第十三幕 光の見た夢
第52話 キャンバスに描かれた少女
最後に頬にうっすらと朱を乗せて……できた。
完成させるのに二週間かかった。慣れない人物画だったけど、上西が口やかましくもアドバイスしてくれたおかげで、なんとか完成までこぎつけた。
横に椅子を並べていた杉野と上西も両手を掲げて喜んでいる。
「ふーっ……出来たねーっ!」
「なかなか良い出来なんじゃないか?」
「もう、気取っちゃって。一番興奮してたのは杉野くんでしょ」
「それは言うな上西」
冗談を言い合っている二人を見ていると、自然と口が緩む。
やっと、完成した。
絵を完成まで描いたのは久しぶりだった。
長らく忘れていた完結の達成感に、胸が震えた。
「二人ともありがとう。おかげで納得いくものができた」
すると、杉野がすっくと立ち上がる。
「礼を言うのはまだ早い」
「杉野?」
「この絵、誰かのために描いたんだろ?」
「え……」
「へっ。その顔……図星だな? わかるさ、友達だからな。お前は昔から、気まぐれでこんなことはやらない」
「確かに……なんか音羽くんらしくはないよね」
黙っている僕の肩に手をおいて、やつは言った。
「行ってこいよ」
相変わらず、杉野には驚かされる。普段はバカでおちゃらけているけれど、やっぱりどこか抜け目なくて、鋭い一面がある。帰ってきたら、色々話さないといけないな……。
背後霊に取り憑かれていたと聞いて驚く杉野たちの顔を想像して、ふっと笑う。
「悪い、ちょっと行ってくる」
「おう。あとで話、聞かせろよな」
こくんと頷くと、僕は紙で包んだキャンバスを脇に抱えて美術室を出た。
向かう先は、青葉病院の西病棟、304号室だ。
病院への道を僕は走った。別に誰かが僕を待っているわけではない。むしろ、凪原は僕に来てほしくないと思っているだろう。けれども僕は走らずにいられなかった。己の内で鼓動する心臓の音が感じ取れる。どきどきと胸が高なって、走り出さずにはいられなかった。
日はすでに暮れ方だった。空はオレンジと赤紅色を足して割ったような色に染まっている。仕事を終えたサラリーマンが同僚と談笑しながら歩いていた。一組のカップルが自転車に二人乗りで道を横切って行く。買い物帰りのおばさんは、息を切らしながら、重いビニール袋を両手に下げて歩いていた。
キャンバスを小脇に走る僕は、異質だった。自分だけが風景に溶けこまず、逆らおうとしているようだ。
凪原光は言っていた。もう、治療を受ける意志はないと。
だが、それは彼女の本当の、心からの本心なのか? なら、どうして彼女の言葉は空虚に聞こえるんだろう。まるで空気みたいに耳を通り抜けてしまって、僕の心に届かないまま消えてしまうのだ。そんな空気みたいに軽い、空虚な言葉が彼女の本音だとはどうしても思えない。
もしも、凪原が本心から治療を拒否するのなら。それは受け入れるしかない。彼女自身が願っていることなんだから、あれこれ言っても野暮ってもんだ。僕が介入する余地はない。
でも――本心ではなかったら。
嘘で塗り固められた虚飾だったなら、僕はそれを容認するわけにはいかない。絶対に、断固として、凪原の本音を聞くまでは納得しない覚悟だった。
キャンバスを抱えていた右手をぎゅっとさせ、地面を強く蹴った。
◇ ◇ ◇
青葉病院に着いて、混雑しているロビーの人波をかき分けて突っ切る。エレベータを待つ時間がもどかしくて、階段を一段とばしで駆け上がる。
304号室の扉を開けた瞬間、こつんと、何かが頭にぶつかった。
紙ひこうきだった。
額に当たった紙ひこうきは床に急降下して、かすれ音を出して落ちた。
「翔、くん……!?」
凪原は紙ひこうきを投げた姿勢のまま、口をぽかんと開けて硬直している。まるで金縛りでもかけられているみたいで、おかしかった。
床に落ちた紙ひこうきを凪原の方へ向けて投げ返す。ひこうきは緩やかな曲線を描きながら滑空し、畳んだ掛け布団の上に落ちた。
「……どうしたの、随分疲れているみたいだけど」
「走ってきた」
「もしかして学校から? バカじゃないの!?」
「へっ……そうかも……ね……」
学校から病院まで走ったせいで、ぜぇはぁと息が荒く、額には汗が玉のように浮かんでいる。乳酸の溜まった
「何しに来たの? 治療の話なら、前にも言ったけど受けるつもりなんてないから。用がそれだけなら帰って」
足を引きずるように凪原のベッドの前まで行って、脇に抱えていた紙包みを凪原に押しつける。
「なによ、これ」
「開けてみてよ」
凪原が
「この絵――」
キャンバスを見つめたまま凪原が沈黙する。
白いキャンバスには一人の少女が描かれている。背景は、白い壁に窓が一つだけある部屋で、丸テーブルと椅子がそれぞれ一つずつ置いてある、という非常にシンプルな構成だ。少女は少しぶかっとした白い着物を身につけ、長い後ろ髪は三つ編みに
部屋に一つしか無い小窓の向こうには、家々を伝う電線や街路樹など街の当たり前の風景が広がっている。よく見ると、小さな一機の紙飛行機が、穏やかな風を翼に受けて飛んでいる。窓格子の厚い黒色が周囲の壁色と比べて、異質性を想起させる。
少女は正面を向いて微笑んでいる。何を見て微笑んでいるのかは、この絵からはわからないが、見ている方まで気分が良くなるような笑顔だった。あるいは単純にケーキが美味しかっただけなのかもしれない。
キャンバスに描かれた世界に浸っていた凪原は、やがて鋭い視線を僕に向けた。
「この絵……もしかしてあなたが描いたの?」
そうだよ、と頷いた途端、凪原の声量が大きくなった。
「勝手に私をモデルに描いた絵を見せてどういうつもりなの!?」
「違う」
僕のつぶやきなど聞いていないように、凪原がまくし立てるように話しだす。
「翔が何を考えてこんな絵を私に見せたのかわからないよ。でもね、あなたの話にのって治療を受けたところで、この絵みたいには笑えないよ。せっかく描いたのに、悪いけどこの絵、持って帰ってくれる? なんか、自分じゃない自分を見たようで気味が悪いから」
僕は部屋の壁に背をもたれて、大きくため息をつく。
「はぁ……君の被害妄想には恐れ入る」
「ごまかさないで。この絵の女の子……私でしょ。見れば見るほどそっくりな顔だもの。よくもまぁ、こんなに正確に描けるわね。私を観察して楽しかった?」
「言ったでしょ、違うってさ。僕が描いたのは君じゃない」
「嘘。自分の外見は自分が一番わかるもの。それにこのチーズケーキ……どうして私がスフレチーズケーキ好きなことを知っているの?」
好きな食べ物の趣味まで知っていることを不気味に感じているのが、小刻みに揺れる、落ち着かない目の動きから見て取れる。しかし、驚いているのは僕も同じだ。まさか、推測がこうも的中するなんて。
僕は凪原がスフレチーズケーキが好物であることは知らなかった。凪原と好きな食べ物についての話なんてしたことがなかったし、そもそも彼女の好物を知りようがない。
絵の中にケーキを入れたのは、単純に小物があると情景を把握しやすいし、それ以外にも僕なりの推測の意味もある。
僕がキャンバスに描いたのは凪原光ではない。僕はりんごを描いたんだ。
あの日、消えていなくなってしまう寸前にりんごは言っていた。車椅子の少女――つまり、凪原光はわたし自身である、と。自分は凪原光の分身、生き写しのような存在であり、凪原が胸の奥へと追いやった自分自身であると。
正直、全てを正確に理解はできなかったが、りんごの言葉の意味を後から考えなおしてみると、朧げながら推測できることがいくつかあった。
――ドッペルゲンガー、という超常現象がある。
以前、上西が読んでいるオカルト本でドッペルゲンガーの話になった時、ふと、りんごに似ていると思ったのだ。りんごは物語の幽霊とは違って、足はちゃんとあるし、一定の制約はあれど、普通の人間みたいに物体に触れたり、食事だってできる。大体にして行動の端々が人間っぽすぎるのである。それで放課後の時間を利用して、図書室でドッペルゲンガーについて僕なりに調べてみた。
所詮オカルトだし、眉唾だったり、荒唐無稽な解説も多かったが、多くの本で共通していたのは、複数の人間が同時に別の場所に現れること。ドッペルゲンガーに出会うと消えてしまうといった記述だった。
りんごは生前の記憶はずっと朧気だったが、消えてしまう前に『わたしは私に殺された』と言っていた。そして青葉病棟304号室にいる車椅子の少女こそ「私」である、と。
言葉通りに解釈するなら、りんごは凪原のドッペルゲンガー的存在なのではないか。
すべては僕の推測でしかないが、彼女が病院で凪原に出会ってから様子が変わったこととにも頷ける。実際、病室で凪原に出会った僕は、彼女のことをりんごだと錯覚してしまうほどに、二人の外見は似通っていた。髪型が違っていたり、眼鏡をしていたり、細かい違いはあれど、二人の外見は同一人物と言って差し支えないほどに似ている。僕がりんごと初めて出会ったのも、凪原が入院している、青葉病院である。りんごは白い着物を着ていたが、これだって、入院患者が着用している白系色のパジャマに似ていると言えなくもない。
現に凪原自身、僕が描いたりんごの絵のモデルは自分じゃないかと勘違いしているのだ。
根拠なんてそれくらいのもので、オカルトを拗らせた妄想とも言えるかもしれない。それでも可能性の一つとして考えるくらいのことは出来ると思った。
そして、もし、りんごが凪原のドッペルゲンガーなら、二人はほぼ同一人物みたいなもので、好物だって同じかもしれない。それで、もしかしたらりんごと同じように凪原もスフレチーズケーキが好きかもしれないという推測に至ったのだ。
僕はキャンバスの中のりんごを見つめてつぶやいた。
「僕は彼女に助けてもらったんだ」
「私はあなたを助けた覚えはないけど」
「君もしつこいな。この絵のモデルは君じゃない。でも……間違っているとも言い切れない。この絵のモデルはね、もう一人の凪原なんだ」
凪原がきょとんとした瞳で空を見つめている。思考が追いついていないのだ。僕だって自分の発言が常軌を逸していることは理解しているつもりだ。絵のモデルはもう一人の自分だなどと言われて、冷静に「へぇ、そうなんだ」と返せる人の方がよっぽどどうかしていると思う。
「もう一人の……私……? 翔くん、何を言ってるの?」
「凪原。君は本当に心当たりがない? この女の子を見たことは一度もないと自信を持って断言できる?」
少し考えて、凪原が思い出したようにぽつりとつぶやいた。
「……夢」
彼女の口から、堰を切ったように言葉が流れ出てくる。
「そうだ! 私……夢でこの子を見た気がする!」
「夢ってどういうこと?」
凪原は一目僕を見て、所在無げに手元に視線をうつす。
「変なこと言うけど、黙って聞いてくれる?」
「僕が言ってることも十分変だし」
「それもそうね」
凪原は言葉を選びながら、ぽつりぽつりと自分が見た不思議な夢の内容を語り始めた。
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