第41話 雲隠れ

 りんごが穏やかに、けれど凛とした瞳で僕を見つめて微笑む。


『わたし、わかったんです。わたしは何者なのか。実は、少し前から思い出していて、翔くんにはずっと黙っていました。ごめんなさい』


「もしかして……記憶が戻ったの!?」


 僕の言葉にりんごはこくんと頷いた。


『ええ。翔くんと出会う以前、どうして病院の下のゴミ捨て場にいたのかも』


「教えてよ。君はどうして……」


『――わたしは私に殺されたんです』


 りんごの発した言葉はあまりに衝撃的だった。

 意味がわからなかった。りんごを殺したのはりんご自身――?


「それ、どういうこと? まさか君は、その……自殺したっていうこと?」


『ははは。自殺なんてバカな真似、いくらわたしだってしませんよう』


「じゃあ、どういう意味なのさ? 君の言うことはわからないよ」


『……翔くん。今日、病院で出会った車椅子の女の子、覚えていますか?』


 りんごが言っているのは、売店に飲み物を買いに行った時すれ違った女の子のことだろう。初めて会った子だし、あの子とりんごに接点があるようには思えない。


『こんなこと言っても、翔くんには信じられないかもしれないですけど……』


「いいから。ちゃんと聞くから」


 やがて、おずおずと彼女は語り出した。


『やっぱり、あの女の子にはわたしが見えていたんです』


「君の勘違いだよ。りんごが他人に見えるわけはない」


『他人じゃなかったら?』


 りんごが眼力を込めた瞳でじっと見つめた。怖いくらいきっぱり開いた目で、背中のあたりにぞくりという感覚が走った。


「他人じゃないって……ますますわけわかんないよ」


『翔くん、あの子の顔見ました?』


「そんなにしっかり見たわけじゃないから……」


 りんごは組んだ両手の甲にあごを乗せてつぶやいた。


『あの子、わたしと同じ顔をしていました。似ているとかいう次元の話じゃありません。はっきり、あれはわたし自身だと、そう思えたんです』


「そんな馬鹿な話無いよ。なんでりんごが二人もいるのさ?」


『わたしにもしっかりとした理屈はわかりません。あの子と目が合った瞬間、体中に何かがはしりました。頭のなかに次々と、どこかで見聞きした気がする情景が浮かびました。同時に様々な感情が雪崩のように胸の内にき込んできて……。その時、わたしは確信したんです。この女の子はわたしである、と』


 りんごによれば、病院で出会った車椅子の女の子は紛れも無い彼女自身であるという。

 しかし、どうも合点がいかない。だって同じ時、同じ場所に、二人の自分が同時に存在しているなんて、そんなのどう考えてもおかしいじゃないか。



『彼女は……いいえ、私ですね。私は自分が大嫌いでした。嫌いで嫌いで、消してしまいたいくらいに。だから私はわたしを殺した、自分の中でわたしという存在を無かったことにした。それでわたしはこのような……幽霊みたいなモノになったんです』


 話しながらりんごの瞳は窓の向こうの山景色を所在無げに見つめていた。夜の山は色づき始めた葉の色もわからなくて、ぼんやりと黒い。夜空に浮かぶ丸い月が世界を照らす。風が強いのだろう、大きな灰色雲が月ににじり寄っている。


「……りんご。君は僕の背後霊なんだよね?」


 どこからかカナカナカナ……とせみの声が聞こえてくる。どこで鳴いているのかわからないけれど、嫌に耳に残る音だった。

 りんごは目をつむり、ふるふると静かに首を振った。


『わたしは幽霊じゃない、普通の女の子だったんです。そのことにわたしは気づいてしまった。すると、不意に体が重くなって……。自分でわかるんです。わたしはもう……長くはここにいられない』


「やめてよ! わけ、わかんない! りんごの言ってることはさっぱりだ! 君は幽霊じゃない? なら、なんだって言うんだ!? 僕以外の人には見えない。声も聞こえない。そんな人間、幽霊以外にどうやって説明つけるんだよ!」


 のどに息が詰まって咳き込む。僕は目を腫らしながら、りんごに言わずにはいられなかった。


「げほっ! いつものことだけど、りんご、君はやることなすこと突拍子もなくて、どうしようもなく自分勝手で……でも、いつも君は笑っていた! どんなふざけた悪戯をした時も、こっちの怒る気が失せるくらい、君は楽しそうに笑っていた!

 なのに……どうして、今、君は泣きそうに寂しい顔をしているの!?」


 僕の言葉を聞いていたりんごは目だけは笑いながら、片方の手で口を覆った。彼女の目の端には大粒の涙が溜まっていた。まぶたから涙の雫がつー、と零れ落ちた。


『ごめんね……翔くん。もう、時間がないの。あの月が雲に隠れてしまうころには、もうわたしはいなくなっている。なんでかな、そう思うの』


「時間がないってどういうことだよ!? そんな消えてなくなるみたいな言い方――っ!」


 りんごは笑っていた。僕を見て微笑みながら、頬には涙が伝っていた。呼吸が止まった気がした。

 窓から見える灰色の雲は、月を三分の一ほど覆い始めていた。普段なら彼女の言うことなんて冗談半分に受け取るけれど、この時ばかりはそうもいかなかった。


『〈私〉もきっとわたしを通してあなたを見てる。翔くんならきっと、私を――』


 雲は月を半分ほど覆い隠していた。窓から差す月光が弱まりつつある。このままりんごが消えてしまうような、そんな気がして、時間が止まって欲しい、と心の底から本気で思った。


『翔くん、時間がないから言いますね。青葉病院の西病棟、304号室を訪ねて下さい。おそらくそこに、私……車椅子の女の子がいます。どうか彼女の力になってくれませんか。あの子は今、一人でずっと暗い道を歩いてる。わたしは彼女をこのまま放ってはおけません。立ち直るきっかけさえ作れたら、きっと……。こんなこと頼めるの、翔くんだけなんです。だからどうか、よろしくお願いしますね』


「ちょっと待ってよ! そんなお願いされたって、僕には――」


『大丈夫ですよ、翔くんなら。元・背後霊のわたしが言うんですから、間違いありません』


 形を変えながら、雲は丸い月を覆い隠そうとしていた。窓から差し込む光がどんどん弱くなっていく。

 座っていた僕を、りんごが膝を曲げてのぞきこむ。


『――えい』


 りんごの指が額に触れた。普段なら感じるはずの悪寒は、どうしてか感じなくて……僕が感じたのは、ほんやりしていたけれどどこか少し温かいものだった。

 彼女は一瞬、くすりと笑ってまっすぐに立ち上がった。


「りん、ご……?」


『――お別れです、翔くん。わたしはもう、あなたに会えないけれど、〈私〉のこと、よろしくお願いしますね』


「……どうして君はいつも勝手なんだ。絵を描く約束、したじゃないか――っ」


 返事は言葉にせず、りんごはただ、僕に手を差し出した。

 お別れの握手ということか。本当に、これでりんごとは会えなくなってしまうのか?

 嘘だ。どうせ、またいつもの嘘っぱちだ。

 そう、思いたかった。

 でも、目の前のりんごを見ていると、とてもそうは思えない。必死に涙を堪えているりんごの顔は、どう見ても嘘をついている人間の顔じゃなかった。


 ――消えてしまう。りんごは本当に、僕の前からいなくなってしまう。どこへ行くのかは知らない。僕の知らない遠い場所へ行ってしまうのだろう。そう、直感した。

 だから僕は泣くのをこらえて、彼女が差し出した手を握った。

 りんごが笑って別れようと言うのなら、僕もそうしよう。そう思って、りんごの手を固く握った。いつもなら転げまわるはずの不気味な寒々しさは一切感じない。僕が握手したのは、女の子のちょっぴり暖かい綺麗な手だった。


 思えば、彼女と初めてであったのは青葉病院だった。

 窓の外を飛んでいた紙飛行機がなんだか気になって追いかけた。追いかけた先にはゴミ捨て場があって、ゴミ捨て場のブロックの上に、彼女は座っていたんだ。彼女は自分を幽霊だと言い、生前の記憶は無いと言った。ついでに、指先で触れられると不気味な悪寒が全身を襲うという、厄介な特殊能力まで披露されたっけ。


 はじめて彼女を見た時、とても幻想的な、それでいてどこか憂いのある顔をしていて、気づけば僕は彼女をじっと見つめていたんだ。

 話してみると全然、幽霊っぽくなくて。普通の生きている人間みたいで、彼女が幽霊だとは信じられなかった。お腹を鳴らしている幽霊なんて、信じられるか。

 彼女には行く当てがなくて、しかも随分腹が減っていた。僕はせめて空腹くらいは満たしてあげようと思って、それで彼女は僕についてくることになった。


 彼女にはまだ、名前がなかった。あったのかもしれないけど、記憶のない彼女は覚えていなかった。だから僕が名付けたんだ。

 お腹を減らし、およそ幽霊らしくない振る舞いばかりとる自称幽霊の女の子を、ほっぺが林檎みたいにすぐ赤くなることにちなんで――りんご、と。


 出会ってから今日まで、りんごはいつも僕を笑わせてくれた。そりゃあ、時には怒ったりしたこともあったけど、それよりずっと多くの笑いを、りんごは僕にくれた。

 幽霊のくせに大食いだし、いきなり風呂に入ってくるわ、学校では悪戯ばかり。りんごのせいで、無駄に疲れることも多々あった。りんごが仕掛けた黒板消しの悪戯で、先生がマジギレした時は本当に冷汗ひやあせものだった。人の事情に土足で踏み込んでくるおせっかいさには随分助けられた。自分や両親に素直に向き合えるようになったのは、りんごのおせっかいのおかげだ。


 思い返してみれば、それらは代えがたい僕の思い出だった。


 りんごのおかげで、僕はまた笑えるようになった。

 ぎこちない作り笑顔じゃない、本当の笑顔を、りんごは僕に教えてくれたんだ。

 彼女と出会う以前の僕の世界は灰色に塗られていて、何をしてもつまらなくて、どこにいても心の底から安心と思えなかった。家にいても、どこか空々しい感じだった。

 あの時、僕が彼女に会わなければ、僕は今でもきっと廃人のようだったろう。


 りんごがいたから、今の僕がある。


 りんごのおちゃらけた言葉が、優しい嘘が、暖かい微笑みが、僕の世界に色をもたらしてくれた。感謝している。僕はりんごに感謝してもしきれない。恥ずかしくて、口には出さなかったけれど。


 まだ、消えてほしくない。ずっと傍にいて欲しい。

 肩が重くたって、体がだるくなっても構わない。ずっと背後霊として、一緒にいてほしかった。


 でも――それは叶わない願いだ。僕を見るりんごの眼差しがそう告げていた。

 だから、僕は何も言わなかった。思ったことも、全部、何も。

 何も言わずとも、思いは伝わっている。そういう気がした。


『翔くん』


「なに、りんご?」


『その〈りんご〉って言う名前、最初は嫌でしたけど……いつの間にか当たり前になっていました。なんだかんだ実は結構気に入ってました。照れくさくて黙ってましたけど』


 ――りんご。丸い顔を、照れてすぐに赤くすることから僕がつけた呼び名。


「なんで今、そんなこと言うかな……」


 涙がとめどなく溢れてきて、目の前がはっきり見えない。くしゃくしゃになりながら僕はりんごの姿を目に焼き付けようと、彼女を見つめ続けた。


『ねぇ翔くん。わたしはあなたと一緒にいられて……あなたの背後霊でいられて楽しかったです。嘘じゃない。ホントですよ? あなたと過ごした時間はきっと忘れません。だから……そんなに泣かないでください』


 りんごがふっとはにかんだ。穏やかな、優しい笑顔だった。



『ありがとう翔くん。それじゃ、バイバイ』



 遠くの方からカナカナカナ……と蝉の声が聞こえてくる。

 月は雲にすっかり隠れてしまい、廊下は一瞬の闇に包まれる。

 蛍光灯がジ、ジ、と点滅する。

 急に生暖かい風が吹いてきて、目にゴミが入りそうになってまばたきすると――




 りんごがいなかった。




 ついさっきまで目の前にいたはずの彼女の姿が忽然こつぜんと消えていた。

 雲が月を覆い隠していたのはほんのわずかな時間で、廊下の窓からすぐに月光が差し込んでくる。

 廊下には何もなかった。嘘みたいだ。嘘みたいに全てなくなっていた。

 頭のなかにはりんごの姿も、声も、香りも、握った手の感触だって残っているのに。




 ――もう僕の肩に、あんパンは乗っていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る