不思議の国のアリスト1

『目を開くとぱちりと目が合った。

 薄い鮮やかな金髪に空色の瞳。可愛らしい顔立ちはまるでアリスだ。


「アリス……?」

「は?」


 ふと自分の姿を見る。赤いベストに白いふわふわのスカート、手には懐中時計を持っていた。


「ねえ、人を妙な名前で呼ばないでくれない?」

「うひょわっ!」


 むんずと頭の上を掴まれる。奇妙な感覚に掴まれたままの頭の上を触れる。ふわふわとした二本の細長いものが頭から生えていた。


「ふぇっ?」

「君、ずいぶんと愚鈍なんだね。――白うさぎ」

「白うさぎ? 私が?」


 不思議の国のアリスの白うさぎは確か、急げ遅刻するとアリスに追いかけられながら走り回る役どころでなかっただろうか。


「はぁ、大丈夫かな。コレ」


 よく分からないが目の前のアリスは少し落胆してため息をついた。


「えっと……アリスちゃん?」

「は? アリス、ちゃん・・・? ねえ、君には僕が女にでも見えるの? 君の目は節穴かなにかなの?」

「え、ええ?」


 目の前の微笑みながら器用に怒る人物を改めて見る。

 歳の頃はリエラと同じくらいか少し下。白いワイシャツに水色のベストと半ズボン、薄金色の髪は短く、リエラよりも高い背丈。顔立ちは可愛いが女の子にしては男らしく、声も少し低かった。

 そう、アリスは男の子だ。


「男の子!?」

「どう見てもそうじゃない」


 不機嫌そうにじろりと睨めつけると彼はリエラのウサギ耳から手を離した。


「僕はアリスじゃなくてアリスト。もう間違えないでよね」

「う、うん、ごめん?」

「それで君、ここにいていい訳?」

「えっ、あ、そうだ! 急がなきゃ!」


 そうだ、白うさぎなら赤の女王のところへ急いで向かわなければならないのだ。遅刻してしまうと女王に首をちょん切られる!


「ごめんね、アリスト! 私もう行くね!」

「まあ、待ちなよ」

「いだぁっ!」


 ぐいーっとウサギ耳を引っ張る。


「え、なんで?」

「別に僕を置いていかなきゃいけない道理なんてないでしょ。一緒に行けばいいじゃない」

「ええ?」


 リエラの話をちっとも聞く気がないアリストはリエラの手首をガシッと掴むとウサギ穴まで歩いた。


「さあ、行くよ。冒険のはじまりー」

「え、え、うぎゃあああああ!!」


 リエラを掴んだままアリストは穴に落ちていった。





「酷い目にあった……」


 ぜいはあと這う這うの体で落ちた穴から移動した。

 大分長い時間落ちていたような、すぐに底に叩き落とされたような不思議な感覚のせいでリエラはもうふらふらだ。


「まったく。それくらいでふらふらするとか根性ないね」

「いきなり穴に落とされたら誰だってそうなると思うよ!?」


 穴に落ちても平気そうなずいぶんと肝の据わったアリストにリエラは涙目で言い放つ。そもそもアリストがいきなり落ちていくからこうなったというのに。


「まあいいけど。それじゃあ行くよ」

「はぁい」


 もうなにを言っても無駄だと諦めたリエラは大人しくついて行くことにした。

 しばらく歩くと中央にテーブルがあるだけの小部屋に辿り着いた。


「なにかな、ここ」

「テーブルになにか置いてあるようだけど」


 そこには『drink me』と書かれた小瓶と『eat me』と書かれたケーキが置いてあった。


「私を飲んでと私を食べて?」

「……やるしかなさそうだね。僕たちが来た扉も消えたし」

「え!?」


 後ろを振り返れば開いていたはずの扉さは消えて真っ白な壁になっていた。

 どこかに出口はないかと調べれば小動物が通れるくらいの扉がひとつあるだけだった。

 アリストはテーブルに置いてあった鍵を使ってカチャリとそこの扉を開けた。


「ずいぶんあっさりだね」

「鍵を開けとくのは当然じゃない? それじゃ白うさぎ、これ食べてみて」

「えー……」


 とっても怪しげなケーキを前にリエラは戸惑う。

 しかし、この二つのどちらかを食べるか飲むかしないとこの部屋から脱出できないのだろう。


「先に、アリストからは……。食べないよねー……」

「なんで僕が。先に行きたいのは白うさぎなんでしょ」

「だよねー……」


 怪しいケーキにごくりと息を飲む。

 どうせ食べなきゃいけないならサクッと終わらせてしまわなければ。

 ええい、女は度胸だ! とリエラは勢いよく、しかし勢いの割には小さくケーキを齧った。


「きゃああああ!」

「ふーん、こっちは大きくなる方か」

「アリストってば冷静に分析してないでたすけてー!」


 齧った途端小部屋いっぱいに体が大きくなったリエラは焦る。アリストを避けながら壁に張り付かなければならなくて酷く窮屈だ。


「なら、こっちを飲んでみて」

「うん!」


 ドールハウスの小物並の小瓶を渡され中身を全て飲んでしまわないように液体を舐めた。


「うっきゃああああ!」


 しゅるしゅると見事に小さくなっていく体に理解が追いつかない。叫びながらそれでも扉から抜け出せるくらいには小さくなった体にリエラはほっとして開いていた扉をくぐった。


「それじゃあ先に行くね!」

「あ、ちょっと!」


 傍若無人なアリストには付き合いきれないと未だ体の大きなアリストを残し、逃げるように先へと進んだ。





「迷った……」


 森の中、体が小さくなってしまったせいで草木が大きすぎて道がどこだか分からない。

 とりあえず前に進んでいると、きのこの上に座ったイモムシを見つけた。

 イモムシのふかす水煙草のせいであたりはもくもくと白い霧に覆われた。


「……」

「……」


 不思議な存在にほけーっと見つめる。自分と同じサイズのイモムシに会うのは初めてだ。


「あんた、だれ?」

「私は白うさぎ、です。今は。……多分?」

「なんだって? 自分が誰なのかもしっかり言えんのかい」

「……私は」


 自分が誰か。私はリエラだ。でも、本当にそうなんだろうか。名前がリエラなのは間違いない。でも、他は? 私が何者なのか分かるのか。


「……分からないの。だって、私、記憶を失っているから」

「ふーん」


 イモムシは興味なさげに水煙草をふかす。


「記憶は戻らないのかい」

「今、記憶を探しているの。どこかに落ちているはずだからそれを見つけださなきゃ」

「なぜだい」

「え、なぜって記憶がなきゃ困るでしょ?」

「それは本当かい?」

「え……」


 イモムシの問いかけに困惑する。

 気にしたこともなかった。だって記憶がなければ自分が誰か分からないじゃないか。見つけるのが当然だと思っていた。


「失くしたままの方が幸せなんじゃないのかい」

「……」

「失くしたかったから失くしたんじゃないのかい」

「そ、れは……」


 黒く伸びる手を思い出す。

 なにも知らなかった自分を思い出す。

 ――ねえ、、は本当に幸せだった? 

 いらないものを捨ててきたのだとしたら。それを本当に拾ってしまっていいの?

 私がなにをしてきたのか。見つけてしまっていいの?

 イモムシの問いかけにリエラは口ごもる。


 ――でも。

 失くしたかったから失くしたのなら。

 それはとても悲しいことなのではないか。


「それでも……私は……」


「別に戻したいなら戻せばいいんじゃない」


 ぐいっとリエラとイモムシは上に引っ張りあげられた。


「アリストっ!?」


 引っ張りあげたのは巨大なアリストだった。いつの間に見つけたのだろうか。アリストはリエラとイモムシを手のひらに乗せるとつまらなそうな顔をして続けた。


「別に前の自分に遠慮する必要ある? 今、自分が記憶を戻したいと思うならそれでよくない?」

「今の自分が……」

「後悔するならその時はその時でしょ。うじうじ悩んだって仕方ないじゃない。それで? 君はどうなのさ。見つけたいの、見つけたくないの」

「私は……」


 目を閉じてこれまでを思い出す。

 キースがいてランベルトが来てルイーシャに会って。他にもたくさんの人に出会えた。それはとても楽しくて幸せだった。

 もし、前の自分が辛い思いをしていたのなら。伝えたい。楽しいことも幸せなこともあるんだって。そして、感謝を伝えたい。今までの自分を作り上げてくれてありがとうって。


「私、記憶を取り戻したい。今までの自分に会いたい」

「そうかい」


 そう言うとイモムシはみるみるうちにサナギになり、サナギの背中が割れてくると中から綺麗な青い蝶が出てきた。

 その蝶はやがて大空へと羽ばたいていった。



「――アリスト」

「なに」

「ありがとう」


 大きく見上げてお礼を言う。きっぱりとした態度が最初は少し苦手だったが、今はそれに救われた。嫌な人ではないのだ。

 アリストはしばらくこちらを見ていたが小さく息を吐いた。


「別に思ったことを言ったまでだよ」


 えへへと笑うリエラをアリストはつついた。


「っていうかね、とっとと先に行かないでくれない? こんなちっぽけになって僕がどれだけ探すのに苦労したと思う!?」

「ぎゃあ! ごめんって! って、アリストおっきい!」

「君が小さいの! 小さいままさっさと行くんだから。――ほら」

「あれ?」


 アリストは体の大きくなるケーキを差し出した。


「これどうやって持ってこれたの?」

「どうやってって……。小瓶の液体を飲む前にケーキを外に出しといたんだよ。それで小瓶を飲んで体を縮めて出た後にケーキを食べたの」

「なるほど」


 ずいぶんと効率的なアリスだ。

 それに救われたリエラはありがたくケーキをいただいた。

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