第39話 交錯する視線

 手術は一時間たっても終わらず、中の様子もわからないので僕も父さんも、じっと待っていることしかできない。やがて、父さんがポケットから小銭入れを取り出した。


「翔、何か飲み物買ってきてくれないか?」


「うん。父さんは?」


「俺はコーヒーでいいや」


 小銭入れを受け取って売店へ向かう。調整中でエスカレーターが止まっていたので、階段を登る。売店は病院の二階だ。病院へ来た時は僕もよくここで買い物をした。ここの売店では焼きたてのパンを売っていて、それが結構美味しいのだ。もっとも、今はパンを食べる気がしないけど。

 ふと、背中におぶさっていたりんごがつぶやいた。


『あ、わたしのぶんもお願いしますね』


 幽霊のくせに。図々しいのは今に始まったことじゃない。


「……ま、いっか。今日はりんごのおかげで随分助かったからね」


『翔くん、超テンパッてましたもんね』


「いや、本当あの時はありがとう。りんごがいなかったら、大変だったよ」


 実際、救急車の番号を忘れるほど僕は動転していた。りんごが冷静に対処してくれなかったら、今頃、母さんはもっと大変な事態に陥っていたかもしれないのだ。今だって、まだ気が抜けない状態だけれども。


 売店に入って、飲み物コーナーに回る。父さんのコーヒーを取って、自分のぶんのお茶も取ったが、りんごの飲み物だけがなかなか決まらない。


(りんご、まだ?)


『ちょっと待って下さいよ~』


 りんごはコーヒー牛乳か、いちご牛乳かで悩んでいるようだった。五分ほど悩んでいただろうか……ようやくいちご牛乳を取って、レジで会計を済ませた。

 レジ袋を受け取って売店を出ようとした時、


「っと!」


 足が何かに引っかかって危うく転びそうになった。


「『大丈夫?』」


 二つの声が重なって聞こえて振り向くと、車椅子の女の子がいた。どうやら車輪に足を引っ掛けてしまったらしい。


「ご、ごめんなさい! あなたの方こそ大丈夫でした?」


 慌てて謝ると女の子はこくんと頷き、僕の頬をじっと見つめていた。何か変なものでもついていたのだろうか? なんとなく気まずさを感じて、軽く笑いながら頬を掻く。


「良かった。それじゃ、僕はこれで」


「ええ」


 つぶやいて女の子は売店の中へ行ってしまった。


『翔くん』


 りんごが背中から問いかける。声が少し震えていた。


『さっきの女の子、わたしのこと見てませんでした?』


「まさか。君は他人から見えないじゃないか」


 たまたまりんごの方を見ただけだろう。幽霊である彼女の姿はどういうわけか僕にしか見えないのだ。


『……目が合ったんです。あの子と』


 りんごは売店の方を凝視しながら言った。


「きっと、思い違いだよ。さ、父さんが待ってる。早く行こう」


『はい……』




 廊下の腰掛けに座っていちご牛乳を飲んでいる間も、りんごはどこか落ち着かない顔でぶつくさつぶやいていた。小さい声だったから、上手く聞き取れなかったけど、女の子と目があったことを相当気にしているらしい。

 買ってきたお茶を一口飲む。ペットボトルのお茶はひんやり冷たくて、舌の上にほのかな苦味が広がった。


 ただの偶然なのに、気にし過ぎだと思う。りんごのことが見えるなんて、そんなことあるわけないのに。りんごの勘違いなんだ、きっと……。




 やがて手術が終わった。


 母さんは術後の経過観察のため、そのままICUへ移された。ICUっていうのは集中治療室のことで、大きな手術を受けた患者はここに運ばれて、絶対安静の状態でいる。

 僕と父さんはICUの中で手術を終えた母さんを見つめていた。

 ベッドで眠る母さんの呼吸は静かで、このまま消え入るように呼吸が止まってしまうんじゃないか……嫌な想像が頭を巡って吐き気がこみ上げてくる。


 自動ドアが開いて、母さんの手術を担当した医師がやって来た。

 手術を担当したのは千石せんごく、という若い医師だった。背が高く、顎に生えた無精髭が無骨な印象を与えるものの、男前な顔立ちをしている。

 千石先生は母さんに繋がれた計器類の数字をノートに書き取りながらつぶやいた。


「術後の経過は順調です。手放しに安心できる状況ではありませんが、このまま回復すればICUも二、三日で出られるでしょう」


「先生、母さんは……」


「君が救急車を呼んでくれたんだって? おかげで組織が壊死する前にケアに当たることができた。ありがとう」


「いえ! お礼をいうのは僕の方です。母さんを救っていただき、本当に……本当にありがとうございました!」


 僕は千石先生に頭を下げた。彼のおかげで、母さんは助かった。また、一緒にケーキを食べられるのだ。長い間張りつめていた緊張の糸が切れて、どっと疲れが出てきた。気がつけば窓の外はすっかり夜になっていて、そんなに時間が経過していたのかと驚くと同時に、ひどく体が重い感じがした。きっと疲労のせいだ。


「翔、お前は明日も学校あるだろうから先に帰りなさい。父さんは先生と話があるから、遅くなると思う」


「うん、わかった」


 緊急時のために父さんが病院に残ることになり、僕は一度家に帰ることになった。

 これで晩飯を買いなさい、と父さんは財布から千円札を二枚取って渡した。そんなに食欲は無かったけど、僕は父さんから素直にお金を受け取って、ICUを出た。

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