狂いの図書
「あ、れ……?」
ふと意識が浮かび上がる。
違和感を感じ薄く目を開いた。青い草の匂いではなく古い紙の匂いが鼻腔を擽る。
何度目だろう。意識をなくす度に場所が変わるのは。
私は草原ではなく初めて目が覚めた時にいた本に囲まれた薄暗い部屋に倒れていた。気がついた私は慌てて起き上がった。
「どうして……。キース? キースはどこ?」
急いで辺りを見回すも、もう随分と前に見たような誰もいない本だらけの部屋でしかなかった。
そこには先程まで一緒にいたはずのキースはいない。まるで最初から存在していなかったかのように。
「どうして……」
呆然と座り込んでいると以前手に取った『或る国の物語』という題名の本が開かれた状態で側に落ちていた。
私は引き寄せられるように本をめくった。
「え……?」
最後のページの挿絵を見て息を呑んだ。そこにあったのはあの草原で微笑みあうキースと王女の絵だった。慌てて他のページをめくりパラパラと読み進める。するとこの『或る国の物語』という本には私が今まで辿ってきたことが物語となって綴られていた。
夢だったのだろうか。あんなに悩み苦しんで来た日々が。
幻だったのだろうか。やっと解放されてキースと共に歩んでいけると思ったあの喜びが。
釈然としないまま物語を見つめ続けていると、扉を叩く音が聞こえた。
「は、はい!」
「失礼致します」
誰もいなかったはずなのにと思うもようやく人に会えそうな気配に私は慌てて扉を見やる。扉が開くと一人の若い男が入ってきた。
「キース……?」
「はい。お呼びですか?」
黒髪に宝石のような碧の瞳を持った端正な顔立ちの男を見間違えるはずもない、先程将来を誓い合った筈のキースだ。
穏やかで優しげな表情でこちらを見るキースはふと気付いたように小首を傾げた。
「おや? よく私の名前をご存知ですね。まだ名乗っていなかったはずですが」
「え?」
表情と同じように穏やかな男の声に先程のような熱を感じない。優しそうな瞳にも愛しい人を見つめるような甘さはなかった。
常に私と共に居てくれたはずなのに。初めて会ったかのように話すキースに私は愕然とした。
「本当に……?」
「え? ええ」
(何も覚えてないの? それとも同じ名前のそっくりさん?)
ぼうっと見つめているとキースは座り込む私に合わせて腰を落としそっと頬をなでた。
「どうしました? なにかございましたか?」
自分でも頬をなでるとそこが濡れていることに気づいた。私は泣いていたらしい。困惑してすぐ側にいるキースの顔を見つめた。
それに気づいたキースは優しく微笑むと失礼致しますと言ってから私を支えて部屋に一脚だけある椅子に座らせた。そして彼は椅子に座る私の目に合わせるように腰を落とした。
「なにか、辛いことでもありましたか? 話すことで悩みが解決することもあります。もしよろしければこのキースに話してみてくださいませんか」
「わ、わたし……」
優しく慰めるような声に私は縋るように口を開いた。
自分の記憶が全くないこと。
最初はこの部屋に居たはずなのに気がつけば王宮にいて自分が王女となって国の滅亡までを駆け抜けたこと。
そしてまた気がつくとここへ戻っていて、その話が手にしていた本に描かれていたこと。
王宮で共に駆け抜けたキースという男が目の前の男にそっくりなことなどを言葉がつかえながらも話した。
ただ、王宮でずっと一緒だったキースと結ばれたことをこのそっくりな顔のキースに話すのは恥ずかしくて有耶無耶にした。キースもいきなり言われても困るだろう。なにせ、このキースは私とは初対面のようだから。
私の拙い話をキースは根気強く聞いてくれた。夢のようで有り得ないこの話をキースはバカにすることなく全てを話し終わるまで静かに耳を傾けてくれた。
そして私が話し終わり静寂がこの本の部屋を満たすとキースは口を開いた。
「やはり、あなたは……」
考えるように目を伏せていたキースは小さく呟くと再びこちらを見た。
「お尋ねしたいのですが、気がついたら王宮にいたとの事ですがその際になにか特別なことはございませんでしたか」
質問された事に少し驚いた。てっきり夢ですよと言われて終わりだと思っていたからだ。実際、話して今までのことが整理できた私はさっきまでのことは夢だったんじゃないかと思うようになったから。
真剣な顔のキースに私は考えた。一番最初に本の部屋で目覚めたことが遠い昔のことのようだ。
「うーん……。特別なこと……」
何があっただろうか。起きた時に一番最初に感じたのは困惑だった。そこから部屋を出て広い屋敷には誰もいなくて。部屋に戻ってからも鏡で自分の顔を覗いても記憶は戻らなくて。それから――。
「ここの本棚に入っていたこの本がカタカタと揺れていて。本棚から出して題名を読んで表紙を開いたら突然光出してそして気がついたら王宮にいたの」
持っていた本を掲げてみせた。経験したことと同じことが描かれたこの本。読みながら寝ていたのだろうか。だからその夢を見たのか。不思議だった体験に私は思いを馳せた。
「やはりあなたが
「どういうこと? キースさんは何か知っているの? 教えて! 私は一体
俯き表情が分からなくなったキースの腕を思わず掴んだ。
もう、手がかりはこの人しかいない。
なにか情報をと無意識に腕を掴む手に力が入る。その手にそっと触れる大きな手をはっと見て前を向くと真剣にこちらを見つめる瞳とぶつかった。
「私が知ることは少ないのです。まずはじめに、申し訳ございませんがあなたが何処のどなたなのか残念ながら存じ上げません」
「そんな……」
申し訳なさそうな声に強く掴んでいた手から力が抜ける。
そうだった。初めにキースは私とは自己紹介も済ませていない初対面だと言っていたではないか。
「ですが、あなたの体験した現象についてはご説明することができます」
「本の内容と同じ体験をしたっていうこと?」
「左様です。まずご説明したいのはあなたが話していたこの本は『狂いの図書』と呼ばれるモノです」
「狂いの図書……?」
その物々しい名前を繰り返す私にキースは頷く。
「はい。狂いの図書というのは本の中に魔力が入り込みその魔力によって物語が狂わされてしまったモノをいいます。魔力が入ってしまった本は普通に読まれる書物とは違う存在に変化します。
物語が狂わされ結末をなくした本は自我を持ち始め入り込んだ魔力を使って結末を取り戻そうと動きます。
しかし、物語の登場人物は狂っており結末まで辿り着くことはできません。
そこでどうするかというと外部から新たな登場人物として物語を導けそうなモノを取り込むのです。簡単に言えば周囲にいる人間を喰らいます」
「えっ!? 人を食べるの!?」
「本の中へ引きずり込むという感じでしょうか。
狂いの図書は喰らった人間を物語の登場人物に仕立て上げ結末を作り出そうとします。喰われた人間は本来の記憶をなくし物語の中で狂いの図書の干渉通りに動きます。いわば狂いの図書の操り人形となるのです。
……ここまでは大丈夫ですか?」
ここまで説明したキースは気遣わしげにこちらを見た。しかし想像の斜め上の説明に半ば呆然としていた私はぎこちなく頷いた。
「ええっと、なんだか壮大すぎてついていけてないんだけど……。うん、大丈夫。続けて?」
「辛くなったら遠慮なく仰ってくださいね。それでは続けますが、狂いの図書の操り人形となっても操るのは結末をなくした狂いの図書。いくら操ろうとも結末には辿り着きません。なにせ操るモノが結末を知らないのですから」
「確かに……」
「そしていつまでも辿り着かない結末に狂いの図書は怒り物語をリセットします。めでたしが来るまでいつまでもいつまでも。物語が終わるまで喰われた人間は本に閉じ込められることになるのです」
「そんなっ……! っていうことは食べられちゃった人はずっと本の中を彷徨い続けるの?」
「ひとつだけ助ける方法はあります。
――物語に介入し結末まで導けばよろしいのです」
そんな恐ろしい本に慄いた私は声を上げるとキースは頷いてひとつと指を立てた。
「狂いの図書の干渉を受けず記憶と自我を保ったまま物語を導ける特殊な魔力を持つ者がいます。その特殊な魔力を持った者を『綴り手』といいます」
「綴り手?」
「綴り手は狂いの図書の干渉を受けません。なので物語内を自由に動き回ることができる。そして登場人物たちの干渉に介入し誘導することで辿り着かなかった結末まで導くことができるのです。その綴り手がいれば物語は完結し魔力は鎮まり喰われた人間たちを元の世界へ戻すことができます」
「ならその綴り手って人を探して食べられちゃった人を助けてもらわなきゃ」
探しに行かないと、と前のめりになる私にキースは緩く首を振った。
「いえ、探さずとも大丈夫ですよ。すでにこちらにいらっしゃいますから」
「え? ここに?」
「狂いの図書を鎮める特殊な魔力を持った綴り手、それは――あなたです」
「へっ?」
いきなりの告知にぽかんと口を開いて固まる。こちらを見つめる瞳は真剣で冗談を言っているようには見えない。
ギギギとぎこちなく自分を指差す私にキースはニコリと微笑んだ。
「私?」
「はい」
「私が綴り手?」
「今の話を受けて確信致しました。あなたはこの『或る国の物語』という狂いの図書を無事に結末へと導くことができた。それは綴り手以外ありえません。あなたは綴り手の能力を持った方なのですよ」
「私が綴り手……」
説明されてもピンとこない。だって私はただ自分が思った通りに行動していたに過ぎないのだから。
うーんと納得できていなさそうな私を見てキースは更に続けた。
「綴り手自体は狂いの図書に入り込む以外特に特殊なことをすることはないと聞きます。思うがまま行動して 登場人物たちとやり取りをする。すると自由に行動する綴り手に触発されやがて登場人物たちも結末まで歩んでいくそうです」
「そうなんだ」
さっきの本も私がいたことで登場人物が動けたってこと? といきなりの突飛な話に追いつけないながらも理解しようとうんうん唸る。
私が綴り手でひとつの狂いの図書を元に戻して食べられた人を元の世界へ戻すことができた。ならよかったではないか。登場人物たちも現実の世界で元の生活に戻ることができるのだから。
(あれ? そうなると助けた人って……)
「これも運命なのかもしれませんね……」
「え?」
ぽつりとキースが呟いた。
「この部屋にある本は全てが狂いの図書です。こちらの屋敷は世界中から集められた狂いの図書を収納し人々へ被害が出ないように管理する役目を担っております。そんな屋敷へあなたはある日突然やってきました」
その日を回想しているのかすこし目線をずらし軽く目を細めながらキースは続けた。
「ひどく焦っておられるようでした。怯えていたのか……今となっては分かる者はおりませんがそんなあなたを私は中へと迎え入れました」
「キース、さんが」
「はい。私は長年この屋敷を管理しています。あの日、酷く雨が降りつける夜、あなたは扉を叩きどうか入れてほしいと頼み込んできたのです。この屋敷は性質柄他の民家から遠く離れた森深い場所にあります。こちらへと辿り着くとは只事ではないと判断しましてすぐに扉を開きました」
「ずぶ濡れだったあなたへタオルを手渡し何があったのかと問いかけ対応しようとした時でした。突如狂いの図書が暴走をはじめ迂闊にも私は喰われてしまったようなのです」
そこまで話すとキースはこちらを向きにこりと微笑んだ。話の風向き的に私はまさか、もしかしてと焦り始めた。
「『或る国の物語』の世界から助け出していただきありがとうございます」
「も、もももももしかして、お、覚えて……?」
あの話を覚えているなら気まずいと顔を赤くして焦る。初対面の人となにラブストーリーを繰り広げちゃったのかと恥ずかしかっていいやら申し訳ないと謝るべきなのやらと顔を赤くしたり青くしたりひとり百面相を披露する私にくすりと小さく笑ったキースは首を振った。
「……いえ、残念ながら。助け出された方の中には物語を覚えている方もいらっしゃるそうですが私は前後の記憶しかありません」
申し訳ございませんと謝るキースに私はぶんぶんと首を振った。むしろ忘れてくれてていいです。申し訳なさすぎるので。
「あなたは導かれたのかもしれませんね。狂いの図書に。あなたがこの屋敷へ来たときすでに記憶を失っていたのかそれともここへ来てから失ったのかはわかりません。しかし、もしかしたらその記憶をなくしたことは狂いの図書と関係があるかもしれません」
「どういうこと?」
「こちらの現実世界と狂いの図書の境は曖昧です。あなたがすでに綴り手として狂いの図書を鎮めていたのだとしたらその境で記憶を落としてしまった可能性があります」
そこまで言うとキースは私を見た。
「そこで提案なのですが、あなたが宜しければこの屋敷で綴り手として狂いの図書を鎮めてくださいませんか? この屋敷には今でも狂いの図書が運び込まれます。もしかしたら記憶を落とした狂いの図書が見つかるかもしれない」
「綴り手に……」
分からないことだらけだ。もしかしたらこの記憶障害は狂いの図書とはなんら関係がないのかもしれない。しかしその可能性に一縷の望みをかけてみてもいいかもしれない。
断ってここから出たとしても何も分からないまま生活できるとは思えない。ならば記憶が戻るまでここでお世話になりながら狂いの図書に食べられた人を救う綴り手をしてみてもいいのではないだろうか。
「……私、綴り手になる」
こくりと提案に頷くと私は改めてキースを見つめた。
「これからしばらく綴り手になってここでお世話になりたい、です」
「ああ、よかった。ありがとうございます。よろしくお願い致します」
「よ、よろしく、お願いします!」
キースは真剣な表情を和らげると穏やかに微笑み頭を下げた。それを見て私も慌てて頭を下げる。
その拍子にいつの間にかずっと床に落としっばなしだった『或る国の物語』に足が当たった。キースの腕を掴んでしまった時に落としてしまったらしい。
「あ、落としっばなしだった」
拾おうと屈むより早くキースが拾った。そのまま表紙を見たキースはああと頬を緩めた。
「記憶を取り戻すことはできませんがあなたの名前でしたらお渡しすることができそうです」
「ホント!?」
キースは微笑みながら拾った狂いの図書を手渡してくれた。受け取りそのまま表紙を見ればそこには題名と見覚えのない名前が記されていた。
「リエラ クラッセン……? あれ? 初めに見た時こんな名前あったかなぁ」
「それがあなたの名前ですよ。リエラ様」
「え?」
私は首を傾げた。
「狂いの図書は魔力を受け物語が狂った際、結末とともに元の作者名が消えてなくなります。作者をなくしたことで更に狂いの図書は暴走いたします。その狂いの図書が再び綴り手によって結末を取り戻したとき、結末まで導いた綴り手を作者名として刻すことで狂いの図書の魔力は鎮まり安定するのです」
「そうなんだ……。私の名前はリエラ。リエラ クラッセン……」
名前だけでも取り戻せたようで私は刻されているリエラ クラッセンの名前にそっと触れふふっと笑った。
「改めてこれからよろしくお願い致します、リエラ様」
私の名前を優しく呼ぶとキースは恭しく礼をとった。
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