第4話

「どうやら王宮でよくないことが起こっているらしい」

 暖炉の火が暖かい部屋の中に戻り、エファをソファに座らせながらジークはそう言った。


「よくないこと、ですか?」

 首をかしげるエファを愛おしげに見つめて、ジークはその隣に腰掛ける。


 鍛え上げたジークと小柄なエファでは、体の大きさがまるで違うので、自然エファはジークに寄り添うようにもたれかかる。

 嬉しそうにその腰をジークが引き寄せた。


 あまりに自然な動作なので、ジークと結婚するまで殆ど異性と接してこなかったエファはそれだけでとても恥ずかしい。


 夫婦になって半年、一緒に過ごす時間がいくらあっても、相変わらず照れてしまう。


「そんなに赤くなるな。襲いたくなるぞ」

 笑いながら言うジークの言葉も、冗談だとは思えないが、今は照れている場合ではない。

 先ほどジークはとても気になることを言ったのだ。


「そ、それより、王宮って……またアル様に何か」

「エファはすぐに姉上とアルの事ばかりだな。エファは細い男が好きか」

「ち、違います。そんなんじゃないです! ……お元気でいてくだされば、それでいいです」



 塔に一生監禁される筈だったエファを妻に迎えるようにと、アスツヴァイク大公であるジークに命じたのは国王陛下だが、おそらく王妃クリスティーネがそう働きかけてくれたのだろう。


 ドレヴァンツ公爵は最後まで抵抗していたらしい。

 そもそもエファは公爵家の養女だ。その彼女の罪を明らかにすることは、公爵家にも責任が生じる。

 公爵は、自分もエファとその実の父親の伯爵に欺かれたと主張したらしいが、国王は取り合わなかった。



『アスツヴァイクは本当に良いところ、私のふるさとなの。エファにもきっと故郷と呼べるようになるわ』


 北の地に送られる日の朝、あの塔の部屋にクリスティーネが突然訪れた。


 王妃にまた会えるとは思っていなかったので、とても驚いたが、彼女はそのエファを優しく抱きしめ、会いたかったこと、心配していたことを告げた。

 もうそれだけでエファの心はいっぱいになり、おもわず声を出して泣いた。


 二人とも涙で酷い顔になったが、その時クリスティーネが託してくれたのが、自分が愛用していた毛皮の外套と、ブルーサファイアのアクセサリー、そしてエファのために用意したというピンク色のワンピースだった。


 そしていつか再び会える時までどうか元気で…と誓う。


 王族の力が及ばない神殿まで、危険を顧みずにやってきてくれた王妃に、エファは感謝しかない。

 そしてその姿を思い出すたびに、とてもとても優しい気持ちになれるのだ。



「まあ俺も、こんな可愛いエファと結婚できたのは姉上のおかげだからな。感謝はしている。だがアルはダメだ」

 とジークは鼻息を荒くした。


「あれは俺よりお前と年が近い。エファがあいつに惚れているのなら俺は決闘を申し込まねば」

「何をおっしゃってるんですか! ジークさまっ」


 根本的に勘違いされている気がする。


「まあ冗談だ。アルのことは心配しなくていいぞ」


 エファの傍仕えのリーゼが用意したお茶を飲みながら、ジークはなんだか悔しそうに言った。


「最近ではすっかり元気になって、王太子としての務めを果たしているらしい。義兄上もそろそろあいつに色々任せていくつもりらしく、まあ心配はいらんだろう。あいつの周りには出来た人間がそろっているしな」


「そうですか…良かったです。今年の夏には、初めてのお子さんも生まれるそうですよ」


 昨日届いたエレオノーラの手紙にも、嬉しい知らせがあったのだ。


「ほお、それはまだ知らんかったな。……ちっ、あのちびに先を越されたか」


「ちびって……」

 この国の王太子に対して、叔父とはいえとんでもない発言だ。


「まあ、つまらない俺の嫉妬は置いておいてだな。

 要するに今まで王都の貴族はアルを王にしたい連中と、弟の…なんだったかな。名前を忘れた」


 ジークがちらりと見るので、エファは慌てて自分の記憶を探る。

「……えっと。ベロンドさまでしたっ」

 したり顔で答えたエファを、ジークが呆れるように見下ろしていた。


「元婚約者の名前すら覚えていないとは……。よほどあいつに興味がなかったんだな」


 どうやら間違えていたらしい。

「……興味がないわけでは……。名前を覚えるの難しくて……」


 ジークの大きな掌が、エファの頭をなでる。間違えたのに嬉しそうに褒められるとは、これは一体どういうことか。


「まあいい。貴族どもはそのベロンドを王にしたい連中…筆頭はお前の義父のドレヴァンツ公爵。

 そしてどちらにも付かず、成り行きを見守る連中の三つに分かれていた。

 神殿は政には一切関わらぬ立場をとっているが、その神殿の擁する聖女がどうやらベロンドと結婚するらしい。神殿に関わる貴族どもはドレヴァンツ公爵側にいっせいに傾いたのだが……」


 エファの間違えた名前のまま言った。しかも二度も。

 ちょっとだけ拗ねそうになるが、ふと気になる単語を見つけてエファは首をかしげる。


「聖女様ですか?」

「ああ、お前に力を盗まれたと騒いだドレヴァンツ公爵令嬢だ。

 名前はハンネローネだったかな。もともと第二王子の婚約者だった娘だ」


 ほうほう。

 ジークの掌の重さにどんどん俯きながら、エファは耳を傾ける。


 いつだったか、エファをとても嫌っている少女と会ったが、あの子がハンネローネだろうか。

 とすれば、嫌われていたことにも納得がいく。エファはあの子の婚約者を奪ったのだ。

 もちろん望んでのことではなかったけれど。


「エファ、名前も忘れた男のことなど思い出すなよ」

 無言で考え込んでいたので、何か誤解されたらしい。

 肩まで下りてきた掌が、エファをそっとジークに引き寄せる。違うのになあと思いながら、心地よい温もりに身を預けた。


「ところが、この春にでも第二王子の結婚、と鼻息荒くしてた連中の様子が突然変わった。ドレヴァンツ公爵が神殿と王宮をあわただしく行き来しているのが目撃されている」


 なんとまあ、この北の果ての地までよくそんな噂が届くものだ。エファはそんな感想を言葉にはできないので、ただ「ほう」と呟く。


「調べてみたところ、ここ10年程続いていた『奇跡』が突然少なくなっている。これは神殿の聖女に何かあったのでは、と王都にいた貴族どもが勘ぐりだしたらしい。

 ……まあ、尤も」

 ジークが少し言い辛そうにエファの顔をのぞき込んだ。


「そもそも奇跡なんてもんは、そう簡単に起きるほうがおかしい。

 本来なら良いことも悪いことも、同じ加減で訪れるもんだ。

 ここ10年が異常だっただけで、労を惜しまなければ得るものは大きいし、怠惰でいれば飢える。それが普通だ。

 だがどうにも国中のあちこちで、労さずとも富む、が当たり前になっちまったんだな。その結果が出てきただけだ」


 ジークの言葉に、エファはきゅっと奥歯を噛む。

 それが自分が毎日、孤独に耐えながら神殿で祈っていた結果なのだろうか。


 ふっと顔に影がかかり、エファの額にジークの唇が触れる。固まったままのエファの唇にも、ジークはそっとキスをした。


「エファが悪いわけじゃない。ただ明らかに連中は聖女の力を乱用したんだ」

 それに、と少々ばつが悪そうにジークは付け加えた。


「我がアスツヴァイクでも黒小麦が毎年豊作だった。値崩れしないよう管理は面倒だったが、あのころは他の領地も穀物が有り余っていたからな。安く買うことができて、普段食えないような白パンに、民は感動していたな」


 アスツヴァイクは刺すような寒い冬が長く、夏は短い。

 その上土地は起伏が激しく、僅かな平野も耕作には不向きだ。王都のような小麦はなく、野生種に近い黒小麦が主食なのだが、やはり味は劣る。


「エファの祈りのおかげだ。辛かっただろう。耐えてくれて、今ここにいてくれることに本当に感謝している」


 そう言われると、どういう顔をしていいのかわからない。

 きゅっと口元を引き締めていないと、泣いてしまいそうだ。

 ジークの困ったように笑いながらのキスと、しっかり抱きしめてくれる強い腕。

 抱きしめられるたびに、幸せだと思うたびに、これでいいのかな、と思ってしまう。



「少々話がそれたが、ドレヴァンツ公爵と娘のハンネローネの様子が変わった。詳しく調べたところまあ……」

 エファを心配そうにのぞき込みながらジークは続ける。

「どうにもこの娘に聖女としての力が本当に備わっているか、疑問をはさむ連中が出てきた」


 おお、これが王宮で起こっている良くないことか。

 でもまだよく理解が追い付かず、エファはもう一度「ほう」と言った。


「……いつから俺の妻は梟になったんだ。

 まあそれでだな。国王陛下も事態を重く見て、状況を正そうとされたらしい。俺に王都まで来いと命令をよこしやがった」

 心底めんどくさそうにジークが言う。


「王都にですか?」

 梟なエファは目を丸くする。

 自分が王都からアスツヴァイクまで来たときは確かひと月以上かかったはず。

 もしジークが王都に行くなら、それは長い期間離れてしまうことになるのではないだろうか。

 仰ぎ見上げたジークは視線で頷く。


「竜で行けばひと月で帰ってこれる。ところが国王はエファを王都に連れて来いと言いやがった。竜騎士だけなら多少の強行軍も可能だが」


 びくっ、とエファはジークの腕の中で身震いした。

 わたしが、王都に? あの場所に、また?


「……行きたくないか」

 ジークのこの問いには、返事をすることができなかった。


「無理をすることはない。行きたくないのならエファは残してゆく」



 北の果ての土地に来て半年。


 王都の激しい感情の渦巻くあの場所に、もう一度行くなんて。


 嫌だ、と思う感情と、会いたい人たちへの思慕の感情がせめぎ合う。

何も言えないでいるエファを優しく見つめながら、彼が言う。


「朝から面倒な話をして悪かったな。さあ、遅くなったが朝飯にしよう」

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