十一の月と十七日目


 小説家 セィシル・ヒュウケ


 人生は、時折物語に例えられる。一つの完結に向けて、進めていく一日一日が、一枚一枚のページである。

 ならば、小生しょうせいなんじに問いたい。なぜ、自分の物語で精一杯なのに、わざわざ新しい物語を生み出さねばならないのか? と。


 血を吐く思いで、小説を完成させた後は、毎回その疑問に立ち返る。私は小説家であるのだから、書くということが、自身の存在意義の証明に他ならぬと、結論が出ているにも拘らず。

 今回も、敏腕編集者のスータラッタ君の厚意によって、締め切りを半日伸ばしてもらい、一冊を書き終えたところである。ちなみに、先程まで、ぐうぐう寝ていた。


 さて、冒頭の文に立ち返ろう。人生を物語に例えるのなら、たくさんの人生を集めると、それもまた物語になるのではなかろうか。

 汝は、町民たちの日記を読む。それら一つ一つを繋ぎ合わせることで、新たな物語が生まれるのではないのか。モザイク画のようなものだ。


 小生は、他人の人生を知らない。顔を合わせる頻度の高いスータラッタ君も、何を考えて、日々を過ごしているのか、想像することは出来るが、そのものを書き表すことは不可能だろう。

 汝は、彼らの人生を全て知っている。わざわざ考えあぐねずとも、物語を生み出せるということだ。羨ましい限りである。


 当然、良いことばかりではないだろう。汝は汝の苦悩があることも、小生は把握しているつもりである。

 ただ、締め切りの翌日くらいは、このような弱音を吐くことを、許してほしい。


                 おわり






   ***






 メモ


 フランシスさんの日記で、セィシル先生が何とか小説を書き終えたことが分かり、一安心したところで、当の本人の日記を読んでみる。

 締め切り後の先生の日記は、疲れと興奮によるものなのか、すごく難解になってしまっている。今回も、論点があっちこっちに揺らいでいた。


 でも、人生を集めることで、新たな物語となるという発想は面白いと思う。私は何かを生み出すことは出来ないと思っていたけれど、こういう手もあるのかもしれない。

 ただ、この日記はみんなの正直な気持ちが書かれているから、他の人に見せられない。それが、ちょっとだけ惜しいと思っちゃった。


                 ノシェ

























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