第53話 翼をはためかせて

「最近ね、不思議な夢を見ることが多かったの。しかも、何故か夢の内容を鮮明に覚えているの。妙に現実感があって、自分がその場にいて体験しているような夢だった。その夢の主人公は私じゃなくて……翔」


「え……僕!?」


「そう。だから初め、あなたが私の病室に入ってきた時、心臓が飛び出るかと思ったわ。だって、夢の中の男の子が現実に自分の目の前に現れたんだもの」


 凪原の夢に僕が登場していた!? 聞きたいことが色々あったが、黙って聞くといった以上、余計なことは言わずに黙って彼女の話に耳を傾けた。

 凪原はこほんと咳払いしてから、夢の内容を振り返るようにゆっくりと話し始めた。




 ――夢の中で、私はいつも翔くんの後ろを歩いていた。車椅子じゃなくて、自分の足で。自分の足で歩けなくなって随分経つから、歩くのが下手で結局、おんぶしてもらったりした。今、考えると自分でも恥ずかしいことしたなぁって思う。


 学校にも一緒に行ったんだよ。黒板消しを教室の扉の上に挟むなんて下らないイタズラもやったなぁ。

 夢はほとんど毎日のように見てた。いつの間にか私は夢の続きが気になって、早く消灯時間にならないか、なんて思うようになっていた。


 夢の内容は毎回少しずつ変化していった。その中で私は、翔くんが家の事情で悩んでいることを知るの。現実の翔くんがどうなのかは知らないけど、夢の中のあなたは家族関係に悩んでいたわ。


 夢の中の翔くんは、だんだん自分の悩みを打ち明けてくれた。


 十五年当たり前のように親だと思っていた人たちが、実は赤の他人で、自分は彼らの養子なのではないかという疑念にさいなまれて、翔くんは家の中でいつも窮屈な思いをしていた。やりたいことを素直に口に出せず、やりたくもない受験勉強に取り組む日々。私は後ろから見ているだけだったけれど、辛かった。


 夢の中でもあなたは絵が好きで、本心では美術科のある高校へ進学して、もっと絵の勉強に打ち込みたいと思っていた。でも、両親に余計な心配や負担を掛けたくないと思って、家の中では本音を隠して、嘘の自分を演じていた。

 家の中だけでなく、学校でも嘘で固められた仮面をかぶり続けるあなたを見ていて、胸が痛くなった。

 でも、私の心配は杞憂だった。やがてあなたは自分の本音を両親にぶつけるの。夢の内容は断片的だったから、翔くんが両親と向き合うようになった経緯はわからない。

 私が覚えているのはそこまで。それからは不思議と、この夢を見ることはなかった。




「……この絵に描かれてる女の子は確か、一度だけ、夢に出てきたの。夢で彼女は翔くんの後ろにいた。いつもなら私がいるはずの場所に彼女がいた。私は傍に立って、二人が談笑するのを見ていた。その時に彼女が私の方を振り向いて何かつぶやいていた気がするんだけど……思い出せない」


 凪原の話を聞きながら、僕は腰が抜ける思いだった。彼女が見たという夢の内容が、全部本当のことだったからだ。


「……僕はこの病院で絵の女の子に出会ったんだ。彼女は記憶を失くしていて、自分のことを幽霊だと言っていた。実際、他の人には彼女の姿は見えないみたいだった」


「まさか。幽霊だなんて……そんな話……」


「嘘じゃないよ。それに君が見たっていう夢の内容……ぜんぶ本当に起きたことなんだ。……僕も少し怖くなってきた。もう、単なる偶然では片付けられない」


「この子は今、どうしてるの? その……もし本当に幽霊なら、私には見えないけれど、今もあなたの後にいるってこと……?」


 凪原がおそるおそる僕の後ろの方へと視線を向けるのを見て、僕は思わず苦笑する。


「いや、彼女はもう消えてしまったんだ。消える直前、彼女は僕に言ったんだ。『わたしは私に殺された』って」


 殺すという単語を聞いて、凪原の顔が引きつった。


「僕なりにその意味を考えてみた。僕の推測では、この絵の女の子は、凪原……君の分身なんだ」


「私の分身……?」


「正確に表現すれば、君が胸の内に閉じこめた、自分。言い換えれば、本来の凪原光」


「私は私。幽霊になんてなった覚えはない!」


「彼女はいつも楽しそうに笑っていた。それにもう、鬱陶うっとうしいくらいおせっかいだった。それはもしかしたら、君自身の本来の性格なんじゃないか?」


「……本気でそう思ってるの? あなたのバカげた妄想はもうたくさん!」


「君はやっぱり無理してる。本当はまた歩けるようになりたいんだ!」


「違う! 私はそんなこと思ってない!」


「君は怖れているだけなんだ。治療して、また失敗だったらっていうのが怖いから……だから、自分の足はもう治らないと決めつけるようになった」


 りんごは、もう一度歩きたいという凪原の思いが生み出した幻のような存在だったのかもしれない。凪原が見たという夢の内容を聞く限り、彼女は夢でりんごの記憶を追体験していた。だから、ずっと病院に入院してたにも関わらず、僕の家出事件について知っていたのだ。


「君は本音を隠してる。素直な気持ちを出して、傷つくのが怖いから。でも、それじゃあ何も解決しない。僕が言わずとも、凪原が一番わかってるはずでしょ」


 凪原は消え入るような声でそんなわけ……とつぶやく。

 手がグーの形に握りしめられていて、髪先がわずかに震えていた。


「治療に踏み出せなくて、自分で足が治る可能性を塗りつぶして……でも、歩きたいという思いは消えない。自分の中に本音を隠すなんて、本当は誰にもできないんだよ、きっと」


 凪原はこれまで何度も、何度も治療を受けては、そのことごとくが効果を為さなかった。それでいつしか、自分の足はもう動かないんだと決めつけるようになってしまった。

 なんとなく僕には彼女の気持ちがわかる気がした。だって、僕は……、


「……翔に、どうしてそんなことわかるの? 結局は全部、あなたが考えた想像でしょう……」



「――わかるさ。僕も君と同じだから」


 僕も凪原も似た者同士なんだ。だから、わかる。


「僕も――本音を悟られないようにずっと嘘の自分を演じていた、今の凪原と同じように。言いたいことを言わないで隠し続けて……だから大切なことに気づかなかった。凪原、君はお父さんやお母さんの気持ちを考えたことあるの?」


「お母さんの……気持ち……?」


 あの頃、僕は自分のことしか考えていなかった。周りの人間が僕のことをどう思っているのなんて、りんごに言われるまで考えようともしなかった。


「極端なことを言えば、だよ。君が治療を拒んで、このまま一生歩けないままだったとして、それは凪原自身が決めたことだし、本人は納得できるかもしれない。でも、周りの人間……特に親しい家族は違う。君自身が一生歩けないことを受け入れても、やっぱり親は悲しむと思う」


「何回もやってダメだったのよ。私の病気……L.P.Sは治るような病気じゃないのよ。これ以上、効果のない実験治療のためにお母さんたちに迷惑かけたくないの!」


「――それは違うと思う。凪原の親はそんな風に思っていない」


「なんで翔くんにそんなことが言えるの? 私のお母さんに会ったこともないくせに」


「僕の母さんもそうだったから。本音で話し合って初めてわかった。母さんは僕以上に僕のことを心配していた。君のお母さんもたぶん同じさ。誰よりも、凪原のことを心配していると思う。そういうのってさ……口では言わないけれど、ちゃんと見ていればわかるものなんだよ」


 凪原は改めてキャンバスの絵をのぞき込んだ。キャンバスを見つめているその真剣な瞳に、僕はごくりと唾を飲む。凪原はまるで絵の中の女の子と会話しているみたいだった。




 そのとき、思いがけないことが起こった。


 びゅんとした一筋の風が開いていた扉の方から舞い込んでくる。

 不思議と温かい風だった。

 その一瞬、僕も凪原も驚いて目を見開いた。



 布団の上にあった紙ひこうきがひとりでに飛び上がったのだ。



 ひこうきは両翼をはためかせ、風に乗って飛んでいく。頼りなげに揺らめきながら、宙に浮かび上がった紙ひこうき。気づけば瞬きするのも忘れて目で追っていた。

 窓は開いている。もしかしたら、このまま窓の向こうまで飛べるかもしれない。


 紙ひこうきが飛んだからなんなのか。別に何かあるわけではない。だけど不思議と僕は食い入るように紙ひこうきを見つめていた。

 首は上を向いていたが、飛び立つ際の風の威力が弱いせいで、ひこうきは落下へと転じはじめた。翼が不規則に揺れ出して、滑空を維持するのは時間の問題だった。


 もうだめだ! 落ちる――そう思ったときだ。




「まだ飛べる!」



 一言、凪原が叫んだ。



 決して綺麗な飛行ではない。よれよれと頼りなく、すぐにでも垂直落下してしまいそうな飛行だ。

 しかし、それでも紙ひこうきは飛んだ。

 窓枠のサッシを越えて、飛行機は大空へと飛び出していったのだ。


「ねぇ翔くん……見た、今の……?」


「……うん、見た」


「窓の外へ飛んでいっちゃったね」


 ほうけたようにつぶやいて、凪原はくすっと小さく笑う。

 僕も笑みがこぼれた。ひこうきが窓の外まで飛んでいったのが、そのときは自分でも不思議なくらいに嬉しかったんだ。

 突然の小さな笑いが、大きな笑いに変わるのにそう時間はかからなかった。僕たちは腹の底から大声をあげて笑い合った。廊下を歩く人が驚いて部屋の方を覗くほどに、僕らは笑った。


「――困難は人の心を打ち砕く。後悔は人の心を蝕み続ける」


「なにそれ? 誰か偉人の言葉?」


「いや。私が今ちょっと考えついた言葉」


「哲学者にでもなったつもり?」


「そんなつもりはないよ。ただ――ちょっとした勇気と誰かの後押しがあれば人は飛べるんだ――って……。そう、思ったの」


 言われてみれば確かにそうかもと思えてくる。


 紙ひこうきはずっと窓の外の世界へ飛び出したかった。吹き抜けた不思議な風がそれを後押しして、ひこうきはひとりでに飛び立ち、ついに窓枠を通り抜けて外の世界へ旅立っていったのだ。


 暗く長いトンネルの中をさまよっている人でも、ほんの少しの勇気と誰かの後押しがあれば、暗闇の中に一歩踏み出すことができる。そして暗闇に踏み出すための後押しを、人は「おせっかい」と呼ぶのかもしれない。




「この絵、もらってもいい?」


「もちろん。もともと凪原に渡すために描いたんだから」


「じゃあ遠慮なく。ありがと」


 嬉しそうにキャンバスを手に取る凪原を見ていると、本当に絵を描いて良かったと思える。誰かに絵を見てもらって、嬉しそうに笑ってもらえたときの感覚を長いこと忘れていた気がする。描きたい気持ちがむくむくと湧いてくる。こんなふうに人を暖かい気持ちにする絵をたくさん描けるようになりたい。


 キャンバスを満足げに見つめながら、凪原はつぶやいた。


「翔、私決めたよ」


 なにを? と聞くのも野暮ってものだ。僕は黙って凪原の目を見つめた。透き通った綺麗な瞳の中には、何かを決断した少女の意志の光がきらきらと輝いていた。


「治療受けるよ。また、歩けるようになりたいから」


 彼女の言葉を聞くと、なぜか目の奥が熱くなった。


「そっか。頑張れよ」


 僕が言えるのはそれだけだ。ここから先は、凪原自身に委ねられた道。僕は彼女が踏み出すためのきっかけに過ぎないのだから。

 凪原は不意に、僕を見てつぶやいた。


「キミって、ちょっと引くほどおせっかいだよね」


「誰かさんに似たのかもしれない」


「ふふっ。そうかもね」


 凪原がくすっと微笑む。つられて僕も小さく笑う。

 お互いに目元をわずかに濡らしながら、くすくすと笑い合う。

 キャンバスに描かれた女の子が気のせいか、いつになく嬉しげに笑っているように見えた。

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