第十幕 月が雲に隠れてしまうまで
第37話 虫の知らせ
「ねぇりんご。君、記憶の方はまだ全然思い出せないの?」
家への道すがら、僕がりんごに尋ねると、彼女は思案顔で答えた。
『うぅ~ん、正直なところまだほとんど思い出せてないんです。どうしたんです、急に?』
「いや、りんごって記憶が無いわりに普通っていうか。さっきも、ケーキにめちゃくちゃ詳しかったし。あんまり記憶喪失の人って感じしなくって……それで、僕が知らない内に記憶が戻ったのかなぁ、って」
『失礼な! 未だに自分の名前すら思いだせないのに! けど、断片的な景色が頭に浮かんでくることはたまにあります。でもそれだけで、記憶らしい記憶は……。ケーキについての知識……考えて見れば不思議ですね。どうしてわたし、ケーキ詳しいんでしょうか?』
「僕に聞かれても困るよ。……それより、時折頭に浮かぶ景色って?」
りんごの頭に浮かぶ情景は、もしかしたら脳裏に深く刻み込まれた彼女の故郷、もしくは、それに比する大きく関係のある場所なのかもしれない。
『ぼんやりした記憶ですが……白い壁に囲まれた部屋にベッドが置いてあります。わたしはベッドの上で本を読んでいるんですけど、どうにも面白くなくてすぐに本を閉じてしまうんです。それですぐ横になって……目を開けるとまた、いつものわたしという具合です』
「白い壁に囲まれた部屋って外国……かなぁ? ベッドで本を読んでるうちに疲れて眠るって、なんか絵本のお嬢様みたい。りんごはひょっとするとどこかのお金持ちの家の令嬢なのかも」
『翔くん、それ、本気で思ってます!?』
「ぜんぜん」
『かぁ~! 翔くんもまあ、随分いい性格になりましたね!』
「おかげさまで。……で、他には?」
『それ以外はさっぱり思い出せません……すみません』
「別に君が謝ることじゃないだろ。記憶って、何がきっかけで思い出すかわかんないもんだって聞くし、そのうち不意に思い出すってきっと」
りんごは幽霊になる前、どこで何をしていたのか。そもそもどうやって幽霊になったのか。なぜ、病院のゴミ捨て場なんて
彼女が幽霊ってことはおそらく、何らかの要因で命を落としたことになる。しかも化けて出てくるくらいの未練を残して。それなのに死因から何から覚えてないってんだから、妙にちぐはぐな感じがする。
一番考えられるのは事故や病気で亡くなったって可能性だ。殺人事件なんて現実にはそうそう起こるもんでもない。りんごの性格からして、自殺するタイプには見えないし。消去法で考えられるのが事故死や病死だ。病院で出会ったことを考えると、りんごは何らかの病を患っていて命を落とし、どうしてもやりたいことがあったから成仏しきれず幽霊になった。一介の中学生である僕ごときが思いつくのはせいぜいそんなところだ。憶測と妄想が混ざった、まるで根拠のない思いつきでしかない。僕自身、確証があるわけでもない。可能性の一つとして考えられる、といった程度だ。
これでも一応、りんごには世話になったわけで、僕としても彼女が記憶を取り戻す手助けをしたいという気持ちはある。それでも、彼女の記憶が戻らないことには手がかりらしいこともないし、手のつけようがない。確証めいたものは何一つ掴めてないのが現状だ。
僕が初めて彼女と出会ってから、もう随分になるけれど、人を小馬鹿にしたような振る舞いやおちゃらけた性格は出会った時からちっとも変わらない。
しかし、りんごが胸の内で考えていることや彼女の正体についてはてんで検討もつかないままだった。実際、僕はりんごのことを全然知らないのだ。
憑かれ主として、友達として、なんだかとても不公平な気がした。
◇ ◇ ◇
エレベータを出ると、どこか遠くの方からカナカナカナ……と
「ただいま~」
先に帰った母さんはどうやら料理中らしい。台所の方で水の流れる音が聞こえてくる。いつもはおかえりなさいと言ってくれるのに、今日はよほど集中しているらしい。
『翔くん、ケーキ、冷蔵庫に入れないと』
ケーキマニアのりんごが味の劣化を心配して、はやく冷蔵庫に入れるよう急かしてくるものだから、僕は通学鞄を持ったまま居間に向かう。
また、どこかから蝉の声が聞こえてくる。今度はさっきよりもはっきりと、耳に染み付くように、蝉が鳴いている。土の中で寝過ごしてしまったんだろうか。
僕もりんごに背中を押されるまでは自分の殻に閉じこもっていたから、ずっと穴の中で生活している蝉の気持ちが少しだけわかる気がした。殻を破るのは確かに怖いし、すごく勇気のいることだ。自分の住む世界がまるっきり変わってしまうんじゃないかという不安で胸がいっぱいになる。だけど殻を破ることで初めて見える素晴らしい世界があるのもまた事実なのだ。どこかのおせっかいな幽霊のおかげで僕は殻を破ることができた。時期外れに鳴く蝉もきっと穴の中で背中を押してくれる誰かがいたのかもしれない。そんなことを考えていると、ふっと口元が緩んだ。
さて。夕食まで時間もあるし、ケーキをしまったら、もうひとふんばり勉強するかな。
ドアを開けて、僕は鞄を落っことした。同時にケーキの箱も僕の手からするりと滑り落ちる。箱の
「あ……え……?」
蛇口から流れる水音がやけにはっきりと聞こえる。
母さんが倒れていた。
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