第7話
そして王宮の舞踏会が始まった。
エファにとっては初めての公の場だが、ジークが隣にいるので怖くない。
自分に注がれる、好奇の目は『偽りの聖女』を蔑むものか。それとも……。
会場を進み、一際高い壇上の王座に座る国王夫妻と、その隣に控える王太子夫妻にあいさつを行う。
エファは何度か王を見たことがあるが、やはり緊張した。
ふと、エファは違和感を感じて心の中で首をかしげる。
もう一人の王子、自分と婚約していた王子がこの国にはいたはずだ。
失礼にならないように壇上を見ても、その姿は確認できない。
そのうち、ジーク達の会話が終わり、エファは礼儀に沿って挨拶をし、その場を離れた。会場内を見渡しても王子の姿はおろか、義父だったはずの公爵の姿も見当たらない。
はたして王族主催の舞踏会で、王国の筆頭貴族が欠席するということがあるだろうか。
「エファ、あまり周りを見るな。俺だけを見ていろ」
動揺しているエファに、ふと頭上から声が落ちてきた。
気が付けば楽隊の音楽が始まり、出席者が見守る中、国王陛下が王妃をエスコートしてホールの真ん中に移動した。
一瞬の静寂の後、指揮者のタスクに合わせて優雅な音楽が始まり、人々の視線を集めたこの国の頂点に位置する男女が踊りはじめる。
それは優雅で、見事なダンスだった。
「……クリスティーネさま、きれいです!」
「俺だけを見ろって言ったはずだが」
ちょっと不機嫌そうなジークだが、エファの手をそっと持ち上げて、キスをした。
「エファのほうがずっときれいだよ。俺の女神様」
真顔で言うのはやめてほしい。
思わず俯いてしまうのは真っ赤な顔を見られたくないからだ。こほんと咳払いしているジークも、もしかしたら若干照れているのかもしれない。
やがて曲が終わり、王たちを見守っていた人の輪が崩れる。すこし速いテンポの明るい曲が流れ、ダンスホールに華やかなドレスの花が咲いた。
「俺たちも踊るぞ」
「ええ、わたし、ダンスは……!」
ジークがエファの手をとりその輪の中に飛び込んでいくのを、リーゼは暖かい気持ちで見守る。
「エファ様、最近ますます表情が豊かになられましたよね」
「そうだな。ジーク様も同じだ。あのお二人はよくお似合いだと思うぞ」
隣に立つ兄のライナーも笑う。リーゼはその言葉にただ頷いた。
いつの間にか会場の中心でジークとエファが踊っていた。
エファは無理だと嘆いていたが、過去に淑女教育を受けていただけあって、ダンスはしっかり出来ている。何よりジークのリードが完璧だ。誰が見ても、ダンス慣れした夫婦に見えるだろう。
目を細めながらそれを見ていたリーゼの手をライナーが取る。
「ダンスの相手が兄の俺では不満だろうが、ぜひ一曲お手合わせ願いたい」
「決闘は受けて立つ主義ですので、喜んで。でもわたしよりちゃんと将来のお嫁さん候補を探してくださいな」
27歳、独身のライナーにとって辛辣な言葉が胸に刺さるが、なんとか立ち直ってダンスを始める。
会場は賑やかで熱く、そして華やかな空気に包まれていた。
ジークがバルコニーから見上げる夜空は、今日もとても美しい。
新月なので月が大きく煌めき、星々は見えない。だが夜空を見上げるエファは満足そうだ。
踊ったせいか、いつもより体が熱い。
隣に立つ、ほんのり赤みを帯びた妻の肌からいつも以上に甘い空気を感じて、ジークは息を吐いた。
出来るなら今ここで、強く抱きしめたい。
その衝動に必死で耐えつつ、ジークはバルコニーの椅子にエファを座らせ、ここに移動してくる途中に給仕から受け取ったグラスを渡す。
「疲れたか? 見事なダンスだったので、驚いたぞ」
「あ、ありがとうございます。せ、先生以外と踊ったのは、はじめてだったので、そう言っていただけるととてもうれしいです」
俯きながらそう答える少女は、間違いなくこの国の第二王子の婚約者だった。
公式の場に出る前の時期とはいえ、一度もその王子とダンスを踊らなかった、ということがあるだろうか。
ジークは顔を顰める。
苛立ちを感じるのは、彼女をそのような状況に押し込んだ周りの連中に対してではない。あの時、姉の言葉を信じようとしなかった自分への怒りだ。
気持ちを落ち着かせるように、エファの隣に腰掛けた。
「王宮に来るのが怖いといっていたな。やはり昔の連中に会うのが嫌だったか」
「いえ。もうあの人たちとは関わることはないと思いますし、それは怖くありません」
エファはグラスの中の飲み物を珍しそうに見ている。
「……自分を苦しめてきた連中に、復讐したいとは思わないのか」
ジークの低い声に、エファは驚いたように顔を上げた。
低い空の色にも近い、淡い色の瞳が大きく開かれて、自分を見つめていた。
「お前が望むなら、俺は」
「いけません」
エファにしては驚くほどの、はっきりとした口調だった。
自分でも驚いたのか、そのあとすぐにおろおろと視線を下ろす。
「それは望んでおりません。もう本当にいいのです」
少しの沈黙の後、エファは賑わう会場内をじっと見つめる。今はゆったりとした音楽が流れ、人々は少しだけ体を寄せあいながら踊っていた。
エファは言葉をこぼすように、語り始める。
「もし今、誰かがわたしみたいに……
監禁されて、祈りを強要させられていたら、わたしはやめてって言わなきゃいけないと思うんです。それは本当に苦しくて辛いことだから、って。
偽物だって糾弾されていたら、許されるならわたしはその人の隣にいてあげたいし、手も握っていたい。
ひとりは寂しいし、責められるのは辛いですから……」
エファの瞳はこの会場ではなく、はるか遠くを見ている。ジークはふと不安を感じ、エファの手をしっかり握った。
「でも、今の聖女様はお義父さまの娘さんです。何があっても、お義父さまはお守りになるでしょう。ベルノルトさまもいらっしゃいますし」
「……そうか」
言葉の裏側に、当時のエファがどれほど苦しかったかが込められている気がして、ジークは哀しくなる。
「もう……終わったことですし、どんなに考えても何も取り戻せない。だから忘れちゃっても、それでいいと思うんです。
ほんとうに、復讐とかぜったいに望んでいません。そんなことをしたら、もっとたくさんの人が不幸になります」
そしてまっすぐにジークの目を見る。
「今一番だいすきな人たちに迷惑が掛かり、苦しめることになります。だから、もうこれでいいんです。今はほんとうに幸せですから」
はかない笑顔と、思いがけず力強い視線と言葉が、ジークに注がれている。
ジークは思わずエファの小さな体を抱きしめた。ため息しか出ない。
「エファ、お前は本当に」
「ジークさま…。わたし、弱いですか? こんなふうに思うのは、弱い証拠でしょうか」
「いや、どうかな。
俺からしたら、怒りに燃えて復讐するより、忘れてしまえることのほうが強いように感じるが」
だがそれをどう捉えるか。それは立場や経験によって異なるだろう。
もし今のジークなら、エファに危害を加えるものは地獄の果てにでも追いつめて殺す自信はある。それは妻への愛と、大公としてのプライドだ。
「えへへ、ジークさまに強いって言っていただいた」
そっと体を離すと、エファがうれしそうに笑っている。この気が抜けたような笑顔も、最近ようやく見る事が出来たジークの宝物だ。
じっと妻の顔を見つめると、彼女も嬉しそうにジークの瞳を見かえす。
そっと唇を重ねようとして体を屈めた時、
「仲良くしているところ申し訳ないけど、時間だよ。ジーク兄さん」
驚いて顔を上げると、興味深そうな、物珍しそうな顔でアルフォンスが見下ろしている。
いつも以上に豪華な衣装と、王族を表す深紅のマントのせいか、腹立たしいほどいい男だ。
そういえばエファの好みはこいつだったか。ぐんぐんと怒りがこみあげてきた。
「アル、貴様空気位読みやがれ」
「残念ながらエファは僕のかわいい妹でもある。むやみやたらに手を出す奴には容赦をしない」
「大前提としてエファは俺の妻なんだが」
「最初に会ったのは僕のほうだからね。それよりちょっと予定が早まった。すっぽかさないでよ、兄さん」
おどけた感じのアルの口調が嬉しいのか、真っ赤な顔のエファもふわっと微笑んでいる。
「エファも今日はとてもきれいで驚いたよ。ぜひダンスにお誘いしたいところだけど、愛しい妻が身重故、今日は誰とも踊らないと決めているんだ。次はぜひお願いしたい」
「はい、アルさま。ありがとうございます」
体調が回復、というか呪いが取れてからのアルフォンスは、よく笑い、話すようになった。おそらくあれが本来の彼なのだろう。
笑顔で会場に戻る後姿を見ながら、ジークはため息をつく。
「俺はこれから少し公務がある。エファは会場内に戻れそうか」
「あ、わたしはまだちょっと……」
真っ赤な顔で俯く。
確かにすぐに表情が戻せるジークと違い、エファがこのまま会場に戻ったら、口性無い連中の格好の的になるだけだ。かといって、この場に一人残すのも躊躇われる。
「すぐにリーゼを呼ぶので、ほんの数分だ。ここで待っていてくれないか」
ジークが言うと、エファはにっこり微笑んで頷いた。
「はい、ジークさまはお仕事頑張ってくださいませ」
エファのすべてに、つい顔の筋肉が緩んでしまいそうになるのを堪えて、ジークはすぐに会場内に戻る。
人が多いので手間取ったが、リーゼとライナーを見付け、バルコニーにいるエファの警備を命じた。
ジークはその足で、壇上に立つ王のそばに控える。
この国で自治権のある大公はアスツヴァイク大公だけだが、尤も高貴な一族、王家の分家ともいえる公爵家は4つ存在している。その4人の公爵が王の背後に控え、さらに壇上に王妃、王太子、王太子妃が並んだところで、会場内のすべての人に静かな緊張が走った。 これから行われることが何か、誰の目にも明らかだろう。
昨年まで意気揚々としていたドレヴァンツ公爵の顔色が悪いのがその証左だ。いつもならこういった公の場には夫人を伴い真っ先に表れて存在を誇示しているのだが。今日はいつの間に現れたのか。
好奇な視線も、畏敬の眼差しも、すべてを受け止めて。
国王は王太子への王位継承を宣言した。
国王と王太子の同時宣誓が終わり、粛々と宰相のアインホルン公爵が今後の日程について宣言している。王位継承の儀はこれから半年ばかりかけて執り行われ、この秋の収穫祭と同時にアルフォンスが王位に就く。
忙しくなるな、とジークは思う。
ジークはアルフォンスの叔父で、新国王にとっては最も頼りになる存在だ。
他にエレオノーラ妃の実家であるサンダー公爵家も外戚に当たるが、どうにもサンダー卿はのほほんとしていて権力に興味が薄く、アルフォンスの後ろ盾としては些か心もとない。だからこそここまでドレヴァンツ公爵が増長したわけだが。
今でも兄弟のように親しいアンデ伯爵家の息子たちがアルフォンスに仕えているが、これからしばらくの間は自分も王都にいなければなるまい。
エファと過ごす時間がかなり削られるわけだ。
心の中で盛大に舌打ちしながらも、ジークは鉄仮面のように笑顔を崩さない。
見事に聖女騒動が『無かったこと』にされているのも大概気にくわないが、ここでドレヴァンツ公爵が失脚することになれば国全体の損害は計り知れないものがある。政治的判断とかいう胸糞悪い奴だろう。
後でアルフォンスに盛大に八つ当たりすることを心に決めて、ジークは心の中でにんまりと笑った。
すべての式典が終わり、拍手のなか国王夫妻、王太子夫妻が退場した後、会場はいささかまったりとした雰囲気に包まれた。
王家主催なので、羽目を外すようなものはほとんどおらず、さっさと帰るもの、親交を深めるため歓談を楽しむもの、若い男女の恋の駆け引き等も行われている。
式の終了と共に、逃げるように姿を消したドレヴァンツ公爵以外の三人の公爵と、ジークは場所を移して会談する。
この中で完全にアルフォンスの味方と言えるのはサンダー卿だけなので、要は腹の探り合いだ。
そんな疲れ果てる事が終わった頃には、もうだいぶ夜も更けていた。
会場に戻り、エファの姿を探すが、やはりもうそこには居なかった。
王宮に用意された客室に戻ったのだろうか。回廊に出たところで、ちょうど前から来たライナーと会う。
「ジーク様、お探ししておりました!」
いつもおっとりしているライナーが息を切らせている。嫌な予感がした。
「エファ様の姿が見当たりません! ずっとお探ししているのですが、どこにもいらっしゃらないのです!」
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