水たまりと旅人
世の中は大きな水たまりにすぎない
真実を覗き込もうとすれば
風が吹いて水面に波が立ち
掻き回されて水は濁り
歪んだ水底がぼんやりと見えてくる
――
雨が降ったのは数日前。ぐねぐねと曲がった道はまだぬかるんでいる。その道をひとりの旅人が歩いていた。旅人はぬかるみに足を取られないよう、慎重だった。ときどき、立ち止まっては空に目をやった。青い空が広がっている。白い雲は流されて、緑の山を越えていく。
靴の跡。蹄の跡。車輪の跡。獣の足跡。ぬかるんだ道にはたくさんの跡が残っている。いろんなものが通ったことがわかる。道に沿っている跡もあれば、道を横断している跡もあった。そこに、旅人の足跡も加わっていく。
「みんな、どこへ行ったんだろうね」
旅人は呟いた。
目的地の決まっていない旅だった。ただ、遠くへ行きたいと思ったのだ。元いたところからなるべく遠いところ。とりあえずは、このぐねぐねと曲がった道が終わるまで歩こうと考えていた。
ぬかるんだ道を進むのは、思っていたよりも大変だった。不安定な道の上で必要以上に気を遣い、ぬかるみから足を抜くときには、力を振り絞った。大して進んでもいないのに、旅人は汗をかいてしまう。
少し休むことにした。ちょうど、この先に水たまりがいくつかある。そこまでは歩いて、道の端に腰を下ろした。
風が気持ちよかった。
目を瞑り、風の音に耳を傾ける。
「ねえ、旅人さん」
がぼがぼと濁った声がした。
「私を呼ぶのは誰だろう?」
「こっちだよ。こっち」
再び濁った声。水たまりの水面が揺れている。
「私を呼んでいるのは、水たまりか?」
「そうだ。おいらが呼んだんだ」
水たまりがしゃべる度に、中の濁った水は掻き回され、よりいっそう茶色くなってから、水面が揺れた。
「ひどい濁声だ。どこからそんな声を出しているんだ」
「おいらだって、好きでこんな声を出しているんじゃないやい。人間や動物が足を突っ込んで、おいらのことを掻き回したんだ。そのせいで、こんなに濁ってしまったんだ」
「それはそれは。知らなかったとはいえ、失礼なことを言った。申し訳ない」
旅人は帽子を取って、頭を下げた。ごぽごぽと音をたてて、水たまりは笑った。
「誰にだって間違いはあるからね。そんなことより、旅人さんは色を塗り変える魔法を使えるんだろう?」
「ああ。使えるとも」
「そしたら、おいらの水を透明にしてくれないかい?」
「お安い御用だけど、どうしてまた? 君はあと二、三日もしたら、干上がって消えてしまうのだろう?」
旅人は首を傾げる。
水たまりの水面に波紋が起こった。どうやら、水たまりは考え込んでいるようだ。
「こう見えてもね、おいらは底が深いんだ。でも、いまは濁っていて、底が見えないだろう? 下手に足を突っ込まれて怪我をされるのは、おいらとしても不本意なんだ。あと、二、三日とはいえね。だから、底が見えるように透明にしてほしいんだ。短いからこそ、なにも起きてほしくないのさ」
「殊勝な心がけだ。喜んで引き受けよう」
旅人は呪文を唱える。みるみるうちに、水たまりの水が茶色から透明へと変わった。水たまりが言ったとおり、思った以上に底が深い。旅人の足が浸かってしまうほどだろう。
「ありがとう、旅人さん」
水たまりは、静かに水面を揺らし、優雅な声を出した。
「さて、私はそろそろ行くよ」
旅人は腰を上げた。水たまりに背を向ける。
「ねえ、旅人さん」
水たまりが呼び止める。
「おいらがさっき言った理由が嘘で、本当はただ、綺麗になりたかっただけだとしたら、怒るかい?」
突風が吹いた。飛ばされそうになった帽子を旅人は掴む。顔を伏せて、深く帽子をかぶり直したまま、旅人は答えた。
「怒らないよ。どんな理由であれ、君の底が見えてるほうが、危険が少ないのは確かだ。どんなに短い時間であろうとね、危険は少ないほうがいい。だれかが悲しんでいる顔は見たくないから」
水たまりの水面が静かに揺れている。
「それに、私は私が信じたいことを信じるよ。君は他者のことを慮って透明になりたかった。それでいいんだ」
旅人は水たまりのほうを見ることなく、歩き出した。ぬかるんだ道に足を下ろし、引っこ抜く。そうやって、少しずつ進んでいく。
「ありがとう」
背後から消え入るような小さな声が、聞こえたような気がした。
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