一輪の花と旅人
咲きつづけて一輪の花
花の美しさの前では太陽の光もかすむ
咲き誇って一輪の花
花の周りを蝶が飛んで彩りを添える
花を閉じても一輪の花
花に陰りが見えても妖艶な匂いを放つ
枯れ果てても一輪の花
私の頭の中で咲きつづけている
――
穏やかな日がつづいている。日差しは柔らかい。ちぎれちぎれになった雲が流されていく。ときおり、風が吹いて寒さを思い出す。
旅人は羽織っているマントを体に強く巻きつけた。両手で自らの体を抱いて温めようとする。手の感触。長いこと、人と触れ合っていない。紛らわすように、旅人は足を早めた。
ぐねぐねと曲がった道は、これから山へ入ろうとしている。山には深い緑色をした木々に混じって、紅葉している木が見えた。山頂はうっすらと白く霞んでいる。連なった山々がそびえ立つ。
山に入る手前に、日当たりのいい場所があった。いい香りが漂っている。旅人は野原に寝転がり、空を眺めた。淡い青が広がっていた。
いい香りが鼻の奥を刺激する。匂いはどこからだろう。辺りを見渡すと、一輪の赤い花が咲いていた。旅人はもっと匂い嗅ごうと、手を近づけた。
「触らないでちょうだい」
甲高い声で花が言った。
「あたしのこと、摘もうとしたでしょう? 人間って野蛮ね」
花はなにか言う度に、匂いを放った。旅人の頭はくらくらする。
「ごめんよ。でも、摘むつもりはなかった。いい香りがしていたから、もう少し嗅ごうとしただけだよ」
「あら、そう。あたしは美しい花だから、仕方ないわね」
花は茎をぴんと伸ばした。花弁がよりひらく。
「君はここで、ひとりなのかい?」
旅人は花の香りにうっとりとしながら尋ねた。
「ええ。昔はあたしの仲間もたくさんいたの。でも、みんな人間が摘んでいってしまったわ」
旅人はきまりの悪そうな顔をする。
「それは申し訳ないことをした」
花は茎を揺らして笑う。
「どうしてあなたが謝るの? あなたは悪いことしてないじゃないの。それに、摘まれていったとはいえ、人間の村で株を増やしてもらっているみたいだから、悪いことばかりじゃないのよ」
「でも、君はひとりで寂しいだろう?」
「人間の発想ね。あなたはきっと、傷ついている。だから、あたしのことが寂しく見えるし、あたしの声も聞こえてしまう。おあいにく様。あたしには、太陽も、月も、空も、風も、雨も、鳥も、虫も、星も、いろんなものが傍にいてくれるわ」
「そうか。君はひとりじゃないんだね」
「そうよ。あたしのような美しい花。みんなが放っておくなんてありえない。みんな、あたしのことを大事にしてくれるわ。あなたにはわからないかもしれないけど」
旅人は苦笑いする。
「私も君のためになにかしてあげたい。いいだろうか?」
花は茎を捻って花弁を旅人から逸らした。
「あなたって寂しがり屋さんでしょう? いいわよ。あたしのために、あなたができること、なにかしてちょうだい」
旅人は香りを楽しみながら花を観察する。花の葉っぱが少し黄色くなっていることに気がついた。呪文を唱える。みるみるうちに、黄色い葉っぱは若々しい黄緑色の葉っぱへと変わった。
花は葉っぱを見て、うふふ、と笑った。
「もうすぐ枯れてしまうのにね。でも、ありがとう。若返った気分よ。あなたのこと、ずっと覚えておいてあげる」
いままで一番甘い香りを花は放った。旅人は目を瞑り、香りを楽しんだ。
「私のことなんて、忘れてしまっておくれ。私のことを誰も知らない。そんな土地へ行きたいんだ」
「やっぱり、寂しがり屋さんね。そういうこと、気にするんですもの。決めたわ。あたしは意地悪だから、あなたのこと、忘れてあげない」
「それは、困ったな」
旅人と花は互いに笑う。
花は旅人を見送るために、力いっぱい甘い香りを放った。
しばらくのあいだ、旅人は頭がくらくらとしながら道を進んだ。懐かしい匂いが旅人の胸の中に広がった。花を思い出しては、匂いを嗅ぐのだった。
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