第十一幕 車椅子の少女
第43話 お見舞い
りんごがいなくなって、一週間が経った。
その間、僕はいつものように学校に登校していた。父さんが学校に連絡を入れてくれたらしく、堀口を始め、クラスの皆も僕のことを心配していた。空元気かもしれないけど、僕はいつも通りでいようと心がけた。母さんの手術だって、医者の先生の見立てでは上手くいったらしいし、しょげている場合ではない。きっと、りんごにも笑われちゃうと思うし。
両肩の重みはすっかりなくなり、心なしか体調もいい感じだ。
朝、金縛りにかけられることもないし、授業中に悪戯をされてひやひやすることもない。
だけど……ふと、後ろを振り返ってしまう瞬間がある。そこにいつもあったはずの彼女の姿を探して、あ、もうりんごはいないんだと気づく。その事実に触れるたび、胸がきゅっと、きつくなる。
りんごは本当に消えてしまったんだろうか。彼女は僕をからかったり、嘘をついたりするのがある種得意だった。今回だって盛大なドッキリかなんかじゃないかと思ってしまう。
いや……少し違うかもしれない。僕はまだ認めたくないんだ。りんごがいなくなってしまったという事実を心の底で受け入れたくないのだ。だから、ふとした瞬間にりんごの面影を探してしまうのだ。
家中探しまわったし、学校でも休み時間のたびに、授業中だとしても、僕は彼女がいそうな場所をしらみつぶしに探した。
そうせずにはいられなかった。
でも、どこを探してもやはり彼女の姿は見つからず、余計に疲れただけだった。
りんごが消える前に伝えた最後の言葉が頭の中にずっと焼き付いていた。
病院で偶然すれ違った車椅子の女の子はりんご自身であり、りんごは彼女によって切り離された自分自身でもある別人らしい。真面目に考えると混乱してくるし、荒唐無稽な話だからすぐには信じられなかった。
りんごの伝えるところによれば、車椅子の女の子は何かしらの理由で、青葉病院の西病棟304号室に入院しているらしい。そこへ訪ねて行って彼女の力になってほしい……それが消えてしまう直前にりんごが僕に託した願いだった。
りんごはもう、いない。鬱陶しいだけだったのに、いなくなってしまった今、こうも寂しいなんて。いつの間にか、心のどこかで僕はりんごに、友達に似た親しみのようなものを感じていたのかもしれない。
りんごが残したお願い……僕はまだ304号室の扉を開けられていない。そこで何が待っているのかわからないけど、そこへ行くってことはりんごが消えてしまったという事実を認めることになるんじゃないか……それが怖くて、足が向かなかった。
そうしてぼんやりとした足取りで美術室の扉を開けると、いつものように卒業制作の作業を進めていた二人がびっくりした顔をする。
「杉野も上西もそんなに血相変えてどうしたの? 僕の顔、なんかついてる?」
「お前、今日は病院いいのか?」
「お母さん、まだ入院中でしょ。私たちに気を遣わなくても大丈夫だよ」
ここのところ、学校帰りはすぐに病院へ向かっていたから、美術室に顔を出すのも久しぶりだ。二人の心配はありがたいけど、今はなんだか気持ちを紛らしたい気分だった。美術室で卒業制作を進めている間は集中しないといけないし、自然、余計なことを考えずにすむ。
「ご心配どうも。今日もこの後、病院行くけど、少しだけ作業を進めておきたいと思って」
鞄を置いて、画材道具をごそごそと準備をしていると、出し抜けに杉野が立ち上がってつぶやいた。
「決めた! 今日はみんなで翔の母さんのお見舞い行こうぜ!」
……は? 部長がまたわけわからないこと言い出した。
「何言ってんだよ。お前はそんな暇ないだろ。勉強しないといけないんだから。ねぇ上西もそう思うでしょ?」
ぶっちぎりで成績の悪い杉野は勉強しないといけないし、こういう時は上西が止めてくれるのがいつものパターンだ。そう思って横の彼女を見ると、上西はシャーペンを筆箱に閉まって、机の上を片付け始めていた。
「上西さん……? どうしたの急に片付けなんかして……」
「杉野くんにしては良い提案よね。私もお見舞い行きたいって思ってたし!」
「え……本気?」
「本気も何も友達のお母さんが倒れたんだもん。お見舞いくらい行くでしょ」
「ふっふっふ。俺は知ってるぞ上西。お前の真の目的は、めっちゃ美人と噂の翔のお母さんを見てみたい……そんな下衆な興味のためだろう?」
「言い方! 杉野くんは私を何だと思ってるのよ? ……なんで音羽くんも頭抱えてるの? ねぇってば!」
……絵を描いて気持ちをリセットしようと思ってたのに、筆を出す前に二人に押し切られる形で半ば無理矢理、母さんのお見舞いに一緒に行くことになってしまった。
◇ ◇ ◇
術後、母さんの経過は順調だった。すでにICUから一般病棟に移され、昨日お見舞いに行った時も入院生活が退屈で大変だなどとぼやいていた。
青葉病院のドアを開けて、杉野が都会へ出てきた田舎者みたいにぼさっと天井を見上げている。
「でっけー病院だな~」
「杉野くんの発言って、バカ丸出しだよね」
「うっせえ!」
青葉病院はこの地域ではそんなに多くない総合病院だ。用事があっても近くの診療所くらいな杉野にとっては、ドラマに出てくる大病院に思えたらしい。実際はそこまで大きいわけではないんだけど。
「なぁ、お見舞い来る人って名前書いたりしなくていいのか?」
「土日とかは必要だけど、平日は大丈夫みたいだよ」
「音羽くん、慣れてるねぇ」
「そうでもないよ」
正面玄関を入って右手、売店を通り過ぎたところにあるエレベーターに乗って5階のボタンを押す。病院のエレベーターは心なしか、マンションのエレベーターより速い気がする。
杉野は病院に来る前からそわそわしていたし、上西も口には出さないがちょっぴり緊張しているようだった。
母さんの病室は青葉病院西病棟の501号室。四人部屋だけど、今は母さんだけの個室状態になっている。病室の戸を開けると、母さんはベッドに横になって、父さんが買ってきた漫画を読んでいた。
「母さん、具合はどう?」
「さっき薬を飲んだばかりよ。もう毎日来なくても大丈夫なんだから。……あら、一史くんじゃない!?」
「あ、どうも! 今日は翔と一緒にお見舞いに来ました! お母さんも相変わらず綺麗ですね~」
「もう、おばさんにお世辞言っても仕方ないわよ。そちらのお嬢さんも学校の友達ね?」
「私、翔くんと同じ美術部の上西祈里です。学校ではいつも彼にお世話になってます」
三人でお金を出し合って買った土産のお菓子を口にしつつ、学校のことや美術部のことを話す。ほとんど杉野がしゃべっていて、僕と上西がたまにツッコミを入れるような感じだったけど、母さんはずっと笑顔で僕らの話を聞いていた。時間が過ぎるのはあっという間で、もう三十分が過ぎようとしたところで、喉が渇いたという杉野が売店へ行くといって、上西もちょっと買い物と言って一緒に病室を出て行った。
「ごめんね母さん。二人ともいきなりお見舞い行きたいとか言う出すもんだから」
「いいのよ。今日はありがとね、翔。母さん、嬉しかったわ」
「…………?」
「ふふ。あなたが友達連れてくるなんて、小学校の時、以来じゃない」
「そうだっけ……?」
小学校の時は家が近い杉野がよく家に遊びに来てたし、あいつだけじゃなくて、友達を家に呼んで遊んだりしてた。中学に上がるくらいから、友達を呼んで遊ぶようなこともなくなった。家で友達と遊んで母さんに余計な苦労をさせるわけにはいかないって思っていたから。今ではそんなことないってわかるけど、母さんは今日、杉野と上西を見て随分安心にしてくれたらしい。結果的にではあるけど、二人とお見舞いに来れて良かった。
「そうだ翔。みんなの分のジュース、買ってきてちょうだい」
母さんからお金を受け取って、僕は一階の売店へ向かった。杉野も上西もまだ売店で買い物してると思ったのだ。予想通り、二人とも売店にいた。上西は今週発売の少女漫画雑誌を持っていて、杉野は乳製品の棚で真剣な顔で腕組みしながら悩んでいた。
「あっ音羽くん。杉野くんがね、プリンを見つめてさっきからずっとブツブツ言ってるの」
「おう翔良いとこに来た。俺は今、人類に課せられた難題に向き合っていたんだが、カスタードプリンとプッチンプリン、どっち買うべきだと思う?」
「どっちでもいいよ。そんなに悩めるお前の方がすごいと思うな、僕は」
この二人と話していると、病院にいても、学校の美術室でくだらない会話しているみたいだ。それが今はとてもありがたかった。母さんの病状は安定しているとはいえ、まだ退院できる状態ではない。だから自然と心のどこかで気を張っているところがあったと思うのだけど、二人と話していると、なんだか気持ちがすごく楽になる。
「二人とも、好きな飲み物選んでよ。母さんからお金貰ったから。お見舞いのお礼だって」
「えー、大丈夫だよ。私、もうそろそろ塾だから帰るし」
「まあそういうなって。翔が奢ってくれるなんて、めっちゃレアだぜ?」
「人を守銭奴みたいに言うなよな」
なおも渋る上西にカフェオレを、杉野にはコーラを買って売店を出た。僕は母さんの分と合わせてお茶を買った。上西もこの後塾に行ったり、用事があるみたいで、売店を出たロビーで別れた。杉野は学校に戻ってちょっとだけ作業を進めていくらしい。もっと勉強に身を入れてほしいものだが、心配だ。
母さんの病室に戻ろうとエレベーターの前で待っていたが、随分上の方で止まっていたらしく、しばらく待っても降りてこない。仕方ないから、階段で登っていくことにした。
三階の踊り場に差し掛かった時、りんごの言葉が頭をよぎった。
――青葉病院の西病棟、304号室を訪ねて下さい。おそらくそこに、私……車椅子の女の子がいます。
以前、病院ですれ違った車椅子の女の子。りんごは彼女こそ自分自身だと言っていた。
根拠も何もない荒唐無稽な話だ。他人が自分自身だという、りんごの言葉は思い返してもどういうことなのか理解できない。僕を304号室へ向かわせてどうしようというのか、りんごの考えがちっともわからない。だけど、りんごが言い残した言葉というだけで、僕には無視できなかった。
西病棟3階。304号室はナースステーションの向こう側にあるみたいだ。僕がいる階段の踊り場からは反対方向。
行ってどうなるわけでもない。そこでりんごが言う車椅子の女の子に会ってどうするんだ? ……やめよう。早く、母さんのところに飲み物持って行かないと。
その時、首筋に寒気が走る……なんてことはない。りんごは、もういないのだ。
だけど彼女がいたなら、こんな時きっと僕の首に指先を当てて悪寒を発生させて言っただろう。
『うだうだ言ってないで、早く行ってください! 面倒くさいですね翔くんは!』とか言って、強引に僕を前へ進ませるんだ。僕は結局、行かない理由を作って、逃げてるだけなんだ。前から何も変わってない。こんなんじゃ、またりんごにバカにされちゃうな。
背後霊がいなくたってちゃんとやれてるんだよ、ってりんごに胸を張って言えるようにならないといけないんだ。それに……りんごが僕に残した唯一の手掛かりがあの部屋にある。彼女がどこへ消えてしまったのか。なぜ消えなければいけなかったのか。わからないことばかりだけど、あそこへ行けば、きっと何かわかるはず。
顔を上げて廊下の端を見据える。
ふぅー……と波だった心を落ち着けるように大きく息を吐いてから、僕は304号室へと向かった。
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