水鏡

 こんなベランダでも、月が見えるんだよと指さす彼女が好きだった。

 寄り添うようにぴったりくっつく都会のマンションのベランダの、室外機の上に置かれたバケツのなかに、ゆらゆらと白い光が浮かんでいる。

「風流でしょう?」

 ネコのように笑って彼女はよく、明日は一限がないからと、夜更かしをそそのかした。シーツに肘をつきながら、頬をゆるめて月を愛でる彼女に、雑に染められたまだらな髪がそぐわなくって、笑ってしまったのはもう昔だ。


 親がきびしい、とは聞いていた。大学にいかず、就職するように強要されたとも聞いていた。けど、仮にも真面目な大学生だった彼女を、いきなり地元に連れ帰るなんて、保護者であっても許されることではない。

 夏休みが明けて、実家から帰ってきたぼくを迎えたのは、彼女が退学したという事実だった。ぼくはあわてて彼女を探しまわって、一度だけ聞いた彼女の地元にも行ってみたけど、手がかりはどこにもない。

 それでも諦められなくって、しつこく探してようやく二年後、彼女の実家までたどり着いた。何度も鳴らしたインターフォンに、ようやく出てきたのは神経質そうな中年女性だった。

 何の用? といぶかしむ女性につかみかかる勢いで、ぼくは彼女の安否をたずねた。

「病院よ」

 女性は淡々と告げた。

「頭のね。オカシイの、あの子。病気だから、入院しているの」

「病気なのはお前たちだ!」

 ぼくはつい、語尾を荒げた。目の前の女性が何を言っているのか、まったく理解できない。彼女が本当に病院にいるのかもあやしい。もう一度問い詰めようとしたぼくを、女性は冷めた目で見つめる。

「あの子、大学生じゃないわよ」


 たしかに、学生証を見せてもらったことはない。でも、出会ったのはお昼の学食だし、構内の扉の建て付けの悪さも知っていて、他の学部に友達だっていた。

 そんなこと、あり得ない。

 ぼくが反論しても、女性は顔を曇らせるばかりで表情を崩さない。

「そうやって、うちも崩壊してったの」

 女性は固い声で言った。

「事実無根の不貞も、記憶にない発言も、やった覚えのない非行も、あの子は簡単に言葉にできるの。いいえ、あの子はそれを本当にしてしまう。自分の中で本当にして、本当だと心からそう言ってしまう」

 女性は、彼女に進学をあきらめるよう言ったこともなければ、連れ戻した事実もないといった。

「病院から電話がかかってきたの。自分から、入院を決めたそうよ。わたしは何ひとつ、知らないの」

 そんなこと、口ではなんとでも言える。ぼくが食い下がると、女性はさばかれる前の七面鳥を見るような目をした。

「あの子、実家がこの地域だって、言ってた?」


 彼女からもらっていた合鍵を差し込むと、部屋は簡単に開いた。

 一切のものが運び出された部屋が、まだ空室で、カギもそのままだったのは幸運だった。電気のつかない部屋を、ぼくは靴下で踏みしめる。

 大学に、彼女の籍はなかった。

 言っていた地元も本当の地元とは真逆の土地で、あの髪だって、地毛だった。アルバムの中の彼女は、制服姿でよく知る笑みを浮かべていた。

 ひんやりとしたフローリングを踏みしめ、ベッドのあった窓辺からベランダを見る。室外機のうえには忘れ去られたバケツがあって、今日も白い月がうかんでいる。

 ぼくは窓をあけて、その月に手を伸ばした。水面がゆれ、月が歪む。視線を上げると真っ白な街灯が、まるで月みたいな顔をして、つんと黙りこくっている。

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