宵闇の騎士と銀の姫
ひかり
第1話
扉から外に出ると、すっと冷たい空気がエファの頬を撫でた。
吹き上げる風が銀髪を救い上げ、雪のようにさらさらと舞う。それを見つめる青みのかかった灰色の瞳が、驚いたように瞬いた。
吐く息の白さを確認するように深呼吸して、一歩一歩慎重に歩く。室内履きのままなので、石造りの床が凍っていたら、馴れていないエファは簡単に転んでしまう。
それでも、毎朝、日の出直後にここに立つのが彼女の習慣になっていた。
分厚い毛皮の外套の襟を合わせる。
外気は痺れるほど寒いのに、何かが昨日とは違う気がした。
吹く風の中にかすかな花のにおいがする。岩山にひっそりと咲く花が、真っ先に春の訪れを知らせてくれているのかもしれない。エファの心は自然と温かくなった。
エファがこの極寒の地に来たのは、去年の秋。王都を追われ、逃げるように嫁いできた。
まだ寒さにも、王都とも違う習慣にも慣れない。それでも辛いとか苦しいと感じないのは、迎えてくれた人々の優しさと、このアスツヴァイクの美しさのおかげだと思う。
特にこのバルコニーからの景色はとても素晴らしい。
はるか彼方に、天へと延びる俊峰が連なっている。
その手前側に、いくつかの山脈が高さを変えながら立ち並び、絶景を作り上げていた。
この城の向こう側にも絶壁と言えるような山々が並び、さらにこちらに向かうほど高さは低くなるものの、険しい山岳がいくつも地面から突き出している。
そしてこの極寒の中、灰色の山々はどれも頂きに雪を被り、その白に空の茜色が落ちる。毎朝見ていても飽きない、息をのむ美しさだった。
エファの住むこの城も、険しく切り立った崖のような山の頂きに作られていた。
平野の一切ない、山と谷で構成されている土地、それがこのアスツヴァイクなのだという。
「……きれいね」
実際にあの山の多くが人の立ち入れぬ場所で、ここから見るととても近く感じるのに、実際は恐ろしく遠いことや、稜線彩る白い雪は冬だけでなく一年中とける事がないのだとか。
断崖絶壁の山には沢山の飛竜たちがいて、その空を飛ぶ姿は眩暈がするほど美しいこと。
そんな話を毎晩聞かせてくれる人のおかげで、毎日見る景色はまるでいつも違う表情をしているように思える。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
誰にも聞かれないと思っていた呟きに反応する声があって、エファは驚いて振り向く。
そこには彼女の夫の姿があった。
アスツヴァイクの領主、ジークヴァルト・アスツヴァイク。
この国で唯一の竜騎士団ヒメルファングを率いる、王国の片翼を担うもの。
宵闇を思わせる髪を短く刈り揃え、蒼い瞳は彼の強い精神をあらわして怪しく煌めく。エファより13歳年上の29歳の青年だ。
エーファは半年前、この男のもとに嫁いできたのだ。
「おはようございます。ジークさま」
出来るだけ静かにベッドから出たはずだったのだけど、もしかして起こしてしまっただろうか。
「おはよう、エファ」
軍人らしいがっしりとした体躯を少し屈めて、ジークはエファの額にキスをする。そしてそのまま、エファを強く抱きしめた。
「だいぶ冷えているじゃないか」
「毛皮を着てるのでだいじょうぶです。ジーク様こそ、そんな薄着で」
こんもりと毛皮で膨らんでいるエファに対して、ジークは部屋着のままだ。
ジークは今、忙しい。
あの遥か彼方の山脈は魔物たちの巣窟で、この北の果ての土地が魔物と人の境界線に位置している。
ここより南の方面に魔物が少ないのは、王都の神殿で神官たちがこの国全体に守りの結界を張っているから、らしい。
しかしその力はこの北の果てには及ばず、春の雪解けに合わせて魔物たちの出没数が激増する。
長い冬の間も決して少なくない魔物たちとの戦いは、春には苛烈を極めるそうだ。
その備えに毎年この時期は奔走するらしい。
ここ数日は会えない夜が続いていた。
「もう少し寝ていらしたらいいのに……」
「エファも俺の帰りを遅くまで待っているそうじゃないか。リーゼに聞いたぞ」
誰にも気が付かれないようにしていたつもりなのに。毎晩ひとめでもジークに会いたいのに、いつもエファは疲れて眠ってしまう。
「ジークさまが心配なんです。今もこんなに冷えて……」
「じゃあエファが温めてくれ」
軽口を叩きながらエファの首筋に顔を埋める。くすぐったい感触に思わず笑みがこぼれた。
「お仕事、お仕事行かなきゃですよね!?」
「今日は午前中は休む。ここのところ俺は働きすぎだ。休みたい。休ませてくれ」
駄々っ子のように言いながら首元にキスをし、あわてて逃げるエファの頬に手を添え、まっすぐ瞳を見つめる。そんな風にジークに優しくされると、やはりエファは抵抗できなくなってしまう。
「エファ」
名前を呼ばれ、そっと唇が重なる。
とろけそうな幸せの中で、エファはそっとジークの胸に手を触れた。
名前を呼んででくれて、愛してくれて。
それがエファにとってどれだけ幸せなことか、ジークはまだ知らないかもしれない。
少しでも伝えようと思うけど、いつもエファは恥ずかしくて、それを言葉にすることができない。
「ジークさま、嬉しい」
ん? と首をかしげる彼を見つめる自分の瞳も、きっと彼と同じように熱を帯びている。
「……一緒の時間が、なかったから。嬉しい……です」
うつむきながら必死にそう言うと、ジークが嬉しそうに笑い、エファをそっと抱き上げた。
そのまま再び重なる唇と、熱い彼の体温を感じて。
形式だけの結婚式で、交わした言葉を思い出す。
この命のある限り、永遠に共にあると誓った。
たとえそれが彼にとって望んだものではなく、いつか終わりが訪れるとしても。
エファはこれ以上ないほどの幸せを感じていた。でもそれは、自分には許されないことだと分かっている。
なぜならエファは王都から追放された身なのだから。
神殿の聖女で、第二王子の婚約者だったエファは、罪人としてこの最果ての地に追放されたのだ。
小さな伯爵家でエファは生まれた。
何年も男の子を望んでいた両親は、生まれてきたエファに愛情を注ぐ気はなかったようだ。特に母はひどくエファを毛嫌いした。
それでも乳母のアンナや使用人たちはとても可愛がってくれたし、殆ど両親が不在だった小さな屋敷の中で、彼女はのびのび育った。
使用人の子供たちに木登りもかけっこも負けなかったた。今思うと子供たちなりに気を遣い、勝たせてくれていたかもしれないけれど。
気難しい家宰のエドも文句を言わなかった。両親をはじめ親族たちはエファに無関心だったので、彼女の教育は専らエドが引き受けていた。
ところがその状況が突然変わったのは5歳の時。
そろそろお嬢様に令嬢教育を始めねば…と追いかけるエドから逃げていた朝、突然何の前触れもなく王宮からの遣いが屋敷にやってきた。王様からの命令で、これからエファは一人で王宮に行かねばならないらしい。
高位の貴族であれば、子供でも王宮を訪れたり、国王と謁見することもあるらしいが、エファの伯爵家は貴族階級では中の下。今の今までこんなことはなかった。
両親もいない、使用人も同行を禁じられ、一人心細く王宮に向かった彼女を迎えたのは、貴族達の冷たい目だった。
どうやらエファは『聖女』というものものらしい。
しかし聖女は王族と一部の公爵家にしか生まれないはず。これは何かの間違いではないか。
大人たちの怒声が飛び交う中、人のよさそうなおじいちゃんが怯えるエファの背中を撫で、手を握っててくれた。
大丈夫だよ、何も怖がらなくていいよ。
優しい瞳でそう語りかけられるとなんだか安心して、エファは頷く。
いい子だね 。おじいちゃんは優しく頭を撫でてくれた。
そのおじいちゃんが神官長で、その時触れられたのが『鑑定』だったと知ったのは、それよりもっと後のことだったけれど。
とにかくその場でエファが聖女であることが確認され、そして宣言された。
リーベヒート王国におよそ150年ぶりに聖女が現れた、と。
それからエファの日常は一変した。
あの小さくとも温かい屋敷に帰ることを禁じられ、神殿と王宮が彼女の住まいとなる。
両親とも会えず、エファは公爵家の養女として、将来的に王族の一員になることが求められた。
神殿での儀式、王宮での淑女教育、そして第二王子の許嫁としての教育……。今までの自由な生活とは、正反対の毎日だった。
もちろん、最初は王族をはじめとした周りの人々も、そしてエファも聖女であることを信じることができなかった。
ところが、エファが神殿に来たその年は、魔物の出現数が激減したのだという。
さらに儀式を重ねるたび、王国はいくつもの『幸運』に恵まれるようになった。
天災の激減、豊作やら大漁やら、数えきれない奇跡に王都は熱狂したらしい。
聖女は神のように崇め奉られ、神殿には一目聖女の顔を拝もうと、連日長蛇の列が出来ていたとか。
すべて聞いた話である。
当のエファは目まぐるしい毎日を過ごしていて、神殿と王宮を行ったり来たりするだけ。世の中でどんなことが起きているかまったく知らなかった。
子供らしく遊ぶこともできず、監禁と言ってもいいような毎日が延々続いた。
それでもエファがエファらしく生きていられたのも、幼かった時の屋敷での楽しかった思い出、それと結婚後はこの儀式に携わらなくてもいいという神官長の言葉を信じたからだ。
リーベヒートでは男性の成人は18歳だ。
エファより3つ年上の第二王子が成人するとき、同時にエファは婚姻により王家に入る。
そのあとは王子妃として、エファの『したいことを』が出来るようになる。そう教えてくれた神官長は、本当にやさしいおじいちゃんだった。
その神官長が亡くなった時、10歳のエファは本当の意味で頼れる人を失ってしまった。
婚約者だという第二王子はいつも不機嫌そうだし、後継人の公爵が一度実の娘だというご令嬢を連れてきたが、その子がエファのことをひどく嫌っていることを知ってから、二度と顔を見せなくなった。
誰も彼もが、エファを腫物に触るように扱った。
11歳の春だったと思う。
エファは初めて王宮から逃げ出した。
王宮にはもう長く住んでいたけれど、自分の部屋と神殿につながる回廊以外に足を踏み入れたことはない。
もちろん、王宮の外へ出るにはどうすればいいのかも知るわけがない。
それでも、家に帰りたい。
エファはこっそり自分の部屋の窓から逃げ出した。
もちろん家に帰っても、あの両親が歓迎してくれるとは思わない。
それでも一目、アンナやエドに会えれば。そう思いながらが王宮の庭を彷徨った。
まだ幼かったエファは、ここが大きな中庭で、決して外につながっていないことすら知らなかったのだから。
そして小さな庭園に迷い込んだ。
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