第38話 動転

 状況を理解できなくて僕はその場にただ突っ立っていた。目の前の光景を認識することを脳が拒否した。ただ足元がグラグラと揺れて、頭がぼーっとした。

 母さんはテーブルの足を掴んで、ぐったりと倒れていた。顔色はすっかり青ざめていた。


「か、翔……?」


 うめくように母さんの口から声が漏れる。しかし、それを最後に母さんはぱったりと気を失ってしまった。


「母さん!? 母さんってば!」


 肩を揺らしても母さんの目は閉じたまま動かない。体中の毛という毛が総毛立ち、胃液が腹の底からせり上がってくる。


『翔くん! はやく救急車!』


 りんごの声が白んでいた僕の意識を叩き起こす。急いで受話器を取り、ボタンに指をかける。しかし、指がぷるぷると震えて動かない。救急車を呼ぶ番号が頭から出てこない。気が動転していて、正常にものを考えることが出来ない。どうすればいい? 母さんはぐったりとしたまま動かない。救急車を呼ばないといけないのに……どうして……どうして僕は肝心なときに!


 カナカナカナカナ……。蝉の声が頭の中でざわめいていた。


 その時、りんごが僕の手をとって1,1,9と番号を押す。

 そうか救急車の番号は119番、当たり前なのにようやく思い出せた。

 こんな時でもりんごは僕よりずっと冷静で、救急車を待つ間、彼女の指示する通りに母さんを横に寝かせる。こうすることで窒息死を防げるらしい。




 間もなくして救急車が到着して、僕は母さんと一緒に病院へ向かうことになった。

 救急隊員の人が母さんの状態を尋ねてきたけれど、自分でもなんと答えたのかわからない。それくらい僕の精神は粉微塵に吹き飛んでいた。救急車がやって来る時のサイレン音が、心の奥底から不安を掻き立て、善悪様々な想像の泡粒あわつぶが浮いては消え、浮いては消えを繰り返す。


 ようやく母さんと素直に向き合えたのに。本当のことを知って、僕はきっと前よりもずっと家が好きになったのに、そんな矢先に……。


 救急車に乗っている間、母さんが必死に命を繋ぎ止めている様を、僕は傍の腰掛けに座って母さんの手を握りながらただ見守っていた。声をかけようにも頭には何も浮かばない。全身が震えて途方も無く怖かった。

 打ち解けたばかりなのに、母さんは僕の前から永遠に去ろうとしている。今、こうして握っている母さんの手が、不意に僕の手の内からこぼれ落ちそうで、そうなったら母さんが手の届かない遠い、遠い彼方へ行ってしまうような気がして無性に怖かった。


 耳に残ったのは救急車のサイレン音。

 ピーポー、ピーポーというサイレンの音が頭のなかで無限に反芻はんすうする。

 まるでこの場所は常世とは思えないような、サイレンの音がぐんにゃりとひしゃげて、不気味にこだまする。

 もはや茫然自失ぼうぜんじしつしていた僕を呼び覚ましたのは、他でもない、りんごだった。


『翔くん、大丈夫……じゃなさそうですね』


「りんご……そうか、君もいたのか」


 後になって思えば、この時の僕は本当にどうかしていた。りんごに対する僕のつぶやきはおそらく周りの救急隊員にも聞こえただろうが、構わず僕はりんごと話していた。気が動転している故の独り言だと思ったのか、救急隊員たちは僕に哀れな視線を向けるだけで、特に干渉してこなかったのが幸いだった。


『お母さんはきっと助かります。大丈夫です。だから、気をしっかり持ってください。わたしも最後までずっと、翔くんの傍にいますから』


「りんご……ありがとう。君がいなかったら、僕……」


『わたしは幽霊ですからね。生者よりも精神力が強靭なのかもしれません』


 そう言いつつ彼女は穏やかに笑っていた。でも、なんとなくわかる。これでも彼女は無理して笑っているのだ。今が笑えない状況でないことは、僕にだってわかる。それでも無理して笑ってみせることで、りんごは僕を元気づけようとしているのだ、きっと。

 りんごのおせっかいには腹が立つ事ばかりだったけれど、今は彼女のおせっかい心がありがたかった。




 救急車の搬送先は青葉病院だった。


 病院へ到着した頃、僕は多少、落ち着きを取り戻していた。そして冷静になればなるほど、不気味な不安が背中にうじいずりまわるように心をむしばむ。

 母さんはこの後どうなるんだ? 母さんは生まれつき心臓が弱いから、手術となれば大変だ。もしかしたら……いや、そんなことありえないけれど、それでも万が一の可能性として、もしかしたら死んでしまうことだってあるかもしれない。


 母さんの容体は一刻を争うため、救急救命室へ搬送されすぐに検査を受けることになった。


 担架で運ばれる母さんを見つめながら、これが母さんに触れられる最後の機会になるかもしれないと思うと、無性に胸にこみ上げてくるものがあって、母さんの手を強く握りしめないわけにはいかなかった。

 大きな自動ドアが開いて、母さんは部屋の中に、僕とりんごは部屋の外へ取り残された。

 母さんの手が離れる瞬間、僕は力が抜けてしまって床に膝をついた。そのまま、自動ドアが完全に閉めきってしまうまで、医師たちに運ばれていく母さんをずっと見つめていた。

 自動ドアが閉まり検査室の使用中ランプが点灯した瞬間、押し寄せる不安と恐怖にこらえきれなくて涙があふれた。


 りんごは声をかけるでもなく、ただ横でじっとしていた。

 彼女は何を言うでもなかったけれど、今は傍にいてくれるだけでありがたかった。

 僕は自分がこんなにもろい人間だったなんて、知らなかった。




 母さんが検査室に運ばれて間もなく父さんがやって来た。


「翔、母さんは!?」


 肩を上げ下げしながら父さんが尋ねる。

 僕が家に帰ると、母さんが倒れていて救急車を呼んだこと。救急車での様子、病院に搬送されてすぐに検査室へ運ばれたことを父さんに伝える。

 父さんは僕の話を聞いて、そうか、とだけつぶやくと、僕の肩をひしと抱きしめた。


「よく……耐えたな、翔」


 僕は父さんの胸の中で、今まで感じていた母さんを失ってしまうかもしれない恐怖だとか、不安感だとかをむき出しの感情に吐露とろして、泣いた。

 父さんは背中に手をあてがいながら、僕の言うことを黙って聞いてくれていた。


「母さんは昔から、体が丈夫な性質じゃなくてな」


 僕がまだ小学校に上がらない時分から、母さんは薬を常用していた。今にして思えば、あれは生まれつき強くない心臓を補助する薬だったのだ。僕は小さい頃から習慣のように病院へ行き、母さんの代わりに薬をもらっていた。それが当たり前だと思っていて、母さんの体が良くないことなんて、普段は考えもしなかった。


「父さん、母さんの病気は重いの?」


「病気って言っていいものかわからない。生まれつきの体質みたいなものだ。だから、父さんもいつかこんなことが起きるんじゃないかって覚悟はしてた」


 父さんはため息を吐いた。


「……でも、だめだった。翔、お前の前でこんなこと言いたくないが、覚悟はしたものの、やっぱり怖い。このまま香織が死ぬなんて考えたくない……けど、そうした考えがどうしても頭にちらつくんだ」


 僕だけじゃない。父さんも同じことを考え、感じていた。

 僕は何と返事したものかわからなくて黙っていた。

 背中のシャツを握る父さんの手がぎゅっと強くなる。


「俺は怖いよ。俺は医者じゃないから、母さんを直接治してやることはできない。もどかしい。でも、だからこそ祈ろうじゃないか。信じようじゃないか。母さんはきっと大丈夫だ。父さんは信じる。翔はどうだ?」


 袖で涙を拭いて、僕は小さな声で、それでも精一杯の力強さで言った。


「大丈夫だよ、きっと」


 検査の結果、母さんは心臓がひどく悪い状態らしく、そのまま手術室に運ばれることになった。父さんは手術についての同意書を書かされ、僕はそれを横でじっと見ていた。

 医師は最善を尽くしますと告げ、手術室へ入っていった。

 それきり手術室のドアは閉ざされた。父さんは同意書の内容については何も告げず、黙って手術室のドアを見つめていた。だから僕も余計なことは聞かず、ただ、手術の成功を祈った。祈ることしかできなかった。

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