第9話


 舞踏会の数日後の朝、エファはこっそりと自室を抜け出した。


 朝霧にかすむ王宮の中庭を抜け、木々たちの導くままに裏庭に出る。しばらく歩いて小高い丘に着くと、空を見上げてそっと名を呼んだ。


 その言葉は、たぶん人には理解しえないもの。

 応じて霞の中に露われたその相手の姿も、おそらく人の目には認識できないのだろう。


 銀の、と漆黒の影がささやく。

 黒の、ありがとう。とエファが返す。


 黒のと呼ばれた影は静かにかぶりを振った。


 ―――銀の、今のお前はわが友の番だ。あれが悲しむのを我は見たくない。


 精霊の言葉は語彙が少ない。それともエファが思い出せていないだけなのだろうか。

 それでも嬉しかった。そう告げると黒のは少し笑った。


 ―――銀の、すべてを取り戻したのか。


 黒のの問いかけにエファは首をかしげる。


 ―――……なら、そのまま人としての生涯を全うすればよい。


 そのまま、現れた時と同じように黒のは解けるように消えた。

 エファはしばらく、その場で静かにたたずんでいた。




 その日の午後、王妃主催のお茶会が開かれた。


 出席者は国王と王妃、アルフォンスとその妻エレオノーラ。そしてジークとエファ。身内のみのお茶会だが、出席者が豪華なせいか、警備は恐ろしく厳重だった。

 そして会場についたとたんにアルフォンスはジークからエファを引き離して、自分の隣の席にエスコートする。妻のエレオノーラも国王夫妻も、それをほほえましく見守っている。


 面白くないのはジーク一人である。


「来週には帰ってしまうのね。寂しいわ」

クリスティーネがそう言えば、その場にいる全員が同意するように頷いた。


「来月にはまた来ます。そのあとは来年の年明けまでは滞在しますので、寂しがらなくても大丈夫ですよ」

 ジークが珍しく敬語で答えると、クリスティーネはすぐに反論する。


「あなたがいたって仕方ないじゃない。その間エファは北の土地にずっといるのでしょう?」


 これにはエファが驚いた様子でジークを見上げる。帰国してからゆっくり説明するつもりだったジークは、心の中で舌打ちした。

「こちらは何かと物騒ですからね。エファには危険な目にあわせたくないので」



 先日の舞踏会の夜、拘束された第二王子と公爵令嬢はやはり、エファの殺害を企んでいたという。

 次の日には秘密裏に王家の調査隊が公爵邸を捜索し、大量の魔道具や呪魔道具を回収したそうだ。これほどまで集めるまで、それほどの財産をつぎ込んだことか。

 その中には一時的に魔力を封じるものや、使用者の魔力を増幅させるものもあったという。

 もはや魔法が廃れたこの時代には使える人間すら少ないというのに。


 元々ドレヴァンツ公爵家には魔力に突出したものが生まれやすい。ハンネローネもその祖母も、ドレヴァンツ公爵自信も魔力を持っていた。だが微弱なもので、魔法そのものは使えない。但し魔道具なら操ることができたようだ。


 元々聖女騒動の件で国王と何らかの取引があった公爵家だが、このたびも国王は表面的にはこの罪を公表せず不問とした。但しその裏でどのような取引があったのか、ジークは興味もないし、知らなくていいと思っている。

 国全体から見れば、すこし公爵家が静かになり、いつの間にか神官長が代わっている、すぐに噂にも上らなくなる程度の、些細なことだろう。


 国王と王太子の肩には、国を統治して発展させていくために、大きな責任がある。大公領とは比較にならないほどの民の命と、その暮らしがかかっているのだから。


 だがその処置がどういったものであるのかを知らない限り、完全に安全だと判断するまで、ジークはエファを大公領から、あの城から出すつもりはない。



「独占欲の強い男は嫌われるよ」


 アルフォンスの一言がジークの心をえぐる。


「殿下のように、身重の奥方にご心配ばかりかけるほうがどうかと思いますが」


「あら、私は大丈夫です。アルはいつだって私のところに戻ってきますから。聖女様の祝福を抱いた方ですもの」

 エレオノーラがそう言いながらエファにやさしい視線を投げる。


 エファは嬉しそうに、照れた表情で笑顔を見せる。それを見るだけで、ジークの心はやはり凪ぐのだ。


「エレオノーラ様のご出産の時も、いっぱい祈ります」


「まあうれしい。良かったらエファはこのまま王都にいてくれていいのよ?」

 今度は王太子妃までジークの敵陣に立った。


 当のエファはますますにこにこしながら、ありがとうございます、と答えた。


「でも最近ちょっと体調が悪いので……皆様に変な病気をうつしちゃいけないので、いちどアスツヴァイクに帰ります」


「まあ、そうは見えないけど……。」


「吐き気がしたり、眩暈がするだけで。医者には異常がないといわれたので、大丈夫です。たぶん過労でしょう。でもあちらのほうが空気が澄んでますし、帰って安静にさせます」

 これにはなぜかジークが答えた。


 あら?とエレオノーラが首を傾げ、行儀悪くテーブルに頬杖をついているアルフォンスがおや?という顔をした。


 余計なことを言ってしまったとジークが気がついた時にはすでに遅く、クリスティーヌが嬉しそうに声を上げた。


「エファ、もしかして……!こんなところで聞くのはあれですけど、月のものはちゃんとある?」


一人状況のわかっていないエファが首をかしげて答える。


「え、えっと。最後に来たのは新年のころで……」


「あらあら、じゃあもう半年になるじゃない!もしかして、ねえジーク!」


 姉の熱い視線にジークは右手を掲げる。

「それはあり得ません」


「どうして言い切れるのよ。あなたたちが仲睦まじくしていることは、ちゃんと聞いてるんだから」


 誰からですか姉上! と叫びたいのをこらえ、冷静にジークは返す。


「ですからあり得ません。時には弟を信じてください」


 エファは一人首を傾げ、隣のアルフォンスに助けを求めている。

 そこは夫である自分に求めてほしかったところであるが、王妃と火花を散らしているこの状態では、確かに話しかけづらいかもしれない。少し悔しいが。


「二人はね、今、エファのおなかにジークの赤ちゃんがいるのではないか、という話をしているのだよ」


 アルフォンスはにこやかにエファに教える。弾かれたようにエファが顔を上げた。

 正面に座るエレオノーラの笑顔を見て、そしてジークの顔をまっすぐ見る。そのきらきらした瞳に、ジークは完全に言葉を失う。


 アルの野郎、絶対わかってて言いやがった!


 女性陣の熱い視線を真っ正面から受け止めきれず、ジークがそっと顔をそらし、


「俺が自ら法を犯すわけがないだろう……」

 辛うじてそう発言した。



「アスツヴァイク領の法では、女性の出産は17歳からと決められておる」

 それまで黙ってお茶を楽しんでいた国王がぼそりとつぶやいた。


「え? そうなんですの? 私のいた時には、そんな法は……」


 驚いた王妃はしばらく考え、思い当たることがあったのか、言葉を失う。



 大公領は、王国の中でも特殊な場所だ。他の領地では許されないいくつかの事が特別に認められている。


 その一つが、領地独自の法だった。

 もちろん制定には国王の許可が必要なため、国全体の法律と相違があってはならない。また大公領にのみ利益が生じることも禁じられている。しかし概ね、国を発展させるために想定されるものには問題なく制定されている。


「出産により命を落とす女性は多く、また若年層の出産はその傾向が強い。地方は医療の手が行き届かないこともあるので、大公領として女性の婚姻と出産を17歳からとする、だったかな」


 アルフォンスがにっこり微笑みながら言う。


「結婚式はあげたけれど、エファはつい先日17歳になったはずだ。だから今までどんなに仲睦まじくても、兄上はエファに手を出していなかったんだね。大した自制力だと思うよ」


 アルフォンスがこれ以上ないほどの笑顔で、貴い身分に相応しくない発言をし、ジークは無の表情であらぬ方向を見ている。

 純粋に驚いた表情をしているのはエレオノーラで、黙って何か考えていた王妃がそっと唇を動かした。


「私の母は、出産で死んだの。若かったそうよ。父はとても悲しんでいた」


 隣に座る王が、そっと彼女の手を握る。


「そして私も…15歳の時にアルを生んで、その後しばらく寝込んでしまった。起きた時には、もう子供を望めない体になっていたわ」


 王妃はそっと首を傾け、ジークを見つめる。


「あなたはずっと……そのことを気にしてくれていたのね」


「悲劇を減らしたかっただけだ」


 そっけなく答えるジークの目はいつも優しい。エファはじっとそれを見て、なんだかとてもしあわせな気持ちになった。


「さて、兄上がエファの誤解をどう解くか見ものだね。もっとも」

 アルフォンスは意地悪く笑う。


「この様子ならそう遠くない未来に二人の子供は拝めそうな気はするけど」


 エファは一人、よくわからないまま、会場に集まる皆の幸せそうな顔を見つめた。





 レヴィンの背で風を受けながら、エファは大きく深呼吸する。


 これから国は大きく変わるだろう。王位継承が無事に行われるまで、そしてそのあともジークは忙しく働くに違いあるまい。

 もし次のジークの王都行きに同行したら、一年はアスツヴァイクの土地には帰れない。あの山々を思うとそれは寂しいが、それでもジークのそばを離れるほうがもっと寂しい。


 背後で手綱を握るジークにそっと寄りかかって、エファはふんわり笑う。

「エファはいつも楽しそうだな」


「ジークさまと一緒にいられるからです」


「それは俺も同じだな」


 嬉しそうに笑うジークの胸には、マントを留める飾りがひとつ。。

 エファが初めてジークに贈った物は、彼の群青のマントに似合うように選んだ白い飾り石のついた留め具だった。

 決して高価なものではなかったが、ジークはとても喜び、身に着けてくれている。それがエファにはたまらなく嬉しい。



 あの茶会の日の夜、ジークとエファは初めて本当の意味での夫婦となった。


 そもそもエファにはその手の知識がまるでなかったので、誤解してしまったのも、今となってはとても恥ずかしい。


 ジークはすべてアルフォンスの責任だと言い切るが、夫婦になって半年以上経っていたのだから、ジークがいろいろ教えてくれてもよかったと思う。それが少し腹立たしい。


 あの熱くて激しい時間を、エファは思い出すだけで赤面してしまう。

 まだまだ自分は子供だと思っていたが、ジークの熱を受け止めることができるほどは、大人になっていたのだろうか。


「なにやらよからぬ事を考えているな、エファ」


 背後からジークの低い声がした。


 それを聞いたとたん、あの夜、耳元でくりかえしエファの名をを囁く、熱を帯びたジークの声を思い出し、彼女はますます赤くなった。恥ずかしくてついフードを深くかぶりなおす。


「何でもないです。見ないでください」


 豪快なジークの笑い声が空に響き、そして暁の空に吸い込まれていく。それに寄り添うエファも笑顔で。

 こんなふうに、ジークとエファはこれからも過ごしていくのだろう。繋いだ手は、この瞬間も、今夜も、そしてこれからもずっと離さないと決めた。

 それはとても幸せなことだ、とエファは思う。




 永遠に共にあると誓った。

 それは決して違えることなく、二人をつなぐ誓いだろう。

 この命の続く限り。

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