第50話 死んでいる時間
もう、十六時か。夏至を過ぎてからは、日が落ちるのが目に見えて速くなる。一月前ならまだ明るいはずの時間帯なのに、窓の外はすでにうっすらと夕焼けに染まっている。
時間は誰しも平等だと言うけれど、私は少し違うと思う。
時間の感じ方は人それぞれだ。一日の流れにしたって、速く感じる人と遅く感じる人がいる。場所や環境にもよるのかもしれない。
私の時間は止まっている。いや、死んでいると言ったほうが正確か。中学三年生となれば、大なり小なり、進路を考えなければいけない年だ。しかし、私には進路を考える余地がない。ずっとこのまま病院の中で過ごすだけ。
独りでにため息が出た。
私が今、生物的に生きているのは、腕に刺さった無数のチューブから送られてくる薬液のおかげだ。チューブを引き抜けば即死……とまでいかないだろうが、大きなダメージを受けることは間違いない。そうなれば死への時間がぐっと縮まる。
バカなことだと自分でもわかってる。でも、それを止めようとしない自分がいるのもまた確かなのだ。
右手が左腕の
かさ、とテーブルの上の折り紙が床に落ちる。
その音ではっと我に返る。自分がしようとしていた行為に対する恐怖が、体の底からむくむくと浮かび上がってきて、額にいやな汗が浮かぶ。
はぁ、と大きく息を吐いてベッドにどさりと倒れ込む。
そのとき、突如として部屋のドアが開いた。
「キミ、さっき帰ったんじゃ……」
翔は仏頂面のままつかつかと歩いてきて、バン! とテーブルに手を置いた。音に驚いている私に、彼は短く一言つぶやいた。
「聞いたよ。リハビリのこと」
どうして彼が、と思ったが、どうせ千石あたりが話したのだろう。プライバシーもへったくれもない。
だんまりを続ける私に苛立ったように、翔は声を大きくして言う。
「治療を受ければ、また歩けるようになるかもしれないんだろ? 可能性があるのに受けないなんておかしいよ!」
やっぱりだ。彼は千石に
「……キミには関係ないでしょ。治療を受けようが受けまいが、私の勝手じゃない。話は済んだでしょ。もう、帰って」
「まだ終わってない。凪原がそれで良くとも、僕は納得できない」
「別にいいじゃない。翔は翔。私は私だもの」
すると、それまで激高していた翔は嘘のように静かになった。急にぴたりと黙られると、少し怖くもある。
「ここ、座ってもいい?」
翔が近くの椅子を指して言う。帰れと言うはずが、つい、どうぞと言ってしまった。
翔は膝の上で両手を組むと、くすりと笑う。なぜ、笑ったのか理解できない。彼は一転して静かな声でつぶやいた。
「……僕もさ、前はそうだったんだ。君みたいに自分は自分、他人は他人と割り切って、自分は周りと違うと思ってた」
翔が顔を上げて私を見た。彼の瞳はなんだかきらきらと光っているように見えた。それが涙なんだと気がつくまでに、少し時間がかかった。
「それがさ、ある日、とんでもなくおせっかいな奴に
何も知らないくせに勝手なことを言わないで!
言葉が
「少し、話してもいいかしら?」
翔がこくんと頷いたのを見て、私はぽつりぽつりと話し出す。
「何度もこんなことがあったの。効果がなければ、次の治療。それの繰り返し。結局、私の足は変わらない。お金と時間を無駄に浪費するだけ。……もう、どうでも良くなったの」
「やってみなければわからないよ」
「大人たちは皆そう言うわ。やってみなければわからない。可能性があるんだから諦めるな! そんなの自分が大好きな大人たちのでまかせ。可能性? ないわよそんなの。やる前からわかりきってる! ……受け入れるしかないじゃない」
医者に宣告されたときから、私は車椅子の生活を受け入れることにした。今の生活だって慣れれば悪いもんじゃない。車椅子は普通に歩く人よりも速いし。暑くも寒くもない快適な温度で生活できる。暇は本を読んでいればどうということもない。
せっかく受け入れようとしている生活を、あるかわからない可能性を振りかざして破壊しようとする。もう、私に関わらないで欲しいのに。一人で静かに過ごせれば、それでいい。それで十分……。
「逃げてるだけでしょ。凪原はさ」
翔の言葉がガラスにひびが入るかのように私の胸にぶつかった。
「何も知らないくせに。翔はリハビリしたことがないからそんな風に言えるのよ」
「治療の大変さは僕にはわからない」
「なら、口出ししないで。私はこのままでいいと思ってるんだから」
「違うね。君は自分が傷つくのが怖いんだ。本当は足が治る可能性に手放しで喜びたい。でも、どうせまたうまくいかないと思ってる。だから本心をおくびにも出さず、無数の防衛線を張って虚勢を張って強がっているんだ」
「知った風な口で勝手なこと言わないでよ。あなたに私の何がわかるって言うの? おせっかいだなんて……所詮、自分勝手な思惑の押し付けに過ぎないわ。いい迷惑よ」
彼の言葉はだいたい当たっていて、それが無性に苛立ちを増加させた。他人に心の中を探られているような気がして、気味が悪い。荒れる感情に流されるまま、私は枕を投げつけた。枕は簡単によけられて、無様にも床にぼさりと落ちた。
枕を投げつけられたにも関わらず、翔は平静で、床の枕を拾い上げると、そっと返してくれた。その態度に余計にむかついた。
「……わかるさ。僕も君と同じだったから。だから、自分から可能性を捨てようとしている君を、余計放っておけない」
「いいから、出て行って。話はもう終わったでしょ」
「凪原!」
意固地に帰ろうとしない翔に対して、腹の底からむくむくと怒気が昇ってくる。私は手元にあったボタンを手に取って、翔の方に突きつける。
「出て行かないなら、ナースコール押すよ」
じっと睨み合うこと数秒。翔が肩をすくめて病室を出ていった。ドアを閉める音がやけに強く聞こえて、胸がずきんと痛んだ。
ナースコールのボタンを握る手がかたかたと震えていた。
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