第51話 きっかけ
母さんに少し顔を見せて病院を出た。そのまま家に帰る気になれなくて、気がつけば学校の方に足が向いていた。
杉野と上西はまだ、作業しているだろうか。
ここ最近、母さんのことや凪原のことがあったから、なかなか美術室に顔を出せずにいたのだ。
美術室の扉を開けると、杉野と上西が熱心に作業に取り組んでいた。
杉野提案の「小麦畑の少女」はまだまだ半分ほど出来上がっていた。
三条先生がすでに下絵を終えており、二人はそれぞれの担当箇所にあたっていた。
人物の上手な上西は小麦畑に
と、僕に気づいた上西が筆を止めて振り返る。
「あれ、音羽くんじゃない」
「翔? 今日、用事あるって言ってなかったっけ?」
「用事はいいんだ。卒業制作、どこまで進んだのか気になってさ」
「音羽くんが来てない間に結構進んだんだよ」
上西担当の少女の絵はもう色を塗り始めているし、杉野は杉野でまぁ進んでいるらしい。
僕が担当する背景の小麦畑だけが、あまり進んでいない。
「三条先生は?」
「職員会議とか言ってたな。今日はやってくんだろ」
「うん、そのつもり。遅れを取り戻したいし」
「音羽くん、結局向坂受けるんでしょ。そっちの方は大丈夫なの? 合作だからって、私たちに気を使って無理はしないでよね」
「うん。家でも試験対策してるし。上西も受験勉強大変だろ?」
「まあね。私なんかより……心配なのは杉野くんだよ。ずーっと美術室に
確かにそれはまずい。受験を控えた今、一年生の時に習ったことを覚えていないのはまずいことだ。僕まで杉野のことが心配になってきた。
僕らの話を聞いて、杉野は頭を
「だぁもう! うるさいなお前らは! 翔! お前、来たからにはさっさと作業しろ。ほら、筆!」
勉強の話題を強引に逸らした杉野に苦笑しつつも、筆を受け取る。さらりとした豚毛の感触が手に心地いい。
美術室に置きっぱなしにしていた鞄から、パレットを取り出す。チューブから絵の具を出してパレットに乗せて、脚立の最上段に座る。キャンバスが大きいせいで、脚立を使わないと、上の方に手が届かないのだ。
下描きは終わっているので、後は色を乗せていくだけ。だが、それが難しい。
色の塗り方にもたくさんの種類があり、一つ一つ、完成した時の色合いが驚くように違う、それが面白いところでもあるんだけどね。
筆の先に絵の具をちょっぴり付けて、畑の色を塗っていく。金色の小麦が映えるように、下の畑は対照的に暗い色にして……
参考資料として三人で見た映画の風景を思い描きながら、同時に別の風景も頭に浮かんでくる。
思考がどんどん脳の中の深いところへ下っていく。
どうすれば凪原は僕の話を聞いてくれるんだろう。
千石先生から聞いた治療の話をした途端、彼女は人が変わったように僕の言葉から耳を閉ざしてしまった。聞きたくない、という彼女の意志がはっきり伝わってくる。
凪原と話していると、本当に自分に似ていると思う。僕もまた、彼女のように、目の前にちらついた可能性を頭ごなしに否定して、見ないふりをしていた。
自分は養子なんじゃないかという疑念を持った途端、両親の話がすべて嘘で塗り固められた虚構に思えた。やりたいことも言えず、部屋に閉じこもって、自分で自分を押し殺した。でも、それは間違っていた。
物語の真実は実に単純で、僕は両親の実の子じゃなかったけれど、二人は変わらず僕を受け入れてくれた。
僕が素直に両親に聞けば済んだ話で、そのことに気がつくのに随分時間がかかった。
きっかけをくれたのはりんごだ。彼女のしつこいまでのおせっかいのおかげで僕は自分を取り戻すことが出来たのだ。
――きっかけ。
凪原もなにか一つきっかけがあれば、頑なに治療を拒む自分の殻を破って、病気の治療だって前向きに考えてくれるかもしれない。
奥歯にぐっと力が
彼女が治療を拒むことに意固地になる気持ちもわからないでもない。これまで何度も凪原は治療を受け、そのたびに大きな
人間には学習能力が本能的に備わっている。度重なるリハビリ治療の失敗は、彼女に治療をしても無駄であるという考えを植え付けてしまった。それくらいのことは僕にも想像できる。今の凪原には何を言おうとも、彼女の気持ちを足の治療へ向けることはできないのかもしれない。だからといって
「おい、ボーっとしないで手動かせよな」
杉野の声ではっとする。
「どしたの? 音羽くんが考え事なんて珍しいね」
「そんなことないと思うけど……」
A・Aホールにでん! と飾れるほどのキャンバスは、脚立に腰掛けて色を塗るだけでも一苦労だ。そろそろ腰が辛い。この歳で腰痛は勘弁して欲しい。三条先生がしっかり下準備してくれたおかげで、作業がスムーズに進むのが救いだった。
しばらく三人は黙々と各々の作業に没頭した。
頭の中に完成図を描きながら、黙々と筆を動かす。白い画面に次々と色が塗り足されていく。筆が作り出す世界を見ているのは楽しい。この景色は描いている時にしか見れない。制作途中だからこそ見えてくる美しさがある。
画面の向こう、すぐそこに小麦畑がある。一面の小麦畑はちょうど収穫の季節で、黄金の稲穂が穏やかな風に揺られている。遠くにはアンティークなデザインの風車小屋が一つ、その向こうにまた一つと連なっている。風を受けて風車がくるくると回っている。
小麦畑の真ん中には、一人の少女がいた。少女は両手で麦わら帽子を抑えながら、どこかに思い馳せるような瞳で遠くの方を見つめている。
どこか遠い場所に家族があるのかもしれない。はたまた、恋人か。
そんなことを考えていると、ふと、見知った顔が浮かんでくる。
丸い顔で赤いほっぺた。三つ編みの髪をそよそよと揺らしながら、彼女はいつも笑っている。その笑顔に僕はいつも救われていた。
その時ふと、脳裏に懐かしい声が
――約束したじゃないですか、絵を描いてくれるって。
そうだね。僕は君に約束した。でも、君はもういない。約束は果たせないんだ。
りんごは僕の背後霊だった。今でも不思議な存在だけど、彼女に取り憑かれたおかげで僕は変わった。凪原もりんごに取り憑かれたら、少しは自分に正直になれるのだろうか。
だが、それは無理な話だ。だって、りんごはもういないのだから。
作業の手を休めて、額の汗を拭う。久しぶりに集中して描いたから、なんだかどっと疲れた気分だ。
「お、やっぱ音羽くん上手だよね」
脚立の上の僕を見上げて上西がつぶやく。僕からすれば上西が描いていた少女の絵のタッチだって凄く良いと思う。絵の感じを言葉にするのは難しいけれど、彼女の書く人物はいきいきとした表情で、感情が伝わってくる、というか。
杉野も作業の手を止め、腕組みしてキャンバスを眺めている。
「うぅ~ん……俺のイメージに近い感じになってきたな~。うんうん、いい感じ」
などとつぶやいて、一人でうんうんと頷いている。それが評論家みたいで、僕は思わず笑ってしまった。つられて上西もくすくす笑っている。杉野はそんな僕達をよそに、一人話を続ける。
「翔の絵はさ、なんていうか……立体感があるんだよな」
杉野のつぶやきに、上西が声を漏らして同意する。
「あー、それわかるかも。立体感って言うより、その場に居る感じ?」
「そうそう! 上西、わかってるじゃん。この絵は映画のワンシーンをイメージにしたものだ。俺たちは映画の中で見ただけで、実際に一面の小麦畑なんか見たことは無い。そんな景色、この辺じゃ見れないし。だけどさ、翔の絵を見てると、本当に自分がどこまでも続く小麦畑の真ん中にいるような気になれるんだ」
「でも、僕が描いているのって、ほとんど背景だけだよ?」
「だから余計に凄いと思うんだよね。杉野くんが言ってること、わかる気がする。音羽くんの絵を見てるとね、実際体験したこと無いはずの情景が目の前にパーッと広がるの。風のにおいや虫の音、川のせせらぎも聞こえてくるような」
「ちょ、ちょっと! 二人とも、いくらなんでも褒め過ぎだよ! 僕はそこまで――」
と言いかけて、言葉が止まった。何かが胸に引っかかる。今、大事なことを聞いたような……。
「翔?」
「上西、今なんて?」
上西がきょとんとした顔で答える。
「え……? だから、音羽くんの絵を見てると、自分が見たこと無い景色を想像できて、凄いなぁって……。私、変なこと言った?」
見たことがない景色を想像できる……。
僕はりんごに出会ったから変わった。凪原も彼女に会えば、もしかしたら変われるかもしれない。病気の治療にだって積極的になれるかもしれない。
けれど、りんごはもういない。
でも、杉野と上西が言うように、僕の絵には見る人の想像力を掻き立て、実際体験しない景色を頭に思い浮かばせる……そんな力があるとすれば……。
――やれることはまだあった。僕にしかやれないことが。
僕は脚立から降りて、美術室の奥にある画材倉庫の扉を開けた。埃っぽいにおいがむっと鼻を突く。確かまだ使っていないキャンバスがあったはずだ……。
今から下描きをして、色を塗って完成には一週間ほどかかるかもしれない。でも、やってみる価値はあると思う。
「翔、探し物か? どうしたんだよ急に」
「描きたい絵ができたんだ」
凪原に思い知らせてやるんだ。おせっかいな背後霊の本当の恐ろしさを。
人の心を動かすには、動かす側の人間も本気でぶつからないといけない。当り障りのない、耳障りの良い言葉で説得しようとしても凪原の心に届かないのは当たり前だ。
僕に言葉は向いていない。口で話すと余計なことを口走ったり、いらぬことを勘ぐったりするのが悪い癖だ。でも、絵なら。絵ならストレートに自分の気持ちを伝えられるんじゃないか?
「あった」
棚の奥に2号サイズのキャンバスを見つけた。この大きさなら十分だ。少し埃をかぶっているものの、幸いにして劣化や汚れはほとんど見当たらない。
「F? それ、人物画用のやつだよ?」
上西が横から覗き込んで言う。
「いいんだ。描きたい人物画がある」
「モデルは? まさか俺?」
「……杉野、上西ごめん」
「え? いや、別にモデルにされたからって俺、怒ってるつもりは……」
「それはない。卒業制作のことだよ。背景は必ず仕上げる。でも、今は別な絵に集中させてくれ。勝手なこと言ってるのはわかるけど……頼む」
杉野はふぅと呆れたように息をついた。
「お前なぁ、急に何を言い出すと思えば……。やりたいことがあるなら、やればいいだろ。俺達のことは気にすんな」
「杉野くんの言う通りだよ。遠慮すること無い」
「二人とも……ありがとう」
「でも、音羽くんがどんな絵を描くのか私、気になるな」
「そうだよ翔。なんの絵描くのかくらい教えろよな」
幽霊を描くつもりだと言って二人は信じるだろうか……? かと言って、りんごのことを二人にわかるよう懇切丁寧に説明するのも骨が折れるし、僕には無理だ。そんなわけで結局、
「……二人が知らない女の子」
苦し紛れにつぶやいた言葉は杉野と上西をますます混乱させてしまった。
「俺らが知らない女!? おま、まさか彼女か!?」
「音羽くん、彼女いたんだ~。ふ~ん……同じクラス?」
「違うよ、彼女じゃないってば」
「しらばっくれても無駄だぞ翔! でもま……そういうことなら、俺らも協力してやるか。な、上西?」
「え!? う、うん。もちろん! ただし! 言っとくけど私、人物画にはうるさいからね」
杉野の勘違いを一々訂正するのも面倒に思えてきて、僕は半ば投げやりになってつぶやいた。
「よ、よろしく頼むよ」
その日から、僕は美術室に残って絵の制作を始めた。
杉野と上西は僕が絵を描いているのを、後ろに座ってあれこれと口出しする。そこの線の書き出しが甘い! とか、ちょっとその子、綺麗すぎない? とか言って口やかましくもあるけれど、手伝ってくれる二人の気持ちがありがたかった。
描きだした木炭の動きはいつになく滑らかで、気持ちいい。
肩に乗ったあんパン五個分の重みを思い出して、手を炭で黒く汚しながら僕は小さく笑った。
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