第十話 アーロン曰く



 オズワルドという男を兄に持って、最初に覚えた感情は羨望だった。

 彼の見えている世界は弟であるアーロンとはまったく異なっており、まるでこの世の一部を掌握しているかのような造詣の深さは、人ではない何かと話している気分だった。彼に精霊が二人ついた時も特に驚きはしなかった。兄様ならば当然だとすら思った。

 それが、心配に変わったのはいつからだろう。


 家族以外の人間には一切心を開かず、敵と認定した者には無慈悲なほど容赦はしない。それだけならばまだ良いが、とんと人の感情というものに鈍感で、無駄に敵を増やしてしまうきらいがあった。

 魔導師としては一級品でも、領主としては少々――いや、潔癖すぎたのだ。皆が皆、オズワルドのように頭が動くわけではない。アーロンだって地頭は良い方だ。それでも、彼から見放されないようしがみ付くので精一杯だった。


 辺境伯の地位をさっさと譲渡し、隠遁生活をおくると告げられた時は一抹の寂しさと同時に安心感も覚えた。

 世界に愛されたとでも言うべき才人の兄が、凡夫どもに好き勝手言われ続けるのは耐え難い苦痛だった。誰も彼も兄を分かっていない。そんな雑音に晒すくらいならば、雑務は全て自らが受け入れよう――と。

 そんな兄があのルードリヒ家のマリアベルを娶ったと聞いた時は驚いたが、やはり彼女だけは特別だったのだと、この光景を見て思う。



「兄様、兄様。独り占めしていないで、俺にも奥方殿を紹介してくれ」



 立ち上がって二人に近づく。

 人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られてなんとやらと言うが、さすがにいつまでも放置されてはかなわない。アーロンは跪いてマリアベルの手を取り、唇を寄せるふりをした。そう、ふりだ。本当にしては兄から後で何を言われるやら。



「お初お目にかかります、マリアベル殿。わたしはゲシュニット領を任されております辺境伯、そしてオズワルドの弟、アーロン・エルズワース。ご挨拶が遅れ、誠に申し訳ない」


「失礼いたしました、アーロン様。本来ならばこちらからご挨拶申し上げるべきところですのに。わたくし、マリアベルと申します。ルードリヒ伯爵家の出ですが、既に縁はなく、この身すべてオズワルド様に捧げるつもりでこの地へ参りました。どうぞ、よろしくお願いいたします」



 月光に照らされた銀糸のような髪がふわりとなびく。母なる海を模したかのような慈愛あふれるコバルトブルーの瞳。長い睫毛が白磁の肌に影を落とし、神秘的な美しさすら覚える。

 片側を仮面で隠しているが、それでも目を見張るような神々しさに、己が兄の妻だということも忘れてうっかり見惚れてしまう。



「アーロン!」


「……あ、ああ、悪い、兄様。いやはや、こう正面から見つめると美しさが際立つな。さすがはあのマリアベル殿。子供の頃はよく噂を――ああ、いや、こういっては失礼か」


「いいえ。今となってはすべて詮無きことですので」



 目を細めて微笑する姿はまるで雪の精だ。

 オズワルドのことだからきっと美醜に興味はないのだろうが、それはつまり中身も気立ての良い美しい人だという証左に他ならない。先程の行動力もなかなかのものだった。

 アーロンはマリアベルに近づき、耳元でそっと囁いた。



「俺が言うのもなんだが、こういう挨拶はさらりと避けた方が無難かもしれん。君に触れたがる男は多いだろう。俺相手でもあの顔だからな」



 ちらりとオズワルドの表情を盗み見ると、まるで敵国リーベンと対峙する時のような凍えた目でこちらを見ていた。あな恐ろしや。後で嬉しくないお話が待っていそうだ。

 いくら人並みに女性への興味を持ち合わせているアーロンであっても他人の、それも実兄の奥方を口説いたりなどしない――のだが、理解はしていても止められぬのが嫉妬というもの。まさかあの兄にそのような感情が存在しているとは。アーロンは感心した。



「まあ、そのような心配杞憂ですわ」


「いや、絶対に杞憂なんかじゃないぞ奥方殿。後ろを振り向いてみろ。凄いから」


「ふふ、面白い方ですのね、アーロン様は。ですが、本当に杞憂ですわ。オズワルド様のお心の一番深いところにはすでに先約がございます。わたくしなど所詮仮初の妻。こうやってお優しくしていただけるだけで、奇跡のようなものですもの」


「……本気、で、いっているのか?」



 マリアベルは小首を傾げて「はい」と素直に頷いた。

 どうしたことだこれは。彼女の言っている先約に心当たりなどない。いや、嘘だ。一人だけいる。子供の頃、両親から聞いた話だ。あのオズワルドが初めて人に興味を持った。しかし相手は王太子の婚約者に内定している少女。残念だ――と、肩を落として落胆していた姿を未だ鮮明に思い出せる。

 そう、その少女はつまり、目の前にいるマリアベルのことなのだが。



「……まさか、兄様」



 彼女の反応に嘘偽りはなさそうだ。

 そういえば兄はいつもその少女のことを「Мの君」だとか不思議な仇名で呼んでいた。そしてマリアベルが「神の寵愛」を授かった事実。そこにオズワルドの性格を合わせると――最悪な答えが導き出されてしまった。



「ヒュー! なんやなんや、えらいおもろい事になってるやん! 主の機嫌超良いみたいやから精霊たちが踊っとる! 花火っちゅう形に見えるのも乙やねぇ!」



 ぶわりと強烈な風が吹き、とんとんと後ろに下がる。

 そのあいたスペースに新緑色の髪をした青年が現れた。そろそろマリアベルから離れなければ困った事態になると察した彼なりの優しさなのだろう。彼女とアーロンの間に陣取ったヴィントは、気さくな笑みを浮かべて片手を上げた。



「アーロン様、おひさ! どしたん? 狐につままれたような顔しとるけど」


「ヴィンちゃん。悪いな、助かった」


「いえいえ。それほどでも……あるかな! 俺優秀やし!」



 オズワルドから高位の大精霊だと聞いているのだが、言動を見ているかぎりまったくそうは思えない。むしろ彼自身も敬われるのは苦手らしいので同年代の友人よろしく、気軽な付き合いを心がけている。



「そういや、さすがに弾切れだろうに、まだ花火は続いているのか?」


「もー、アーロン様ってば魔力はあるのにてんで使い方がなってへんなぁ。マリアちゃんが花火を楽しんどるみたいやから、主が気ぃよくして周囲の精霊たちに命じとるんやで、これ。精霊たちもノリに乗って従っとるし。この調子やと後一時間くらい続きそうやな」


「後一時間? ……なら丁度いいか。祝いの酒を持ってきたんだ。玄関に置きっぱなしになってたから取ってこよう。ヴィンちゃんも飲むだろう?」


「飲む飲むぅ!」



 ヴィントは風のようにするりと室内へ入ると「軽食とコップの準備してきます!」といって姿を消した。過去、大陸全土を渡り歩いた彼の料理は唸るものが多い。この屋敷へくる楽しみの一つだ。しかしこれでは夕食の前に酒盛りで潰れてしまいそうだと、内心苦笑する。

 もっとも、この絶景を見ながらの宴会など生涯二度経験できるものでもなし。一期一会ならば盛大に楽しまなければ損である。



「よし、軽食があるならば机やいすも必要だろう。そっちは俺が持つので、誰か一人酒を運ぶのを手伝ってもらいたいのだが」


「では、わたくしが」


「いや、僕が行こう。今日は疲れただろう? 君はここでエレマンとゆっくりしていてくれ。それに――」



 すっとマリアベルの前に立ち、凍えるような笑みを浮かべるオズワルド。



「アーロンとは積もる話もあるしな」


「あ、はは……お手柔らかに頼むよ、兄様」



 どうやら先程、マリアベルと内緒話をしていたのが気にくわなかったらしい。目の前に夫がいる状態で、妻の耳に顔をよせるのはアウトだったか。いや、アウトだな。完全にアウトだ。アーロンは己の浅慮を恥じつつ、兄を伴ってバルコニーを後にした。

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