第8話

 エファは平然とその光景を見ていた。


 怒りで血走った目で自分を見下ろす娘は、手に短剣を持っている。


 きらきらと装飾の輝く、護身用というよりは装飾品に近い剣だ。きっと切れ味も大したことはないだろう。

 あれで斬られたら痛いだろうな。とぼんやりと思った。



 バルコニーでリーゼの到着を待っていたとき、突然庭のほうから伸びた手に肩を掴まれた。


 そのまま強く引っ張られ庭に転がり落ちる。途中手すりに強く打ったようで、わき腹が痛んだ。


「立ちなさいよ、早く!」


 事態が呑み込めていないエファの手を、娘が強く引いて立ち上がらせる。そしてそのまま、ぐいぐい引っ張って庭の奥に進んで行く。


「まって下さい、わたしここで待っていなくては」


「煩いわよ、黙って!!」


 有無を言わせない鋭い口調には覚えがあった。

 エファはその場で叫ぶべきだった。大声を出して誰かに助けを求めるべきだったが、それができなかった。

 激しい折檻と共に、決して逆らうなと命じたドレヴァンツ公爵の声がよみがえる。


 恐怖に委縮した思考のまま、茂みに足を取られ転ぶ。そのたびに乱暴に腕を引っ張られ、エファは半ばその娘に引きずられるように一つの部屋に入った。


 王宮の中庭から抜けていない。ということは宮殿の一部だろう。だが灯りのない部屋は真っ暗で、ここがどこなのかもわからない。


「ほ、本当に連れてきたのか」


 闇の中から上擦った声がした。エファはその声に覚えがある。


「ベルノルトさま……」


 自分のことを見ようともしなかった婚約者。


「煩い! あんたごとき下賤の者が、王子の名前を気安く呼ばないで!」


 再びヒステリックな声が響く。


 すぐにテーブルの上に小さな明かりが灯った。

 その傍にいるのはベルノルト王子。その姿はエファの知っている王子の姿とかけ離れ、疲れ果てて倦んでいるように見える。


 一方の娘は、波打つ金髪を乱暴に一つに束ねていた。

 身にまとっている服はシンプルなもので、白い前合わせのワンピースに金の刺繍の帯。宮殿の神官の衣装に近いが、神聖さを感じさせないほど薄汚れていた。

 娘自身も化粧が落ち、とても顔色が悪い。

 白い靴を履いた足がエファの肩を押さえているが、床に押さえつけられているエファのほうがあまりの顔色の悪さに、二人に大丈夫かと問いかけたくなった。


「私のことは覚えていないわけ?」


 苛立った声がする。


「おぼえています。ハンネローネさまですよね」


「気安く名前を呼ぶなって言ってるでしょ!!」


 怒声と共に胸を蹴られた。

 あまりの痛さに一瞬気を失いかけたが、その直後、ふっと痛みが消えた。脇腹の痛みも、たくさんの擦り傷も消えている。


 不思議に思って自分の足元のほうを見ると、黒い小さな光が瞬いていた。


「黒の?」


「無視すんなって言ってるのに!!」


 今度は強くおなかを踏まれた。


 一瞬の衝撃はあるが、痛みはない。

 ランプに照らされたベルノルトのほうが悲痛な顔をしていた。


「だいじょうぶです、ちゃんとお話聞いています」


 エファがハンネローネの顔をしっかり見つめて言うと、彼女は少し竦んだようだ。


「あ、あんた……。偽物の癖に、またあたしの力を奪ったでしょう」


「そんなこと、わたしにはできません」


 きっぱりと告げると、ハンネローネは数歩後ずさる。


「じゃあどうして私は聖なる力が使えなくなったのよ!」


「それはわたしにはお答えできません」


 なんとか体を起こすが、足は痺れたように動かない。怯える体と、はっきりと否定する精神がまるで別のもののように感じた。


「あ、あんたが返したせいで、おばあさまは死んでしまった」


 ハンネフローネの言葉にエファは首をかしげる。


「わたしが返したもの?」


「そうよ! よくもあたしのおばあさまを! とっても大好きだったのに!」

「やめろハンナ! 落ち着け!」


 ハンネフローネのヒステリックな叫びを、隣にいるベルノルトが止めようとしている。が、彼女は高貴な身分であるはずの王子を付き飛ばした。


「煩い煩い! あんただってろくに役に立たない! もう少しでわたしが王妃になれたのに!」


 ようやく思い当たる節を見つけて、エファは顔を上げた。


「アルフォンスさまの呪いですか?」


 必死に彼女を止めようとしていた王子も、気が狂ったように叫ぶ公爵令嬢も、その瞬間動きを止めた。


「ああ、あなた方だったんですね」


 その声は、落ち着いていて、自分の声とは思えないほど、低かった。


 ベルノルトの母親はドレヴァンツ公爵の妹、ハンネフローネの言うところのおばあさまがその二人の母親だろう。

 孫可愛さに、魔道具を使ってアルフォンスに呪いをかけたということか。


「だ、黙りなさいよ、あんた……」


 がたがたと震えだしたハンネフローネがテーブルの上にあった何かを掴む。

 宝石塗れの短剣。人を斬ることなど、想定して作られていない代物だ。


「あああ、あんたが、アスツヴァイク大公夫人ですって? わ、笑わせないでよ」


 カタカタと震えながら剣を持ったハンネフローネが近付いてくる。

 エファは変わらずその瞳を見つめていた。


「あの大公、お、お城に愛人がいるって、有名じゃない。どこかの伯爵令嬢と暮らしてるって……。あんたなんてただのお飾りで、す、すてられるんだから、どうせ……」


 なんと、そんな噂があったのか。


 この場に来て初めてエファは驚いた。

 ジークに浮いた噂があったのなら、それはそれで嬉しい。


「あんなにすてきな方ですもの。レディが放っておくはずありませんわ」

 と、場違いな感想を口にした。


 一瞬驚いたような顔をしたハンネフローネが何か言いかけたとたん、その体が横にすっ飛んだ。


「その伯爵令嬢とはおそらく私のことですが」

 ドレス姿のままのリーゼがハンナローゼを組み敷く。

 一緒に来たらしい騎士の一人がベルノルトの体を拘束している。


「誤解です。全くの誤解です。騎士団長様に比べたら、ジークさまなんてただの殿ですから。殿」


 やっぱりリーゼ、わたしの旦那様になんかひどい。


「エファ様、遅くなって本当に申し訳ありません!! お怪我はございませんか!?」


 抗議しようとしたエファに、なおも暴れようとするハンネフローネを取り押さえながら、リーネが泣きそうな顔で呼びかけてきた。


「わたしだいじょうぶです。心配かけて、ごめんなさい」

 

いつもと変わらないエファの様子に安心したのか、リーネが泣き出しそうな顔で良かったです、と繰り返す。

 そのたびにハンネの体を締める腕に力が入るらしく、ハンナローネが令嬢らしからぬ声で叫んでいた。




 ジークが青ざめた顔でエファの部屋に駆け込むと、ソファに座るエファが驚いて顔を上げる。

 隣にいたリーゼも同じ様子で、「せめてノックくらいしてください!」と叫んだ。


 エファは慌ててドレスを身に寄せる。しかし慌てているためかうまくいかず、手を滑らせて白い肩が露わになった。


 自分の後ろから追いかけてきたライナーを蹴とばして追い出し、ジークは扉を閉める。

 そして恐る恐るエファのほうを振り向いた。


 一瞬嫌な予感が駆け巡る。


「エファ、その、大丈夫だったのか」

「お怪我はありません。ただドレスがぼろぼろだったので、念のために他に怪我がないか確認しているところでございました」


 真っ青になりながら聞いたジークに、エファではなくリーゼが呆れたように答えた。

 部屋の隅には王宮医務官の女性がおり、安心した様子で微笑んでいた。


「ジークさま、申し訳ありません……」


 消え入りそうな小さな声でエファが言う。

 その顔と全身をジークは素早く見る。

 何かあった時に、自分に隠されているのは嫌なものだ。たとえジークの気持ちに配慮したとしても。


 だが先ほどバルコニーで別れたエファと変わりないのを確認して、そっとその体を抱きしめた。


「良かった。本当に心配したんだ」

「本当にごめんなさい。でも、だいじょうぶです」


 エファはゆったりとほほ笑む。


 結い上げた髪はぼろぼろで、花飾りは殆ど取れてしまっているが、その姿は変わらずジークの目を釘付けにする。ジークはもう一度、強くエファを抱きしめた。


 おそるおそる、という風にエファの手がジークの背中に伸びる。体格差がありながらも、自分を抱きしめようとしているエファの存在が、これ以上ないほどジークには愛おしい。

 目頭が熱くなるのを感じながら、エファに口づけした。これまでのどのキスよりも激しく。


 あ……というエファの声に我に返ったとき、真っ赤な顔のエファと、胸まではだけたドレスが目に入った。硬直するジークから乱暴にエファを引きはがして、


「だからちょっとは人目を気にしてくださいとっ!!」


リーゼの怒声が響いた。



「で、冷静になりましたか」


 リーゼの長兄ロルフが呆れたような、かつ面白いものでも見るような目で長椅子に座るジークを見下ろしている。

 伯爵家のロルフと大公のジークでは身分は全く違うが、彼が幼いころ大公家で過ごしていたこともあり、いつまでも兄のような存在だ。口調もやはり砕けている。


「思わず我を失ったという奴だな。どうにもここ数日、そういうことが多い」

「遅くやってきた青春だ。是非満喫するといいさ」


 うーん、と腕を組んで悩むジークの後ろ、ロルフは窓から漆黒の闇に包まれた王宮の裏庭を眺めている。


「昔、前大公様にお仕えしていたときに、言われた言葉があってだな」


 ジークは黙ってその続きを待った。

 残念ながら彼には父親と家族として過ごした記憶は薄い。前大公は、どこか一線を敷くように自分と母親に接していた。

 むしろ従者として使えていたもののほうが過ごしていた時間は長かっただろう。


「……愛する者ができると人は弱くなる。護るべきものがいると戦地に行くとき足が重くなる。何度も何度もそう言ってたな。子供心にそんなもんだと思ってたし、自分が結婚するまで何となく心の奥に引っかかってたな」


 あの、勇猛果敢で知られた父が。


「お嬢を王都に嫁に出したのも、最前線の城で戦うより安全と思ったのか、傍に置くのが怖かったからなのか、今となっちゃわからんが。

 でもさ、自分が結婚して子供が生まれて、そのうちに何となく違うんじゃないかと思えるようになった。

 家で奥さんと子供たちが待ってるから、何が何でも護るために戦わなきゃなんねえ。もう一度、いや何度でも会うために、俺は生還しなきゃなんねえ。そのうち王都に来て、戦闘とも離れたが。

 いまだにあの言葉が引っかかってる。大公は怖かったんだなと」


「怖い?」

 つい笑いが漏れる。


「あの人に恐れるものなんて無かったと思うが」


「それはジーク様が子供だったからだろう。人間はいつだって恐れる生き物だ。自分の手にしたものを失うのが怖い。守り切れなかった時のことが怖い。

 それでも手に入れたくて仕方ない。そういうものだ」


 思い当たることがあったのか、ジークは動きを止めて自分の掌を見つめている。


 ロルフは困ったように笑った。


「まあ、大公様はそこまで強くなれなかったんだな。今になるとそれがわかるよ。

 俺から見たジーク様は、あの頃の大公とおんなじ目をしてた。だから、心配していたんだが」


 向かい側のソファアに座り、にんまりと笑うロルフを、ジークは睨みつけた。


「杞憂だったようで、安心した」


「……うるさい」


 お互いい年なのに、それでもいまだに弟扱いされる。それがくすぐったいような、腹立たしいような、不思議な感覚だ。



 ちょうどそのタイミングでドアがノックされ、ライナーと数名の騎士、エファの警備を王宮の騎士に任せたリーゼが入室した。


 最後にアルフォンスが大股で部屋の奥まで進み、その場にいる一同を見渡す。


「さあ、じゃあ事の顛末を聞こうじゃないか。僕の妹姫は、どんな勇敢な様だったんだい?」


 ほんの少し怒りを含めた声に一同が委縮する中、ジークだけが一人、

「違う。お前の妹じゃない」と答えた。

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