第2話
足が痛い。
声を出さないように泣きじゃくりながら、エファは庭を歩いていた。
たった一人、知らない場所を彷徨うのは心細い。
見つかったらきっと即連れ戻されるだろうと思うと、出来るだけ誰にも見つからないように、茂みの中をこっそりと移動するしかない。
いつの間にか洋服はあちこち枝に擦れ、ぼろぼろになってしまっている。
そのうえ、さっき木の根に躓いて、膝と肘をすりむいてしまった。
じんわり痛いし、血も止まらない。
「ううう、痛いよう……」
思わず泣き言がこぼれた。気持ちはもはや自分の部屋に帰ることに傾きかけている。
それにもうだいぶ時間が経ったのに、誰にも見つからない。というか、探している気配すらない。
「わたし、いらない子なんだなぁ」
情けなくて、さっきと違う涙が溢れる。
茂みにうずくまったまま、声を出さずにしばらく泣いて、落ち着いてからようやく、エファはその気配に気が付いた。
なんだかいい匂いがする。
泣きはらした顔できょろきょろと周りを見渡し、何となくその匂いのするほうへ向かって歩き出した。そしてすぐにその場所にたどり着いた。
「土の色が違う」
どう違うか聞かれたらうまく説明できないが、なんだかほんわり光っている気がする。
でも目を凝らしてちゃんと見ようと思うと、普通の地面と変わらない。不思議だ。
見上げると見事に美しい花が咲き誇っていた。
「バラ、きれい!」
アーチ状に育てられた花に導かれるように奥に進むと、今度は不思議なドーム状の建物にたどり着いた。
「温室……?」
近づいて中を見ようとしたとき、温室の植物の間にいた女性と目が合った。
こちらに歩いてくるたびに揺れるウエーブのかかった金髪。驚いたように開かれた瞳は見事なエメラルドグリーン。菫色の上品だけどシンプルなワンピースを着た女性だった。
「あなた、どうしたの? 泣いていたの?」
その女性に導かれるまま、温室の中に入る。
中には小さなテーブルと長椅子があり、そこにもう一人男性がやはりびっくりした様子で座っていた。紺青色の髪を胸のあたりまで伸ばし、きらめく碧眼の男性は、やはりとても上品な雰囲気を備えている。
「迷子かい? こんなところまで」
彼が言うと、エファの手を引く女性が微笑む。
「ほんとうに。どうしちゃったの?」
そう言いながら、空いた椅子にエファを座らせ、濡れたハンカチをそっと瞼にあてる。ひんやりと気持ち良い。
「そ、外に出たいんです。でも見つからなくて……」
「まあ、外って…王宮の?」
二人は顔を見合わせ、何かを悟ったようだった。ふと女性はエファのすりむいた膝に目をやる。
「これは痛かったでしょう……。ちょっと待ってね」
そっと傷口に触れる彼女の指先が光りだす。魔法の力だ。
この国の高位貴族の中には魔法を操れるものが僅かながらいる、というのはエファも知っている。
ただ数はとても少なく、現在は十人にも満たないのだということも。
では彼女はこの国で最も身分の高い人だ。その彼女が躊躇うことなくエファの体の傷をすべて癒してくれた。
緊張しながらも、驚いてそれを見つめるエファに、やはり穏やかに微笑みながら、
「そんな顔しなくても……『癒し』なら、あなたも使えるでしょう?
名乗るのが遅れたわね。わたくしはエレオノーラ、あちらはアルフォンスよ。あなたは確かエファ・ドレヴァンツ嬢だったかしら?」
その名を聞いてエファはさらに驚く。
この二人なら、式典や儀式で何回か会ったことがある。言葉を交わしたことはなかったけれど。
この国の第一王子と、その婚約者だった。
「は、初めまして、エファと申します!」
すでに座ってしまっているので、あれだけ厳しくたたき込まれた淑女の礼はもうできない。
それでも一生懸命居住まいを正して挨拶すると、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「そうだね、こんなふうに話するのは初めてだ。こんなにかわいいレディが王宮に住んでいたのに」
エファはきょとんとしてアルフォンスを見上げる。
母はエファのことを醜い、と言っていた。婚約者の第二王子も、お茶会で顔を合わせても嫌そうに眼をそらすだけ。ひどいときは舌打ちされたことも。
「まあアルったら。わたしの前で他の子を口説かないで」
そう言いながらそっと紅茶を進めてくれるエレオノーラ。彼女もエファに気にせずに触れてくれる。
じわり、と視界がゆがんだ。
「……うれしい……」
一度ことばが零れると、後は止まらなかった。
エファはここでの生活の寂しさについて泣きながら話し、最初は泣き出した彼女におろおろしながらも、二人はしっかりその話を聞いてくれた。
その日はそのまま夕食まで招待され、アルフォンスの母親クリスティーネを交えて四人で食事を楽しんだ。
いつも部屋で一人食事をしていたエファはとても楽しくて、沢山お話をし、三人はしっかりそれを聞いてくれた。
その日は珍しく、エファはおなかいっぱいなるまで食べることができた。
それから、少しだけエファの周囲に変化が起きた。
まず月に一回アルフォンスから茶会の招待状が届くようになった。
後継人の公爵は良い顔をしなかったらしいが、第二王子のベルノルトが同席するということでしぶしぶ頷いたという。
尤もそのベルノルトも、お茶会にいてもつまらなそうだったし、エファとは目も合わせない、一言も話さない状態だったので、三回目からはアルフォンスは招待しなくなってしまった。
かわりにこっそりクリスティーネが混ざり、お茶会の日は夕食まで楽しく過ごすようになった。
いつの間にかクリスティーネといる時間が増えたのは、もしかしたらアルフォンスたちの気遣いだったかもしれない。
年頃の娘と母親にしかできないような会話を重ねたクリスティーネは、エファの母親のような存在になった。
やがて成長するにつれて、その三人がエファの為にどれだけ働きかけていてくれたかを知ることになる。
この国には二人の王子がいる。
第一王子アルフォンスは今年成人した18歳。
母クリスティーネは大公家の娘で、アルフォンスは正当な王位継承者だ。
ただし、彼は一度大病にかかってから体が弱く、たびたび寝込む事も多かった。
その第一王子に対立するのが、第二王子を擁するドレヴァンツ公爵家。
公爵が自分の甥にあたる第二王子ベルノルトの婚約者に、自信の養女である聖女エファを推し進めた。
病弱な第一王子より、女神のように崇拝されている聖女を妃とした、第二皇子のほうが王にふさわしい。
そんな意図が見え隠れする中、エファとアルフォンスたちが出会った頃には、王宮は二人の王子の派閥が対立する大変な時だったという。
その渦中の第一王子が、反対勢力の聖女と関わることは、本来ならばとても危険なことの筈だ。
「エファは何も気にしないでいいよ」
14歳になったエファにそう微笑むアルフォンスは、最近寝込むことがさらに増えた。
定例のお茶会はそれでも開催され、場所は温室ではなく、アルフォンスの自室へと変わった。すこし窶れた顔のエレオノーラは隣に座り、しっかり彼の手を握っている。
本来なら昨年中にふたりは正式に結婚するはずだった。
「でも、アルさま……」
「二人とも顔が暗い。エファは忙しい中来てくれてるんだから、エーラもそんな顔しない」
一番ひどい顔色のアルフォンスがそう笑いながら言い、エレオノーラの指先に口づけする。
不安げなエレオノーラの顔にそっと花のような笑顔がほころんだ。
「アル、エファが驚いていますよ」
驚いたというか、男女の甘い雰囲気にあてられてちょっと恥ずかしい。取り繕うようにエファは居住まいを正す。
「……いえ、早くお二人に会いたかったです」
先月のお茶会でも酷く顔色の悪かったアルフォンスの役に立てばと、神殿中の医療の本を読み漁った。
そこにある治療法は殆ど過去に試したもので、目新しいものは見つけることができなかったけれども。
せめて自分に癒しの手があったら、とエファは思う。
エレオノーラの『癒し』のような、個人を対象にした魔法をエファは使えなかった。
儀式の際に心を込めて国全体の安寧を願う、祈りのような魔法しかエファには使えない。
尤もエファは魔法を使っているという自覚は無く、ただ祈るだけ、ただ望むだけ。
今まで何度もアルフォンスの快癒を祈ってきたけど、その効果が彼自身に現れたことは一度もなかった。
何のための聖女だろう。
そう思えば思うほど、悔しく情けなく、涙が溢れてくる。
「ごめんなさい。わたしがもっとちゃんとした聖女だったら」
「エファは相変わらず自覚がないな。リーベヒートは今、建国以来の黄金期と呼ばれているよ」
アルフォンスが柔らかく微笑む。その優しい口調が、ますますエファの涙を誘う。
「でも、アルさまのためになること、何もできていないです」
「そんなことはない。僕はこの国の王子だから、この国の繁栄が僕の望みだ」
そう言った途端に咳き込む。低いかすれた音の混ざる咳だった。
慌ててエレオノーラが彼の背中をさする。
アルフォンスの命はそう長くない。
直観にも似た何かを感じ、エファは唖然とする。
そして無意識に立ち上がり、アルフォンスの足元に座り込んだ。
淑女教育の教師に見られたら、激怒されそうだ。
驚いた顔で自分を見下ろすアルフォンスの膝に手を当て、その碧眼を見つめる。
「エファ?」
隣のエレオノーラも不思議そうに首をかしげていた。
「アルフォンスさま」
特別な何かが起きたわけではない。
ただエファが彼の名を呼び、その体に触れ。
強く願っただけ。
―――魂を縛る呪いが解けますように……。
なぜ呪いなのか、エファ自身にもまったくわからないけれど。
激しく抵抗する何かをアルフォンスの体から感じて、それに負けぬようにエファも祈りを強くする。
結び目を解くように意識を凝らし、そしてふっと力が抜けた。
深く息をつき、そこで王子の細い上腿に触れていた自分の手に気が付く。
「あっ…ごめんなさいっ」
淑女として、なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。しかも婚約者のエレオノーラの前で。
しかし当のアルフォンスは驚いた顔のまま、エファの手をそっと握った。
「いや、良いんだエファ。……ありがとう」
その顔はまだ疲れ果てていたが、それでも先ほどとは瞳の輝きが違う。
まっすぐにエファの顔を見つめる彼の顔に、昏い影はどこにもなかった。
隣のエレオノーラは最初はきょとんとしていたが、すぐにぱあっと顔を輝かせる。その彼女をアルフォンスは力いっぱい抱きしめた。
「アル…!」
名前を呼びあう恋人たちの隣にいるエファは、また居た堪れない気分になる。
そっとその場を離れようとすると、アルフォンスに手を掴まれた。
「エファ、ありがとう。……とにかく今はとても楽だ」
「よかったです。アルさま」
エファは心底ほっとして、微笑む。
呪い、という言葉を伝えるべきか。
少しの間悩み、エファはやはりすぐにその場を辞することにした。
いつも完璧な淑女のエレオノーラが声を上げて泣き出し、それを慰めるアルフォンスを二人きりにさせたかった。きっと二人にとってはとても大切な時間だから。
最後にエファはそっと部屋の中の二人を振り返った。アルフォンスからは最初に出会った頃のような、強い魂の色を感じる。
慈しみ合う二人は、不思議な優しい光に包まれていた。
―――きっともう大丈夫。
そう確信して、そっとその場を離れた。
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