第40話 りんごの作るカレー


 青葉病院へは母さんのお使いで何度も来たことがあったけれど、ICUのある西病棟にはほとんど来たことがなかった。廊下の床や壁の色は東病棟と同じだ。でも、こうして廊下を一人で歩いていると、まるで知らない病院へ来たみたいだ。今が、夜だからというのもあるかもしれないけど。それに、ちょっとした違和感があるというか。

 母さんの手術が無事に終わって、安心したからだろうか。なんだか、体が軽いのだ。

 廊下の窓から見える月には雲がかかっていた。こういうのを叢雲むらくもというらしい。杉野が自慢気に話してたっけ。あいつは勉強はからっきしのくせして、妙にマニアックな知識を持ってたりするから案外侮れないのだ。




 家に帰ってきて初めにしたのは台所の片付けだ。母さんが倒れていたものだから、買ってきたケーキの箱やらなんやらが床に散らばっていた。せっかくのケーキだったが、母さんが退院するときにまた買うとしよう。

 ちなみに晩ごはんはまだ買っていない。冷蔵庫の中を見てから、りんごと一緒に近くのスーパーへ買い物に行こうと思っていた。

 ご飯は母さんが炊いておいてくれたみたいだし、お惣菜そうざいだけ買ってくればいいか。

 今日は父さんもいないし、りんごも久しぶりに腹いっぱい食べられる。


「りんご、今日何食べたい?」


 ……返事はない。


 おかしいと思って顔を上げると、りんごが居間のソファに座ってなにやら苦い顔をしているではないか。僕の呼びかけにも気づかず、何やら考え事をしているらしい。珍しいこともあったものだ。


「りんご?」


 彼女の肩に手を置いて尋ねると、りんごは素っ頓狂な声を上げて跳び上がった。


『わっ、びっくりした……なんですか翔くん? 人を脅かすのは大概にしてください!』


「いや……呼んだけど、返事がなかったから。何か考え事?」


 りんごは一瞬だけ沈黙して、けろりと笑顔を見せる。


『……いいえ、特には。ちょっとボーッとしてましたけど』


「そう? まあいいや。父さんから晩ごはんのお金もらったんだけど、りんごは何食べたい? ご飯は炊いてあったから、おかずだけ買いに行こうと思ったんだけど」


『別に買わずとも、あるもので何か作ればいいじゃないですか。もう、時間も遅いですし。スーパー、閉まっちゃいますよ?』


 すると、りんごはニタリと悪い顔をして、


『それとも翔くん……もしかして料理がへたっぴなんですか?』


 口元にそっと手をあてがい、くっくっくと忍び笑いする様は往年の小姑こじゅうとみたいだ。


「うっさいなぁ……いいでしょ、べつに買ってきたってさ。ヘタクソとまではいかないけど、僕、料理は得意じゃないし」


『まあまあ。モノは試しと言うじゃないですか』


「そうは言っても……」


『なんならわたしが手伝ってあげますから。さ、わたしもお腹減りましたし、早く作りましょうよ』


「……君の場合、どうせ断っても無駄なんでしょ」


『ふふん、わかってるじゃないですか』


「はぁ……」


 こうしてりんごのペースに乗せられて、家で何か作ることになった。

 冷蔵庫の中をもう一度確認して、カレーを作ることになった。

 りんごは時々僕をからかいながらも、野菜の切り方から煮込み方まで逐一丁寧に教えてくれた。


 やがて甘口のカレーが出来上がって、僕たちは食卓についた。

 スプーンでルーとご飯をよそって口に運ぶ。自分で作ったとは思えない美味しさだった。前に学校の授業で作った時よりも数段美味い。りんごがこんなに料理上手だなんて知らなかったな。

 と、向かいに座って、こちらをじーっと見ているりんごの視線に気づく。


「なに、りんご?」


『……いいえ、なんでも。それよりカレー、おいしく出来てよかったですね』


「うん。りんごって意外と料理得意なんだね。食べる専門だと思ってた」


『失礼な! わたしだって翔くんより出来ますよ。それより……』


「おかわり、でしょ?」


『わかってるじゃないですか~』


 結局この後、りんごは三杯もカレーをおかわりした。途中から見ているこっちがお腹いっぱいになってきたほどだ。僕はカレーを食べてすっかり満腹だったが、腹ペコ幽霊は箱に残っていたケーキまで半分食べてしまった。半分は僕の分らしい。りんごが目をつけた通り、あの店のスフレチーズケーキの味は絶品だったらしい。あんまり美味しそうに食べるものだから、僕も少し切り分けて食べたのだけど、確かにめちゃめちゃ美味しかった。

 りんごは僕がこっそり注文したりんごマークにも気づいてくれて、からかい交じりにお礼を言ってくれた。なんだか胸がこそばゆかった。


『ごちそうさまでした』


 手を合わせてりんごがつぶやく。

 はぁ、ようやく終わった。食器を片そうとして立ち上がろうとすると、りんごが不意に手を僕の方へ伸ばした。彼女の指先がちょうど僕のおでこに触れて、わけもなく背中が震えてそのまますとんと椅子に座る。りんごは幽霊であるせいか、指先で触れることで、触れた対象に妙な寒気を感じさせることができる。

 彼女にとってはおふざけ半分なのだろうが、やられた方はたまらない。

 すぐさま文句を言おうとした僕を制しながら、りんごはにこりと笑って言った。


『話したいことがあるんです、翔くん』

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