第44話 凪原光


 304号室のドアは閉まっていた。

 部屋の前のタグには「凪原光なぎはらひかり」と書いてある。この部屋に入院している患者さんの名前だろう。りんごの言葉が本当なら、凪原さんが車椅子の女の子だということになる。

 誰にとがめられたわけでもないのに、きょろきょろと辺りの様子を窺ってしまう。扉を開けるとき、なぜか無性に緊張した。

 鉄製の取っ手を握ると、シンとした冷たさが指先に走る。

 扉の下の滑車がガラガラと音を鳴らして、304号室の扉は開いた。


 ――部屋の中には誰もいなかった。


 ほっとしたような、一方でもやもやしたような気分でため息をつく。

 結局、車椅子の女の子には会えなかったけど、今日のところはこれで良かったのかもしれない。実際、りんごの言う通りだったとしても、僕に何が出来ただろうか?

 僕は車椅子の女の子のことを何も知らない。病院ですれ違っただけの、ほとんど初対面と言える間柄だ。直接会ったところで、何を話せばいいのかわからない。そもそも僕は人付き合いが得意な方ではないし、どちらかと言うと人見知りするタイプだし。

 ここで待ち伏せするわけにもいかないし、母さんのとこに戻るとするか。

 そう思ってきびすを返そうとしたときだった。


「あのう、そこどいてくれません?」


「あっ、ごめんなさい!」


 後ろから声をかけられて、反射的に横に退いた。

 振り向いた先を見て、僕は開いた口が塞がらなかった。

 僕に声をかけたのは、あの日、病院ですれ違った車椅子の女の子だった。


「……何か私の顔についてます?」


「い、いいえ、別に」


 女の子は僕を不審げに見つめていたが、やがて、車輪を回しながら部屋に入っていった。

 僕はなんだかいたたまれなくなって、そそくさとその場から歩き去った。




 りんごが言っていた車椅子の女の子は、言葉通り、西病棟の304号室にいた。

 嘘や間違いじゃなかった……。りんごの話は本当だったんだ!

 じゃあ、つまり……今、病室に入っていた女の子はりんご……オリジナルってことか?

 そんな……まさか……! でも、話し方はりんごとは似てないし……。

 いや、それだって一言二言話しただけじゃわからない。外見だって、ちらっと見ただけだし、まだ、彼女がりんごの生き写し的存在だと決まったわけじゃない。


 ……結局、僕は逃げているだけなんじゃないのか? 


 もしも、あの子がりんごの生き写しだったとして、僕自身が彼女と接するのを恐れているんじゃないか? 

 こんなとき、りんごがいたら『翔くんはホントびびりん坊ですねェ~。それじゃモテませんよ?』などとからかいつつも、なんだかんだで僕の足を踏み出させようとしてくれると思う。

 でも、もうりんごはいない。一歩を後押ししてくれる人はいない。自分で踏み出さなきゃいけないんだ。

 拳を固く握りしめ、僕はまた304号室へ向かった。



 病室のドアは開けっ放しになっていたから、廊下から部屋の中の様子が見えた。

 304号室のベッドは一つだけだった。ここは凪原さんの個室で、それゆえ部屋は整然と整理され、さっぱりしていた。うっすら花の香りが漂ってくる。見ると、ベッド近くの棚には花瓶が置いてあって、瑞々しい花が活けてあった。ベッドの近くにはテレビが有り、テーブルがテレビの荷台とセットになっているのは、母さんの病室と同じだ。開いた窓から入ってくる風が桃色のカーテンをゆらゆらと揺らしていた。


 凪原さんはベッドの上に座って文庫本を読んでいた。分厚いレンズのとんぼ眼鏡がよく似合っている。彼女はすっかり本の世界に入り込んでいるらしく、病室に入った僕にも気づいていないみたいだ。


「あ、あの!」


 その声で凪原さんはようやく僕がいたことに気がついて、眼鏡がずれるくらい驚いた。その拍子に思わず本を手放したので、ページが閉じてしまった。一瞬、長い後ろ髪が跳び上がっていた。


「わ、びっくりした!?」


 凪原さんはずれた眼鏡を元の位置に戻しながら、僕の方をじいっと見て、


「か、翔くん!? どうして!?」


 今度は僕が驚く番だった。

 彼女は今、僕を見て翔くん、と呼ばなかったか!? 聞き違いじゃなければ、確かにそう聞こえた。なぜ……凪原さんは僕の名前を知っているんだ? 僕と凪原さんはほとんど初対面のはずなのに!

 凪原さんはわざとらしく咳払いをして言った。


「ごほっ、ごほっ! ……ごめんなさい、知り合いにとっても似ていたものだから、つい」


「いえ、構いません」


「ありがとう。それで、あなたは?」


 僕は少し言いよどんでから答えた。


「実はわけあって、あなたに聞きたいことがあって来ました」


「私に……聞きたいこと?」


「はい。それより、まず自己紹介ですね。偶然ですがあなたのお知り合いと同じ名前で驚きました。僕は音羽翔と言います。ここの病院の近くの中学校に通ってます」


「嘘……!」


 凪原さんが動揺しているのは明らかだった。目を大きく見開いて、信じられないものを見るような目つきで僕を見ていた。何がそんなに彼女を驚かせたのか、僕にはわからない。


「あの、何か?」


「え? ううん、何でもない。それで音羽くん、だっけ? 聞きたいことって何?」


「変なことを伺いますが……」


 こんなこと人に聞いていいものかどうか悩んだが、こんなシンプルな聞き方以外、今の僕には思い浮かばない。意を決して僕は単刀直入に尋ねた。


「凪原さんは白い着物を着た、幽霊みたいな女の子を見たことありますか?」


 ストレートに聞きすぎたのか、おそらく予想外のことを尋ねられたであろう凪原さんは、呆気にとられた顔をしていた。目が泳いで焦点があっていない。それは僕も同じで、聞いた本人すらこっ恥ずかしかった。

 だって、幽霊だよ!? 「幽霊見たことある?」なんて聞かれたら、普通の人は「は?」って返事をするだろう。僕だってりんごに取り憑かれなければ、同じように答えていたと思う。凪原さんもやっぱり、


「え……っと、見たことはない、です……」


 と、気まずそうにつぶやいた。

 まあ、そうなるよね、普通。


 気づけば、病室はなんともいたたまれない空気が支配していた。


 片や、幽霊は見ました? などとおかしな質問を投げかけ、片や、おかしな質問に真面目に答えてしまったばかりに妙な気恥ずかしさを感じている。これ以上、会話の糸口を見つけようがなかった。

 僕も凪原さんも、なんだか気まずそうにうつむいてしまって、どちらとも口を閉じていた。口を開いた瞬間、こみ上げてくる恥ずかしさが爆発しそうだったから。


 しかし、その時、救世主が現れた。

 医者がちょうど、午後の回診でやって来たのだ。


「光ちゃん、具合どう? ……って、君は……翔くんじゃないか?」


 飴玉を舐めながら入ってきたのは、母さんの手術の担当医、千石医師だった。脇に抱えたノートを取り出し、凪原さんのベッド付近の計器類を見て、数値をチェックしている。


「せ、千石先生? どうしてここに?」


 千石先生は顎の無精髭をさすりながら答えた。


「どうしても何も、俺は光ちゃんの担当医だもの。それより、翔くん。その後お母さんはどこか痛いところがあるとか言ってたかい?」


「いいえ。特には」


「そうか。それは良かった。経過も順調だし、もうすぐ退院できると思う」


「その節はありがとうございます」


 千石先生は数値をノートに書き取ると、僕と凪原さんとを交互に見てつぶやく。


「それにしても、二人が知り合いだったなんて驚いたよ」


「いや、僕たちは……」


 千石先生は数値を書き終えると、凪原さんの方を向いて、


「光ちゃん。この前の話、考えてくれたかな?」


 凪原さんは先生の言葉を否定も肯定もせず、テーブルの上の本を胡乱うろんげに見下ろしていた。


「……また、来るよ」


 つぶやいて、千石先生はノートを脇に抱えて病室を出て行った。


「……お邪魔しました。それじゃ、僕もこれで」


「あ、はい」


 一瞬、凪原さんと目があったが、千石先生に続くように僕も病室を出た。これ以上、部屋に残っていても、僕も凪原さんもお互いに気まずくなるだけだと思ったからだ。

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