一匹狼と旅人
勇敢に戦った証である傷跡
戦うために研ぎ澄ました牙と爪
戦うために生まれてきたわけじゃない
戦うことが好きなわけでもない
どこかで道を間違えたかもしれない
でも戻ることなんてできない
後悔することは自らの否定
もともと戻る道なんてありはしないのだ
――
鬱蒼とした森の中をぐねぐねと曲がった道がつづいている。大きな木に覆われて、日の光は地面まで届かない。暗い緑と地味な茶色と白い
旅人は辺りに注意しながら、道を進んでいた。なにかが襲いかかってきてもおかしくない。ゆっくりとした足取りと、どっしりとした心構えで先を進む。
いつになったら、この森を抜けることができるのだろうか。
葉が擦れ合う音。木々の影に潜む気配。なにかの足音。遠くで聞こえる獣の鳴き声。
旅人は不安になる度に、頭を振って不安を追い払った。きっともうすぐだ。もうすぐ抜けられる。なにか楽しいことでも思い出して、不安をやり過ごそうとしたが、楽しい思い出は浮かんでこなかった。体温が下がっていくのを感じた。
がさがさと茂みから音がした。旅人は身構える。
どうやら、一匹の狼のようだ。群れでなくてよかった。ほっと一息はついたものの、気は緩めない。
「そこでなにをしている?」
旅人はか細い声で尋ねた。
狼が旅人のほうへ顔を向けた。牙から血が滴っていた。
「これはこれは、珍しいお客さんだ。こんなところを通る人間は久しぶりだよ」
旅人は後ずさりした。狼は腹の底から声をもらして、ぐふふ、と笑った。
「安心してほしい。ちょうど、小鳥を食べ終えたところだ。あんたを襲う気はさらさらないよ。あんたが変な気を起こさない限りはね」
「小鳥? どんな小鳥だ?」
旅人はさきほどよりも大きな声で聞き返した。
狼の目が怪しい光を放つ。
「旅人さん。あんたはいちいちこれから食べるもののことを、あれこれと考えるのかい? 命を頂くことに感謝こそするが、余計なことは考えない。飯が不味くなるからな」
「すまない。私もものを食べるときは、いちいち考えないな」
狼は奥歯を見せて笑った。
「あんたは話がわかるようだ。食べるものに対して、哀れみや悲しみの目を向けるような奴は、生きることに余裕があるのさ。俺たち狼はいつだって生き残ることに必死なんだ。襲って返り討ちになることだってあるし、獲物にありつけなくて餓死することだってある。おれの生き方なんだ。文句は言われたくない」
「悪かったって。さては、前にも同じようなことを言われたことがあるな?」
旅人は口元を手で覆った。狼は横を向く。
「いけ好かない人間だったよ」
「襲ったのか?」
「いや。そのときも、腹は満ちていたからな。労力の無駄使いはしない。ただ、その人間は森の土に還った。ほかの獣に襲われたんだろうよ」
旅人と狼のあいだに、沈黙が訪れた。しばらくしてから、旅人が口をひらいた。
「私は先を急ぐよ」
知らない人とはいえ、人間が襲われた話をこれ以上聞きたいとは思わなかった。
「頼みごとをきいてくれないか? きいてくれたら、近道を教えよう」
「聞くだけ聞こう」
狼は上を向いて、喉元を旅人に見せる。
「ここに、傷があるだろう」
鮮やかな赤い三本線の傷跡が見えた。
「たしかにある。爪でひっかいたような傷だ」
「旅人は色を塗り変える魔法を使えると聞く。この傷を黒く塗って目立たないようにしてほしい。みっともないからな」
「誰につけられた傷だ?」
狼は、ぐるる、と低い鳴き声をもらした。
「群れの若い雄だ。かつては俺も群れの長だった。長の地位をかけて、戦った。そのときにできた傷だ」
「それで負けたのか」
「いや。いや。負けたというべきだろうな。この傷をつけた奴も深手を負って逃げていった。勝ったと思った。だが、違う雄が襲ってきてな。そのとき、おれには戦う余力はなかった。結果的に、群れを追われたわけだ」
旅人は悲しみの目を向けた。狼が吠える。
「おい。そんな目をおれに向けるな。いいか。この世界に卑怯とか、汚いとか、そんなものはないんだ。負けたら死ぬんだ。だったら、勝つためになんだってするだろう?」
「生き方の違いだな」
旅人は呟くように言った。それから、呪文を唱えた。みるみるうちに、狼の傷跡は赤色から茶色へと変わった。毛に混じって見えなくなった。
「黒より、茶色のほうが目立たないだろう」
狼は満足そうに吠えた。
「約束通り、近道を教える」
狼は歩き出そうして、立ち止まった。体はそのままに、首だけで振り向いた。
「ついてきな」
深い森の中へ、狼は入っていく。旅人は黙って狼の後を追った。
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