勿忘草

 地面に座り込んでいるジジイのこめかみには、花ような切り傷があった。

 俺の店の白い壁に向かって、ボロボロの着物のジジイは、何が楽しいのか笑みを浮かべながら、にらみつける俺に気づくことなく、繰り返しペンを走らせている。

「なに書いてんだよ」

 一向に気づかない小さな背中に焦れて、俺はつい声を荒げる。ぴたりと手を止めたヤツは、どんぐりみたいな目をパチパチと瞬いて、ニヤっと笑う。

「愛の言葉さね」


 男は近所でも有名な落書きジジイだった。一心不乱に何かを書きつける姿がどうにも不気味で気味悪がられていたけれど、インクの出ないペンで書き殴られては、憲兵もとっ捕まえに来てくれない。

 だからって、気分のいいもんじゃねぇな。

 俺一人で細々やってる文具屋の、自慢の白壁の前に座り込む背中を見ながら、ついため息をつく。すると、男が急に振り返った。そして宙に漂う綿毛をつかむようなしぐさをする。

「なにしてんだ?」

 ジジイはにぎった手を反対の手のひらに押し付けて、それから筒にした手の中に、鋭く短く息を吹いた。

「おまえのこぼした幸運を、もらってるのさ」

 下手くそなウインクをかましてきた姿に、なんだか気が遠くなる。


「誰あてなんだよ」

 五日経ってもまだ立ち退かないジジイのとなりに、俺は観念してしゃがんだ。

「この言葉、誰への愛の言葉なんだ?」

 ジジイはむぐむぐ口を動かしてから、ふいと視線をそらした。

「知らん」

 壁をなでてた指を止める。

「昔のことは、もう知らん」

 生まれた場所も、家族の顔も、自分の名前すら、もう覚えていないと男は言った。

「けど、これだけは、覚えとる」

 視線を空に向け、男は力強く言った。

「これを書くと、胸が温かくなる。うれしいと、ああ幸せだと思う。だから書く」

 男は再び筆を走らせ始める。白壁の上をなめらかにすべるペン先を、俺は見つめる。


 次の日は雨が降った。その次の日、男はもういなかった。朝露できらきらひかる壁を、俺は見上げる。魔法使いにしか見えないインクで壁いっぱいに書かれていたのは、逆さまの忘却呪文だった。

 末恐ろしいな。

 この呪文が得意だった魔法使いの後ろ姿を思い出す。反転された呪文は、書くたびに男の記憶に刻み込まれる。わざと逆に教えたのか、それとも偶然が引き起こした奇跡か。

 思わず漏れそうになったため息を、あわててしっかり飲み込んだ。

「ざんねん。横取りのチャンスだったのに」

 からっぽの手のひらをひらひら振ってニヤリと笑うかつての友の姿と、その恋人だった男の、こめかみの傷の形をうっかり思い出す。

 だから、人間なんかに手を出すなって言ったのに。

 幸せそうな男の顔を思い出しながら、俺はひとつ指を鳴らして文字を消す。

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