第49話 40% 


 自動販売機の横で千石先生が差し出した缶コーヒーを受け取る。熱い缶コーヒーを制服のポケットにねじ込む。


「ちょうど良かった。僕も先生に聞きたいことがあったので」


 千石先生はコーヒーを一気飲みすると、傍のくずかごに投げ入れる。口元を手で拭いてつぶやく。


「光ちゃんのこと、かい? 僕も彼女のことで君に相談したいことがあってね」


 全くの図星だったので僕は面食らう。千石先生は凪原の担当医だ。彼女の病気のことについても知っているだろうし、少しでも話が聞ければと思っていた。

 千石先生はくっくと空笑いして言う。


「回診に行ったら、なにやら君たちの話し声が聞こえて来たものでね……悪いけど立ち聞きさせてもらった。翔くんがあんなに積極的だとは思わなかった。よっぽど光ちゃんのことが好きなんだな」


「別にそんなんじゃありません。話ってそれだけですか?」


「冗談冗談。そう、怒るなよ」


 千石先生はずっと軽口で、僕をからかっているようだった。その態度に若干の苛立ちを覚える。


「翔くん、君は光ちゃんに自分にできることは何かないかと尋ねたね。あれは本気で言っていたのかい?」


「本気ですよ。おかしいですか?」


 千石先生は顎髭あごひげをさすりながら、品定めするような目で僕を見る。


「ああ、おかしいね。君と光ちゃんはほとんど初対面のはずだろう。親しい関係ならまだしも、ほとんど初対面の翔くんが、光ちゃんのためにどうしてそこまで……と思ってしまうのも無理はないだろう? 君があの子に近づく理由は、なんだ?」



 恋愛感情ではない……と思う。凪原のことは人間的に好きだけど、だから彼女の助けになりたいというのとは少し違う気がする。

 僕が凪原を助けたいと思うのは、言ってみれば自分勝手なおせっかいかもしれない。それでも放っておくことなんてできない。

 理解されるとは思っていない。

 このまま彼女と関わらない、そういう選択肢だってあると思う。だが、その選択肢を選んだら、僕はきっと後悔する。

 後悔するのはもう、こりごりだ。


「どう捉えてもらっても構いません。お節介と言われようと、僕は凪原の助けになりたいので」


 千石先生はしばしの間考え込んでいたがやがて気が抜けたように、ふぅ、と息を吐いた。


「……はぁ、わかったよ。余計なことは詮索しない」


 前髪をかき上げながら、耳に聞こえないくらいの小声で何事かささやくと、先生は襟を正して、やけに真剣な声音で言った。


「翔くん。君の気持ちに敬意を表して、頼みたい。光ちゃんを説得してくれないか?」


「凪原を説得? どういうことです?」


「君も彼女から話を聞いただろ。彼女の足は難しい病気で、治療法が見つからない、と」


 凪原は自分の足は難病によるもので、効果的な治療法が見つからず治る見込みがないと言っていた。僕の提案に対しても、諦めたことをこれ以上蒸し返すのはやめてくれといった風だった。


「可能性はあるんだよ」


「まさか!? だって――」


「最近の研究でL.P.Sにも有効なリハビリ施術法が示唆しさされたんだ。実際、治療が成功した事例だってある。彼女はまだ歩けるかもしれないんだ。いや、歩ける。リハビリすれば時間はかかるだろうけど歩けるようになる。俺はそう確信している!」


「凪原はそのこと知っているんですか?」


 すると、千石先生は奥歯をかみしめる。その表情からは悔しさとも無念ともとれるものがにじみ出ていた。


「話したさ! 研究の報告を知ったとき、彼女には真っ先に伝えたよ。だが、光ちゃんはリハビリ治療を拒否したんだ」


「どうして!? 足が治る可能性があるのに、どうして凪原は……?」


「確かにリハビリ治療は時間がかかるし、辛いものだ。必ず完治するわけでもない。それでも可能性があることは確かなんだ!」


 千石先生は声を大に、腕を振り上げて話していた。

 それだけ凪原の治療に必死なんだと思った。

 なぜ、凪原は治療を受けようとしないんだろう? 足が治る可能性を知って、一番喜ぶのは彼女のはずなのに。

 結局のところ、理由は凪原に直接聞かないとわからない。


「先生。たとえば凪原がリハビリ治療を受けたとして、また歩けるようになる可能性はどれくらいなんですか?」


 僕が尋ねると、千石先生は少し黙考して答えた。


「――40%」


 可能性は半分もない。でも、0じゃない。


「今まで治る可能性が限りなく0%だったことを考えると、俺はこれでも高い数字だと思っている。だからこそ、光ちゃんにはぜひとも治療を受けて欲しいと思っている」


 千石先生が僕に背を向けた。よく見ると白衣がよれよれだった。何日も働き詰めなのかもしれない。しかし、疲れている素振りは一瞬たりとも見せない。

 先生は自嘲じみた笑みをこぼしてつぶやく。


「……今日、久しぶりに光ちゃんが笑っているのを見た。本当に久し振りだった。彼女、笑うとすごくいい顔なんだよ。入院して間もない頃は、よく笑ってた。それがいつからかな、笑わなくなったのは」


 同じような言葉をどこかで聞いたことがある気がした。


「光ちゃんは俺の言葉には耳を傾けてくれない。彼女の母親にもお願いしたが、ダメだった。でも、君ならもしかすると、話を聞いてくれるかもしれない。治療を受けるように、なんとか彼女を説得してもらえないか? 頼む。こんなこと、君にしか頼めないんだ」


 先生の瞳は真剣で、それまでの軽薄な印象は微塵も感じない。プライドったやつなんだろうか……医療に対する彼なりの信念で、真剣に凪原の病気と向き合っていた。そんな風に思わせる力強いまなざしだった。

 壁に掛かっていた時計は十六時。面会時間はまだ、終わっていない。

 僕は凪原の病室へと駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る