第十一話 拗れた夫婦
「僕の言いたいことは察しているのだろう?」
アーロンがダイニングルームから小さなイスと机を拝借している間、オズワルドが玄関から酒の入った紙袋を回収する。ちょうど階段付近で合流し、二人とも無言のまま二階へあがった。そして数歩歩いた後、ようやく発せられた言葉がこれだ。
内容を告げるのではなく察しているだろうと切り出してくるあたり、さすがは兄様だと口元が緩む。
「その点はすまなかった。反省している。――が、俺からも言いたいことがある」
「お前が?」
左手に机を持ち、右肩に重ねた椅子を五脚担いでいるため少々窮屈だ。どうせ長話になる。アーロンはそれらを一旦窓際に置くと、一息吐いて壁に寄り掛かった。
「先程マリアベル殿から聞いたのだが、兄様には大切な人が他にいて、自分は仮初の妻らしいのだが、それは本当か?」
「――ッ、そ、それは違う! 僕はマリアベルを心の底から大切に思っている。彼女以外を妻にすることなど考えられない。ただ……」
オズワルドはバツが悪そうに視線を落とした。
慌てる兄の姿を見たのは実に幼少期ぶりだ。あの時は、なんだったか。
常に表情の変わらない兄をどうにか驚かせたくて色々手を尽くしたが悉く失敗。お前の考えなど手に取るようにわかると言われたことにへそを曲げて、抱き着きながら一緒に川へ落ちたのだったか。
それでも兄の表情は変わらず、こんなに近くにいるのになぜか遠い存在のような気がして泣きそうになっていたら、彼の服に偶然小魚が迷い込みビックリするやらくすぐったいやらで「取ってくれ!」と胸倉を掴まれた。あの時の兄の顔は今でも忘れられない。良い思い出だ。
そう考えると随分――人間らしくなられたものだ。
アーロンは少しだけ悔しい思いを抱えつつ、うん、と頷いた。彼の反応を見るに、どうやら予想は当たっていたようだ。
「やはりな。兄様は変なところで素直だから、どうせМの君の話をしたんだろう」
「聞きたいと言われたから話したんだ。……だが、遅かれ早かれ伝えることにはなっただろう。隠し事は好きじゃない」
「はは。相変わらずだな、兄様は」
人はどうしても自分に都合の悪い事実は隠したくなる。しかし、オズワルドは人の感情、しいては人そのものに無頓着だ。素直といえば聞こえはいいが、感情の駆け引きが一切できぬ不器用な人なのである。手紙の差出主すら深く知ろうとすら思わず、ただ彼女への感謝だけを事実としてここまでやってきた。
対するマリアベルも自分が愛されるはずがないという強固な劣等感を抱えているため、たとえ過去王太子殿下の婚約者候補だったとしても自分だけは違うと瞬時にその可能性から除外してしまっていた。――ゆえの擦れ違い。
なんて面倒くさい夫婦だ。
お互い強く相手を思いあっているのに、その思いは一枚の分厚い壁に阻まれている。これはオズワルドの実弟として見過ごすわけにはいかない。兄の幸せのため、一肌くらい容易く脱ごう。
なんといっても武の誉れ高いエルズワース家の現当主。壁を破壊するのは大得意である。
「まったく、エレマンたちがいてどうしてこう面倒な事態になっているんだ。精霊たちの考えなど凡夫である俺には分からんが……なあ、兄様」
アーロンは後頭部をがりがり掻くと、大きくため息を吐いた。
「結論から言うが、そのМの君はマリアベル殿のことだぞ?」
「は?」
オズワルドに迂遠な言い回しは逆効果である。素直に事実のみを伝えてみたが、彼の反応は実に淡泊だった。おや、と首をひねる。
「世迷い事を。殿下は超がつくほど顔の美醜に執着している。僕なんて何度嫌味を言われたことか。天は二物を与えずとはいうが、さすがにその姿は可哀想になるな、だと。幻術も見抜けん男がよくもまあ」
「兄様はどうして、こと人間関係となると知能指数が極端に下がるのだろうな」
「お前僕を馬鹿扱いするつもりか」
「兄様は馬鹿ではないよ」
たまに馬鹿だなぁと思う事はあるが、という台詞はさすがに飲み込んだ。ただでさえ拗れに拗れている現状。ふてくされて話が進まなくなっては困る。
アーロンは少し悩んで、よし、と手を叩いた。
「まず時系列を整理しよう。マリアベル殿はその類稀なる美しさゆえ幼少期から王太子殿下の婚約者としてほぼ内定していた。しかし、何らかの事故でその顔を負傷。それ以来、婚約は解消され家の中に引きこもるようになったと聞いている」
「マリア、ベルが……殿下の……?」
「そうだ。そして、兄様が魔道具を弄り出したころ、殿下の婚約者として内定していたのは彼女だ」
「――――ッ!!」
今のオズワルドの表情をたとえるなら、頭上からいきなりタライが落ちてきて何が起こったかもわからず困惑している顔、だろうか。さすがに初めて見る。
指から力が失われ、重力にのっとってずるりと紙袋が滑り落ちた。
「うおっと! 兄様、せっかくの酒が割れ……――ん?」
間一髪。地面につくすれすれの位置でなんとかキャッチに成功する。危なかった。なんといっても兄の結婚祝いだ。奮発して年代ものを取り寄せたというのに、一滴も飲まずにさようならは勘弁願いたい。――アーロンは勢いよく顔を上げ、しかし兄の顔を見るなり驚いたように目を瞬かせた。
耳の付け根まで真っ赤にし、瞬きすら出来ずに固まっている。普段は不機嫌そうに真一文字に閉じた唇も、今は呆けたように小さくあいていた。目の前で手を振ってみるが一切反応がない。あまりに隙だらけだ。一体どうしてしまったのか。
「兄様?」
「あ―――!! 一足遅かった――!」
突如突風が吹き荒れ、駆け込むようにヴィントが姿を現した。
「もー、アーロン様のアホ! なんてことしてくれたんや! 俺と閣下の苦労が一瞬で水の泡!!」
ぼかすか胸を叩かれるが、厚い胸筋に覆われた身体は一切のダメージを受けない。アーロンはなんとかヴィントをなだめすかし、どういうことかと尋ねる。
「どうもこうも見ての通りやん。マリアちゃんへの好感度にМの君の好感度が上乗せされ一瞬で天井付き破ったんやろ。固まってしまっとる。しばらく使いものにならへんやろ。うぅ、坊ちゃんには自ら気付いてほしかったって閣下も言うとったのに……」
「あー……悪いが、弟の立場から言わせてもらうと、多分一生気付かないぞ」
「いやいやいくら坊ちゃんでも……ない、よな……?」
今までずっと傍らで支え続けていたのなら分かるはず。
Mの君は過去の偶像。麗しい思い出だ。オズワルドは過去を振り返らない。マリアベルという愛おしい女性を妻として迎えた以上、Mの君の素性を今更探ろうとはしないだろう。目の前にいるマリアベルがすべて。兄オズワルドとはそういう人だ。
垂直になりそうなほど首をかしげるヴィント。
悩むな従者。答えは出ている。
「せやかて、この状態の坊ちゃんをマリアちゃんの前に出すんはヤバイやろ」
「……その件に関しては本当にすまん。確かにマリアベル殿の来歴を鑑みると、今の兄様の態度はかなり問題があるな。絶対顔を逸らすだろうし、近寄るのすら難しそうだ」
「こうなったらガツンと一発ええの食らわして記憶の混濁を狙うしか……!」
「待て待て待て! 落ち着けヴィンちゃん! さすがにそれはマズイ!」
ヴィントの周囲にただならぬ風が漂い始めたので、両脇に腕を突っ込んで制止する。いくら緊急事態とはいえ、主を攻撃しようとする精霊がいるか。アーロンは未だ暴れるヴィントを力づくで抑え込み「もっと簡単な解決方法がある!」と叫んだ。
「簡単?」
「このような強硬手段に出ずとも、Мの君から貰ったという手紙を出せば万事解決だろう? 自分が言っていた最愛の人はこの手紙の差出主だと兄様が主張すればいい。幼少期の手紙を後生大事に持っているんだ。嘘だとは思わんだろう」
「うーん、それが出来れば万々歳なんやけど」
「まさかなくしたのか!?」
「そんなわけないだろう!」
今まで固まっていたオズワルドが、突然会話に割り込んできた。
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