第2話
その生物を前にしては仰ぎ見るよりほかはなかった。
小山ほどもある体躯はもちろん巨大だが、それだけではない。
万物に等しく態度を崩さぬ威風堂々としたたたずまい、野趣をたたえつつも凛とした精悍さを併せ持つ種族の垣根を悠々と超えてくる顔つき、そしてなにより鋭く射貫く眼差しの奥に蓄えられた深い学識と知性の光。
対峙する者が自ずから圧倒されざるをえない風格が自然全身より放散されている。
初めて目にするドラゴンとはそのような生物だった。
私の名前はサラサ・トネリコの新葉の八年・上ムントル・ノノノ・ザハーヴェイ。
先生からはサラサと呼ばれている。エルフの娘だ。
この首都ナツコルで装角師の手伝いを住み込みでしている。
装角はその名前の通り生える角を整えることを意味して、様々な種族が定住し、さらに交易のために訪れる都市では欠かせない職業だ。
私の先生エルンストはギルドマスターも任されている、この都市で最も腕の立つ女性職人だ。にもかかわらず、貴族から裏町の住人まで頼まれれば客は選ばない。おかげで引く手あまたの大忙しの毎日を送っている。
はずなのに、その日に限って、その腕利きの先生の店に客の影ひとつなかった。
予約はおろか、店にだれかの入ってきそうな雰囲気さえまったくない。
「まあ、こんな日もあるわよ」
先生はかつて放浪していた時の名残だという傷だらけの浅黒い顔をほころばせながら、気にもしていないように快活に笑った。
けれども私が助手として勤めだして一年ほどになるが、こんな状況は珍しい、というよりも一度たりとも経験したことがなかった。
「手持無沙汰を持て余していてもしょうがない。今日は道具の買い足しにでもいくかね」
「お出かけですか!」
自分でも現金なものだと思うけど、たちまち声が弾む。
「買い物っていったろ。これも仕事だよ」
先生は苦笑するけれども、私の胸の高まりは収まらなかった。
夏の盛りの一日、窓から眺めてみたら建物や道行く人々の影が刻み込まれるようにくっきりと地面に映されている。ぎらつく太陽は抜けるような青空のただ中で日射しをくまなく投げ掛けている。こんな日に外に出ないなんて手はない。それが先生となら最高だ。
「私、お休みの札掛けてきますね!」
先生の気が変わっては一大事だから、私は小走りで玄関の扉にまで駆け寄った。
勢いよく押し開いた扉の先には、けれども、思いもよらぬ光景が待っていた。
玄関の一歩向こうは闇だった。
室内にいてさえまぶしく思えた真昼の太陽は即座に掻き消えて、目の前は暗幕で覆われたかのように真っ暗だった。
私たちエルフはもとは奥深い森の中で、ほとんど火も使うことなく暮らしを営んでいる。そのため生来他の生物よりも夜目が利くのだが、その目を凝らしても果てが見通せなかった。
頭上も左右も際限なく奥まっている。驚いたのは足もとさえ影が迫って何も見えず、辛うじてごつごつとした感触がサンダル越しに伝わってこなければ、底の知れない大穴が口を開けていると考えただろう。
唯一の例外は前方で、わずか先にうず高い山、影に覆われているはずのこの場を照らす明かりとなっている山がそびえていた。
金銀財宝――というと陳腐だが、けれどもそうとしか形容のしようがない、形容する気にもならない膨大な量の貴金属や芸術作品が、ぞんざいに放置され、地面を覆うどころか積み重ねられきらめいていた。
「えええええーっ?!」
そう叫びをあげるのがやっとだった。
さもないと混乱で頭がどうにかなってしまいそうだった。
つい数秒前まで私たちがいたはずのナツコルの、あの建物がひしめき合う、人種と種族のるつぼと呼ばれた雑踏の光景は消え去って、暗闇の中で文字通り宝の山にとってかわられたのだから。
「ああそうか」
途方に暮れかけている私の背後で、先生が場違いなほどにのんびりとした声をあげた。
「忘れてた。今日は予約が入っていたんだよ」
「古なじみでね。何年かに一度うかがう約束になっているのさ」
手早く詰め込んだ仕事道具の入った背負い袋を肩から掛けて、先生は無造作に数々の財宝を踏みつけながら先を歩いた。
その普段と変わらない態度のおかげで、私も狼狽をそれ以上は我慢することができて、今いる場所について考える余裕が生まれた。
なにしろ周囲の財宝のために金気が鼻についてまわるが、それでもその奥に感じられる剥き出しの土の臭いと、風がなく肌にべとつく湿気は、間違いなく洞窟のそれで、私たちが地中――それもかなり奥深くにいるらしかった。
ふり返れば日頃働く店が、そのままの形で建っている。どこにも傷つけられた跡はなく、都の中央からこの地の底へ瞬時に移されたようだった。
「うかがうっていっても、こんな感じで呼びつけられるんだけどね」
説明になっていそうで説明になっていない先生の説明を聞きながら歩く。財宝の山の合い間には、ところどころで小さいが十分なまぶしさをたたえる光の球がふわふわと浮かんで、その輝きが周囲の貴金属に反射してさらに明かりの範囲を広げているのだった。
その光を頼りにまわりに目を向けてみると、同じような財宝の山が視界の限りで続いているのがわかった。
エルフの価値観ではこうした貴金属には大して重きをおかないが、それにしたって限度がある。さすがに圧倒されて、はじめのうちは隙間がないか探していたのだが、なにしろ地面全体を覆っているのだから足の踏み場もない、むしろ踏んでいくしかしようがなかった。
――呼びつけるとは心外だ。アポイントメントはとっていたはずだが?
そんな声、といっていいのだろうか、頭の中に直接語りかけてくるような響きが突如しみ込んできた。
「その予約が、ここから出たら忘れるようになってるんじゃ意味がないってことさ」
先生はまったく動じた様子もなくそう返した。顎がやや突き出し目は上を向いている。つい私もその目線に合わせてみた。
見上げる態勢のまま、顎ががくんと開いて落ち、ぺたんとその場にしりもちをついてしまった。
瞼がいっぱいに見開いて、エルフ特有の長い耳が引きつり、全身が総毛立つ。
うず高く積み上げられた財宝の山々の、そのうちでも一際大きな塊くらいにしか思っていなかった、その見上げるばかりの巨体は一個の生物だった。
幻獣ドラゴン。
それが私の眼前に存在していた。
まだ幼かった頃、祖母から聞かされた数々の言い伝え。その多くは文字として残さず私たちの種族の記憶として、口から耳へそして頭に刻まれるべき矜持の物語だったが、なかでは何度も巨大な龍が話題になって登場した。
いわく楽園であった精霊の世界からエルフを断絶した諸悪の根源、いわくこの世界を覆っていた森の大半を焼き払った仇敵、いわく歴代の王に伝えられたミスリル銀で鍛造した強弩を盗み去った卑劣なる強奪者……
語られる機会は多いが、ドワーフやトロルといった憐れむべき憎むべき存在とは異なり、姿を現すのは「むかしむかしの大昔」という決まり文句が頭につく神話の時代かその直後の列王の時代にほぼ限られていた。
人間をはじめとした他の種族と比べて長命な私たちだが、実際にドラゴンと遭遇したという話はもちろん、遠望したという目撃談すら耳にした記憶はなかった。
都にきて冒険者などと呼ばれる胡散臭い連中と交わることも多くなったが、彼らの語る眉唾な武勇伝でさえドラゴンの名を出すことは控えていた。
だれもが知っているが、だれも見たことのないおとぎ話の中だけの生き物。それがドラゴンだった。
それが今目の前にいた。
姿形はこれまでさんざん耳にしてきた言い伝えと合致している。四つ足で長い首を持ち、背中には二枚の羽。けれども、実物を見てトカゲに似ているという者はどうかしている。
宝石とも見紛う金属光沢を放つ鱗に包まれた身体や、圧倒するほどに知性を伝えてくる容貌といった外見的な相違もそうだが、とにかく驚きあきれるほどにスケールが違い過ぎるのだ。
腹這いの態勢でうずくまり、頭を中ほどまで屈めてこちらを見下ろすその態勢でさえ、私たちは首が痛くなるほどに見上げなければいけない。
――そなたの都合と重ならぬように工夫はつけているが?
「だから、それをあたしにもわかるようにしとけって話でしょ」
そのドラゴンに先生は食って掛かっていた。
財宝の小高い山のうちでも、あたりで最も盛り上がったものの頂上に立ち、両手を腰に当てている先生だが、対峙する顔は少し口を開けただけでも丸のみできてしまえそうなほどに巨大だった。
それは身も凍りつきそうな光景だったが、先生はまるで臆した様子もない。
――それはそなたらの機能面でのトラブルだな。このスペースを後にしてからのフィードバックに脳が耐えられず、認識を疎害することで辻褄を合わせておるのだ。
一方のドラゴンも鷹揚と返答を行っていた。けれども、これはどういう言語だろうか。先生が口にする人間同士の公用語ではなく、私たちのエルフの言葉でもない。まるで知らない単語が混ざっているにもかかわらず、その意味がなんとなく理解できる。耳にしたことがないのに、どのような言葉よりも理解がしやすい言語が、直接頭に語りかけられているようだった。
「あ、あのっ!」
状況をつかみかねて、私はとにかく説明を求めて声をあげてしまっていた。
ところが私の呼び掛けは、先生ばかりでなくドラゴンまでをもこちらに振り返らせた。
「え、えっと、こちらの方とは、お知り合いで……?」
巨大な眼球にもかかわらず向けられる視線はあまりにも鋭く、汗腺の少ないはずのエルフの肌からだらだらと汗がしたたるのを抑えられなかった。
「うん? ああ、そうか、いってなかったわね」
怪訝そうな表情をすぐ解いてそう告げてくる。
「さっきの古馴染みっていうのがこれよ」
薄々そうではないかと考えていた予感が的中する。
「今の街に落ち着くよりもずっと昔、あちこちうろついていた時に、ちょっとしたきっかけで知り合ってね」
先生が装角師になる前には世界を遍歴していたとは聞いていたが、けれどもドラゴンと知り合えるちょっとしたきっかけとはどんなものなのだろう。
「まさか、おっしゃってた予約って……」
――吾輩のことであるな。
私の先生、装角師エルンストは客を選ばず、貴族から裏町の住人まで頼まれれば誰にでもどこででもその腕を振るう。
それは相手がドラゴンで、その棲家の洞窟だろうとも……
いざ仕事となれば先生は相手のサイズの大小にこだわったりしない。
手近の、登りやすそうな財宝の山に目星をつけ、
「もうちょい左に身を寄せて。崩すんじゃないよ」
作業しやすいようドラゴンに指示して体勢を変えさせる。
「それで、今日はどのあたりを整えるんだい?」
すると先生の目の前に、音もなくドラゴンの首の小さな模型のような映像が浮かび上がった。両手で抱えられるほどの大きさで、細部まで正確でまったくの生き写しだった。
――鼻のあたりは近く生え変わりがあるから後ろを頼む。
驚いたことにその宙に浮かぶ映像は、先生やドラゴンの意思通りに手振りで角度を変えて回転させて全方位を観察することができるようだった。
ずいと首を伸ばして、ほとんど身を寄せ合うばかりになって二人――一人と一体は入念に手筈を検討し合っていた。
なにしろ、ドラゴンの頭には角が多い。鼻の頭に大きく突き出した一本とその周辺に複数と、後頭部からは私や先生の胴回りを優に超える太さの見事な左右一対が生えていてさらに何本も短い――といってもそれも私たちの身長以上ある――角が連なっている。
それらを細かく、どれに手を入れて、どのように仕上げるのかを相談していた。その会話の様子は、まったくいつもの、都での客と対峙する姿と変わりなかった。
そしてそれが決まると、いよいよ作業がはじまる。ドラゴンには顎まで地面につけて寝そべってもらう。それでも角の生えている額あたりは、ちょっとした建物の二階相当の高さがある。
なので先生はあらかじめ指定していた財宝の山を足掛かりにして、ドラゴンの頭へと移ったのだった。そのやり方には遠慮も会釈もなく、どこだろうとおかまいなしに踏みしめていくものだから、私は絶えずはらはらのし通しだった。
特に瞼のあたりで、内側の眼球にすら気にかけず足を下ろそうとした時には、喉の奥からつい息を飲む声が洩れてしまったほどだった。
――心配には及ばぬ、装角師のアシストよ。
それが聞こえたのだろう。ドラゴンは私にそう声をかけてきた。
――角のコーディネートは吾輩のオーダーによるプロセスで、彼の者はそのために持てるスキルを万全に使用できるよう努めていることは承知している。それ故に、吾輩の顔をいかに足蹴にしようとも、それに憤慨するようなハプニングは起こり得ぬよ。
噛んで含めるような説明が頭の中に響くと、貫禄はあるものの不思議と私の気持ちは落ち着いていった。
「なに? あんたそんなこと心配してたの? あきれた!」
それが先生にも届いたらしく、頭の上から道具を取り出しながらそう大きな声を張り上げた。
「そもそも生物が違うんだから、こっちがいくら気を使ったって怒る時は怒るでしょ! だいたい、こいつがその気になれば、あたしたちは次の瞬間にはぼっと噴き出した火で黒焦げになっちゃってるんだから! だったらあたしたちが考えることは、いかに自分の仕事を完璧にこなすかってことだけでしょ!」
それは確かにその通りかもしれなかった。勝手に委縮して仕事の手が緩んで、それで相手の機嫌を損ねてしまっては本末転倒だ。
「はい!」
それと同時に、先生は普段通りを貫くことで、ガチガチに固まってしまっている私の緊張をほぐそうとしてくれていることもうかがえた。だから私もありったけの声で返事をして、
「わかりました! 私も精一杯お手伝いします!」
自分のすべきことをたずねた。
「よし! じゃあ、そいつの話し相手をお願い!」
けれども、それにはあまりにも想定外の答えが返ってきた。
「はい?」
「そいつ好奇心強いのよ! 仕事中にもなにかっていうと話しかけてきてさ! あたしはこっちで手一杯だから、その間相手しといてよ!」
聞き間違えという一縷の望みを託したものの、返ってきたのはより具体的になった答えだった。
先生はいくつもの道具を、ホルスター一体型の特製エプロンに携えていた。普段から仕事場に飾られていた特に大きなノミや鉈、ノコギリに手斧で、一体何のために使うのだろうと不思議に思っていたのだったがようやく合点がいった。
けれども、私の今置かれた状況には納得しがたい。
「せ、先生みたいな経験のない私では荷が重すぎますよ!」
「あんた、あたしよりずっと年上でしょうが!」
実際、エルフの私は、先生の倍以上の年月を生きている。
「それはそうですけど、ずっと森に暮らした私と旅をくり返してきた先生とでは、時間の過ごし方の厚みが……」
――然様なことはないぞ。
ところが私の抗いにドラゴンが割って入ってきた。
――あらゆる個体の持つその経験は等しく尊い。
そう言われてしまっては、更なる反駁の余地は私には残されていなかった。
「え、ええと、そうしましたら、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか。陛下でしょうか、猊下でしょうか」
――そのようなアタッチメントは煩わしいだけだ。呼ぶのなら名前で結構。
「それでしたら、お名前は?」
――今はゾディアラムダスとなっておるな。
そんな謎めいた名乗りをあげる。
「今は、というのは、どのように理解すればよろしいでしょうか……」
すると唐突に口を閉ざした。声を聞いているのも恐ろしかったが、沈黙もまた恐怖だった。
なにか機嫌を損ねたのかと身を固くしていると、しばらくして、
――敢えていうならば、そなた達とシンクロしているこの時間とこの場ということだな。例えば、そなたは名前をなんという?
「サラサ・トネリコの新葉の八年・上ムントル・ノノノ・ザハーヴェイですが……」
――うむ。それと同じことで、吾輩は今はゾディアラムダスである。いか
「私の名前は今も昔も変わりませんが……」
――そうであるな。そなたの今は然様であろう。なので吾輩の今もゾディアラムダスである。
なにが、なので、なのかさっぱりだったが、あまりこだわるのも得策とは思えなかった。
「えっと、それでは、どのようなお話がお望みでしょう……」
――如何様な事象でもかまわぬ。
「それは、ちょっと、あまりにも」
あまりにも漠然とし過ぎていて取っ掛かりがなさすぎる。
――然様か。ならば彼の者とのなれそめを端緒としてみれば如何か?
「なれそめ、ですか」
先生と出会った経緯や弟子入りの理由という意味なのはもちろんわかるけれども、つい照れが先に立ってしまう。
――何か差し障りがあるかな?
私の逡巡を感じ取ってだろう、そうたずねてくる。
「い、いえ! ただ、ゾディアラムダス様は先生のこともご存知ですし、だとしましたら重複する部分も多い退屈な話になるのではと思いまして」
――杞憂である。
私のうろたえた発言に、自然にそうつなげてきた。
――そなたのパーソナルライブラリィはそなただけのものだ。物自体へのアプローチにおけるフィードバックは、吾輩が如何にシミュレートしようとも机上の演算の域は脱しきれない。仮に我がシミュレーションがそなたの表-現と合致したとしても、その合致を吾輩が体験できることは大いに意義深いのだ。
ゾディアラムダスの言葉の全てを理解できたわけではなかったが、こうなれば辞去する道は残されていなかった。
私は覚悟を決めて、ご要望の、先生との出会いと装角師の助手として過ごしてきた過去についてを語ることにした。
なにしろドラゴンの前で身の上話をするのは初めてだから、はじめはもう無我夢中で、脈絡もなにもなく大変な早口で、そうかと思えばひどく言葉に詰まり、我ながらひどいものだった。それでも、しどろもどろながら続けるうちに、ある時からとても落ち着いて進められるようになり、気がついてみればずいぶんと気持ちよく過去を口にしていたのだった。
傍らのゾディアラムダスの圧倒的な存在感はもちろん薄れるわけではなかったが、それ以上にこのドラゴンは、語り手が話しやすい空間を演出する手管に長けていた。
態勢は微動だにさせず巨体を壁か装飾であるように徹し、あの巨大な口の一体どこからと不思議になるほどに小さく穏やかな声で、ここぞというところで相槌を打ち、私が話の接ぎ穂を失ったり、明らかに脱線をして元の話題に戻れなくなったりしていると、一言二言適当な質問をはさんで軌道修正の手助けをしてくれた。
先生と出会って装角の技に直面して驚き魅せられ押しかけ弟子として工房兼住居に居座り現在にいたるまで、感覚的にはあっという間で、実際にもこれはその通りだと思うのだが、一旦口火を切ってみればひとつの思い出は次の思い出を、どころか無数の枝葉を伸ばして際限なく、合い間合い間に休憩を入れながらも、それでもしばらく口と頭を休めると、やがて自らまた率先して話しはじめてしまっていた。
洞窟と思われるゾディアラムダスの横たわるこの空間の広さは想像を超えて、話を続ける私の声も遥か闇の向こうに吸い込まれて消えてゆくばかりで、床以外は一切反響する気配もない。
おかげで、時折、どうしようもない孤独感に苛まれそうになるが、それを救ってくれるのは先生が絶え間なく振るう道具の音だった。
木槌がノミに打ちつけられるとその先端が更に硬質の角にかろうじて食い込む。ノコギリは引いて返すたびに次第に内側へと分け入ってゆく。手斧が大胆に表面を削り目的の形状に向けた輪郭を整える。
ゾディアラムダスの頭上の作業のため私からは死角に入っているが、見えなくたって音を聞けば想像はつく。
一定のリズムで、迷いや躊躇いなく、正確にくり出される金属質の音色は、最高の伴奏だった。
音だけでなく、視覚でも先生の存在は感じられた。
目の前に壁のようにそびえるドラゴンの顔。口からのぞく私の身長ほどもありそうな長く切っ先鋭い牙、黄金に輝く虹彩の内で縦長の亀裂のようにそこだけはあらゆる光を反射せずに万物を見通しそうな縦長の瞳。それらが私の内の本能的な恐怖を定期的に呼び起こそうとしてくるので、やや眼差しを逸らせて、視界にゾディアラムダスが入らない部分を空けておいた。
そこに時折きらきらと飛び散る剥片が舞い込んでくる。
のこぎりややすりをかけて鱗粉のような微細なかけらが、洞窟内のあちこちで宙に浮かびあたりへ橙色の光を投げかける球体――それがどのようにして発光して、どういう理屈で浮いているのか私には見当もつかない――の明かりに照らされて様々な色にきらめかせているのだった。
それらは間違いなく先生の作業の証でもあった。
ところが、このドラゴンの身体の一部は、しばらく時が経つと姿を消すのだった。
飛び散って光の届かぬ範囲に出てしまうというわけではない。跡形もなく失せてしまうのだ。
実際に私は、すぐ傍らに落ちてきた、大胆にノコギリで切り落とした角の一部が消えてゆくのを目にした。
私が生まれ育った森の片隅には石柱化した木々が立ち並ぶ地域があったが、その年輪すら備えた巌にも似た角の断片が、次第に色を薄れさせてゆき、やがて全体が透けてなくなってしまう。視認できなくなるというのではなく、質量が喪失してこの世から溶けてなくなってしまうかのようだった。
――それほどに珍しいものかな?
私がついそちらに目を奪われていると、頭上からそんな質問が降ってきた。
「は、はい」
鳥や魚には、飛ぶうちに、泳ぐうちに寿命を迎えて、風や波の合間に姿を消す種がいると聞いたことはあるが、その実例を、まさかこんな巨大なドラゴンで目にしようとはまったく思ってもみなかった。
――しかし、これだけの大きな肉体だ。生命活動を止めた折には、腐敗するより消え失せた方が害が薄いゆえ、合理的ともいえるな。
ゾディアラムダスはさらりと言うが、この強大な肉体が死を迎えるというのは、まるで想像もつかなかった。
――吾輩とて生物ゆえ、世の摂理からは逃れられんよ。寿命はおそらくある。いずれ間違いなくこの身は息絶える。それまではこの自らの意思で生きていたいと思う。ところが、本能がそれを邪魔する。吾輩もこの体を動かす本能の作用からは逃れ得ぬ。
「本能といいますと、食事とか……」
たちまち、私など一飲みどころか一息で吸い込めそうな口がさらに意識され、自らの発言を後悔した。
――そう警戒するな。吾輩に食事を摂る習慣はない。
だがその声には笑いが含まれていて、どこまで鵜呑みにしてよいものか判断がつかない。
――それよりも、吾輩が疎ましく思うのは、これよ。
そういうなりゾディアラムダスは自らの尾を一振りした。
腹這いの態勢に平行になるように丸められていたものを、いかにもぞんざいに床に滑らせるようにまっすぐにするだけで、私からは非常に緩慢な動きに見えた。
けれども、たちまちその軌道上にあったうず高く積まれていた金銀財宝の山々が、麓から根こそぎに薙ぎ払われて、爆発を起こすように打ち上げられてゆく。
――この場を埋めるオブジェクト、ここに一度でも持ち運ばれるなり吾が所有物として認識される、誰に見せるでもなく、ましてや交易など考えてもおらぬ身としては無用の長物で、実際煩わしいばかりの邪魔物よ。
巻き起こった突風が吹きつけてきてあやうく足をすくわれそうになる。何気ない一撃ではあったが、計算はしっかりされていたらしく、宙を舞った財宝は私の周囲には降り注いではこなかった。
時代や国、王朝を問わない金貨、大小を問わない色とりどりの宝石のちりばめられた指輪にネックレスにティアラ、イヤリング、ブレスレットといった装身具、食器、燭台といった調度品、剣に槍に鎧に楯、そして馬具など儀礼用と思しい品々が無数に落ちてくる。しかもこれはゾディアラムダスの尾が届く範囲だけの、全体からすれば取るに足らない量でしかない。
――にもかかわらず、そのうっとうしいだけのオブジェクトのはずが、いざこの場より持ち出されると矢も楯もたまらなくなり取り戻さねばおかれなくなる。困ったことに、たとえ金貨の一枚でも我慢ができん。
財宝の落下がやみ静かにそう言葉を接ぐ。
たった一枚の金貨でドラゴンに追いかけられる方は困ったどころの話ではないだろう。
――その間はほかのことはまったく目にも入らん。とにかく最も早く、最も効率的に取り返すことだけで頭がいっぱいになって、声をかけることはもちろん、返答を待ったりその者が懐を探る時間さえ惜しく思えてくる。
ゾディアラムダスの口調は淡々としているが、だからこそその豹変を想像するとなおのこと恐ろしさが募る。
――そうして取り戻してこの場に至ると、ようやく飢えにも似た不満が治まるのだが、さてそうなってみると、吾輩は何故にこのようなものにそれほどの執着を持たねばならなかったのか、些かなりともロジックを立てられなくなる。これがまったく吾が身の生き物としての本能なのであろう。
そして同時にどうしようもない悲哀も混じっているように聞こえた。
――装角師よ。そなたなら、吾輩のこの衝動をどのように見る?
ゾディアラムダスは、尾を振るった時も、財宝が降る中も、まるで反応を見せず、ただ黙々と自身の作業を続けていた先生に、不意に質問の矛先を向ける。
「意地汚い」
しかし先生は、間髪を置かずにべもなくばっさり切り捨てた。
途中で何度かの休憩をはさみ、私もようやくドラゴンの気性が少しはつかめてきたので、後半は話し相手をしながらも先生の手伝いにも動けるようになってきた。
すると、なるほど、先生の言った通り、ゾディアラムダスの口数は多かった。
――ふむ、次は何をする?
何か行動しようとするたびにたずねてくるばかりか、
――それは如何なるツールで、どのようなファンクションを持つ?
知らないはずがない道具の名前や使用法に、さらには目の前で私が先生から言われていたのを知っている指示さえ聞き返してくるのには閉口させられた。
――許せよ。そなたの表-現を得たいのだ。
だが、そうやって口を挟まれた方が、不思議と作業ははかどるのだった。
やがて質問攻めもおさまり、途切れ途切れで続けていた私と先生についての話のタネも尽きかけたところで、指定の範囲の装角を終えた。
――相変わらず見事なテクニックだ。
まだ消え切っていない舞い散った角の欠片などの片づけを行っているとゾディアラムダスがつぶやいた。少なからず満足げな様子が言葉に含まれていたのは、私の贔屓ばかりではないと思う。
「お気にめしたのならなによりよ」
目の位置から考えて明らかに視界の範囲外の角も多かったはずだが、おそらくは正確に把握しているのだろう。
――いいや、本当に感謝しておる。
寝そべった体勢から解放され、首を上げて晴れ晴れしているようでもあった。
――そこでそなたらには是非とも返礼の品を受け取ってほしい。この場にあるどのような物であっても一つ、それぞれ自由に持ち帰ることを許そう。
その破格の報酬に、思わず私は目を丸くしてしまった。
いくら世に疎いとはいっても、この場を覆い尽くす財宝のうちには、単純な貴金属的な価値ばかりでなく、それどころか歴史的な価値を遥かに含んでいるものがあるのはわかっている。それを、なんでも一つ、もらえるというのだ。
私は思わず身を屈め、ぐるぐると首をまわして、周囲の品々の観察をはじめていた。
だが、そうして逸る気持ちを抑えきれずにいる私の肩を、先生の手がぽんと軽くたたいた。
それはいかにも気軽で、いつもの店にいる時と変わらない感触だったから、かえって自分のはしたない変容ぶりに気づかされた。
そして私が恥じらいや自己嫌悪を覚える前に、先生は隣を抜けて細身の体で堂々と足音を刻みながらゾディアラムダスの眼前に歩み出ると、
「寛大なおはからい、感謝の念に堪えません。では不躾ながら申し上げます。わたくしの望みはこの身一つにございます」
おもむろに片膝を床につけ、首を垂れてそう伝えたのだった。
――なんと殊勝な心掛けだ。よかろう、身に着ける衣およびこの場に持ち込んだ仕事のための諸品もそなたの所有として許そう。
「身に余る御下賜をたまわり恐悦至極に存じます」
それまでの言葉遣いや態度と打って変わり恭順を示す先生の姿にも驚いたが、耳にしたやりとりには血の気が一斉にひいた。
危ないところだった。
もしあのままのんきにも財宝を求めていたりしたら……
ゾディアラムダスとの会話で伝えられていたのだ。この空間に入ったものは全て彼の所有物となり、たとえ金貨一枚でも無断で持ち出すことは許さないと。それは、先生や私もその規則から例外ではないという意味だったのだ。
――そう睨むな。これも生物的な本能のひとつなのだ。
自分でも気づかぬうちに非難がましい目つきで巨体を見上げていた。けれども、それを指摘されても改める気にもならなかった。
「ずいぶんと都合のいい本能もあったもんですね」
先生のおかげで助かったという安堵もあったが、それ以上にこのやり口が気に入らなかった。
あれだけここに集められた品々には興味がないというような口ぶりをしておいて、結局は惜しくてしかたがないのだ。だからさんざん気だけもたせておいて、かんたんに取り上げてしまう。結局は強者がその権威をかさにきて、弱者を一方的に搾取しているだけじゃないか。
ドラゴンという特別な存在にもかかわらず、ある意味では他の生物と変わらぬ性情を見せつけられた気分で幻滅を感じずにはいられなかった。
私はばかばかしくなって、さっさとこの無意味な儀礼を終わらせてしまうことにした。
投げやりにひざまずき、両手を組んで先ほど先生が述べた口上をくり返す。
「私の望みはこの身……」
――そなたはそのような遠慮は無用だぞ。
ところが、それを遮るようにゾディアラムダスが伝えてきた。
「はい?」
――そなたのオーナーは装角師であろう。であるから、そなたの体と身に着けるオブジェクトは既に吾輩の所有ではない。
かっと血が上ってくるのを感じた。
ノコギリや槌並みに扱われ、私自身が独立した存在として見なされていないことに憤りがないではなかったが、それよりも遥かに先生の所有物とみなされたことの方がうれしかった。
「本当ですか?!」
だから、つい声が弾んでしまうのが自分でもわかった。現金なもので、この一言で、先ほどまでのドラゴンの性根の悪さへの苛立ちは消し飛んでしまっていた。
――無論だ。
「あんまり重くないものにしときなさいよ」
ゾディアラムダスも先生も言葉に笑いが含まれていた。もしかしたら私が物をもらえることを喜んでいると思われているのかもしれなかったが、それをどう否定していいものかわからなかった。
私の目が再び周囲を駆けまわる。一度おあずけを食ったものだから、より素早く、より念入りになっているのが自分でもわかるが止められない。
神話の時代にエルフの国から持ち去られたというミスリル銀製の弓か、あらゆる大陸を統べたという無貌の王の所持していた王笏か、この世の半分を覆っていたという大樹の種子を封じたというオーブか。どれひとつとっても実在が確認されれば世界が震撼するおとぎ話や言い伝えで語られてきた品々だったが、不思議とここにならばあるという確信があった。
頭の中が高速で渦を巻いて、秘宝がひとつひとつ比較検討されていく。
何にしよう。何にすべきか。
ところが考えがそこにまで至った時だった。はたとゾディアラムダスという超越者の好意にすがってあれもこれもと求める時分の姿と、作業中に先生のつぶやいた「意地汚い」という言葉がかぶさってしまった。
自らの本能といって周りにはべらせた財宝を手放そうとしないゾディアラムダスと、それに擦り寄って利益を得ようとしている自分と、先生の目から見たらどちらが意地汚いだろう。
「あのう……、ひとつ聞いてもいいですか……?」
そして私は自分でもわかるほどに顔を真っ赤にさせながら、おずおずとゾディアラムダスに質問したのだった。
しばらくして、私の願いも聞き届けられ、装角用の道具をまとめて、あとは立ち去るだけということになった。
「それじゃあ、これからもくれぐれもご贔屓に」
――うむ。そうだな、次は四旬後にまたアポイントメントをいれておこう。
「覚えておけたら覚えておくわ」
――安心せよ。吾輩が忘れぬよ。
苦笑しつつ先生はひらひらと上げた右手を軽く振りつつ、背を見せて歩きだした。
私もあわてて小走りでその隣に駆けつける。
「とまあ、こういうことよ」
「え?」
なんのことをいっているのだか皆目見当もつかない。
「あたしが、あいつからもらっている報酬」
「え?」
その説明がますます不可解で、私はもう一度同じ言葉をくり返すしかなかった。
「あのねえ、あのドラゴンが四旬後――四年後に再会することを請け負ってくれたのよ。つまり、少なくともその期間は、今みたいな仕事を続けられるだけの頭と技量と、なにより寿命が保証されるってことじゃない」
あっ、と私が声をあげようとした時には、見慣れた店の玄関が目の前に迫っていた。
なんだか今日は瞬く間に過ぎ去ってしまった。
折角の快晴の夏の日だったというのに、この首都ナツコルを代表する装角師エルンスト先生を頼む予約も来客もゼロ、だからといって特に外出するわけでもなく気がついたら夜になってしまっていた。
「まあ、こんな日もあるわよ」
ようやく暗くなってきた店内で、これまで使っている場面に一度もでくわしたことのない巨大な手斧や鉈の手入れを終えた先生は笑いながらそういっていたものの、なんだか釈然としない。
今日はもっといろいろなことが起こっていなかったら辻褄が合わないような気がするのだ。
われながらおかしな感覚だから先生に相談することもできない。かたづかない気持ちを抱えながら、夕飯――今日は先生がミルク粥を作ってくれた――を終えて四階の自室に戻った。
ベッドといくつか調度が配置されているだけのシンプルな部屋だけれども、その一角だけはちょっと違う、私の自慢のコーナーだ。
サイドチェストの上に並べたり鋲を使って壁に掛けたりして、お客さんからもらったねぎらいの品々を飾っている。
それぞれに思い出があり、目にするだけで各々の情景が浮かんでくる。
特にお気に入りは壁に掛けている大きな鱗だ。私の顔ほどもある巨大なもので、くすみのない光沢が鏡のように表情を映してくれる。よく見れば薄く年輪が刻まれていて、それが光を複雑に反射させて常に変化する虹色の輝きをたたえている。
紙のように薄いのに強度はとても高く、くるりとかんたんに巻くことはできても私の力では折り畳むどころか丸めた型をつけることさえできない。
一体どんな生き物が身にしていたものなのだろう。
これに限っては、いつからあるのかどうして手に入れたのか思い出せないが、これを目にすると私はこの世界の広大さに思いを馳せずにはいられないのだ。
その薄片を窓に向けると、夜になっても尚ともる首都の明かりが透けて映る。それを眺めていると、まるでそのひとつひとつが異なる宝石のように思えてくるのだった。
装角師とその弟子 山本楽志 @ga1k0t2
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