リリアーナの日記

 目を開くと辺りは真っ暗だった。


「えっ、また暗いの!? あの手が出てくるの……っ?」


 辺りを警戒する。

 しかし、心配したあの憎悪を向けてくる黒い手が出てくることはなかった。


「ううん、違う。それよりも」


 ――あったかい。


 どくん、どくん、と音がする。

 ここはなぜだかとても落ち着く暗闇だった。

 優しくて温かくていい匂いがする。いつまでも微睡んでいたいようなここにリエラは戸惑った。


「ここはどこなんだろ? これなに? 膜が張ってる……」


 手を伸ばしてみる。

 ぐにぃっと反発する感触のそれはリエラの行く手を阻んだ。


『あっ、動いたわ!』

「……え?」


 外側から声が聞こえた。


『本当かい?』

『ええ、さっきからとても動いてるのよ』

『ふふ、とてもお転婆な子なんだね』


 幸せそうな男女の声がする。

 外側から優しく撫でられる感触がした。


『この子は男の子かしら、女の子かしら』

『どっちだっていいさ。どちらだって僕が幸せにしてあげる。もちろん君のこともね、リリアーナ』

『ベルンハルト様……』


 優しい声はお父さんとお母さんだ。

 この暗闇で微睡んでいるのは胎児のリエラなんだろう。

 とてもあったかくて優しい時間。

 リエラは微笑むと幸せそうに微睡んだ。


『早く生まれておいで。この世界はとても幸せよ』






『――そんなっ! 嘘よっ!』

『リリアーナ様っ!』

『だって昨日も会ったのよ! もうすぐだって……っ! もうすぐで一緒になれるってっ!』

『ですが、ベルンハルト様は事故でもう……』

『いやぁあああ!!』


 悲しみにくれた叫び声がする。

 この中が悲しみでいっぱいになった。

 暗闇は動く。リエラを締め付けるように。


「うっ……! 痛いっ! 痛いよっ」


 全身が引き裂かれそうに痛む。

 暗闇はリエラを追い出すかのように収縮する。追い立てられるようにリエラは移動していくと気絶しそうなほどの痛みに襲われた。

 痛みでリエラの意識は薄くなっていった。


『いやあっ! うっ! いた、痛いっ!!』

『リリアーナ様!? リリアーナ様っ――』





「おぎゃあ! おぎゃあ!」

「あら、よしよしお腹が空いたのかしら」


 温かな腕の中で目覚める。うっすらと目を開けば長い金色の髪の女性が優しそうに微笑んでいた。


「リリアーナ様、そろそろご出発なさいませんと」

「……そうね、もしかしたら追っ手が来るかもしれないわね。苦労をかけるわ、テレサ」

「いいえ」


 リエラに母乳を与えると、さあ行きましょうと少ない手荷物を持って家を出た。


「ベルンハルト様がいない今、わたくしがしっかりしなければなりませんからね」


 決意を持って前を見据える強い母の顔をリエラは腕の中から見上げた。





「リエラ様、リリアーナ様がいらっしゃいましたよ」

「かあしゃま!」

「リエラ!」


 リリアーナは持っていた荷物を置くとリエラを抱き上げた。


「しっかりお留守番できたかしら?」

「うん! できたよ!」

「えらいわ!」


 ぎゅっと抱きしめるその腕にリエラはきゃっきゃと笑う。

 そして持っていた紙をリリアーナに見せた。


「かあしゃまをかいたのよ。あげる!」

「まあ、上手ね。ありがとう、あなたは私の宝物よ」

「えへへ!」


 母親の似顔絵にリリアーナは感動したようにリエラの頭をなでた。その手はやわらかく温かかった。





「けほっ」

「かあしゃま、だいじょーぶ?」

「ええ、大丈夫よ」


 二人は寄り添って本を読んでいた。


「リエラは本が好き?」

「だいしゅき!」

「そう、もしかしたらリエラは綴り手の才能があるかもしれないわね」

「ちゅじゅりて?」

「あなたのお父様も持っていた能力よ。どんなお話の中にも入ることができるの」

「しゅごーい! ほんのなかに、はいりたい!」

「うふふ、できるかもしれないわね。……っ! げほっ、げほっ!」

「かあしゃま?」


 リエラの呼び掛けに答えることはなくリリアーナの体は傾ぐと倒れた。


「かあしゃま! かあしゃま!!」

「リリアーナ様!」





「肺を患っておられます」

「そんな……っ! どうにかならないのでしょうか」


 白衣を着た老人の医者は残念そうに首を振った。


「残念ながらもう長くは……」

「そう、ですか……」


 その様子を物陰からじっと見つめる。

 大人たちの話だからと別室に連れていかれたが母様が心配で来てしまったのだ。


「かあしゃま……」

「リエラ、おいで」


 その声ですぐに走り寄る。そうしないと母様はいなくなってしまう、そんな気がしたのだ。


「リエラ、かわいい私の宝物」





 リリアーナがベッドにいる時間が長くなった。

 痩せ細った体はあまり長くはないのだと物語っていた。


「リエラ、あなたに大事な話があるの」

「だいじなはなし?」

「そう。母様はもうすぐね、天国に行ってしまうのよ」

「しょんな……っ! いやだよっ!」


 天国へ行く。その意味が分かってしまったリエラはリリアーナに抱きついた。

 本当は泣き喚きたい。嫌だ、置いていかないでと言いたい。しかし、言ったら母様を困らせるだけだとリエラは必死に堪えた。


「……ごめんね、母様も本当はリエラとずっと一緒にいたかった。でも難しそうだからあなたに大切なことを伝えておくわね」


 涙をぐっとこらえてこくりと頷く。


「母様はね、ひとつ前の王様の子どもなの。王女様ではないのだけれど王様の血を引いているのよ」

「おうさまのち?」

「そう。それでね、その血のせいでリエラはこれから色々と苦労をすると思うの。追いかけられることもあるかもしれない。そのときはすぐに逃げてね」


 こくりと頷く。


「これを渡して置くわね」

「これなぁに?」

「とても大切なものよ。預かり物なの。だからいつかリエラがね――」


 白く細い指がリエラのもみじの手に大事なものを握らせた。


「うん、わかった」

「えらいわ。私の宝物。忘れないでね、どんなときもあなたの幸せを祈っていること。リエラは父様にも母様にも愛された愛しい子なのよ」

「とうしゃまも?」

「もちろん。父様は先に天国へ行ってしまわれたのだけど、いつだって天国からあなたのことを見守っているのよ」

「てんごくから?」

「ええ、わたくしももうすぐそちらに行くけど、ずっと見守っているわ。大好きよ、リエラ」

「わたしもだいしゅき、かあしゃま」




 ――ごうっと音を立てて暴風が吹き荒れた。

 パラパラとページがめくられて、この泡沫の幸せが終わってしまったのだと分かった。


 そして現在の姿に戻ったリエラは白い空間へと立つ。


「戻ってきた……? ――ぁっ!」


 その瞬間、これまでの記憶が濁流となってリエラの頭に流れ込んだ。



『かはっ! てれしゃ……なんで……』

『お嬢様に恨みはないのですよ。恨むならその血を恨んでくださいね』


 いつも面倒を見てくれていたテレサが突如として首を締めてきた。


『命令なのです。悪く思わないでくださいね』

『ぃやあっ! かひゅっ!』


 リエラは首を絞められる苦しさに持っていた本を握りしめた。


『なっ!?』


 すると、本は光り輝きリエラを飲み込んだ。


 それからは本の世界と現実の世界を渡り歩いた。

 どこからが物語で、どこからが現実なのか分からなくなるくらい。


『いたぞ!』

『――逃げなきゃ!』


 だが、現実の方はリエラを狙う黒装束の男がやって来るので判別がつく。

 黒い男たちはリエラの命を狙っているようだった。何度も命の危機に見舞われその度に本の中へ隠れる。

 黒い影を見たら本に逃げ込む生活が何年も何年も続いた。


 リエラは走る。走る。

 ここがどこなのかは分からなくても。どんな物語なのか分からなくても。

 そして、ふっ、と立ち止まったとき、リエラは後ろを振り向いた。


『え……?』


 物語の中、リエラが走ってきた道がぐにゃりぐにゃりと歪んで狂っていくのが見えた。


『なんで!!』


 今まで走り抜けた物語の怨嗟が聞こえる。

 どうして狂わせたんだ、苦しいという声が聞こえる。


『なんで、私ばっかり!!』


 リエラはうずくまると頭を抱えた。


『もう嫌だ! 苦しいよ、寂しいよ! 助けてよっ!』


 目を見開き頭を掻き毟る。

 黒い手が元に戻せとリエラに向かって伸びてくる。


『いやぁぁぁあああっ!!』




『――リエラ、泣かないで。もう大丈夫よ』


 白い光が優しくリエラを包み込むと世界は真っ白に染められていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る