ま、まあちょっとはね。ジャンプしてる時の秋葉さんをカッコいいとは思ったけど。

 私は誤魔化すように、髪をいじる。

 天竜様だって冗談だったのに違いなく、すぐに真面目な表情で眼前の鳥居を見上げた。

「ここを越えたら、後は主次第じゃ、和乃」

「はい」

 私もまた、鳥居を見上げる。ここから先は私だけになる。

 秋葉さんはもちろん、天竜様が同席したら、解き放たれた瑞簸さんは、敵を認識して、私を無視してそちらに向かっていくに違いない。そうなればこの計画はおしまいだ。

 だから、相手から見えず、それでもすぐに異変があれば駆けつけられる距離で秋葉さん達には待機してもらう事になる。

 私は、必要な道具が全て入った包みを受け取る。

「それじゃあ、気をつけて。ダメだと思ったら大声を上げてすぐに逃げるようにね。そしたら、必ず迎えに来るから」

「はい」

「準備が出来たら合図を頼む。雨を止めるでな」

 私は頷いて、一人、鳥居をくぐる。背後で、お二人がその場を立ち去る気配がした。

 さて、と。

 私は社に参拝。雨を避けるように、花が置かれていた。

 そうか、お参りしていたのは天竜様だったんだ。お姉さんとして慕っていたわけだし、当然か。

 資料によればここ以外の境外社は封印の術を構成するファクターに過ぎないのだから、ここにしか花がないのも納得だ。

 ちょっとした事実が判明する中、私は社からご神体を取り出す。ちゃんと天竜様には許可を取ったし、まともに瑞簸さんと対話するにはこれが一番手っ取り早い。

 ご神体である竜の石像を石版の割れ目の近くに置いた私は三歩下がる。


「よしっ」

 深呼吸して、私は決めた通り、トントンと二回、石版を踏みつける。

 普段なら天竜様も聞き取れないであろう小さな音。雨にすらかき消されてしまいそうだが、今は秋葉さんが一緒に居る。

 だから、しっかり届いていた。

 数分とせずに、雨が止む。私は傘を畳むと、その場に膝をついた。

 二日ぶりに晴れ間が覗くと、それに呼応するように地面が突き上げられるように揺れ始め、石版の切れ目から以前と同じ、いや、この二日間の鬱憤を晴らそうとせんばかりに大量の靄が噴き出す。

 巨大な蛇の顔を形作った靄は、ぐるりと宙で回転。石像には目もくれず、私に向かって来た。

「っ」

 叫び声を必死に飲み込み、私は頭を垂れる。まさか初っ端からこんな賭けになるとは。

 額に浮かんだ汗を吹き飛ばすように、靄は私の脇を通り過ぎて、ユーターン。そのまま石像へと飛び込んだ。

 靄が全て収まると、石像は見る見る内に姿を変えていく。

 やがて、人の姿になったであろう、相手はゆっくりと歩み寄ってくる。

 頭を下げていた私は、パンプスと美しい足だけをかろうじて目視する事が出来た。

「面を上げよ、人間」

 上からの声に、額に汗が滲む。蒸し暑さなんかじゃない。ぞくりとした。

 冷たく、威圧感が凄まじい。このまま顔を上げたら首の骨が折れるんじゃないだろうか。

「よもや、耳が聞こえぬわけではあるまいな」

 もう助けを求めたい。でも、覚悟は決めてきたはずだ。

 言われるままに、顔を上げる。

「――」

 石像を依代に姿を取り戻した瑞簸さんの姿を視界に納めた私は、目が点になったが、驚きの声はなんとか飲み込んだ。

 何故にゴスロリっ。

 瑞簸さんは、モノクロテレビから飛び出してきたような、見事な白と黒のコントラストに包まれていた。

 フリフリでリボンで、髪型も、おかっぱと思わせておいて、風になびく銀のロングで姫カット。

 コテコテだ、コテコテのゴスロリファッションだ。パンプスの時点で首を傾げる部分はあったけど。

 日本の妖怪とか神様の格好じゃないよコレ。どうみても吸血鬼とかそっち方面の格好だよ。

 キッと釣られた瞳は、刑部さんとは比べ物にならないほど、高い所からこちらを見ているように感じられる。そう、不快な虫でもみるような。

「巫女、か。忌々しき封印がほころんだと思えば、随分と都合よく見られたものよな」

 怒りなんて、とっくに突き抜けた、憎悪と侮蔑。

 現時点での私の評価は、都合が悪くなると彼女の善意や良心にすがろうとする人々の象徴に見えてるんだ。

 いや、あながち間違ってないか。少なくとも、嗜好に付けこもうとしたのは事実だし。

 瑞簸さんは突然かがみこむと、私の顎を掴む。

「この顔を潰し、村の人間どもへの見せしめとしようかのう。幾星霜も深い闇に封印されておった妾が、復讐をやめるわけがなかろうが」

 掴む手に力が込められ、ギリギリ、と顎が軋む音が聞こえた。痛い、メチャクチャ痛い。

 このままじゃダメだ。何とかしてこっちの話を聞いてもらわないと。

 私はグルグルと頭を回転させるが、痛い痛い。これちょっと無理無理無理。逝っちゃう。

「ふむ」

「あうっ」

 何を思ったのか、瑞簸さんは突然私を放り出して、嘗め回すように、頭からつま先まで眺めて、最後に胸の辺りを注視しながら腕を組んだ。

「ふむ、よく見れば悪くはない。全てを終えた後にも、はしためも必要か」

 ぶつぶつと何やら呟く。漏れ聞こえてくる言葉が地味に不安を煽る。

「お主、喜べ。気が変わった。妾の側においてやろう」

「へ、え?」

「じゃが、主を寄こした人間どもは許さぬ。今度こそ人の里など我が治下には作らせぬように、滅ぼしてくれる」

 はからずも、気に入られたようだった。どこを、と問い詰めたい気もするが、何とか当初の予定にこぎつけた。

 瑞簸さんがこれでやめるなんてはなから考えていない。全てはこれから、何とかしてこちら主導で話を進められるようにしなければ。

 ここからが私と彼女のポーカーゲームの始まりだ。

「瑞簸様、我が身を捧げるお許しをいただき、ありがたき幸せに存じます。こちらには、珍しき渡来の物もご用意させていただきました」

「ほう」

 瑞簸さんの目がギラリと光り、不審の色に染まった。

「妾の事をよう知っておるようじゃな。じゃが、不要じゃ」

「へ、え?」

 風呂敷に手を伸ばしたままずっこけそうになる。要らないでは困る。全てはこれにかかっているのだから。

 目を何度も瞬かせて、風呂敷と瑞簸さんを見比べると、彼女は凶悪な笑みを浮かべた。

「なんじゃ、不都合があるとでも言うのか。そう言えば、かつて妾をたばかった巫女も供物と称して一服盛ってくれたのう」

 封印された時の事は、忘れるわけがないという所か。警戒されるのは想定していたが、受け取り拒否とは参った。

 だが、あくまでも想定外の言葉に戸惑う以上は面に出さないようにしなければ。

 ここが、普通の反応との境界線だ。間違って歯噛みでもしようものならアウトだ。

「いえ、そのような愚かな真似などいたしません。これは、あくまでも私個人が用意したものにございます。お気に入りいただけたなら、一つ、お願いしたい儀がございまして」

 苦手だが、懇願するように、目を潤ませて瑞簸さんを見上げる。

 あくまでも弱弱しく、がっつかない。

 彼女は、私をじっと見下ろしていたが、僅かに視線を逸らして頭を掻いた。

「ふん。身を弁えよ、と言いたい所じゃが、面白い。それほど言うからには、さぞ妾を興じさせてくれるのであろうな」

 ちょっとハードルを上げすぎたかも知れないが、言ってしまった以上は、引き下がれない。

 瑞簸さんは手で風呂敷を開けて見せろと促す。

「失礼いたします」

 包みを解くと、中から現れたのは大きな水筒が二つ。出来るだけ量が多くて、風呂敷の面積に収まるものを選んだ。中身はもちろん、カフェラテだ。

 だが、瑞簸さんは水筒には目もくれていなかった。風呂敷の方が目を惹いたようだ。

「なるほど、面白い道具じゃ。ふむ、そういえば大陸では布の開発が盛んであったな」

 多分、絨毯とかの事だろう。中東や東欧系のはその折り目や柄が未だに人気が多いし。でも、違うんです。それを作ったのは、この国の立派な九十九神、うね子さんなんです、と言いたかったけど、我慢我慢。

「あの、こちらです」

 水筒を指すと、彼女はくわっと目を見開いた。

「なんじゃと!?」

 私も、自分でやっておいて失敗したと思う。どう考えても布の方がびっくり道具だものね。

「いえ、申し訳ございません。その、この包みももちろん差し上げますが、あくまでもこちらが主になります」

 だが、押し切るしかないのだ。

 私は水筒そのものから説明して行く。用途から、温度を保つ事が出来る事まで全てだ。

「そして、中にはこれまた渡来の、豆の茶を用いたものをご用意させていただきました。瑞簸様の今のお姿にはふさわしい飲物かと存じます」

「ふむ、確かにそちらも珍しいが、その風呂敷に比べては見劣りするのう」

「いえ、あの、両方献上いたしますので」

「では、風呂敷だけもらうとしようかのう」

 相当、飲み物の方は警戒されているようだけど、ここで食い下がる意味はない。

 要は、話を持っていければいいのだから。

「かしこまりました。では」

 私は水筒をどかすと、丁寧に風呂敷を畳み、瑞簸さんへ手渡す。

 彼女は満足げに頷き、顎を撫でた。

「うむ、実に見事な品じゃ。良かろう。お主の願いとやら、申してみよ」

「よろしいのでしょうか?」

「聞くだけならば、な。この品には感心させられたぞ」

 よし。私は内心でガッツポーズする。

 彼女は、封印から醒めて、依り代とは言え体を得たからこそ、慎重になっている。私を巫女として認めると言いながらも、まだ値踏み。出方を伺いたがっている。

 聞き届けるとは言わなかったから、もしここで復讐をやめろなんて言い出したら食い殺すつもりなのだ。

 でも、大きなチャンスを得た事には代わりない。ここは、小さい勝負に出てみよう。

「その前に、少々喉を潤させていただきたいのですが」

 瑞簸さんはふん、と鼻を鳴らし「許そう」と告げた。

 私は迷わず水筒を手に取る。彼女は眉をピクリと動かしたが、止める事はない。

 蓋のコップに、ほんのりと湯気の立つカフェラテを注ぐと、香りを楽しむようにしていただく。

「ふうぅ」

 ミルクとコーヒーのバランスがすごくいい。ほんのりと広がる蜂蜜の甘さが、気持ちを安らげてくれる。

 秋葉さんは「金属容器は匂い移りがするから好きじゃない」と言っていたけど、全然違和感はない。まあ、私の鼻じゃあてにならないけど。

 私はコップを置いて、失礼しました、と瑞簸さんに告げる。

「ん、むぅ。今のはなんじゃ?」

「はい? ああ、カフェラテと申しまして、瑞簸様がお召しになっています服が生まれたのと同じ地域で嗜まれている飲み物にございます」

 限りなくグレーな説明だが、嘘じゃない。

「確か、豆の茶と申したな?」

 瑞簸さんは、食いついてきた。私は頷いて、畳み掛ける。

「はい。それに牛の乳を混ぜまして、此度は瑞簸様へ捧げる予定でございましたので、特別に蜂蜜にて香り付けをしたものにございます」

「蜂蜜とな」

 思わぬところに反応したと思えば、瑞簸さんは手を突き出してきた。

「試してやろう」

「え、あ、はい。かしこまりました」

 私はいそいそとコップに注ぐ。本当ならもう一つのコップを使うべきだろうけど、それだとまた彼女を警戒させてしまうかも知れないので、私が使ったものだ。

 瑞簸さんは暫し受け取ったコップを眺めていたが、ぐっと一気に飲み干した。

「うっ、むうっ」

 瑞簸さんは目を白黒させてから、呆けたようにコップを両手でもったまま「なんと」と呟く。

「強烈な苦味と酸味でありながら、このまろやかな舌触り」

「お気に召されましたか?」

「ふん、まずまずじゃな」

 反応は上々だ。秋葉さんが淹れたカフェラテだ。まずいと言う意見が出てくるなんて思ってない。

 口を拭う瑞簸さんに水筒を掲げて見せると、コップを差し出してきた。

 よし。私はカフェラテをもう一杯、瑞簸さんに注いでから本題に入る。今が一番のタイミングだ。

「それで、お願いしたい儀にございますが」

「うむ。申せ」

「実は、先ほどの風呂敷や今の飲み物を作ったのは、私の知り合いの妖怪です」

「なんと?」

「私がお世話になっている妖怪のお店で作られたものです。そのお店は、他の妖怪達の憩いの場にもなっていて、私にとってもとても大切なお店です。なくなって欲しくはありません」

 今の瑞簸さんは用心深く、猜疑的だ。不用意な誤魔化しは、全てを台無しにしかねない。

 真摯に、私は思いを伝えていく。

 彼女は顎に手を当て唇を吊り上げた。

「なるほど、読めたぞ。大方、その店は残して欲しいと言った所であろう。聞いたところその店は妾にとっても有用そうじゃ。残しておいて損はあるまい。その願い、聞き届けてやろう」

「ちょっ!?」

 話は終わってないのに、勝手に納得されて打ち切られそうになってしまった。

 慌てて身を乗り出すが、話は終わりとばかりに、彼女は耳の辺りで指をクルクル回す。

 私は言葉を飲み込むしかない。言葉を掛け損なえば全て終わりだ。

 だが、必死に頭を回そうとした私は、瑞簸さんに襟を掴まれて引き寄せられた。

「さて、では始めるとしようかのう。妾に身を捧げる巫女として、我が復讐に付き添う誉をくれてやる。さあ、宴の始まりじゃ!」

 瑞簸さんは高らかに宣言し、空いた片手を空に突き上げる。

 変化は一瞬にして訪れた。灰色の雲が渦巻き、ゴロゴロと雷が鳴り始め、一迅の光が鳥居を真っ二つに引き裂き、ようやく激しい音が追いついてきた。

「ふむ。依り代となっても、我が力に曇りなしじゃな」

 雷が落ちたと気付くのに、時間は要らなかった。

 空を見上げれば、数多のきらめく雷光。それは竜のような形で、瑞簸さんに付き従うように、グルグルと上空を旋回している。彼女が支持を下せば、あの雷はきっと、周辺のどこにでも簡単に落下できるのだろう。

 ダムにでも落下して大穴を明けようものなら、と考えがよぎりぞっとする。今は、天竜様が降らせた大雨で水量はたまっているに違いない。それで決壊などしたら。

「やれやれ、まったく。とんでもない人ですね、貴女は」

 焦りと戸惑いが邪魔する頭の中に、鋭くはっきりした声が響く。

 顔を上げると、真っ二つに割れた鳥居の下に、ズボンの裾を泥で汚した刑部さんが立っていた。

 彼は、いたく落ち着いた様子で、瑞簸さんではなく、私を睨み付けている。

「どうしてここに!?」

 私は驚きを隠せなかった。

 彼には、秋葉さんから私の目的の為に、用意に手間取っていると言う事で時間をずらすように伝えてもらっていたのだけど。

「僕を出し抜いて何を企んでいるのかと思えば、まさかお店ごと身売りとは」

「いえ、あの違うんです」

 完全に勘違いされている。何とか釈明しようとするが、彼は首を横に振った。

「何が違うと言うのですか。先ほどまでの会話は、全て聞かせていただきましたよ」

 刑部さんがトントンと叩いた耳には、無線のイヤホンが取り付けられていた。

 どこにいるかわからないけど、近くに委員会の人たちが来ているのだ。集音機でも用いたのだろう。いや、ここへ来る時から既に見張られていたと考えるべきだ。

「最初はあなたがそこの暴れ竜をたばかろうとしているのかと思いましたが、飲み物にも何も混ぜていなかった時点で、聞く耳はもちませんね」

「くく、なるほど。どこの誰かは知らぬが、こやつを利用して、妾の再封印でも試みたが、逆に利用されたという所か。愉快愉快。気に入ったぞ、お主。我がはしためにふさわしい!」

 瑞簸さんも高らかに笑い上げる。こっちも完全に勘違いしてる。

 もうダメだ。勘違いされても仕方ない部分は多々あるし、自業自得とはいえ、全部オジャンだこれ。

「たかが人間一人。妾を止めようなどとは思わぬ事じゃな!」

 刑部さんなど敵ではないとばかりに悠然と上空の雷光を引き連れて、瑞簸さんは歩き出す。

 刑部さんは、ふっと微笑む。

「ええ。私も今、あなたを止めようなどとは思っていませんよ」

 言うが早いか、彼は両手を上げた。

「え?」

 直後、私の体に衝撃が走り、意識が全て持っていかれた。



 バチン、と頭の中で火花が散る。

「いったあー!?」

 襲い来る痛みに、私は目を覚ました。

「え、あれ?」

 生きてる。間違いない。生きてる。視界は起きたばかりでぼんやりだったが、間違いなく自分の手があり、足があり、何より、五感があった。

 ジンジンと頬が痛い。

「お前、何て事をっ」

「平手ごときで傷など残りませんよ。それに、罰としては相応でしょう」

 怒る秋葉さんの声と、平静な刑部さんの声が間近で聞こえた。

 晴れてきた視界で声の方を見ると、なんと言うか、想像した通り、秋葉さんが刑部さんの襟首を掴んで見合っていた。

「目が覚めましたか」

「ふぁい」

「ほら、じっとして」

 いつの間に駆けつけてくれたのか、秋葉さんが濡れたタオルで私の頬をそっと抑えてくれる。キーンとした冷たさが沁みるけど、気持ちいい。

「私、どうして?」

「あなたを彼女から離すために、僕もちょっとたばかってみたのですよ」

 そう言って彼は自分の米神の当たりを指差す。私は空いている手で鏡写しのように自分の米神を触ると、べっとりした感触がある。

 手を視界に戻すと、真っ赤に染まっていた。

「うわわっ!」

「落ち着いて。模擬弾ですよ」

 刑部さんの説明によれば、私がわざと時間をずらして先行した事については、何か考えがあるとは理解していたとの事。

 その後、様子を伺っていたが、私にも想定外の事が起きたように見えたため、瑞簸さんから私を離す為に一芝居打ったのだという。

 つまり、自分を裏切った相手にけじめをつけさせたように、だ。

 尚、当たり所が悪く気を失った私を叩き起こしたのも彼だった。強めに殴られたのは、甘んじて受け入れるしかない。出し抜いたのは事実だし。でも、委員会の人も委員会の人だ。まさかペイント弾とは言え容赦なくライフルを撃ってくるなんて。

 尚、秋葉さんは雲行きが怪しくなったので急いで駆けつけた所、私が引っ叩かれていたと言う事のようだ。

「ぐおおおおおっ!」

 頭上から、咆哮が降って来た。見上げると、天竜様と瑞簸さんが手四つ状態で浮かんでいた。

「姉様、おやめください!」

「ぬううううっ!」

 周囲には雷がほとばしり、まるでリングのようである。

 互角のように見えるが、黒い靄を蒸気の如く吹き出す瑞簸さんが、じりじりとだが天竜様を押している。

「あなたを撃ってからあのままです」

 瑞簸さんは私が死んだと思ったのか、早々に撃ち捨てて、空に飛び上がり、刑部さんに雷を落とそうとした矢先、天竜様がやってきて以降は今の膠着状態となっているようだ。

「あの状態では、術士たちに封印の術を発動させても無駄でしょうね」

 竜二匹の取っ組み合い。とても不用意に割って入れる状態でないのは、私でもわかる。

 それでも、と私は自分の体に喝を入れて立ち上がる。

「いかない、と」

「何を言っているんですか、貴女は」

「止めようなんて思ってません。でも、まだ、目的を果たしていません」

「何をバカな事を」

 刑部さんは嘲る。当初の予定通りマンドラゴラ成分を混ぜたコーヒーを飲ませておけばよかった。それだけの事だ、と。

 そんな事は言われるまでもない。だからこそ、私は行かないといけない。

「責任は、取って見せますよ」

 私はのろのろと並んだ水筒の元へ。

 二つ目の水筒を開け、中身を取り出して、懐へ。そして秋葉さんに頭を下げる。

「お願いします。私を、あそこまで連れて行ってください」

「さすがに、承服しかねるね。私はともかく、和乃さん。君には危険すぎる」

「はは、そうですね。でも、今の状態じゃ、危険度は変わらないですよ。何より、けじめは、つけないといけないじゃないですか」

 秋葉さんは、少々ムスっとした様子ではあったが、私とのにらめっこに、敗北を宣言し、あっと言う間に大きな、熊とも張り合えそうな大きな狐へと姿を変える。

 麦穂のように美しい毛並みに、私は見とれてしまった。

「乗って」

「はい、ありがとうございます!」

 私が飛び乗ったのを確認すると、秋葉さんは一気に地を蹴った。

 絶叫マシンのような衝撃が私の体に襲い掛かるが、なんとか踏ん張る。

 四肢に灯した狐火の力によるものなのか、まるで空中が地面であるかのように、どんどんと空へ向かって秋葉さんは駆け上っていく。

 時間にして僅か数秒。電光石火の早業で、雷の檻すらすり抜けてしまう。

 胃がひっくり返りそうだったが、天竜様の背後へ到着する。

「瑞簸様!」

「む、お主はっ、生きておったじゃと!?」

「ば、何故来た! 狐も何を考えておる!」

 驚く二人だったが、瑞簸さんはギリギリと天竜様を圧倒し始めながら、今にも転げださんばかりに笑い出す。

「なんとなんと。こうも妾が欺かれるとはな。やはり、人間など、我が治下には不要。ずる賢く、意地汚く、神であっても利用できるとしれば平気で騙す。我が地に住まわせなどするものか!」

「くうっ!」

 突然、檻を作っていた雷光の一つがこちらに向かって飛んで来る。

 すんでの所で秋葉さんは交わすと、狙いを付けられないように、と高速で天竜様達の周囲を移動する。

 私は舌をかまないように、気をつけながら、瑞簸さんに語りかける。

「確かに、私は巫女だと身分を偽りました。そして、封印した時も、騙したのは曲げようのない事実でしょう。でも、だからって、あなたの想い人は、あなたを利用しようとしたわけじゃない。まして、騙してなんていないんですよ!」

 今更全部取り繕えるほど余裕はない。さっき様付けで呼べただけでも努力賞。精一杯、声を張り上げる。

 瞬間、瑞簸さんが噴き出す黒い靄が一段と勢いを増し、彼女の瞳に危険な色が宿る。

「貴様、何のつもりか知らんが、それ以上喋ると楽に殺してはやらぬぞ!」

「騙りじゃありません。私は、知っています。いいえ、知ってしまいました!」

「黙れええ!」

「おおっと」

「わわわわっ!」

 怒声と共に無数の雷が飛んで来る。秋葉さんはその全てを俊敏にかわしてくれるが、体を捻ったりするので、何度となく私は落ちそうになりながらも、必死にしがみついていた。

「あの時、私の話はまだ終わってなかったんです。私は、お店が好きです。守りたい。でも、あなたに憎しみを捨てろとか、復讐なんて虚しいとかそんな事も言えません。ただ、事実を知って、その上で、考えて欲しかったんです!」

「黙れと、言っておろっ!?」

 私の方に大きく注意が逸れた瞬間、天竜様が取っ組み合いから押し返した。

「す、少しくらい話を聞いてやってもよいではありませんか、姉様。何より、想い人のお話、聞かせてもらいたいですな!」

 体勢を崩した瑞簸さんに、天竜様は、人の姿から変身。元の竜の姿に戻ると、その体を巻きつけて、締め上げる。

「ぐうっ」

 今しかない。私は懐から一冊の書を取り出し、秋葉さんに近づいてもらうようお願いする。

 それは、今朝方見つけた、あの日記だ。雨に濡れないよう、そしてとりあえず効果的なタイミングを見計らって出せるようにと、三本の水筒の一つに入れておいたのだ。

「それは!?」

 書物を見た瑞簸さんが驚愕する。

 私は頷いた。

「はい。望月佳代さんの、あなたの想い人の日記です」



 かつて、この天竜川のある地区に流れ着いた望月という家族が居た。その娘は佳代といい、彼女は家の仕事を手伝い、よく山や川にやってきていた。

 健気に働き、足しげくやってくる彼女を、当時の主であった瑞簸さんが見初めた。

 瑞簸さんの思いを、佳代さんは受け入れた。二人は中睦まじく、しかしあくまでも人目を避けて逢瀬を重ね、やがて、瑞簸さんは彼女を巫女としようとしたのは、ごく自然な成り行きだった。彼女が巫女となれば、堂々と二人の仲を喧伝する事ができる。

 うすうすは、村の人たちも気付いていたに違いない。そして、それで川の氾濫が治まるなら、と考えていた節はあったようだ。

 だが、巫女の指名が為された時、佳代さんは忽然と姿を消した。村人は、遠くに嫁に出たと説明したが、それで納得するわけもなく、怒りと悲しみに染まった瑞簸さんは暴走。

 後は、私が刑部さんや天竜様に聞いた通りである。

「少なくとも、瑞簸さんの視点に立ってみればこうなるでしょう」

「否。その程度では済まぬ。そもそもその望月の一家は歩き巫女の家系。はなから妾を御するために呼ばれたのじゃ。そして、直接の巫女として指名を受けて都合が悪くなったので姿をくらましたに過ぎぬ。妾の心を弄び、都合よく利用したに過ぎぬのじゃ!」

 その憎しみと怒りが、一連の事件の原動力になっていたのだ。

 内情は、単純だが、それだけに爆発力も高い。

「姉様、そのような事が――」

 天竜様も、事情を知って、それ以上言葉を書けることが出来なくなっていた。

 それでも締め付けを緩めない辺りはさすがだけど、その効果は最初だけなのか、瑞簸さんはその状態自体には何も危機感などは持っていないようだった。

 いつでも、脱出できると言う事なのだろうか。だとすれば、尚更今話しておかなければならない。

「瑞簸さん、それは、違います」

「貴様、さっきから何を言っておるのじゃ」

「確かに佳代さんは、あなたの思いを裏切ってしまった。それは事実でしょう。でも、その事情は、あなたが考えているものとは別物です」

 私は、後半のページを開いてみせる。

 そこには、佳代さんの、瑞簸さんに対する思いが全て詰まっていた。

「佳代さんは、決してあなたを騙していたんじゃありません。少なくとも、あなたに対する思いは本物だったんです」

 佳代さんは、悩んでいた。巫女に選ばれる事に。

 巫女になれば堂々と、瑞簸さんと共に居られる。だが、巫女と主が特別な関係でいいのか。自分の存在が、瑞簸さんを惑わせる事になるのではないか。

 また、自分は人間。たとえどれだけ好き合っていようとも、必ず瑞簸さんを置いて行く事になってしまう。

 その悲しみを負わせる事は、巫女という立場にあって許されるものではない。

 二つの立場に悩んだ彼女は、瑞簸さんがよき主としてこれからもこの地を治める為に、自分と言う存在がむしろ邪魔になると思ったのだ。

 だから、できる限り早いうちに、想いと決別する事を選ぶ。

 瑞簸さんが許してくれることはないだろうし、どちらにせよ悲しませてしまう事には違いない。それでも、己が枷になるくらいなら、と彼女は姿を隠す決断をした。

 その事が、そこには書かれていた。

「日記は、ここまでです。でも、佳代さんは、あなたを最後まで想っていたんですっ」

「それが、何だと言うのじゃっ。一言もなく、姿を消した。それだけで、裏切りと呼ぶには十分じゃろうが!」

「あ、うがあっ!?」

 私の話を、日記の記述を振り切るように、力任せに瑞簸さんは天竜様を振り解く。

 放り出された天竜様が森の中を転がっていった。うう、止める自信はないって天竜様も言っていたけど、こんなあっさり。

 肩で息をしながら、彼女は怒りの視線を私にぶつけてくる。その鋭さに足がぶるぶると震えだした。

「人の過去に土足で入り込んでおいて、ただで済むとは思わぬ事じゃ!」

 瑞簸さんは拳を振り上げる。一際激しく大きな雷光が、私の頭上に煌めいた。

 これは、ダメかも。

「まったく、だから反対だと言っただろう」

 目を閉じた私に、秋葉さんの優しい声が響く。

 瞬間、ドドドっと激しく地面が抉れる音と振動が、こちらにまで響いてきた。

「熱つつつっ!?」

 秋葉さんが顔をしかめ、先端のこげた尻尾を鼻先に持ってきてフーフーと息をかける。

 地面を見ると、雷が抉ったのか、一文字に焼け焦げた後が見えた。

「やっぱり火で雷を防ぐの無理があったね」

「弾いたか。だが、次はそうは行かぬ」

 く、もう後はない。私が無理を言った以上、秋葉さんにも、これ以上ケガをさせるわけにはいかない。

 私は無我夢中で呼びかける。

「確かに、佳代さんの行為は許されるものではないでしょう。本人もそれを理解しています。その上で、あなたに良き主であって欲しいと願った! それを知っても尚、あなたは、この地に住まう人々を一掃しようというんですか! そんなのもう、ただの八つ当たりじゃないですか!?」

「黙れ、その口二度と開けぬようにしてくれるわ!」

「今は、人間の中に紛れて多くの妖怪達が共生しています。人々を一掃しようというなら、その妖怪達も一掃することになるんですよ! そんな事したら、あなたはもう、この地の主として認められる事などない! ただの、御伽噺で退治されるだけの妖怪になってしまうんです! 佳代さんの遺志をあなた自身の手で踏みにじるんですか!?」

「それがあ奴の、佳代の遺志だと、証明できるのか! 巫女と偽ったお主が!」

「できますよ、できないでこんな事言いませんよ!」

 私はやけくそ気味に、それでも嘘偽りのない、言葉をぶつける。

 一瞬だが、瑞簸さんの動きが止まる。私は今一度、日記を突きつける。

「目を逸らさないでください。わかっているはずです。日記と言うのは、他人に見せるものではない。その日あった出来事と、己の思いを忘れないために記すものです。まして、これは佳代さんがあなたとの想い出を密かに記したもの。平仮名で書かれていないんです! これは、あなたが教えた、妖怪達の文字で書かれているんですから!」

「貴様、何故それを!?」

 初めて、瑞簸さんがたじろいだ。

 やっぱり、そうだったんだ。

「書いて、ありました。一番最初に。瑞簸様より教わった文字にて記す、と」

 私は、文字を読めない。内容を理解できるだけだから、半分はブラフ。こればっかりは、決して言えないけど。

「私が、巫女として身を捧げると偽った事は謝ります。でも、最初に言ったとおりです。私は最初から、この遺志をあなたに伝えたかった。そして、憎しみや怒りと向き合ってほしかったんです」

 瑞簸さんはゆっくりと、体から力を抜いて俯く。

 まだ、危険かも知れない。それでも、私はなぜか、近づきたいと思った。秋葉さんはゆっくりとだが、彼女の近くに寄ってくれた。

「それでもなお、妾の結論が変わらぬとしたら」

 不意の質問に、私はあはは、と渇いた笑いをこぼす。

「あんまり、考えないようにしてました。だって、私の目的は、あなたに伝えたかったから。それが、知ってしまった責任だと思いましたから。もちろん、大切な場所を守りたいのが、一番ですけどね」

 今の彼女から、攻撃の意志は感じない。私は、誠実に、ありのままに答える。そうするべきだと思ったから。

 瑞簸さんの頬がふっと緩んだ。

「これまで、じゃな」

 そう囁いて、彼女はすっと地面へ降りて行く。周囲に渦巻いていた雷雲は、徐々に、霧散し始める。

 秋葉さんと私は、彼女に続いて地面へと戻る。

 背中から下りた私の足はがくがくと震えていた。今まで集中してたし、馬乗りなんてほとんどしないから、反動がここに来て現れてしまったのか。

「さて、と。最後まで、ね」

「はい、ありがとうございます」

 人間の姿に戻った秋葉さんに支えられて、私は瑞簸さんの所へ。

 刑部さんと、起き上がってきた天竜様もゆっくりと私達の後に続いた。

 瑞簸さんはおもむろに、私の頭を撫でて来た。

「よく、伝えてくれたのう」

「え、あ、はい」

「妾は、やはりこの心にくすぶる炎を消す事は出来ぬ。じゃが、佳代の遺志を踏みにじる事も、出来ぬでな。お主を、誉めてつかわそう。言葉に耳を貸すに値する、そう思えたわ」

 なんだか、私はこそばゆく、恥ずかしさが込み上げて来る。

「と、とんでもないです。本当に、好き放題言ってしまって、申し訳ない限りです」

「否、それでよい。妾とお主では、全てが違う。それくらいでなければ届かぬよ。何より、お主には姦計を巡らし、妾を絡め取る機会があったが、それをせずに言葉で向かって来た。妾にも矜持がある。ああまで言われて尚、お主を食らっては、それこそ名折れと言う物じゃ」

「姉様」

 天竜様は恐る恐ると言った調子で、横から顔を覗かせる。

「瑞貴。すまなかったな。妾は、思ったよりも、心が弱かったようじゃ。そのせいで、お主に座を押し付けてしまった」

「そんな、姉様。ワシは、良いのです」

 二人はがっしりと抱き合った。姉と慕う相手と何十、いや何百年ぶりかの抱擁。不覚にもうるっと来る。

 少しずつだけど、やり遂げた実感がやってきた。

 その矢先、突然瑞簸さんが顔をしかめて唸る。

「ぐう、うっ!?」

「姉様!」

 体からもうもうと、黒い靄が再び上がり始めた。

 瑞簸さんは顔を歪ませながらも、喉を鳴らして笑う。

「く、くくく。ながきに渡ってくすぶらせたせいじゃな」

「これは、一体?」

「陰気を、呼び寄せてしまいましたね」

 刑部さんは僅かに距離を取りながら、そう呟く。この人は本当に、行動が早い。

「怒りや憎しみは、誘蛾灯の如く陰気を呼び寄せます。そして陰気は、体を蝕み、そうした負の感情を増大させ、最後は天使が堕天するが如く、性質も、思考も全てを塗りつぶしてしまいます」

 特に、瑞簸さんは長期間に渡って、黒い思いを抱えて封印されていた。

 それが今、解かれた事で、陰気に取ってたかりやすい水銀灯が点いたのと同じ現象が起きてしまったという。

 つまり、このままだと瑞簸さんは暴れ竜として畏敬の念を抱かれたこの地の主ではなく、完全な破壊の化身になってしまうという事だ。

「そんなっ」

「ふふ、良いのじゃ。妾は既に、八つ当たり同然で数多の集落を潰し、命を奪った身。このままおめおめと以前のように川に棲み付く事など許されぬ身であっただけの事」

 瑞簸さんは天竜様を引き剥がして、刑部さんの方を見やる。

「妾がこのまま命を絶った所で、陰気が寄って来るのは止まらぬ」

「ええ、むしろ完全に乗っ取られてゾンビのようになるのは目に見えていますね」

「なればこそ、今一度妾を封印するのじゃ。用意は、してあったのじゃろう」

「ええ。しかし、術が完成するまでにあなたに暴れられてはお終いです」

「ふん、我が身くらい、押さえてくれようぞ」

「結構です。それならば、お言葉に甘えさせていただくとしましょう」

 刑部さんは躊躇う事なく、無線のスイッチを入れる。

 私は、それを止める事はできない。このことに対する方策は、何もないのだから。

 だが、天竜様もまた、ただ黙って拳を握り締めるだけだった。

 私たちが離れると、刑部さんの指示で、封印の儀式が始まる。ここを除いた四つの境外摂社からそれぞれ光が立ち上り、瑞貴さんの頭上に集合、巨大な玉となる。

 それを確認した刑部さんが懐から一枚の呪符を取り出した。

 私が説明したのだから、それが何かはわかっていた。この山道、かつて封印の蓋となった石盤も人力で運ばれたのはではない。

 別の場所から術によって召喚されたのだ。

 刑部さんが放った呪符は光の下に飛んで行き、巨大な石盤を召喚する。

 宙に浮いた石盤の下へ、光の玉から新たな光がレーザーのように伸び、石盤の上に呪文を刻んでいく。それに合わせて、真下に居る瑞簸さんの足元にも方陣が浮かび上がった。

「ぬううっ」

 襲う衝撃に、瑞簸さんは食いしばる。たまらず、天竜様が声をかけた。

「姉様!」

「よい。瑞貴。そんな顔をするでない。お主に会えたのは、嬉しかったぞ」

「姉、様」

「それに、今生の別れと言うわけでもない」

 そう言って、瑞簸さんは私の方を向いて、微笑んだ。

「お主のおかげじゃ」

「え?」

「妾はこれより、眠りに付く。じゃが、かつてとは違う。今は、己の心に向き合って、眠る事ができそうじゃ。妾が次に目覚める時は、この心に折り合いをつけて、佳代にも顔向けできるようになっておるであろう」

「瑞簸さん」

「さすれば、その時は胸をはって、お主達の顔を拝みに行く。それまで、お主達は、妾の過ちを繰り返さずに過ごして欲しい。ぐぐっ」

 頷いて返すと、徐々に石盤が瑞簸さんの下へ向けて降下を始める。同時に、彼女に襲い掛かる衝撃も増え、足が方陣の中へと消えて行く。

 後は、このまま見送るだけ。そのはずなのに、私は何か心にひっかかりを覚えて、ぐっと手を握り締める。

「あ」

 その時、私は日記をまだ手に持っていた事を思い出す。

 これだ、これを。

 私が顔を向けるより早く、秋葉さんがそっと手を重ねてきた。

「和乃さん、行こう」

「はい」

 再び狐の姿に変わった秋葉さんの背に私は乗っかると、地を蹴り、宙を蹴り、方陣に触れる事なく瑞簸さんに向かう。

「何を!?」

 突然の出来事に戸惑う刑部さんの声を背に受けたが、気にするようなら、こんな事はしない。

 そして刑部さんなら、術を中断しないであろう事も、折込済みだ。

「あうっ!?」

「これは、なかなか」

 石盤の下に飛び込んで間もなく、私と秋葉さんの体が地面に押し付けられるような衝撃に襲われる。

 これが、封印の術。瑞簸さんが、いくら受け入れているとはいえ、これは、きつい。内臓が、潰れちゃいそう。

 なんだか、お腹の中からこみ上げてくるものが。

 秋葉さんも唸って犬歯を覗かせていたが、確実に、一歩ずつ進んでいく。

 やがて、下半身が方陣に埋まった瑞簸さんの下へ辿り着く。

「はは、何故来た? 添い寝など、不要じゃぞ」

「これを、お渡ししなければ、と」

 私は日記を手渡す。

 これは、佳代さんの思いが詰まったもの。瑞簸さんが持つのがふさわしい。

「はは、ありがとう。これで、いつまでも心安らかにいられそうじゃ」

「はい」

「目覚めたら、いつでもお店へ来てください。今日よりもっと美味しいカフェラテをご馳走しましょう」

「うむ。ならば妾も、必ずや己の心に打ち勝ってくるとしようかのう。さて、もう行くのじゃ。これ以上は、つき合わせてしまうからのう」

 言われて気付く。石盤は手を伸ばしたら届きそうな距離にまで近づいてきていた。

 別れの言葉を交わす暇もない。秋葉さんはすぐに石盤の外へ向かって歩き出す。

「ありがとう。名も知らぬ人間よ。お主は、良き妖怪達の理解者になる事であろう」

 瑞簸さんの消え入りそうな声が届き、私は振り返る。しかし、そこにはすでに彼女の姿はなくなっていた。

 ゴチン、と目の端で星が散った。

「あいた、わわわわっ!」

 バランスを崩しそうになって私は丸太に捕まるように秋葉さんの体にしがみつく。

 石盤に頭をこすったのだ。

「はは、まずいかもしれないね」

 枠外まであと少しだが、私達が挟まれて封印されそうになるのも、後少し。完全に分の悪いチキンレースになっていた。

 もう後、目と鼻の先で出口。秋葉さんが一歩を踏み出すと、伏せている私の髪が石盤とこすれた。

 本当に、まずいかも。

「っ、ええい!」

 叫び声と共に、私達の体が浮遊感に包まれ、ばねで押されるように枠外へ放り出された。

「おおっと」

「あいたっ!」

 秋葉さんは見事に着地を決めるが、私は衝撃で地面に転げ落ちる。

 顔を上げると、天竜様が駆け寄ってきた。

「すまん、ちょっと荒っぽかったか」

「いえ、助かりました」

「おかげさまで」

 どうやら天竜様が風の術で強引にはじき出してくれたようだ。

 起き上がると、ズン、っと大きな音がなり、石盤は完全に地面に縫い付けられていた。

 暴れ竜、瑞簸さんは再び、深い眠りについた瞬間だった。

「姉様、どうか安らかに。目覚めの時まで、ワシはいつまでもお待ちしております」

 天竜様はその場で黙祷を捧げる。私と秋葉さんもそれに倣った。

 パンパン、と手を叩く音によって沈黙は破られる。

 そこには呆れ顔で私を見つめる刑部さんの姿があった。

「まったく、お人よしにも程がありますよ、あなたは」

「でも、きっとしなければ後悔したと思いますから」

「それについては、何も言いません。まあ、ご無事で何よりですよ」

 それだけ言って、彼は踵を返す。

「状況は終了しました。ご協力には感謝します。後は、またここに社を立てれば本当の意味で決着ですよ」

 言外でもわかる。後処理は、すべて、九十九神管理委員会で引き受けるという事だ。

 本当に、秋葉さんが言う通り。良くも悪くも公平な人なんだ。

「あの、ありがとうございました」

 私は一礼をすると、彼は何も言わず、無線で色々と支持を出しながら去っていた。

「和乃よ。お主には、本当に何と礼を言ってよいか判らぬ。姉様を救ってくれた礼は、必ずするでな。今はゆっくり休むが良い」

 天竜様はそう告げると、わしゃわしゃと私の頭を撫でると、神社の本殿に向かって飛んで行った。

 お礼は、期待しないで待つとしよう。

「お疲れ様」

「秋葉さん、こちらこそ、本当に無理を聞いていもらってありがとうございました」

「何、当然の事をしたまでさ。それじゃあ、帰ろうか」

「はい」

 荷物をまとめ、秋葉さんと共に帰路へ付く。しかし、今日はもう少しだけ、事件があった。




「ん、うん」

「お、目が覚めたかい?」

 うっすらと目を覚ますと、私はなぜか秋葉さんに背負われていた。

「え、あれ?」

 私、確か帰り道の途中で休憩してて、そっか。そのまま眠っちゃったんだ。

「す、すみません」

「何、今日一番働いたんだ。もう少し休んでいていいよ」

「あ、ありがとうございます」

 私はお言葉に甘えて、秋葉さんの背中に体を預ける。

 あったかい。この温かさは、やっぱり、そうなんだろう。

「おや」

 突然、秋葉さんが足を止める。どうせなので、私も背中から下りると、もうお店まで少しの所だった。

「どうかしましたか?」

「うん、ちょっと騒がしい声が」

 言われてお店の方を見直すと、中からぞろぞろと人影が溢れ出してくる。

「え?」

 人だかりは、まるで魚群のようにまとまって、私達の元へ一直線に向かってくる。

「おお、秋葉さんと和乃ちゃんじゃ。二人とも無事じゃ無事じゃ!」

 先頭を切って現れたのは、常連さんで源二さんを始めとする天狗三人衆の皆さんだった。

 ただ、格好はいつもより物々しくなっていて、手にした錫杖も磨きこまれている。

 何と言うか、今から山に挑もうかと言う格好だ。

 他の方々もみな常連さんで、おのおの喧嘩でも始めそうな感じで物騒なものを持っている。

 どうこうさんに居たっては、メスと注射。中身の薬品によってはシャレにならないですよ、それ。

 だが、皆私達の姿を見つけると肩の力を一斉に抜いた。

「おいおい、一体なんの騒ぎだねこれは?」

「そりゃ、天竜川も白岐山も不穏な気配がしたもんでみんな、お店が心配で様子を見に来たんじゃ。そしたら、なんぞお二人が悪い妖怪を退治しに言ったと聞いてな。加勢にいくかどうか相談しとったところなんじゃ」

 なるほど。いずなちゃんはもちろん、いくらうね子さんでもこの勢いで問い詰められたら事情を話してしまうのは仕方ないだろう。

 秋葉さんは額に手を当ててはああと溜め息をつくが、その口元はほころんでいた。

 私も、なんだか無性に、嬉しかった。

「秋葉さんはもちろんだけどね、和乃ちゃんにも何かあったらコトだしね」

「みんな、ありがとう。でも、問題は全部片付いたから」

「そ、そうなんかい。それなら良かったが」

「二人とも汚れちまってるじゃないか。ケガでもしとったら大変じゃ。どうこうさん、ほれ、診てやっとくれ」

 そのまま診察が始まりそうな勢いに、秋葉さんがなだめすかす。

「はいはい。大丈夫だから。ちゃんと後でお願いしますよ、どうこうさん」

 どうこうさんは頷くとメスと注射をしまう。

 え、あれって駆けつけるためじゃなくて治療の方の準備だったの。

「うね子達も心配させちゃってるから、通してくれ。準備が出来たら、今日はパーティーにしよう。それでいいかな?」

 秋葉さんの提案には、すぐに同意の声が上がった。

「二人の無事も祝って、盛大にやるとしよう」

「おお~。それなら、ワシらも手伝うぞ」

 皆、道を空けてくれる。私と秋葉さんは笑いあってお店に向かう。

 すれ違うたびに、肩を叩かれ、喜びの声をかけられた。

 お店に入ると、いずなちゃんが飛びついてきて、うね子さんも、静かに抱きしめてくれた。

 ああ、守ったんだ。守れたんだ、私。お店を、皆の憩いの場を。

 こみ上げてきた喜びが、涙になってこぼれ落ちた。

 その夜のパーティーは夜明けまで続き、皆さん、二日酔いで仕事へと戻っていった。

 尚、後日パーティーの話を聞いて、天竜様は口惜しがっていた。



 瑞簸さんの件が決着してから、およそ一週間後。私は秋葉さんの家の縁側で、山から聞こえてくる音頭に耳を傾けていた。

 今日は、天竜神社で夏祭りが行われている。結構な賑わいで、定休日と重なった事もあり、私もお客としていずなちゃんと一緒に参加してきた。

 今は、遊び疲れたいずなちゃんを、連れて戻って来た所だった。

「ありがとうね。もう寝ちゃったよ」

「いえ、私も久しぶりにお祭りに参加できて楽しかったです」

 秋葉さんは良く冷えた麦茶を持ってきてくれると、一緒に縁側に座った。

「もうすっかり、和乃さんが居るのが当たり前になったね」

「そうですね。今年の夏に入った時は、全然想像してませんでした」

「そうだね。私も、チラシを出した時は、こんな良い子が来てくれるなんて思ってなかったよ」

 にっこり笑う秋葉さんに、私はこそばゆくなり、鼻頭をかきながら、視線をそらす。

「私も、こんな良いお店で働けて幸せです。それに、守れて、良かったです」

「うん、君には感謝しても仕切れないね」

 カランと、コップの中で氷が音を立てた。

「私、本当に自分の力が厄介だとばかり思ってました。それに、あの時も、今回はたまたま役に立っただけだ、って」

「でも、今は違う?」

「はい。最後に、瑞簸さんに言われたんです。私は、妖怪達の良き理解者になれるって」

 あれは、本当に、目から鱗が取れたようだった。

「そして思ったんです。これは、きっかけを作ってくれる力だ、と」

 この力があったから、私は佳代さんの思いを知る事が出来た。そして、瑞簸さんの思いも。

 そうした、理解や橋渡しをするきっかけを、チャンスをくれる力なんだと、思うことが出来た。

「チャンス、か。その通りかも知れないね。だって、その力があったから――」

「はい、私はここで働けているんです」

「ふふ。和乃さん、君も自分と向き合えたようだね」

 秋葉さんは噛み締めるように呟き、煙管で一服する。

 秋葉さんの言う通りだった。あの件を通して、私は自分の力と向き合い、受け入れる事が出来た。

「よく考えたら、そのきっかけも、力のおかげですね」

「ふふ、そういう事になるね。君がその力を持ったのには、ちゃんとした意味があったんだよ」

「はい。それで、実はその、このお店を知ったきっかけに絡んでですね、秋葉さんにお聞きしたい事がありまして」

「私に?」

 不思議そうに、首を傾げる秋葉さんに、私は是非に、と頷いた。

「何かな?」

「私、この力のせいで昔、怪道に迷い込んだ事があるって言いましたよね」

「うん」

「それで、私は妖怪に助けられたんです」

 以来、妖怪の本を読んだり、フィールドワークで関連の場所を巡ったりして、妖怪の存在が事実かどうか、事実なら自分を助けてくれたのは一体誰なのかを確かめようと努めてきた事を説明する。

 秋葉さんは真剣に、私の説明に耳を貸してくれた。

「妖怪の存在は、皆さんのおかげで確認出来ました。後は、もう一つ、確かめたいんです」

「なるほど。それは、わかったけど、それが私に聞きたい事?」

 さすがに心当たりはないな、とぼやく秋葉さんに私は首を降った。

 まだ、質問の前に話しておきたい事に過ぎない。

「実は、私、大学でこっちに来たのもそれに由来してるんです。だって、怪道に迷い込んだのは、この地域での事なんですから」

 母親を早くに亡くした私は、よく土日でも大学教授の父の公演などに連れて来られていた。事件があったのも、そんな旅の最中、この地を訪れた時の事なのだ。

 秋葉さんも薄々私の聞きたい事を理解したのか、眉をピクっと動かした。

「その時の妖怪は、この間の秋葉さんがやったように、霧に隠れるようにして現れて、私を外まで連れて行ってくれました。その温もりを、私はちゃんと覚えてます」

「なるほど、ね。でも、多分それは私じゃないよ」

 秋葉さんは先んじて宣言するが、私も食い下がる。

「十年ほど前です。怪道で、人を助けた覚えはありませんか」

 秋葉さんは、クルクルと煙管を回して考え込むと、空を見上げた。

「やっぱり、違うよ。確かに怪道で人を助けた覚えはあるけど、あれは男の子だったし」

「……え?」

「髪は短かったし、ズボンだったし、見た目も少年だったから間違いないよ」

 こ、これはまさか。

 私は震える手で、一枚の写真を取り出す。それは、両親と一緒に撮影した最後の写真。小学校入学式の時のものだ。

 それを見た秋葉さんは大きく口を開けた。

「面影、あるね」

「ううう、台無しですよおっ!」

 写真を持っていなかったら、腕を振り回してポカポカ秋葉さんの胸を叩いていたに違いない。

 ようやく、十年越しの命の恩人との再会が、こんな締まらない結果なんて。

 ダメだ、違う意味でうるっと来てしまった。

「ごめんごめん。いやでも、ふふ。そう言えば、言ってたものね」

 秋葉さんは、私が男子に間違えられると言っていたのを思い出したのか、お腹を抱えた。

「何でそこはすぐに思い出しちゃうんですか、もー」

 憤慨する私に、秋葉さんは何度も謝るけど、思い出し笑いのせいで、本当にもうグダグダ。

 私も最後は釣られて笑ってしまう。

「ふふふ」

「あははは、もう」

 その時、再会を祝うかのように、山の上に盛大な花火が打ち上がる。

 何度も何度も、綺麗な花が星空に咲き誇った。

 その美しさに、言葉がなくなり、私達は空を見つめていた。

 やがて、大きな花火の用意に移ったのか、暫し間が空いた。

 秋葉さんが、静かに尋ねて来る。

「ねえ、和乃さん」

「はい」

「さっき、誰が君を助けたのか確かめたかったって、言ったけど、どうして確かめたかったの?」

「だって、助けてもらいましたから。お礼を言いたいと思うじゃないですか」

 その思いは、妖怪が実在すると知って、より強く、はっきりとしたものになっていたのだ。

「それなら、もらいすぎだね」

「え?」

「君は、こうしてお店にやって来て、元気に成長した姿を見せてくれただけじゃなく、お店を、地域を守ってくれた。これ以上の恩返しなんて、ないじゃないか」

 秋葉さんは、そういうと、私を側に引き寄せる。

「ありがとう」

「そん、な」

 秋葉さんは、指を私の唇に当ててそれ以上は言わせてくれなかった。

「感謝は、君の力にしてほしいな」

 私は、ただ頷くしかできなかった。

 確かに、全てのきっかけは、私の力だった。

 それでも、と私は秋葉さんの手に自分の手を重ね、思いが届くようにと願った。秋葉さんは、優しく、握り返してくれ、私は顔をほころばせると、その肩にそっと寄りかかった。

「これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 力が与えてくれた奇跡とも言うべき夏を、特大の花火が締め括った。




                                   《了》



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八智和乃の細腕奮闘記 長崎ちゃらんぽらん @t0502159

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